シマカの家
鞠丸治義
シマカの家
縁側から外を覗くと太陽が真上にあッてポカポカと心地の好い陽気だッた。木々の青い匂いが鼻の芯を刺激し、散歩でもしようと思い至る。着の身着のまま、薄暗い玄関にしゃがみ込ンで靴紐を結ンでゐた。
「もし、もし、」
不意に女のか細い声が扉の向こうから聞こえた。玄関扉に人影が映りこンでゐる。扉は曇り硝子だから相手の形は見えても顔はわからない。
「ハイ、何方さんです」
そう云ッてガラリと扉を開ける。砂を巻き込ンでゐるやうで車輪の滑りが悪い。後で掃除をしなければ。そんな事を思ッて目の前の客を見た。
其処に立ッてゐたのは一人の女性だッた。喪服が如き真黒の着物に白の帯を締めてゐる。黒い髪に白髪が混じり、肌は病的に白く黒光りした瞳。モノクロ写真から出てきたかのやうに色味が無い。
女は酷く窶れてゐて、痩けた頬が影を落とす。髪も肌も潤いが無くパサついてゐる。爪の先もボロボロで枯れ枝のやうな腕だ。其れだと云うのに餓鬼のやうに僅かに腹が膨らンでゐる。其の所為だろう。腰が反り、変に胸を張るものだから其の立ち姿は実に不格好だッた。
彼女はぬらりと黒光る天竺牡丹の瞳を動かし、俺と目を合わせた。
「此処は玉木の屋敷でありましょうか?」
「ハァ、祖父に御用ですか?生憎今は留守にしておりまして、言付け等有りましたら預かりますけども」
「いえ……」
此処は普段、祖父しか住ンでいないから来客は祖父に用が有るのだと思ッたが、女はどうにも口をパタリと閉じてしまッた。之は困ッた。ボリボリと耳の裏を搔く。
「……祖父が何時帰宅するのか自分にも分からないのです。一旦御引取り頂いた方が宜しいかと」
「座敷に上げては頂けないでしょうか」
「はァ?」
いきなり口を開いた女はそンな事を言い出した。流石に家主の居ない家に知らぬ人を入れる訳にはいかない。飽く迄も此の家の主人は祖父なのだ。
「いやァ…其れはとてもとても、自分には如何にも。ネェ?」
「玉木の家には代々御世話になッております。母も祖母も、其のずぅと前から。貴方様の御爺様にも顔を御覧に入れた事が有ります。勝手も分かッております。どうぞ上げては頂けないでしょうか」
ハハァ、成程、彼女は祖父が新しく雇ッた女中に違い無い。昔は栄えてゐたらしい此の家も寂れて久しい。祖父は繁盛していた頃の生まれだから其処ら辺のプライドが高い。見知らぬ介護士に世話されるくらいならと昔の使用人の伝手を使ッたのかもしれない。其処んとこは庶民育ちの自分には分からない感覚だ。ヘルパーであれ、使用人であれ、他人である事に変わりは無いのだから。
「マ、そう云う事ならどうぞ御入り下さい」
半身を開いて彼女を招き入れる。一応客間迄先導しているが勝手を知ッてゐると云う言葉に違いは無いやうで其の足取りは迷いが無い。足音も衣服の擦れる音も立てる事無く動く女性は成程女中に相応しい。意識していなければ途端に見失ッてしまうだろう。
客間に女性を待たせ、御茶を出す為に御勝手に向かう。廊下に在る大きな掛け時計が目に入る。振り子が視界を揺らす。祖父は何時頃帰ッてくるのやら。御勝手は相変わらずゴチャゴチャと物が散らばッてゐる。大量に放置された一升瓶だとか、塵箱から溢れたゴミを放ッて置いている様だとか、床に新聞紙を敷いて其の上に何時の物か分からない野菜を重ねた山だとか。下手に触ると湧いた何かが出てきそうで恐ろしい。祖母が亡くなッてから堕落した生活を送ッてゐるのだ。祖父は変なプライドは有る癖に自己管理が出来ないから周りに呆れられてゐる。
