黒電話が鳴るとき

問ノ辺

黒電話が鳴るとき


冬の祖母の家には音がない。

雪はほとんど降らない地域なのに、何かが音を吸い取ってしまったみたいに、しんとしている。


祖母はもともと、物静かな人だ。広い古民家に私と祖母の二人が生活していても、気になるほどの音が立たない。

床板をゆっくりと踏みしめる足音、襖を開け閉めする微かな音、滋養たっぷりの味噌汁が鍋でコトコト煮える音、祖母が私の好きな甘いたくあんを切るとき、包丁とまな板がやさしくぶつかる音。


そんな、普段なら気にもしない音たちがやけにはっきり聞こえる。



冬休み、そんな祖母の家に私は預けられた。

高校生活に馴染めず数えるほどしか登校できなかったけれど、母はあえて、冬休みという長期休暇を選んで私を祖母の元に預けた。

不登校と呼べる現状に、私が罪悪感を抱いていることを知っているからだろう。


心置きなく休めるようにと、そう願って。

……きっと、そう願ってくれたから、私を預けたはずだ。



「ねぇおばあちゃん、仏間にある黒電話って使えるの?」



ある冷え込む朝、毎日出してくれる薄切りの甘いたくあんを齧りながらずっと気になっていたことを聞いてみた。

奥まった一室には仏壇が置かれていたが、どうしてだかそこには古びた黒電話がぽつんと置いてあったのだ。


「アレね、ええ、使えますよ」


たまにお友達から電話がかかってくるのよ。


おばあちゃんはそう言ったが、私の目は食卓が置かれる部屋の隅に向いた。

そこにはちゃんと、私の家にある電話とよく似た、少し古い型の電話が置かれている。

それに、仏間にある黒電話はそもそも電話線が繋がれていないのだ。


小さな文机に祖母が編んだらしいレース編みの敷物を挟んで、まるでアンティークの置物のように置かれていたからてっきりただ思い出の品か何かだと思っていた。


私が考えている事なんて見透かすように、お味噌汁を啜った祖母が軽く笑った。


「あなたがここにいる間にも、かかってくるかも知れないわね」



ある日、曇っていて今にも雨が降り出すんじゃないか、という空を見上げながら祖母は楽しそうに「お隣のヨシミさんとお茶をして来ます」と言って出かけて行った。

お隣と言ってもこの辺りは家同士の間隔が広くて、集まるにしてもちょっとしたお出かけになるらしい。


この家で留守番するのは初めての事だった。

別に私だって合鍵を渡されているのだから、出かけようと思えば出かけられる。

だけれど、重たそうな黒い雲を見上げているとどうにも外に出る気力が萎びていく。


小さくなっていく祖母の背中を見送って、しんとした家の中に向き直ると足元から寒さがしみ込んで来るような気がする。

私は逃げるように玄関から靴も揃えずに上がり、炬燵の置かれた部屋へと小走りに向かった。

分厚い炬燵布団をめくって中に潜り込むと、靴下を穿いていても冷える足先がじんわりと温かい。祖母を見送る前に飲んでいた湯呑に口を付けて、少しぬるくなったお茶を啜るとようやく少し落ち着けた。


祖母が居ても居なくても、この家は大変静かだけど、一人だと思うと尚の事静まり返っているように感じる。壁掛け時計の秒針の音が気になって意味も無く長針が隣にずれるのを見届けた。


