僕の婚約者と百八つの罪
堂瀬谷
僕の婚約者と百八の不実
『私のおにいさまになってください』
慣れない土地の帰り道で、思わず願望が口をついて出た。私達の髪と瞳はお揃いだから、きっと兄妹に見えるだろう──あなたがそう言ってくれたから。
『残念だけど、君のお兄さんにはなれないかな』
『そんな……』
あなたの返答が悲しくて、私は心底がっかりした。どうして? 私たちが本当はお揃いじゃないから?
あなたは落ち込む私を見て、少し困った様子で微笑んだ。
『でも──』
***
まずは自己紹介から始めよう。
僕ことエタン=スウィンフォードは、自然豊かといえば聞こえの良い田舎子爵家の長男である。歳は二十歳。栗色の髪と榛色の瞳を持ち、背はそこそこで多少筋肉質。趣味は山遊び、農作物の改良、領地の豊かすぎる生態系を観察すること。いずれ父親から爵位と領地を貰い受け、身の丈に合った人生を謳歌するつもりだ。
そんな僕は半年後に婚姻を控えている。ふたつ年下の婚約者はロックフェル男爵家の三女で、名をロシェッタという。
ロックフェル家はもともと商家だったが、荒廃した北部を商業都市として再生した功績が認められて爵位を得た新興貴族である。領地こそ持たないが、国の全土に商会の拠点を持っている。
僕たちは五年前、両家の商談がきっかけで出会った。スウィンフォード家で農耕用魔道具の発注契約を結ぶ日、ロシェッタも両親に同行していたのだ。
両親からの指示もあり、僕は彼女をもてなした。はじめは『可愛い女の子だな』『髪と瞳が僕と同じだな』程度だったけれど、庭を案内したり、とりとめのない話をするうちにすっかり仲良くなってしまった。スウィンフォード名物の飴を嬉しそうにする食べ、明るく好奇心旺盛で笑顔がすてきな彼女に僕はあっという間に惹かれた。契約が無事まとまり、彼女が王都に帰るのが悲しくなるくらいだった。
だからこそ、ロックフェル家から婚約の打診があった時は飛び上がるほど嬉しかった。商談の日に両家ともそれを期待していたと知ったときは恥ずかしかったけれど、婚約の喜びの前には些末なものだった。
年齢も修学場所も異なるため、僕たちが会える機会はそう多くなかった。それでも、彼女が領地へ来てくれるときは色々なところへ連れ出した。行き先は海辺だったり菓子屋だったり山だったりしたが、彼女はどこにいてもたくさんの笑顔に囲まれていた。『ロシェッタさまが輿入れされたらスウィンフォード領はますます安泰ですね』『待ち遠しいですね』──そんな声を聞くのは嬉しかったし、隣ではにかんでいるロシェッタを見るのも楽しかった。
僕が王都のロックフェル家を訪問する場合も同様で、ロシェッタのご両親や使用人たちは僕を歓迎してくれる。異なることがあるとしたら熱量だろうか。『お転婆が過ぎますが、私どもにとっては可愛い娘です。ロシェッタをどうかどうか宜しくお願いいたします』『エタン様、お嬢様の愛を是非是非受け止めてあげてください』──会う人みんなが情熱的な言葉をかけてくる。時に手を握りしめられることもある。燃え盛る彼らの眼差しに戸惑いつつも僕はやっぱり嬉しくて、望まれる結婚の幸せを噛み締めていた。
会えば会うだけ、僕はロシェッタを好きになっていった。僕が領地に帰る日も彼女を王都に返す日も、どちらも寂しくてもどかしかった。
『会うたびに君が好きになるから、いつも別れの日が寂しいよ』
『私も同じです。きっと、エタン様よりずっと』
健気な愛情を返してくれる彼女を、婚約者の節度を守りながら抱きしめる。どうにか体を離し、それぞれの帰る場所へ向かう。早く結婚したい、寂しさや別れ際の抱擁さえ懐かしく思えるようになりたいと、この一年はそればかりを考えて過ごしてきたような気がする。
***
ロシェッタは昨日、六年通った貴族学院を無事卒業した。僕は卒業式に参列していないけれど、とても良い式典だったと聞いている。答辞で第一王子が正式な王位継承者となることを発表し、婚約者に改めて愛を乞う一幕は特に盛り上がったのだそうだ。
『すべての脅威から守ると約束することはできない。君に助けられることのほうが多いとさえ思う。しかし、命果てるまで貴女ひとりを愛し抜くと約束しよう──ソレイユ、私と結婚して欲しい』
