Dr.cat

第1話 2:23 AM

スマホの画面が青白く光り、デジタル時計の数字が切り替わった。


2:23 AM


天城拓真は、その数字を見つめながら口角を上げた。深夜二時過ぎ。両親は遠い夢の中だ。誰にも邪魔されることはない。


「……さて、と」


ゲーミングチェアから立ち上がると、腰のあたりでパキッと小さな音がした。何時間も動画を見て、攻略サイトを漁って、気づけばこんな時間だ。中学二年の夏休み最終日。宿題は三日前に終わらせた。やることなんて、もうない。


だから――こんなバカげたことを、やってみようと思った。


拓真の視線の先には、部屋の隅に置かれた小さな段ボール箱がある。その中には、白い布に包まれた小さな亡骸。三日前まで元気だった愛猫、ミルクの遺体だった。


「神を呼び出す儀式、か」


拓真は呟きながら、スマホに保存してあるメモを開いた。


二週間ほど前、深夜のネットサーフィン中に偶然見つけた怪しげなまとめサイト。『【都市伝説】本当に神が降りてくる儀式がヤバすぎる件』というタイトルに惹かれてクリックしたら、そこには詳細な手順が書かれていた。


コメント欄には「嘘松」「中二病乙」「釣り確定」といった書き込みばかり。当然だ。誰が信じる?


でも。


「……本当にできたら、さ」


拓真は誰もいない部屋で、独り言を続けた。


「現実とゲームを融合でもさせてみようか。ステータス画面とか、スキルとか。そういうの、出せたら面白いよな」


自分でも馬鹿げていると思う。でも、何もない日常に飽き飽きしていた。ゲームの世界みたいに、何か特別なことが起きてほしい。そんな子供じみた願望を、拓真は否定しなかった。


それに――ミルクが死んでしまったことも、理由のひとつだった。


「記憶だけでも受け継いでくれたら……また会えるかもな」


そう呟いて、拓真は立ち上がった。



拓真は部屋の電気を消した。


カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、部屋をぼんやりと照らしている。スマホのライトを点けて、段ボール箱からミルクの亡骸を取り出した。


白い布を開く。


そこには、眠っているかのように静かな、小さな白猫がいた。ミルクは拓真が小学四年生のときに拾った猫で、五年間ずっと一緒だった。誰よりも拓真に懐いていて、いつも膝の上で丸くなっていた。


三日前、突然倒れた。病院に連れて行ったときにはもう手遅れで――心臓が止まっていた。


「……悪いな、ミルク」


拓真は猫の頭を優しく撫でた。冷たい。もう温もりはない。


「変なことに付き合わせて。でも、もしかしたら――」


もしかしたら、また会えるかもしれない。


そんな淡い期待を胸に、拓真は儀式の準備を始めた。


スマホのメモに保存してあった手順を確認する。



■ 儀式名:「神宿しんしゅくの儀」


■ 概要

神は形なきことわりであり、この世に自ら降りることはできない。ゆえに人間が"居場所"を用意して呼び込む。亡骸部屋――この三つが揃ったとき、神は現世に「滞在」することを許される。


■ 必要なもの

1. 器:死後まもない生物の身体(魂が離れたばかりの柔らかい殻)

2. 場:召喚者自身の家

3. 糧:その家の食卓にある食べ物一品(命の象徴)