何をしようか。スマホを何となく触ってみる。

メッセージアプリにもSNSアプリにも赤い丸はついていない。それでもタイムラインをスクロールして、上から下に知らない人達の投稿を流していく。


不意に、家中の空気が震えた。


思わず机の上にスマホを落としてしまう、けど少し離れた所から聞こえて来るこの音は、知識として知っている。


黒電話の音だ。


仏間に置かれた、あのオブジェのような黒電話が鳴っている。

どこにも繋がっていないはずの黒電話が、鳴っている。


私は思わず息が止まってしまった。電話の音と一緒に、祖母の言葉が頭の中で繰り返される。


-あなたがここにいる間にも、かかってくるかも知れないわね-


祖母は確かにそう言っていた。

よりにもよって、祖母が留守にしている今、かかって来てしまった。

出ても良いのだろうか?祖母は留守なのだから無視するべき?私は一瞬落としたままのスマホに視線を落とす。

祖母に連絡を取ろうとメッセージアプリを開く。……だが、祖母はスマホも携帯電話も持たない。ヨシミさんの家の電話番号も知らない。


ホーム画面の上を指が彷徨っている間にも、黒電話の音は止まらない。

迷っている間に諦めてくれればと願ってみても、どうやらかけて来た相手は気が長いらしい。


いつまでも鳴り止まないような気がして、私はおずおずと炬燵から抜け出す。

静かな家の空気を揺さぶる音と、私の心臓の音が重なって少し息が苦しい。

どうか止まって、そう願う内に仏間まで辿り着いてしまった。レースの下敷きの上の黒電話は間違いなく鳴っている。


誰が見ている訳でもないのに、文机の正面に正座をしてそっと重たい受話器を持ち上げた。

音が止まり静けさが戻って来た事に安心しながら、受話器を戻したい衝動を堪えて、ほんの少し離しがちに耳元へ近付ける。


『──もしもし』


少し籠った、ノイズ混じりの声が聞こえた。

若い男の人のようだ。


『もしもし、トワコさんのお電話ですか?』


トワコ、は祖母の名前だ。

電話の主は祖母をトワコさん、と親しみを込めて呼んでいる。

彼は祖母が言っていたお友達……なのだろうか。


答えようとして口を開いても、咄嗟に声が出ない。電話の音に怯えている間に喉はすっかり乾いてしまったらしい。受話器を手で塞いで小さく一度咳払いをしてから、慎重に声を出す。


「そうです、けど……あの、どちら様、でしょうか……?」


知らない人からの電話の応対はこれで合っているのだろうか、正解の見えない問題を解き続けているような気分で相手の反応を待つ。

祖母とは違う少し高い私の声に、向こうも少し戸惑っているようだ。短く「あれ?」という声の後気まずい沈黙が続いた。


『えーと、ぼくは……トワコさんのお友達で、アイといいます』

『すみません、トワコさんはお留守なのかな』


電話の向こうの声が少し柔らかくなった。私のぎこちない対応で何かを察したのかもしれない。

祖母の留守を伝える事は、今この家に私が一人だけだと白状するようで躊躇われたが、伝えないことにはこの通話を終わらせられない。


「祖母は……今、留守にしています。すみません」


私は悪くない。むしろ、こんな非日常の応対をさせられている被害者のような立場だと思う。

……それでも、こういう時、つい謝ってしまう。

電話の向こうの……アイさんは、おかしそうに笑って謝らないでと言った。

それから何か思い出すような間をおいてから、慌てたような、納得したような声を返して来る。

ただ、その内容が少しおかしかった。


『……ああ!そう言えば今日は6曜日の17日か、午後三番目の時間に出かけると聞いていたような気がする』


耳馴染みがあるようで、よく聞くと意味が分からない言葉だった。


『ごめんね、ぼくが時間と日付を間違えてかけてしまったようだ。君は……トワコさんのお孫さん?』


耳で聞いた言葉の意味を考える間に、向こうの関心の対象が祖母ではなく自分へ向けられると一瞬頭が真っ白になる。私の返事は未だにぎこちないものだった。


「っはい、そうです。あの、祖母にお電話あったこと伝えておきますね」

『トワコさんはきっと伝えておいたのにって笑うだろうね』


彼は祖母の事をよく知っているらしい。友達、というのはあながち嘘ではないようだ。

締めへと向かうやり取りに、私はやっとこれで知らない人との対話を終えられる、と肩の力を抜いた。

後は差し障りない挨拶を交わして受話器を置けばおしまいだ。

おしまいのはずだった。


『もし良ければ、少し話し相手になってもらえると嬉しいんだけど、どうかな?』

「……えっ」

『お孫さんと言うならまだ若いだろう?出来れば若者の意見も聞いてみたくて。良ければ少しだけ時間をくれると嬉しいんだ』


嫌です、とは言えなかった。

アイさんの声が終始柔らかいからなのか、柔らかいのに好奇心の塊のような、ワクワクした雰囲気が声から伝わって来るからなのか。身近な大人の友達、という存在に興味を持たれたり、接点を持つという事に少し浮かれてしまったのかも知れない。私はすっかりこの黒電話に、電話線が繋がっていないということを忘れてしまっていた。