『……謹んでお受けいたします。わたくし、生涯殿下のお側を離れません』
『殿下なんて他人行儀だ。いつものように呼んでくれないのか?』
『ああ、夢のようです、ジェレミーさま……!』
感極まった婚約者を殿下は熱く抱擁する。会場は鳴り止まない拍手でふたりを祝福する。こうして卒業式も、未来の王と王妃も大団円を迎えたのだった。
……なぜ僕が見てきたかのように語れるのかというと、ロシェッタが一連の流れを熱の入った演技つきで教えてくれたからである。
『──こんな感じでしたの! ……ああ、お恥ずかしいです。つい饒舌になってしまいました』
『いや、面白かったよ。君が楽しめたのなら何よりだ』
『ありがとうございます。参加前は不安だったのですが、杞憂に終わってよかったです』
式典後の舞踏会に向かう馬車に揺られながら、僕たちは微笑みを交わしあった。ここ数年、式典に便乗して婚約破棄や断罪行為を行う貴族が後をたたない。その正当性はさておくとしても、慶事に水を差すのは甚だ非常識である。愛があろうがなかろうが、まずは当人と両家で収めていただきたいというのが僕の思うところだ。
『卒業式はこれで終わりましたが、私はむしろこれからが頑張りどころです』
学院卒業後、ロシェッタはスウィンフォード家に滞在し、領のことや家政の仕事を覚えてもらうことになっている。結婚式は一年後。両親もロシェッタの人となりを気に入っており、輿入れを今か今かと楽しみにしている。もちろん僕もだ。
『あまり気負わなくて大丈夫だよ。仕事を覚えるというより、領地に少しずつ親しみを持ってもらえたら十分だから』
僕は本心からそう語りかけた。田舎領地だけれど自然と町の釣り合いが取れているし、人もどこかのんびりしていて暮らしやすい。季節に応じた祭りや遊びもたくさんある。一年かけて僕の生まれた土地をロシェッタに楽しんでもらえたらと思っている。その上で、彼女がこの土地の景色を愛してくれたらこんなに嬉しいことはない。
『……はい、楽しみです!』
ロシェッタはまぶしげに目を細める。微笑みをたたえた彼女はとてもきれいで、僕も自然と顔がほころんだ。
馬車で過ごす楽しい時間はあっという間に過ぎて、僕たちは王宮に降り立った。華やかな場所は得意じゃないけれど、美しく装った婚約者と過ごせるのはそれだけで楽しい。
舞踏会はジェレミー殿下とソレイユ嬢の華麗なる踊りで幕を開けた。美しい男女──金髪翠眼の王太子と銀髪翠眼の公爵令嬢は、三拍子を刻みながら広間をくるくると回る。高い魔力の証明たる翡翠の瞳は互いだけを映しているのに、ふたりが纏う愛と信頼は舞踏会にあまねく伝播する。ふたりの表情は、この日のために誂えたであろう胸元の宝石──美しい翡翠でさえも霞むほど燦然と輝いている。会場はたちまち幸福な空気で包まれて、魅入られた一同は未来の王と王妃に割れんばかりの拍手を送った。
『ロシェッタ嬢、私と踊って頂けますか』
『光栄ですわ、エタン卿』
冷めない熱の中で、僕はロシェッタに右手を差し出した。古式ゆかしい作法は照れくさかったけれど、王宮で踊れる機会など滅多にない。学生生活に別れを告げる彼女と思い出を作りたかったのだ。
『素敵な夜ですね』
『そうだね。君のおかげだ』
ロシェッタの足を踏まないよう注意しながら、僕は舞踏会を楽しんだ。社交はあまり得意じゃないけれど、彼女とこんな風に踊る機会があるのなら吝かではないとさえ思った。
彼女と僕の顔立ちはどちらも悪くないと思うけれど、良くも悪くも他人の印象には残りづらい。髪と目がありふれた色彩であることも寄与しているだろう。僕たちはよく言えば落ち着いていて、悪く言えば地味の極みだ。
でも、向かい合ったり並んだりしたときの収まりのよさは悪くないはずだ。ステップもホールドも馴染んだ相手との息の合った踊りを楽しみながら、僕はそんなことを考える。必要とし必要とされながら、二人三脚で生きていけるような夫婦になれたらいいなと思う。
『楽しいです。今日付き添ってくださるのがエタン様でよかった』
笑顔が弾けるロシェッタに僕も笑顔で応じる。あまりにも幸せで、今この瞬間を切り取って保存できたらとさえ思う。僕たちは目が合うたびに微笑み合い、何曲も何曲も一緒に踊った。