薬缶に水を入れ、火に掛ける。戸棚から茶葉と急須、湯飲みを取り出す。冷蔵庫を覗くと中に虎屋の羊羹が入ッてゐた。丁度良いと思い、半分程切り分け御茶請とした。
湯飲みに淹れた御茶へ映る女性は浮浪者の様だッた。良く見れば着物は薄く安物だろう事が分かる。マァ、幾ら代々奉公してゐたとは云え、今此の家に金は無い。そンな家に来るには其れで十分だろう。寧ろ良く来てくれたものだ。
「云ッて下されば私が御淹れしましたのに……」
「イヤァ、貴女は未だ客人ですから。茶請もホラ、遠慮せず」
「有難う御座います」
女性は深々と頭を下げた。しかし、茶にも茶請にも決して手を付けなかッた。
「……そうだ、名前を聞いてゐなかッた。御聞きしても?」
「此れは、とンだ無礼を。私の事はシマカと御呼び下さい」
「シマカさん……」
「イイエ、シマカと呼び捨てに。敬語も必要有りませンヨ」
「……シマカ」
「ハイ、どうぞ宜しく御願い致します。坊ちゃん」
「ぼ、坊ちゃん……」
シマカは再度深く頭を下げた。自分は生まれて初めて「坊ちゃん」だなンて呼ばれたものだからスッカリ面食らッてしまッた。もうそンな呼ばれ方をされる年齢でもないと云うのに。何だか気恥ずかしさを感じて胡坐を組み直したり、茶を啜ッたりして紛らわせる。
「しかし、祖父が遅くて申し訳無い。帰宅時間を聞いておくべきだッた。祖父も客が来るなら教えてくれれば良かッたものを」
「イエ、イエ、かうして坊ちゃんが御喋りをして下すッて。シマカは幸運に御座います」
シマカはほンのり頬を染めて微笑ンだ。其れは庭に在る、天辺に祠が建てられた巨石に咲く白い石斛の様に可憐だッた。こンなにも窶れてゐると云うのにシマカは確かに別嬪と呼ぶに相応しい女であッた。
ボォォン。時計が鳴ッた。午後の六時を報せる鐘だろう。もうそンな時間か、夕食の用意をしなければ、と重い腰を上げる。
「アァ!御待ちになッて下さい坊ちゃん。夕餉の用意でしたら私が」
「いやァしかし、初日でしょう?祖父も帰ッて来ないのだからバレやしない。慣れるまでは俺に甘えておきなさい」
そう云ッたがシマカはちッとも譲らなかッた。仕方が無いので二人で用意する事にした。シマカは慣れた様に御勝手を使い熟し、余りにも手際が良いものだから俺はスッカリ手持ち無沙汰に成ッてしまッた。「こう見えて一人暮らしをしてゐるから、自炊なぞ御茶の子さいさいですヨ」なンて大口を叩いてゐた自分が恥ずかしく思えた。明日からは大人しくシマカに用意して貰おう。台布巾を搾り乍ら考える。
居間に用意された食事は豪勢で、祝い事の様であッた。しかし、不思議なのは箸が一膳しか用意されていない事だ。良く見れば皿に盛り付けられた量も一人分だッた。
「シマカは食べないのかい」
「坊ちゃんの食事で御座います」
「一人だけ食べるのは何とも味気無いのだが」
「私如きが坊ちゃんと同席する等!トテモ、トテモ」
「そォ……」
シマカは頑なだッた。無理強いも良くないと思い其れ以上は口を噤む。
「御代りも御座いますから、遠慮無く御申し付け下さい」
「嗚呼」
