ワイルドスピード サッポロドリフト

低泉ナギ

Ep.1 事故


 ぼくが初めて交通事故に遭ったのは、ちょうど雪が降り始めた時だった。


 カガワさんは青いスカイラインにぼくを乗せて寮に帰る途中だった。車の窓の外は真っ暗で、胃には重力がのしかかって、『トーキョー・ドリフト』のテーマがぼくの頭を揺らしていた。吐き気と快感の入り混じった感覚で、ぼくは宙に浮いていた。


 目の前に岩壁が見えた瞬間、すべての音が消えた。衝突、衝撃、暗転――そして、約1分間の静寂。


「車が爆発する!」という叫び声がぼくを現実に引き戻した。 シートベルトを外し、肺に激痛が走る。口の中に血が広がり、歯の先端が折れていた。ズタズタになった彼のダウンジャケットからは綿が噴き出し、割れたガラスがぼくとエアバッグの上に散乱していた。


「爆発するって!」カガワさんは再び叫び、ぼくを車から引きずり出した。


 路上に背中が凍りつき、頭がふらつく。耳の中で血が騒ぐ轟音が鳴り響いた。目を閉じると、吹き飛ばされそうな気がして、危うく叫びそうになった。 カガワさんは仕事について何か呟いていた。車を見た。運転席には誰もいない。


「ここ圏外じゃん。センパイのはどう?」


スマートフォンに電波が二本立っているのを見て、ぼくはゆっくりと首を横に振った。その動作だけで体が震え、痛んだ。


 きっとストッキングが破れたのだろう。冬の風がむき出しの肌に心地よかった。きらめきが点在する夜空は、眩しすぎるほどに輝いていて、雪がぼくたちの上に降りはじめたのを見た。

「このままオレたち死んじゃうね」カガワさんが言った。

「うまくやればね」とぼくは答えた。


 彼の車、彼自身、そしてぼく。 すべてが壊れ、山の中で独りぼっちだ。


ぼくはこの光景をじっと見つめ、胴体の痛みに集中するために何度もまばたきした。その匂いを吸い込もうとすると咳が出て、胸が潰れそうになった。


 カガワさんはぼくを起こし、道路の脇まで引きずってくれたが、吐いてしまった。飛び散ったものがぼくのドクターマーチンにかかったのを見た。


「なに笑ってるの?」彼は顎を拭いながら聞いた。「別に」とぼくは答えた。 彼の目に憤りの色が浮かんだ。

「ねえオレたち、これからどうすんの?ていうか、これがバレたらもう―」ぼくは彼を笑おうとしたが、むせて再び咳き込み始めた。

「大丈夫?」

「クビにはならないよ」なんとかそう絞り出すと、彼は切なそうにぼくを見た。

「…そう思う?」


 その時、一台の車が近くに止まった。車の窓からは、おばあさんの声が聞こえた。 カガワさんは立ち上がって、必死に説明を始めた。


ぼくが窓越しに聞いたのは「あらま、たいへん」という言葉だけで、彼女は走り去ってしまった。


「くそ!」カガワさんが叫んだ。

「救急車を呼ばれちゃうよ!」

「それが?」

「そしたら、警察も来るじゃん!」彼はまるでぼくが通報するかのように、彼は叫んだ。


 彼はぼくの周りを歩き回り始め、スカートの下のぼくの足を絶えず見ていた。「センパイ、誰かに電話できない?エヒメさんとか、トクシマさんに」「トクシマさんって?」

「オーナーの人!電話できないの?携帯貸して」彼はぼくのそばにしゃがみ込み、手を差し出してきた。

「電源切れてる」とぼくは息を吐いた。


 すぐに警察が来たが、ぼくたちの息からはアルコールは検出されなかった。


 その警官は清潔な匂いがした。それで、ぼくたち二人がどれだけひどい匂いを発しているかに気づいた。 彼の痩せこけた顔のしわが深くなっていった。

「飲酒運転ではなかった、と」彼は言った。

「ハイ」カガワさんが言った。ぼくは警官の目を見つめた。

「もうよろしい。お二人とも、今後は十分にお気をつけなさい」

彼はぼくの顔さえ見なかった。


 直後に救急車が来た。彼らはぼくたちをストレッチャーに乗せ、固定した。


 救急隊員の一人がぼくの年齢を尋ねた。まるで赤ちゃんに話しかけているような口調だったから、ぼくは思わず吹き出しそうになった。

「じゅ、17歳です」と、なんとか答えた。拘束されていると、動かせるのは顔と指だけだ。笑いが止まらず、ストレッチャーと一緒にぼくも軋んでいるようだった。

だが、救急車に運び込まれると、とたんに力が抜けてしまった。


 待合室の静けさが音を飲み込んでいるのか、それとも自分の動脈が耳を覆っているのか、分からなかった。


 消毒液の匂いが鼻について、ぼくはシャツに残った悪臭を吸い込んだ。白い床と壁は、柔らかな照明の中で黄色く見えた。 通り過ぎる人々は皆、青白い顔をしていた。白衣を着た人々はまっすぐ前を見て歩き、他の人々は、迷子になったかのように椅子から椅子へとさまよっていた。


 待っている間に、革靴の足音がまっすぐこちらに向かってくるのが聞こえて、ぼくは顔を上げた。黒いスーツに赤いネクタイ、そして真っ白な水色のシャツを着た彼は、ひときわ目立っていた。


「トクシマさんだ」カガワさんが、ぼくの耳元にキスするくらい近くで囁いた。


 トクシマさんはぼくたちの診察に付き添った。彼は座ろうとしなかったから、ぼくに見えたのは、ベルトの光るバックルと、シャツの間からわずかに覗く腹毛だけだった。


 ぼくは肋骨が3本折れていて、カガワさんは打撲だった。彼らはぼくに鎮痛剤をくれて、肋骨バンドでぼくの体を縛りあげた。


「帰宅して大丈夫です」と医者はぼくに言った。「帰らないといけないですか?」とぼくは尋ねた。「えっ、帰りたくないの?」オーナーは笑った。「はい、ご帰宅できますよ」と看護師が代わりに答えた。


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