憂うことなど何もない。
この時僕は、確かにそう思っていた。
舞踏会の後、帰りの馬車でロシェッタは口数を徐々に減らしていった。はしゃぎ疲れたのだろうと思っていたけれど、そうでないとわかったのはロックフェル家の前で別れるときだった。
『エタン様にお話しなければいけないことがあります』
ロシェッタは泣きそうな、けれど決然とした顔で僕を見ていた。夢のような時間でさえ彼女の中では過ぎ去ったことなのだと一目でわかるほどの悲壮感を漂わせていた。これまで喜びと楽しさだけを与えてくれた少女の哀切は、胸に迫り苦しいほどだった。
『僕に? どんな内容だろう』
動揺をどうにか押し隠しながら、僕は彼女を促した。この深刻な空気が勘違いであればいいと、どこかで期待していたのだ。
『私──ロシェッタ=ロックフェルの不実な行いについてです』
頭を殴られたようだった。足元がぐらぐらと揺れ、すべての音が遠い世界のことのように思われた。婉曲な表現だけれど、彼女の言葉が異性関係の不始末を示唆するのは明らかだった。
『……話を聞くのは早い方が良さそうだけど、遅いからまた来るよ。ロシェッタは明日時間の都合をつけられる?』
『勿論です。私の咎ですから、エタン様さえよろしければ私がスウィンフォード家へお伺いいたします』
彼女の潤んだ瞳から、とうとう堰き止めきれなかった涙がこぼれた。静かな涙は僕が手巾を差し出すと嗚咽になり、しばらくして慟哭に変わった。この期に及んでなお、僕はロシェッタを愛しく思っていた。彼女を悲しませるものから守ってやりたいと、それだけを思っていた。
『そんなに泣くと目が腫れてしまうよ。僕は明日出かける予定はないから、いつでも好きなときにおいで』
『……っ、エタンさま、』
ごめんなさい、ごめんなさい。子供のように泣きじゃくりながら、ロシェッタは謝罪を繰り返す。僕の中には失望も怒りもない。ひとかけらさえも湧いてこない。
(……それくらい僕は君に骨抜きにされているのだから、黙っていたって良かったのに)
ほろ苦い切なさを胸に抱きながら、僕は彼女が泣き止むまで傍らにいた。どんな事実があったところで、僕はきっと彼女を許してしまう。たとえ愚か者と罵られたとしても。
ロシェッタと別れてタウンハウスに戻った僕は、眠れない夜を過ごした。目を閉じても、枕に顔を埋めても、眼裏にはロシェッタと過ごした記憶がありありと蘇る。眩しげに細めた瞳、少し照れた表情、繋いだ手のやわらかさ。僕に向けられた何もかもが愛しくて、彼女がほかの誰かを好きだなんてついぞ考えたことがなかった。
『女は相手により違う仮面を被るものだ』という同級生の言葉を思い出す。
ロシェッタの仮面の下はどのようなものか、明日になればわかるだろうか。
***
「これは……」
まんじりともせず迎えた朝、僕はいつになく狼狽えていた。
客間には得体の知れないものがあれこれと並べられ、ロシェッタは深刻な顔つきでそれらの前に座っていた。まるで行商のようだった。
「見て明らかな通り、私の不実の証拠です」
何が明らかなのか僕にはわからなかった。不実の証拠と言うからには、ロシェッタが運命の相手という名の男性を連れてくるような修羅場を想定していたのだ。こんな路地裏の商談みたいな状況は想定外である。
「ご安心くださいませ、一つずつご説明いたします」
「不安しかないよ。全部でいくつあるの?」
「百八つです」
「多いなあ」
ある古典の物語を思い出す。王の不在中に后に求婚した男の数が確かそのくらいだったはずだ。古典の中で王は求婚した者に報復をするけれど、あいにく僕にそんな気力があるはずもない。
「ん? これは何?」
無秩序な物品が並ぶ中、紙が一枚伏せられていた。異質なそれが妙に気になり思わず手を伸ばす。
「それは……魔獣討伐証明書です」
「魔獣討伐証明書?」
僕は目を瞠った。子爵領の業務においても重要な書類のひとつだ。
討伐対象はクラーケンとなっている。そういえば数年前にスウィンフォード領海にも発生の報告が上がっていたと思い出す。
クラーケンは海洋に出没する魔物で、有り体に言えばとてつもなく大きく、どうしようもなく凶暴なイカである。その破壊力は、一匹で貿易港ひとつを丸々壊滅させるほど強力だ。