食べている間中、シマカは俺をジットリと見詰めてゐた。斜め後ろで御櫃と共に控えて居ると云うのに視線が突き刺さるやうに感じる。居心地の悪さで折角の料理は味がしない。首の裏に汗迄搔いてきた。
「熱いのですか。窓を開けますネ」
「有難う」
シマカが硝子窓を開けた。外はすッかり夕暮れだッた。
無心で食べ続ければあッと言う間に食事は終わッた。シマカは手を出す隙も無く食器を回収し、後片付けを始めた。暇に成ッた俺は花に水をやッてゐない事を思い出し、下駄を履いて庭に出た。
ホースが繋いで在る蛇口を捻ッて、豪快に水を撒く。無駄に庭が広いから手入れが大変なのだ。庭は花が沢山咲き、樹木も丁寧に手入れされてゐる。はて、庭はこンなに綺麗だッただろうか。最近は庭師を入れる余裕が無かッたから荒れてゐたが、女中が入るとあッて流石に庭師を呼んだのだろう。殺虫剤も散布したのか虫も居らず、此れなら蚊取り線香を焚く必要も無さそうだ。蚊取り線香は如何にも煙たく、好きに成れない。焚かずに済むなら越した事は無い。
屋敷に入れば風呂が沸いたとシマカに言われ、風呂から上がれば部屋に布団が敷かれてゐた。女中と云うものは随分と有能なのだなと感心する。一人しか居ないと云うのに些か働き過ぎではないか。全く祖父の人選には違いが無い。布団に寝転び乍ら考える。
ボンヤリと空いた障子から月を見て、虫が居なくて良いなと思う。そうだ、蚊帳を張らねば。此の家は古いから網戸が無いのだ。幾ら虫が居ないとは言え零では無いだろう。俺は虫に食われ易いから寝てゐる間なぞ恰好の餌食だ。
そうして蚊帳を張り終わり、もう寝ようと転がッた時、「坊ちゃん」と襖越しにシマカの声が響いた。
「坊ちゃん。何か申し付けは有りますか」
「イヤ、大丈夫だよ」
「喉が渇いてはゐませンか」
「乾いてゐないから。お前ももうお休み。初日からそんなに働いては倒れてしまうヨ」
勤勉過ぎるな。初めから気を張ッて居ては早々に疲れてしまうだろうに。代々仕えてゐるという自負から来るものだろうか。
「……嗚呼、最後に一つ。御部屋には坊ちゃん御一人でいらッしゃいますか」
「エ、怖い事を言わないでおくれ。一人しかゐないからサ」
「ソレハ、ソレハ……何か有りましたら遠慮無く私に」
「嗚呼、有難う」
シマカは音も無く去ッて行ッた。
欠伸を一つして寝に入る。脅かされた為に寝付けないかとも思ッたが、山は静かだッたから直ぐに眠る事が出来た。
翌日、シマカの声で起こされた。
「坊ちゃん、朝ですヨ。起きて下さいまし」
「……ウーン、もう起きるからそんなに大きな声を出さないでくれ」
「入ッても宜しいですか」
「エッ!!未だ着替えてすらゐないから!」
「エエ、エエ、ですから入るのです」
シマカは静かに勢い良く襖を開けると無遠慮に部屋へ入ッて来た。其の手には着流しが一式。シマカは俺の目の前に来ると制止を聞きもせずパジャマを脱がせた。
「嗚呼、洋物の寝間着なぞ。脱がせ難くて仕方が無い」
ブツブツと文句を言いつつ、俺を着替えさせた。子供でも無いと言うのに。
「サ、朝餉が御用意出来て居ります。参りましょう」
「……ウン」
共に食事を、と誘うもシマカはやッぱり固辞して、昨日と同じ様に針の様な視線を送ッて来た。
気不味く味気無い食事を終え、解放された後は縁側でボンヤリと過ごす。此の家が在る場所は大層な田舎だから周りは田畑や山しか無い。遊ぶ場所は無く、特に外に出る用事も無い。有り体に言えば暇なのだ。御勝手から食器を洗う音が聞こえる。庭に生える立藤が風に揺れる。