「あの、少しだけ……なら」

『良かった、ありがとう。ええと、お名前は?』

「……ハナ、です」

『ハナさん、どうぞよろしく』

「あ、はい、あの……よろしく、お願いします」


推定で年上の人間と交わす、フランクな会話というものは見当もつかなかったせいで、どうしても応答がぎこちなくなる。

私の下手な対応にも特に言及はなく、アイさんは少し考えるように、そうだなぁ……と呟いて間を置いた。


『……実は最近、トワコさんに昔教わった漬物を手作りしようとしてるんだけどね、若い子はやっぱり漬物とかは食べないのかな?』

「えっ、いや……どうでしょうね、私はその、好きですけど……たくあんとか」

『本当?それなら良かった。一番最初に作ってみたものは失敗してしまって一度挫折したんだ』

「何を漬けようとしたんですか?」

『最初はやっぱりメジャーなココ・パライにしようと思ったんだけどね、漬け込んでいる内に溶けてしまって……』

「ん?何ですか?」

『うん?どうかしたかな?』

「いやココパライって……」

『それでね、トワコさんに助言を求めたら、僕は中手が一番器用だから、混ぜる時はその手を使うと良いって教えてもらって』

「中手?」

『七回半右に回してその後五十二回と一回右に回すと良いって』

「漬物の作り方ですよね?」


祖母が用意してくれる漬物を思い描いている間に、様子がおかしくなっている。

ココパライとは何だろう。中手で混ぜるって何だ。五十三回右に回すんじゃダメなのか。

アイさんが話す度に聞きたい事が増えて行くせいで、質問が追い付かない。

こうなってくると、祖母の留守を伝えた時に聞いたのも、聞き間違いではなかったのかもしれない。


そうしてぐるぐると認識し切れない言葉が、頭の中で回っている内にどうやらアイさんの話はさらに進んでいたらしい。


『それで、イヌの汁を仕上げに搾ってみたら、個人的にはとても美味しい仕上がりになったんだ』

「犬を搾ったんですか?」

『そう、イヌをね。仕上げにちょっと垂らすと風味が良くなるみたいで』


もう分からない、頭の中でねじられる不憫な犬が吠えている。


「あの、すみません、ちょっと分からない事が多くて……」

『ああ、ごめんね、少し一気に話し過ぎたね。夢中になるとこうなんだ、よくトワコさんにも窘められたものだよ』

「ええと……ええと、そうですね、まず……うーん、犬を搾る件についてちゃんと聞きたいんですけど、それって法的に、なんと言うか……大丈夫なんですか?動物愛護とか」

『うん?動物愛護……?……ああ!いや、ハハ、違う違う、すまない、そうだソッチだと別のイヌがいるんだったっけ』

「別の犬?」

『コッチでいうイヌっていうのは、果物なんだ。二つに割って搾ると、苦みがある緑の汁が出るんだよ』

「ああ……なるほど、そうなんですね、すみません私詳しくなくて」

『僕の方こそ、トワコさんと話している気分になってしまって。他にも分からない部分はあるかな?』

「それはもういっぱいあるんですけど……中手って、何でしょう。漬物を混ぜるフォーム的なものですか?」

『いやいや、中手は中手だよ、右手、左手、中手』

「あれ、何だか多いな」

『多い?』

「手って、右手と左手だけでしょう。足も、左右で一対の」

『まさか、中手があるだろう?三本目。そう言えばトワコさんは一本欠けてたね、事故にでもあったのかと思って深く聞かなかったんだけど……もしかして遺伝なのかな?』

「いえ、遺伝というか……人類みなそうというか……」


私が酷く戸惑いながら、ようやくこの人はちょっと危ない人じゃないのか、と思い始めた頃、アイさんは受話器の向こうでおかしそうに笑い始めた。


『何言ってるんだい、腕が二本?不便じゃないか。大抵みんな三本はあるよ。たまに五本の人もいるかな』

「さらに多いパターンもあるんだ」


私の知ってる数に追加で三本生えているらしい、どこからどう生えてるんだろう。

こうなって来ると、他のよく分からない言葉の意味を確認するのが怖くなってくる。