それはいいとして。
「意外な書類だったから驚いてしまったけど、クラーケンの討伐がどう不実に結びつくの?」
いや結びつかないだろうと思いながら、僕はロシェッタに問いかける。まさかこのイカと通じていたのだろうか。さすがにそれはないと信じたい。
「……それは、」
ロシェッタは口を開くのをためらっている。僕はひやひやしながら彼女を見守る。謎の緊迫感が漂う中、ロシェッタは意を決した様子で語り始めた。
「……三年前、そのクラーケンを討伐したのは私だからです」
「えっ」
僕は驚いて目を見開いた。
「大型客船くらいあったと聞いた気がするけど」
「はい。大きかったので、炎魔法を広域展開して生きたまま炙りました」
「炙った」
「はい。こんがりと」
僕は報告内容を読み返した。そこには、S級冒険者をはじめとしたギルド員全員で討伐に当たったこと、当該個体の大きさは旅客用の大型帆船一つ分ほどであったことなどが記載されていた。領地きっての大掛かりな討伐であることは明らかだ。
ロシェッタの名前は文面に登場しないが、もし彼女の告白が真実であるなら、彼女は相当な手練であるはずだ。
「もしかして、本文に出てくるS級冒険者ってロシェッタのこと?」
「はい」
「え、すごい」
あまりに驚いて、僕は陳腐な感想をそのまま口からこぼしてしまう。S級冒険者はこの国全体でも数十人しかいないのだ。
「……はしたないですよね」
ロシェッタの声は震えている。彼女が気にするように、貴族の令嬢が魔獣討伐をすることをはしたないと見る向きはあるだろう。高位貴族のご婦人などは聞いた瞬間倒れてしまうかも知れない。
「うーん、はしたないとは思わないけど」
僕は正直なところ、巨大イカを炙り倒すことが貴族令嬢に不適格かどうかはどうでもよかった。そんなことよりもずっと話したいことが、語りたいことがあった。
「新鮮なまま炙ったからあんなに美味しかったんだ、とは思う」
「えっ」
「討伐証明書の日付からすると、あの年の薔薇祭りで振る舞われたのは君が炙ったクラーケンだったということだろう?」
「はい、そうです。私がギルドにお願いしました」
「炙られた皮が香ばしくて、弾力がありながらも歯でぷつりと切れる、塩気の効いた身が最高だった……」
「あああエタン様、だめですそれ以上は……!」
ロシェッタは頬に手を当てているが、恍惚とした表情は覆い隠せていない。きっと僕も同じような顔をしているのだろうと思いながら、クラーケンを味わった日に思いを馳せる。
クラーケンの討伐時期はスウィンフォード領の薔薇祭りに重なっており、ギルドが領民に炙ったクラーケンの脚を振る舞ってくれたのだ。いつもはほのぼのと薔薇を愛でる祭りなのだが、あの日ばかりは薔薇をそっちのけで、みんながギラついた目で巨大イカの脚をしゃぶっていた。もちろん僕もしゃぶった。この様子だとロシェッタもしゃぶったに違いない。
「……脱線してしまった。炙ったイカのことは置いておこう」
「そうですね……」
お互い涎を拭ったところで、僕は再びロシェッタを見た。彼女はもう泣いていないけれど、表情はまた硬くなってしまった。
「僕には何が不実なのかわからなかったんだけど、ロシェッタは何がいけないと思ったの?」
「スウィンフォード領で魔獣討伐に参加した事実を……貴族令嬢にはあるまじき行いを秘密にしていたことです」
ロシェッタは悲しげに眉を寄せたけれど、僕はほっとしていた。ロシェッタの言う『不実』は僕にとって美味しかった思い出で、今のところ単なる隠し事でしかない。それに、秘密にしていた理由が僕に嫌われたくないからだなんて、彼女に対する愛しさが増すだけだ。
「どうして? 君が冒険者であっても、それが理由で嫌ったりしないよ。心配はするけど」
「えっ」
「冒険は命のやり取りを伴うこともあるだろう? 君がS級であっても、怪我をしたり呪いを受けたりしないかは気になるよ」
「……いいのですか?」
ロシェッタは僕の反応が意外だったのか、随分戸惑っている。頑なさが少しでも和らぐようにと思いながら、僕は彼女の手に自分の手を重ねた。
「クラーケンを討伐したあと、周りのみんなはどんな反応だった? 怒ってたり悲しそうだったりした?」