そうだ、散歩をしよう。脳の裏がパチパチと弾けて閃いた。シマカが訪ねて来る前は散歩をしようと思ッてゐたのだ。そうだ、そうだ。すッかり忘れてゐた。
善は急げ。和服は動き難いから洋服に着替えよう。意気揚々と部屋に向かい服を漁ろうとしたが持参した服が一枚も無い。如何いう事だとシマカを問質す。
「御洋服でしたら
「何時乾くんだい?」
「店に任せたので私にはなンとも」
「エッ、一つも残さず?」
「エエ、全て。代わりの服は用意しておりますから。今身に着けている物は御気に召しませんでしたか」
「イヤ、そうでは無くて、エ、全部出したの」
「ハイ。縒れてゐたので。御迷惑でしたでしょうか」
キョトンとした顔でシマカは訊ねた。悪気は無いのだろう。
「イヤァ、そうか、ウン、大丈夫。一寸散歩にでも行こうかと」
「御供します」
「イイヨ、イイヨ、大丈夫。一人で大丈夫サ」
そう言ッたがシマカは玄関迄付いて来た。さて靴を履こうとした時、何時も履いてゐるスニーカーが無い事に気が付いた。
「アレ、俺の靴知らないかい」
「あの運動靴ですか。捨てました」
「ハァ?捨てた?」
「ハイ。すッかり履き潰されていらッしゃッたので」
開いた口が塞がらない。笑顔でそう言うものだから呆気に取られてしまッた。服の件も併せて本当に悪気は無いのだろう。
「……だとしても」
「靴が欲しいのであれば靴屋を呼びましょう。私は余り好みませンが時には洋物も必要に成りますからネ、服も新調しましょう。アア、坊ちゃんは耳飾り用の穴を開けていらッしゃるから序でに装飾品も買い付けましょう」
「イヤ、話を……」
「坊ちゃんはいずれ此の屋敷を継ぐ人でありますから、其れに相応しい装いをすべきですヨ」
ちッとも話を聞きやしない。外に出ようにも履物は他に下駄しかなく、履き慣れない其れでは足を痛めて仕舞うだろう。少し庭に出る位なら大丈夫だが、散歩するには適さない。
溜息を一つ吐いて、靴屋か服屋かに電話を掛けようとするシマカを止める。散歩は中止だ。本でも読もうか。確か祖父の書斎に沢山在るはずだ。シマカに御茶の用意をするやう伝えるとハイ、と綺麗な返事をして御勝手へ向かッた。相変わらず音を立てずに動く女だ。
祖父の書斎に入ると、黴びた本と淀ンだ埃の匂いが香ッた。暫く掃除されていないらしい。壁に作られた本棚にピッチリと並んだ本の中から適当に選び、手に取ッた。ぱらぱらと捲 ッて見るがこれッぽッちも内容が頭に入ッて来ない。飛ばし飛ばしだからいけないのかもしれないと初めからキチンと読んでみるがやッぱり分からない。文章が出鱈目なのだ。
「――今日二至ッテハ侍ガ宵ノ口ヲ訪ネ、アノ小サナ人ハカツテノ展望ヲ失ッテ仕舞ッタ。最早契リハ果タサレズ、家二ハ虫ガ飛ブバカリ。森ノ信仰ハ止マラズ、遂ニ人工物ガ潰レテ仕舞ウダロウ。鯉ハ恋ト成リ死二絶エル――」
何を言ッてゐるのかサッパリだ。頁を閉じ本を戻して、別の物を取り出す。此れも出鱈目な内容だ。其の次も其の次も。何だ此の本棚は、と苛立ち、目を走らせると知ッてゐる題名を見付けた。一度読ンだ事が有る小説だッた。表紙も昔見た物と同じ。本を開いてちゃんとした内容である事に安堵する。昔に読ンだ物だから懐かしい気持ちに成ッた。此れを読もう。