アイさんはちょっと独特な、頭の中の世界で生きている人なのかも知れない。空想がちょっと強めで、現実と空想の区別がついていない感じの。


ふと、耳の奥で母がたまに私に言った言葉が蘇る。


─ハナ、あなたいい加減空想の話ばっかりするのやめなさい、もう中学生でしょう─


胸の底とお腹の間がぎゅうっと小さくなるような感覚がした。

祖母の友人と言うからにはそれなりに大人なのだろうアイさんが、現実と空想の区別がついていない。

そういう現実に、同情や、親近感や、私なら理解出来るかもしれないという、ちょっとした思い上がりが混ざり合って、対応の正解をすぐに見つけられず思わず言葉が止まった。


気まずい沈黙を作ってしまい、会話を続ける難易度がさらに上がってしまった事に焦り始める。指で無意識に弄っていた、受話器に繋がるやわらかな螺旋を見てふと思い出した。


そうだ、この電話はどこにも繋がっていない。


そもそも鳴っていたことすらおかしな事だったのだ。

と、思い出した途端。今まで何事もないように話していた、電話の向こう側に居る人が、祖母の友人から得体の知れない『何か』になった。


『……ハナさん?』


受話器からはこちらを窺うような、少し控え目な声が私の名前を呼ぶ。

良く分からない存在が、私の名前を呼んでいる。


「……あ」

『どうか、したのかな』


上手く声が出ない。舌や喉が貼り付いてしまったような、声が掠れる。


「……えっと、この電話……電話線、って言うんですか、そういうの全然、どこにも繋がってなくて」


なのにどうして、通話が繋がっているのか……と、恐ろしくて最後まで言葉にできなかった。

どんな答えが返って来るのか、どんな答えでも受け止められるのか、分からなくて。


アイさんは中途半端な私の言葉の続きを察したらしい。

少し考えるような間があってから、彼は言った。

その言葉は、あまりにも拍子抜けするものだった。


『それね、トワコさんが改造してあるんだよ。僕の都合でネット通話に切り替えないといけないタイミングがあったんだけどね、黒電話って形状にトワコさんがこだわりを持っていたみたいで。それで一緒にああでもない、こうでもない……って詳しい友人に聞いたりして、見た目だけは黒電話になるように弄ってあるんだ』

「……へ……?あ、……えっと、Wi-Fi……とか?」


そうそう、とアイさんは電話の向こうで楽しそうに笑う。祖母との思い出を懐かしんでいるのかもしれない、その声はどこかしみじみと過去の出来事を辿るような雰囲気があった。


『電話機の後ろを見てごらん、多分ネットに接続してあるよって緑のランプが小さく点いてるんじゃないかな。もしくはええと……何色だったっけ、オレンジ色かも知れない。通信環境が”揺れる”と、そうなるはずだよ』


言われるまま、レース編みの下敷きの端に指を引っ掛けて、文机の上を少し手前に滑らせる。上に乗っている黒電話の後ろ側にできたスペースを覗き込んで見ると、底面の近くには確かに小さく四角い緑色のランプが点灯していた。


受話器の質感も、呼び出し音も、とてもじゃないけどデジタルではない重厚感がある。

祖母がこの独特な出で立ちや、不便に思える限られた機能、そして今まで共に過ごして来た時間を愛して形を残そうとした気持ちが、ほんの少しだけ分かるような気がした。


私の知らない祖母の一面を垣間見ているようで、少しドキドキしながら、オレンジ色に変わったその点灯を暫く見つめる。

すると、強い風がマイクの部分を擦ったようなノイズが受話器から聞こえた。

通話の途中、私は少し慌ててアイさんに返事をする。


「あの、ありました。最初は緑だったんですけど……今はオレンジです」

『ちょっと不安定になって来ちゃったかな、そろそろ切った方が良さそうだね。長話に付き合ってくれて、ありがとう』

「いえ……私なんて何も。祖母が、そんなふうに機械を弄れるって知らなかったし……それに、大人の人と……こうやってちゃんと話すの、あまりないので、その……楽しかったです」