「いいえ、みんな喜んでくれました。領民のみなさんもギルドのみんなも、『ありがとう』『ごちそうさま』『次は揚げよう』って言ってくれました」
「僕も同じ気持ちだよ。君がはしたないなんて思わないし、がっかりするどころか誇らしいと思ってるし、次は煮てもいいだろうと思ってる。あの頃の君に言えなかったのが残念だけど、本当にごちそうさま……いや、ありがとう」
「……エタンさま」
ロシェッタの虹彩は潤んで今にも涙がこぼれそうだが、もう悲しみの色はない。今ならば聞いても大丈夫だろうと僕は口を開いた。
「一件目は君の罪じゃなくて思い出の話だったね。ところで残りの百七つの不実なんだけど、心変わりとか不貞の話が出てくる予定はある?」
「な……っ、誓ってありません! 絶対ありませんわ! エタン様以外の殿方なんて全員願い下げです!」
「それは重畳だ。ありがとう」
ロシェッタの強い否定に僕は心底安堵した。正直なところ、彼女の関心が他の男性に向くことだけが心配だった。僕は行儀よく陳列された『罪の証拠』に目を向ける。彼女の心が自分から離れる懸念さえなくなれば、並べてある品物が宝の山とさえ思えてくる。
「続きを聞かせてくれる? 僕は何を聞いても君を嫌いになったりしないから」
憂うことなどないとわかれば、今度はどんな破天荒な告解が聞けるのか楽しみでさえあった。彼女がまっすぐで善良な女の子であることを、僕は誰よりも知っているのだ。
「……っ、はい!」
ロシェッタは真っ赤に頬を染めて頷き、美しい緑の宝石を手に取った。二つ目の『不実』を語り始めた彼女は、どこか活き活きとしていた。
※※※
結論から言うと、二つ目の不実について聞いた僕は、ますますロシェッタが愛おしくなっただけだった。
「やっぱり僕にとっては『嬉しい思い出』だよ」
「……本当ですか?」
ロシェッタは納得してくれないが、二つ目の『不実』もまったく罪深いものではなかった。ロシェッタはスウィンフォード領の鉱山に安全な採掘を行うための環境を整えてくれたのだ。彼女曰く、『坑道を掘ろうとしたのに間違えて鉱山を真っ平らにするなんて悪逆非道』らしいけど。
「真っ平らにしたという箇所だって綺麗に直してくれたじゃないか。崩落の心配がなくなったから、坑道を掘るよりずっと良くなったし。罪じゃなくて功績だよ」
「それは……ソレイユ様が助けてくださいましたから」
「さらっと話してるけど、この話で一番気にするべきところはたぶんそこだよ」
ロシェッタがうっかり平らにしてしまった鉱山はなんと、ソレイユ様──未来の王妃の助けを得て再成型したのだそうだ。ロシェッタの言うことには、二人は十二の頃にダンジョンで出会って以来パーティーを組んでいるのだという。破天荒なご令嬢に二人目がいると思っていなかった僕は、その事実に度肝を抜かれていた。
なお、僕の耳に二人の活躍ぶりが聞こえなかったのはソレイユ嬢と彼女の実家たる公爵家による情報操作の結果であることもわかった。開山当時、責任者からは『
なお、ソレイユ嬢の婚約者──この国の王太子たるジェレミー殿下は、二人の冒険譚を知った上で何も言わず見守っていたらしい。
「王子様って王子様だから王子様なんだなあと思います」
「それはちょっとわかる」
ソレイユ嬢が決死の覚悟で冒険者であることを告白したとき、殿下は『君から話してくれるのを待ってたよ』と微笑んだのだそうだ。器の大きい王太子様だ。この国の未来は明るい。
「ソレイユ様、婚約破棄も致し方ないと泣いていらしたのですが……嬉し涙になってよかったです」
後顧の憂いがなくなったソレイユ嬢はジェレミー殿下に心を預け、ジェレミー殿下はソレイユ嬢への想いを隠さなくなった。こうしてふたりは仲を深め、卒業式での熱い結婚宣言へ繋がったのである。
僕はふと、昨晩見た美しい翡翠を思い出す。
「昨日お二人が身に着けていたエメラルドも素敵だったね」
「はい。ソレイユ様が気合を入れて誂えたもので……あっ」
ロシェッタはぴたりと動きを止め、油を差し損ねた機械のぎこちなさで僕を仰ぐ。
「その……エタン様への贈り物に……あの……」
「なにか『罪』があるの?」
「はい」
「……これに?」