シマカは縁側の暖かい処に座布団を敷いて、茶と羊羹を用意してくれていた。羊羹は昨日の余りだろう。
「有難う」
「イエ、なんなりと」
俺は寝転がッて本を読み始めた。矢張り懐かしい内容で何度読ンでも面白いのだが、頭の方でシマカがずぅと控えてゐる所為でちッとも集中出来ない。シマカは食事時と同じジットリとした目線を送ッて来る。
「……何か用が有るのかい」
「イイエ、イイエ、坊ちゃんが可愛らしくいらしたので、つい」
「可愛いッて、ネェ。俺は男だよ」
「其れでも可愛らしいのですヨ」
シマカが俺の垂れた前髪を除ける。フアリフアリと香る梅の花の様な手付きだッた。痩けた頬を薄らと染めてゐる。気恥ずかしく成ッた俺は其の手を跳ね除けるやうに起き上がると羊羹を口一杯に頬張ッた。鼻に抜ける羊羹の甘さと口に広がる柔らかな触感が心地好い。
「ホホ、坊ちゃんは羊羹が御好きで御座いますか」
「甘菓子は好きサ」
「でしたら別の御菓子も用意しておきましょう。御希望は有りますでしょうか」
「ア!だッたら明石屋の菓子が好いなァ」
「明石屋……確か軽羹が有名でしたネ」
「其れも好ひけれど、俺は春駒が好きだ。以前食べてとても美味しかッたから」
「何方も取り寄せておきましょう」
「有難う。頼むよ」
シマカはまた、ホホ、と笑ッた。
「そうだ。本も欲しいや。此の小説以外はちッとも読めないンだもの」
「そうなのですか」
「シマカも読むかい。此れは面白いヨ」
「申し訳有りませン。私は読み書きが出来ないもので。小説等トテモトテモ……」
俺はスッカリ面食らッて仕舞ッた。読み書きが出来ない人なンて初めて出会ッたから。しかし、現代に於いて読み書きが出来ない日本人なンてゐるものなのか。俺はシマカの育ちに思いを馳せて、目の前の女が大層可哀想に見えてきた。
「俺が教えようか。ソリャ、学校の先生じゃあ無いから下手かも知れないけれど、全く無駄では無いだろうヨ」
「何と。坊ちゃん直々に教えて下さるのですか。嗚呼シマカはなンて幸せ者なのでしょう。坊ちゃんはなンて御優しいのでしょう」
「大袈裟だよ」
「大袈裟なものですか」
シマカはポンと手を一つ打ッて喜んだ。俺は其れに良い気に成ッて、御茶を淹れ直すやうに言い付ける。ハイ、と元気の良い返事で去ッて行ッたシマカを見送り、紙とペンを用意する。
居間の襖を開け放ち、心地の良い風が通り抜ける中俺はシマカに文字を教えた。シマカの隣に座 ッて家庭教師のやうに付いた。シマカは本当に読み書きが出来ないやうでペンの持ち方すら怪しかッた。「ア、ア、イ、イ」と言い乍ら俺が書いた見本の文字を丁寧に丁寧に書取ッてゐる。そうして五十音全て書き写したシマカを俺は目一杯褒めてやッた。
「凄い!初めてなのに上出来じゃあないか!」
「ウフフ、坊ちゃんの教え方が良いからですわ。文字が書けるとはこンなにも楽しい事なのですネ」
シマカは花の乙女の笑顔で、蚓の様に畝る文字を愛おしそうに撫でる。其の姿は普通の女であッた。其の笑顔を見ると俺も誇らしく思えて気持ち胸を張る。
一度休憩を挟もうと茶を啜ッた。少し冷めた御茶は其れでも美味い。湯呑一杯を飲み切ッて仕舞おうと天井を仰ぐ。しかし、勢いを付け過ぎて口の端から御茶が一筋垂れた。首まで伝い、嗚呼拭かなければ、と手拭に手を伸ばした時、シマカが其れを舐め取ッた。ザラリとした感覚が走る。