『それは良かった。もしもハナさんが滞在中にタイミングが合えば、お喋りでもしましょう。漬物の進捗だって、聞いてもらいたいからね』

「良いんですか?もちろん、私でも良ければ……」

『トワコさんにも、よろしくお伝えください』

「はい、伝えておきます」

『……それでは、また』


最後の方はノイズの方が強かったけれど、アイさんの言葉でそのノイズの音もぷつりと途絶えた。受話器にどれだけ耳を押し当ててみても、もう何も聞こえない。

私は慎重に重たい受話器をそっと戻して、前にずらした分も元通りにしておいた。


両手で頬を挟んでみると、じんわり熱くて心臓は少し賑やかだった。

誰も見ていないと分かっていても、襖の方を見てきちんと閉まっているのを確認する。

そうしてから、ようやく深く息を吐いて、畳の上に大の字に転がった。


知らない大人の人と話をしてしまった。

祖母の友人と話をしてしまった。

またお喋りしましょうって、アイさんは言っていた。社交辞令……というものかもしれないけれど、あの優しそうなアイさんの事だ、きっと次にかかって来た時も私が取れば、邪険にはされない……気がする。たぶん。



この体験を誰かに共有したくて、畳から飛び起きると炬燵に置いてきたスマホを取りに行く。勢いのままメッセージアプリを開いて、指が止まった。

他人が聞けば、ただ祖母の友人と電話で話した、というだけの出来事なのだ。

……で?って思われるだけの話を一体誰にすれば良いんだろう。母親の名前の上で指が止まるけれど、結局押せないままスマホの画面を暗くした。


祖母に話そう。祖母ならアイさんの事を勿論知ってるはずだ。

電話をどうやって改造したのかとか、通信が不安定になってるみたいだよとか、声が若かったアイさんとどう知り合ったのかとか。話したいことがたくさんある。


私は胸がドキドキしたまま、炬燵に潜り込んで祖母の帰宅を待った。


ガラスが嵌った引き戸がカラカラと音を立てる音で、私はふと目を覚ました。

玄関扉が開く音だ。続いて履物を少し擦るような音が続いて、床板をゆっくりと踏みしめる音が近付いて来る。祖母が帰って来た。


うっかり寝入ってしまった所為で、暗くなった部屋の中、静かに近付いて来る足音に少しゾッとした。これは本当に祖母の足音なのかと疑ってしまうほど。


ゆっくりと開いた襖の間から、私の良く知っている祖母が顔を出す。


「あら、真っ暗だから居ないのかと思ったわ。どうしたの?電気も点けないで」

「……ちょっと、うたた寝しちゃったみたいで……」

「炬燵で?いやね、風邪ひきますよ」


祖母は心配そうな、呆れたようなそんな顔で笑いながら部屋の明かりを点けてくれる。

まぶしくて数秒目が眩んだ後、ようやくはっきりと祖母の姿が見えた。見送った時と同じ装いの祖母だ。


「お茶会は楽しかった?」

「ええ。ヨシミさんのところのワンちゃん、最近新しく芸を覚えたんですって」

「イヌ……」


搾られて悲痛な声を上げる犬が再び脳裏を過る。

違う違う、それは違うイヌなのだ。


そこで祖母の帰りを待ちわびていた理由を思い出した。


「そうだ!おばあちゃんあのね、私アイさんとお話したんだよ」


私はつい、興奮気味に声が大きくなってしまった。

祖母のびっくりしたような丸い目を見て、慌ててごめんねと声の大きさを元に戻す。


「電話を取ってくれたのね、ありがとう。それで、ご用件は伺った?」

「あ、えっと……ううん、それは聞けてない。アイさん、おばあちゃんが出かけるって言ってたの忘れてたみたいで。多分また改めてかかって来るんじゃないかな」


外套を畳みながら聞いていた祖母はそこで少し怪訝そうな顔をした。伝えておいたのに、って不満なのかもしれない。ハンガーにかけた外套を片付けた祖母は居間の隅に置いてある電話の方に向かって、何かのボタンを何度か押している。