僕はいつも持ち歩いている懐中時計を取り出した。僕の誕生日にとロシェッタが贈ってくれたものだ。中心に大きな翡翠が嵌め込まれ、意匠も細部まで凝っている。物凄く高価なんじゃないかと恐れた僕に、当時の彼女は『商会のつてでお値打ちだったのです』と笑っていたけれど。
「ちょっとだけ、ちょっとだけなんですけど……こっそり私の魔力を籠めちゃいました」
「そうなの?! え、すごいな」
僕は驚くあまり、危うく懐中時計を取り落としそうになった。貴石に魔力を籠めるのは、求められる技術と魔力が多いため非常に難しいとされているのだ。市場に出ていれば『お値打ち』どころか青天井だろう。僕は日頃とんでもない価値ある品を持ち歩いていたらしい。
「ちなみにどんな魔力を?」
「安心してください、ささやかですよ。エタン様が怪我をしたら即時回復する魔法と、危機に陥ったらスウィンフォード邸に自動転移する魔法だけですから」
「ささやかか〜」
高度な魔法が二つも仕込まれていた事実に、僕はただ圧倒される。ただでさえ使い手が少ない回復魔法に転移魔法。普通なら王族に献上するような価値ある品物だ。
本当ならロシェッタを注意するべきなのかも知れないが──
「……スウィンフォードの山には沢山の危険がありますから、エタン様の安全をお守りしたかったのです。鉱山に入ったのもこれを作りたかったからです。どうせなら自分で石を選びたくて」
あまりの規模に驚くばかりだけれど、こんな国宝級の品物も、僕を想って作ったと言われれば頷くしかない。僕はあいにく、ロシェッタの好意を無碍にする選択肢は持ち合わせていないのだ。
「謝ることはないよ。僕を案じて、心の籠もった贈り物をしてくれて嬉しい。これからも大切にするね」
ロシェッタが寄る辺のない子供に見えて、僕は思わず彼女の頭を撫でた。
「エタンさま……」
ロシェッタはずっと強張らせていた頬をようやく緩めた。あどけなく飾らない表情は出会った頃のままで、僕はやっぱり彼女が好きなのだと改めて認識した。
※※※
「これで終わりかな?」
時に笑い時に驚きながら、僕は卓上に並んだロシェッタの罪をすべて聞き届けた。結局『罪』なんて一つもありはしなかった。ロシェッタの動機はすべて僕や領地、家族を思いやるもので、かけがえのない親愛の思い出だった。
最後の話にけりがついた時、太陽は山の端に消え入ろうとしていた。さわりを聞けば十分なものも多く、休憩も適宜挟んだとはいえ、よくぞお互いこれだけの話をしたものだと思う。
「いいえ。次が最後です」
僕の推測に反し、ロシェッタは首を振った。思わず彼女の顔に目を転じると、決然とした表情で僕を見据えている。
和気あいあいとした雰囲気ががらりと塗り替えられたことに自然と姿勢が正され、僕は緊張感をもって彼女に対峙した。
「十年前、ロックウェル男爵家にひとりの少女がいました」
ロシェッタが静かに語り始める。
「少女は魔法が好きで、幸か不幸か膨大な魔力をその身に有していました。家族も喜び褒めたたえたため、彼女はすっかり慢心しました。自分にできないことなどないと、傲慢な全能感を抱いていました」
僕は耳を傾ける。これは少女の──幼きロシェッタの告解だ。
「覚えたての転移魔法を使い、少女はあちこち駆け回りました。両親は飛び回る彼女を引き止めきれず、必ず自衛をすること、他領へ行くときは関所を通ることの二点を言い含めるので精一杯だったそうです」
ロシェッタは目を伏せる。苦い思い出なのだろうと表情から推測する。
「ある日彼女は、国境にある土地──スウィンフォード子爵領へ向かいました。怖い魔物がいるからと両親は強く反対しましたが、少女は諦められませんでした。スウィンフォードのラフレッシュ山にのみ咲くという花がどうしても見たかったのです。いざとなれば魔法で退治するから大丈夫だという思い上がりもありました」
スウィンフォードの名に僕ははっとする。ロシェッタは五年前の商談よりも前に我が領地を訪れていたのだ。
「少女は両親を説得するのが面倒になり、誰にも言わずスウィンフォード領を訪れました。そう、関所さえ通らずにです。花を見たらすぐ帰るからいいだろうと……愚かにも、図々しくも考えていたのです」
ロシェッタの表情が凄愴を帯びる。