突然の事に固まる俺をシマカは上目で一瞬見てまた首に口を付けるとチゥと吸ッた。シマカの柔らかな唇の感触が薄い首の皮膚を通して脳に伝わッて来る。俺の首から頭を離したシマカは紅なんて塗ッてゐないはずなのに、やけに其の唇は赤く色付いて見えた。ハァ、と湿ッた息を吐いて再び俺に吸い付こうとするシマカの薄い肩を掴ンで制止する。
「な、何を……」
シマカは何も答えず艶めく黒曜石の瞳を揺らした。
「……も、もし、こんな事は余り言いたくはないけれど。もし、御前が飯炊きとか世話役とか、そういう意味の者で雇われてゐるのだとしたら、俺に其の様に接する必要は無い」
「……」
「シマカを雇ッてゐるのは俺の祖父だろう」
「……坊ちゃん、勘違いをしないで下さいまし。坊ちゃんだからですヨ」
「俺、だから……」
「エエ、エエ、私が坊ちゃんにシたいと思ッたからで御座います。嗚呼ですからどうか、御止めにならないで」
「イヤ、でも……」
「坊ちゃん。シマカの事が御嫌いですカ?」
そう言われた瞬間、俺はフ、とシマカを止める腕の力を抜いて仕舞ッた。其れは全く無意識であッたから自分でも吃驚した。俺が抵抗を見せなく成ると、シマカはニッコリと綺麗な笑顔を作ッて俺の胸に撓垂れ掛かッた。俺は全身の力も抜いて仕舞ッたから其の侭共に倒れ込む。シマカが俺の着流しの襟を少し開き、そして俺の首の付け根にチゥと吸い付いた。
倒れ仰いだ俺は何も考えられなく成ッて、ボンヤリと庭を見詰めた。庭は昨日と同じ様に花が咲き誇り、其れは綺麗な庭園だッた。何と無く、あの庭はシマカの為に誂えられた物なのだろうなと思ッた。
シマカは先程と同じ様に、花の乙女の顔で微笑ンでゐる。
翌日、蚊帳の中で目を覚ます。今日もシマカに起こされ、同じ様に着替えさせられた。俺は其の桜貝の唇から目が離せないというのに、シマカは何も無かッたかのやうに振舞ッてゐる。
シマカは昨日、決して吸い付く以外の事はしなかッた。ふくらとした唇が桑の実の舌に舐められた。薄暗い部屋に下から射す朝日にぬらぬらと光る。思わず寝起きの粘着く唾を飲ンだ。
「昨日より、顔色が良く成ッたンじゃあないか」
誤魔化す様に口を開く。咄嗟に出た言葉だが本心ではあッた。確かにシマカは昨日よりも血色の良い肌をしてゐる。唇も昨日は白に近い色だッたが今は一斤染の狐之手袋の様にほんのり染まッてゐる。
「坊ちゃんの御蔭かもしれませンね」
シマカが俺の耳にズイと口を近付けて囁いた。耳毛を撫でる其の息に俺は耳介がムズ痒くなり、手を当てて頭を引いた。シマカは其れを見て、ホホ、と笑ッた。
洗面台で鏡を見れば花を散らしたかのやうに首にポツポツと赤い跡が付いてゐる自分が居た。触るとピリピリと痒くなる。思わず爪を立ててボリボリと掻いて仕舞ッた。薄皮が破け、血が滲み、爪が其れを掻き取ッた。赤い血は顔を洗う為に掬ッた水と共に流れて行ッて仕舞ッた。顔を上げればもう首の傷は無く、赤い跡だけが残ッてゐた。
味のしない朝食を食べ終え、今日は何をしようかと頭を捻る。昨日見た書斎が埃臭かッた事を思い出し、掃除をするかと腰を上げた。取り敢えず、掃除に換気は重要だろうと目に入ッた襖を片ッ端から開けて進む。居間、客間、土間、祖父の部屋、自分の部屋、そうして仏間を開けようとした時、襖が上手く開かない事に気が付いた。建付けが悪く成ッているのか、何か挟まッているのか。力を込めて無理矢理開けようとするがガタガタと音を立てるばかりでちッとも開きやしない。数分格闘して如何にかこうにか眼球一個分程開いた。