かけ直すのかな?と思ったけれど、受話器は置かれたままだ。


「おばあちゃん?」

「おかしいわねぇ、お電話があったのは何時ごろ?履歴が見つからないの」

「えっ、ううん違うよおばあちゃん、そっちの電話じゃなくて仏間にある方」

「……仏間にある方?」


数秒の沈黙の後、私の方を見た祖母の顔はどうしてだか少し険しい。

悪い事はしていない筈だけれど、何だか叱られているような気分で顔を背けてしまう。

少し俯いて、指先を弄るのは問い詰められたり叱られている時の私の癖だ。


爪の際が荒れているな、と薄く剥けた皮を見つめながら説明を付け足す。

祖母が「ああ、あの電話の事ね」と早く納得して声を和らげてくれる事を期待して。


「ほら、仏間に置いてある……黒電話。おばあちゃんが改造したんでしょ?凄いね、機械に強いって私知らなかった。おばあちゃん、スマホも持ちたがらないから」

「……あなた何言ってるの、うちに電話はこれだけでしょう?」


何言ってるの、は私のセリフだった。

祖母は何を言ってるんだろう、私に「友達からかかってくる」と教えてくれたのは目の前にいる祖母だ。ココパライの事もイヌの事も、アイさんは確かに教えてくれた。

今もまだ黒電話の受話器の重たさは覚えてる。


「え、だって……」


電話したんだもん。そう続けようとした言葉は、声になる前に消えてしまった。

顔を上げた先で、祖母がよく知っている顔をしていたから。

少し困ったような、痛ましいものを見るような、言葉を選んでいるような、……母がよくする表情だ。


空想好きも程々にしないと。

そうぼやいていた母の声が聞こえた気がした。口の中に何だか苦い味が広がったようで、顔が歪むのを感じる。


「……本当に、……電話が……」

「……仏間に?何も置いてないはずなんだけどねぇ……夢でも見たのかしらね」


それでも祖母は妄想ではなく、夢だと言ってくれた。そうして廊下に出て仏間の方へ受かって行く。黒電話がない、ということを確認しに行くのだろう。

いつの間にか冷えた足先で畳と床板を擦ってその後に続く。あるに決まっている、という気持ちを、もしかしたら……という気持ちが一歩進むごとに塗り潰していった。


「どこで見たの?」

「…………」


祖母が明かりを点けた仏間の中には、黒電話も、文机すらもなかった。


心臓から喉の奥まで、ぎゅっと両手で握られるように痛い。両目が熱くなって来たけど、私はわざと明るい声を出した。震えないように、いつもより少し大きい声で。


「……や、うん、ごめん。やっぱり、夢だったかも……えへへ」

「……遅くなっちゃったから、お夕飯にしましょうか。今夜も寒いからお鍋にしましょうね」

「うん、しめにおうどん入れてね」

「はいはい、お腹空いたでしょう?お餅も入れようか」


電気、消して来てね。と言い残して祖母は台所へ消えて行く。

私は知らない間に、両手でお腹の辺りを握ったまま、もう一度仏間を見回した。他の部分は、記憶にある通りなのに、確かにあったはずの小さい机も、レース編みの下敷きも、黒電話も、そこにはない。

置いてあった場所の畳を足で擦ってみる。そこには机が置いてあったような凹みなんて見当たらない。


「……夢……?」


その後は、いつも通りお茶会での話を聞いたり、テレビを観たりしながらお夕飯を食べて、温かいお風呂に入って、そうして何もなかったように、布団の中に潜り込んだ。

その間もずっと、頭の隅の方にはあの電話の事がこびりついたみたいに残っていた。


夢だった、と納得しようとしても、妙にリアルで落ち着きが悪い。

眠っている間に見る夢じゃなくて、私の妄想だったんだろうか。

ぼんやりとスマホを眺めている間に、頭の中だけで起こった出来事だったんだろうか。


思い出して、考えようとする程、胸の奥が軋む気がする。

忘れよう。そう決めて目をぐっと閉じた。ひんやりした鼻先まで重たい布団と毛布を引き上げて、いつものように眠ろうとあえて何も考えないようにした。



祖母の家には音がない。

何かが、音を吸い取ってしまったみたいに。


もう殆ど眠りかけているような、自分の呼吸の音だけを聞いて朝が来るのを待つ中で。


黒電話の鳴る音と、静かに床を踏みしめる足音が聞こえた。



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