4. 血:召喚者自身の一滴



拓真は一つずつ確認していった。


器 ――ミルクの亡骸。三日前に死んだばかりだから、条件は満たしている。


場 ――自分の部屋。自分の家だ。問題ない。


糧 ――冷蔵庫から持ってきたリンゴ。家の食卓にあったものだから、これでいいはずだ。


血 ――自分の指を刺せばいい。針も用意してある。


「……よし」


拓真は深呼吸をした。


胸が高鳴っている。怖いのか、それともワクワクしているのか、自分でもわからない。ただ、このまま何もせずに終わるのは嫌だった。


「やるか」


拓真は部屋の中央にミルクの亡骸を寝かせた。白い毛並みが、街灯の光を反射してぼんやりと光る。


次に、事前に用意しておいた白い糸を取り出した。裁縫箱から拝借したもので、太さも長さもちょうどいい。


拓真はミルクの周囲を、ゆっくりと円を描くように糸で囲んでいった。糸は「境界線」――外は現世、内は神界。そういう設定らしい。


「……こんな感じか」


完成した円を見下ろす。直径は一メートルほど。ミルクの小さな体が、その中心に横たわっている。


次に、リンゴをミルクの前に置いた。赤い果実が、白い猫の前で静かに佇んでいる。


「これが"生活の証"、か」


供物ではなく、神がこの世界に留まるための根拠。よくわからないが、そう書いてあった。


そして最後に――血だ。


拓真は裁縫箱から針を取り出した。消毒用のアルコールで軽く拭いてから、左手の人差し指の先端に針を当てる。


「……っ」


ためらいがあった。痛いのは嫌だ。でも、ここまで来てやめるのはもっと嫌だった。


拓真は目を閉じて、針を指に突き刺した。


「――ッ!」


鋭い痛みが走った。思わず顔をしかめる。指先から、小さな血の玉が滲み出てきた。


「……よし」


拓真は震える手で、ミルクの額に指を近づけた。そして、血の一滴を――ゆっくりと、垂らした。


赤い雫が、白い毛皮に吸い込まれていく。


その瞬間、部屋の空気が――止まった。



空気が、凍った。


いや、凍ったわけではない。ただ、動かなくなった。風もない。音もない。時間が止まったような、奇妙な静寂。


拓真の心臓だけが、やけにうるさく鼓動を刻んでいた。


「……なんだ、これ」


声が、妙に遠い。自分の声なのに、まるで誰か他人が喋っているみたいだ。


拓真は喉の奥が乾くのを感じながら、スマホのメモを確認した。手が震えている。



④ 宣言

声に出して、はっきりと言う:


「我が家を汝の居とし、我が食を汝の糧とす。この器をもって、我は汝を迎え入れる。我が許に降り、我と共に在れ。」


この言葉で"世界の境界"が開く。



拓真は息を吸い込んだ。


そして――言葉を紡いだ。


「我が家を汝の居とし」


声が震えた。でも、続ける。


「我が食を汝の糧とす」


部屋の空気が、微かに揺れた気がした。


「この器をもって、我は汝を迎え入れる」


スマホのライトが、一瞬だけチカリと点滅した。


「我が許に降り――」


息を吸う。


「――我と共に在れ」


<br>


次の瞬間。


部屋の電気が――点いた。


いや、正確には「点いた」わけではない。消えていたはずの蛍光灯が、チカチカと明滅を始めたのだ。点いては消え、消えては点き、まるで何かが電気回路に干渉しているかのように。


「なっ……!?」


拓真は思わず後ずさった。


そして――風が吹いた。


窓は閉まっている。エアコンもつけていない。なのに、確かに風が部屋の中を吹き抜けた。冷たくて、透明で、どこか神聖な――そんな風が。


白い糸で囲まれた円の中が、ぼんやりと光り始めた。


金色の、柔らかい光。


その光の中で――ミルクの体が、動いた。


「……え」


拓真の声が掠れた。


ミルクの小さな胸が、ゆっくりと上下した。呼吸をしている。死んでいたはずの猫が、呼吸をしている。


そして――瞳が開いた。


かつて見慣れた、青い瞳ではなかった。


それは、金色だった。


まるで溶けた金属のように輝く、神々しい光を宿した瞳。その瞳が、ゆっくりと拓真の方を向いた。


「――ぁ」


拓真の喉から、言葉にならない声が漏れた。


ミルクが――いや、ミルクの姿をした"何か"が、ゆっくりと起き上がった。


小さな体が、白い糸の円の中で四肢を伸ばす。そして、首を傾げるように拓真を見つめた。


部屋の蛍光灯が、一度だけ大きく点滅した。


バチッ、という音と共に――電気が安定した。


部屋が明るくなる。


そして拓真は、はっきりとその姿を見た。


白い猫。金色の瞳。


ミルクの姿をした、神。


「……成功、した……?」


拓真の声が震えた。


猫――いや、神は、じっと拓真を見つめている。


でも同時に、何か違う。もっと深くて、もっと遠くて、もっと――"人間ではないもの"。


拓真の背筋に、冷たいものが走った。


これは、本物だ。


儀式は――本当に、成功したんだ。


「……マジ、かよ」


拓真は笑って、その場に座り込んだ。


足が震えて、立っていられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Dr.cat @ryo20130124

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