「少女は入山し、花が咲くという風衝地を目指しましたが、途中で魔物の群れに囲まれてしまいます。体が大きく、牙も大きな魔物が何体も彼女を追いかけてきます。彼女は逃げ惑い、最後はすっかり腰が抜け、魔法のことも忘れて怯えることしかできませんでした。ところが、彼女が生きることを諦めかけたとき、目の前の魔物はぞろぞろと帰っていきました。呆気にとられた私の近くには、栗色の髪に焦げ茶の瞳をした少年がいました」
僕は弾かれるように顔を上げた。
──ああ、これは彼女と僕の物語なのだ。
「少年は泣きじゃくる少女の手を引き、美味しい飴を与え、彼女が疲れて歩けなくなればその背におぶってくれました。彼は彼女がこれまでに会った誰よりも強く、誰よりも優しい人でした。少女はこの人と離れたくないと思いましたが、自分が関所を通らず領地を訪れてしまったことを──無断で他領に侵入した無法者であることを思い出してしまいました」
ロシェッタが僕を見る。僕は彼女に意識を凝らす。何一つ聞き漏らさないように。
「少女は震え上がりました。山を下りたら捕まってしまう。少年にはもう会えない。自分の愚かさを悲しんで、彼女はまたわんわん泣きました」
思い出す。魔犬に囲まれ泣いていた女の子のこと。どこから来たのかと問えば『王都から』と答えられびっくりしたこと。『ふほうしんにゅうしてごめんなさい』とわんわん泣き出したこと。
「少年は『大丈夫、犯罪者になんかならないよ。心配なら家族のふりでもしようか、目と髪の色も同じだし』と笑ってくれました。少女はほっとしました。そして、同時に彼の言葉は名案だと思いました。家族ならずっと一緒にいられるから。だから少女は……」
覚えている。彼女がその後何を言ったかも。
僕が伝えたことも。
「……『私』は、彼にお兄様になって欲しいと伝えました。当然彼は『それはできない』と断ります。けれど、がっかりする私にある提案をしてくれたのです」
「『──結婚したら家族になれるよ』」
僕はたまらず彼女の追想に割り込んだ。
少女は──ロシェッタは驚きに目を瞠っている。
「合ってる?」
「はい……はい、合ってます」
ロシェッタの瞳は涙に潤んでいる。あの日の面影を残し、寄る辺なさに僕への信頼を滲ませて。
「その日から、少年のお嫁さんになることが私の目標になりました。思い上がりを改め、嫌いだった淑女教育を頑張りました。魔法の腕も磨きました。彼の……エタン様の隣に立つときに恥ずかしくないように」
知っている。いつも綺麗な所作で、僕のほうが気後れするくらいだった。貴族学院で成績優秀者にずっと名を連ねていたのも知っている。
僕のために君は、たくさん頑張っていてくれた。
「両親からお許しが出て、スウィンフォード領に連れて行ってもらえた時……エタン様に会えて本当に嬉しかったです。あの日の面影を残したまま、優しさはそのままで、かっこいい男の子になっていて」
ロシェッタの頬を涙が伝う。瞳にはなぜか、諦めの色を滲ませている。
「だからこそ言えませんでした。『似ている』と言って下さったからこそ……ずっと言えませんでした」
ロシェッタは涙を拭い、両目を掌で覆った。魔力が彼女の手から放たれ、柔らかな光が火点し頃の客間を照らし出す。
「これが本当の私です」
ロシェッタはおろした瞼を上げ、僕の瞳を真っ直ぐに射抜いた。僕は驚天しながらも、謎が解けた満足も覚えていた。
彼女の双眸は焦げ茶ではなかった。
強い魔力の証左である翡翠の色をしていた。
「……これが私の、一番の罪です」
ロシェッタは一筋、また一筋と涙をこぼす。
「ごめんなさい……」
空を知らない雨がロシェッタの頬を伝う。それでも彼女は僕から目を逸らさない。懐中時計のエメラルドよりずっと美しい瞳が、僕をきらきらと映し出している。
「謝ることなんてないから、泣かないで」
矢も盾もたまらず、僕はロシェッタを抱きしめた。ふわふわの髪を胸に抱え込み、あやすようにその背を撫でる。
彼女は震えながらも、いじらしく僕の背に腕を回した。あの日山で出会った小さな女の子のように。
「瞳の色が似ていたから君を好きになった訳じゃない。再会した日は容姿も可愛いと思ったけど、スウィンフォード領の土地と人を愛してくれて、遊びも学びも目一杯楽しんで、いつもにこにこしてるロシェッタだから好きなんだ」