一体何が挟まッてゐると云うのか、顔を近づけ暗い仏間を覗いた。中は一切光源が無く、俺が覗き込ンでゐる襖の隙間が唯一だッた。暗闇に目が慣れず少しも室内の様子が分からない。慣れる迄待とうとジッと覗いてゐると仏間の中から「坊ちゃん」と囁く声が聴こえた。
女の声だ。シマカとは違う。弱弱しい声。確実に部屋の中から聴こえた。再び「坊ちゃん」と聴こえた。
其れは耳殼の溝を爪先でなぞる様な響きで頭に入り、脳味噌を刺激した。俺は無意識に舌を出し、舌先に乗る何かを待ッてゐた。部屋の中に居る何かが動き、布の擦れる音が聞こえる。暗闇からヌゥ、と白い腕と赤い爪が現れた。陶磁器の様に滑らかで細こい指先に赤色翡翠(レッドジェダイト)の伸びた爪が乗ッてゐる。血色の一つも感じさせない其れは段々と此方に伸びて来るが其の先の胴体はちッとも見えない。一本の腕だけの生物のやうであッた。
腕は迷いを知らず、真直ぐと向かッて来て俺の眼前で一拍止まッた。「坊ちゃん」とまた腕の元から聞こえ、俺は一層舌を突き出した。何故だかそうしなければならない気がした。再び動き出した腕は俺の舌先を目指し、其の中指の爪が舌のブツブツとした表面を引搔こうとした時、物凄い力で肩を掴まれ後ろへ引張られた。
シマカだッた。俺の肩に白詰草の爪を食い込ませ、襖の隙間をジッと睨ンでゐる。仏間の腕は姿を消し、其処には薄暗い部屋が在るだけだッた。
パンッと柏手のやうな音が響く。シマカが襖を閉めた音だ。ややあッて此方を振り向きシマカは口を開いた。
「嗚呼そんなみッともない。舌を御仕舞い下さい。」
「ア、ウン、御免」
シマカに引張られた際に舌を噛ンでゐたから、濡れた口内に戻すとピリピリと痛んだ。
「ハイ、男前の坊ちゃんに戻りましたネ」
シマカは両の手で俺の顔を包み、微笑ンだ。鬱金香の優美な曲線のやうな掌は乾燥しており、所々在る赤切れが肌に擦れてピリピリと刺激を感じる。綾襷により、外に晒された腕は血の気が引き、冷たく、程よい心地良さを覚えた。
「坊ちゃん。此の部屋は私に御任せ下さい」
「イヤ、でも襖を開けるだけだし」
「でしたら洋琴の御部屋を御願い致します。私が触れて壊れでもしたら。アァ恐ろしい!」
「分かッたヨ」
俺は少し大袈裟に溜息を吐いて其の場を後にした。
一体全体、あの腕は何だッたのか。書斎の洋琴に叩きをかけ乍考える。
此の部屋は中央に洋琴が堂々置かれた板の間だ。日本家屋に増設された洋風の部屋。小さな
洋琴は薄く被ッた埃を取り除いてやれば艶やかな其の肌を魅せた。好奇心に負けて重い鍵盤を押してみると喉の奥に木霊するやうな音を出す。もッと右の鍵盤を叩いてみれば音は頭のテッペンに移動して、もッと左を叩いてみれば胸の下に辿り着いた。
其れがなンだか無性に面白く感じ、ドンドンと鍵盤を押していッた。其の内、曲を弾いてみたくなり、「猫踏ンぢゃつた」の指の動きを思い出し乍らゆッくりと指を動かした。楽器に触れてこなかッた人生だから、洋琴奏者が見たらやけに慇懃な態度で窘められてしまいそうな指使いだ。
ポン、ポン、とゆッくりゆッくり引いてゐると扉からシマカが顔を覗かせた。微笑ましそうに此方を見てゐる。カァ、と恥ずかしくなり顔が熱く成る。そンな俺を見てシマカは更に笑ッた。