僕は彼女に愛を伝える。自分でも照れるような言葉を口に出している自覚はあったけれど、心を開いてくれた彼女に同じものを見せたいと強く思ったからだ。
「僕は君のように魔力が強い訳じゃない。一応子爵にはなるけど、領地は田舎で王都のきらびやかさもない。見た目だって地味だし、正直君に釣り合わないと言われても仕方ないと思う。でも、僕は君の隣を譲るつもりはないし、君以外を立たせようとも思わないよ」
ロシェッタは少し落ち着いたのか、おずおずと僕を上目遣いに見る。
「クラーケン炙ったのに?」
「次は煮付けにしようね」
「勝手に温泉掘り当てたのに?」
「税収が増えたよ。今度一緒に行こうね」
「……目の色、黙ってたのに?」
「きらきらして可愛いよ。ずっと見てたい」
ロシェッタはまだ不安らしい。僕にくっついたまま、次から次へと可愛い『罪』を掘り返す。こんなに物分かりの良くない彼女は初めてで、それでもやっぱり可愛い。
「どんな君のことも愛してる」
僕は体をかがめて、可愛いロシェッタの唇を掠め取った。
正真正銘はじめての口付けだった。
「エタンさま……」
泣き止んでくれるかと思いきや、ロシェッタはまたぽろぽろと涙を零し始めた。
「わたしも……わたしも愛してます」
「そうか。同じで嬉しいよ」
昨日渡しそびれた指輪を彼女の薬指に嵌める。領地の花を──かつて少女だったロシェッタが見たがった花をモチーフにした婚約指輪だ。
「これ……」
「領地で待ってる。結婚しよう」
「……っ、エタンさま……」
ロシェッタが僕に飛びついてきた。僕の胸元でわんわん子供のように泣きじゃくりながら、涙声で「けっこんします」と「だいすき」を繰り返している。シャツはすっかりずぶ濡れだったけれど、僕にとっては嬉しい犠牲だった。
※※※
その後の僕たちの話をしよう。
ロシェッタは卒業式からほとんど間を置かずスウィンフォードにやってきた。未来の妻のため用意した領主館の一室は、輿入れ道具で瞬く間に調ってしまった。『転移魔法はこのためにあるのです』と誇らしげな彼女は可愛らしくて、『その発想はなかったよ』という言葉を僕はどうにか呑み込んだ。突っ込んだら負けというものである。
ロシェッタたっての希望でラフレッシュ山にも出かけた。結果として彼女は魔物たちとすっかり仲良くなった。人が勝手に怯えるだけで、元来彼らは穏やかで可愛い生き物なのだ。くんくんと甘える魔犬たちの腹を、ロシェッタは今日ももふもふと撫でてやっている。
驚嘆すべきこともあった。未来の王と王妃──ジェレミー王太子殿下とソレイユ嬢がスウィンフォードを訪れたことだ。ソレイユ嬢の希望かと思っていたが、意外にも希望したのは殿下だった。『辺境の覇者と話がしたかった』という御言葉は買い被りが過ぎて恐縮したが、お互い規格外れの配偶者を持つ者ということもあり、あっという間に親しくなってしまった。
二人にいつでも遊びに来て欲しいと告げれば、ロシェッタとソレイユ嬢はうきうきと転移門を作り上げてしまった。軽口は禁物だと思ったが、ロシェッタも僕も、恐らく王太子ご夫妻も楽しいので良かったことにした。畏れ多い状況ではあるが、王太子ご夫妻とは気の合う間柄として交流を持つことができている。
コンコン、と扉を叩く音がする。
「エタン様! 準備はできましたか?」
「大丈夫だよ。行こうか」
今日はいよいよ、ロシェッタも僕もとても楽しみにしていた薔薇祭りの日だ。
扉を開けると、伝統衣装に身を包み、はにかむロシェッタが立っていた。
「今日も可愛いね」
「エタン様も素敵です!」
互いを褒め合い、手を取り合った僕たちは領主館を飛び出す。
「楽しみですね!」
「うん、楽しみだね」
天候は晴れ。抜けるような空の下、見頃の薔薇が咲き誇って僕たちを歓迎してくれる。
今日は楽しい薔薇祭り。狙ったように領海に現れ、うきうきのロシェッタに討伐されたクラーケンは、僕の希望で甘く煮付けられている。
〈終〉
僕の婚約者と百八つの罪 堂瀬谷 @dousetanichan
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