「ウフフ、御上手ですヨ」
「御世辞はよしとくれ。ヘタクソなのはわかッてゐるから」
「卑下しないで下さいまし。トッテモ素敵な演奏でした」
「ウゥ……今度はシマカが引いてくれ。俺だけ聞かせたンじゃあ不公平だろう」
自分でも滅茶苦茶な事を言ッたのはわかッてゐるが、其れでも此の羞恥心を紛らわせるにはシマカに演奏させるしかないと思ッたのだ。シマカは「そうですネェ」と言ッて洋琴の椅子に腰を下ろした。
「私も下手ですし、此れしか弾けませンが、坊ちゃんが満足して下さるなら……」
シマカは白樺の枝の指を鍵盤に滑らせた。其れは優しい曲調で眠気を誘う暖かな旋律(メロディ)だ。日向に干された布団に寝転ぶやうな其れは「愛ノ夢、第三番」だッた。
何処か懐かしい気持ちになッて、そう云えば祖母が未だ生きてゐた頃、良く演奏してくれたなと思い出す。祖母は音楽家の家の出だからトテモ綺麗に洋琴を弾く人だッた。小さな自分を膝に乗せ、目の前で披露してくれた其れは素人目にも美しい様だッた。
一度だけ祖母が爪紅を塗ッて弾いたことがある。俺の誕生日にとびきりのオシャレをして弾いてくれたのだ。弾き終わッた後に「指が重くて上手く弾けなかッた」なンて言ッてゐたが其れでも見事な演奏だッた。
少し節が目立ッたが、祖母もシマカと同じ様に真白の枝の指をしてゐた。真赤に爪を塗ッて腕だけが別の生物の如く動いてゐて。――そう、先程仏間で見た腕のやうに。
「坊ちゃん。如何でしたか。御気に召さなかッたでしょうか」
腕を止めたシマカが此方を見てゐる。逆光で其の顔に影が差して、怒ッてゐるやうな、悲しンでゐるやうな、不安な感情を抱かせる笑顔に見えた。シマカは何を考えてゐるのだろうか。
「……イヤ、トテモ素敵だッたよ。習ッてゐたのかい」
「イイエ。でも、坊ちゃんは此の曲が御好きでしょう。此れだけは弾けるやうに練習致しました」
「其れは、有難う。また弾いておくれ」
「エエ、何時でも」
シマカは鍵盤を一つ撫でて立ち上がッた。
「サ、夕餉に致しましょう。モウ、スッカリ遅いですから」
其の言葉を聞いて窓の外を見れば日が傾いてゐた。先程まで暖かな昼だッたと云うのに。
食事を終え、風呂に入り、布団に身を挟めばスッカリ夜の匂いが辺りに満ちてゐた。蚊帳の向こうに在るはずの庭の草花は暗闇に飲まれ、良く見えない。
「坊ちゃん、蚊帳は下ろしましたか」
襖の外でシマカが訪ねた。
「ウン。シッカリネ」
俺は布団に体を横たえ乍ら答えた。
「夜の間は決して蚊帳を上げてはいけませンヨ」
「分かッてゐる」
天井の木目と目が合ッた。アソコに木目なンて在ッたかしら。
「外に用が有りましたら、シマカを御呼び下さい。名前を叫ぶだけで宜しいですから」
「分かッた、分かッた」
木目を見てゐたら何だか怖くなッてきた。木目を見ないやうに目を瞑る。
「……では、御休みなさい」
「アア、オヤスミ」
シマカの小さな小さな足音が遠ざかる。静寂の家の中であそこ迄音を殺せるとは、一種の才能ではないかと思う。
シマカが立ち去れば、一切の音が無くなり、夜の帳が重苦しいものであることを思い出させる。耳鳴りのやうな静寂の音が耳から頭へ暴れ入ッて来る。静謐の暴力が酷く恐ろしかッた。
突然、夜のシジマの爆音が破られ、襖が動いた音がした。途端に足の先から血の気が引いて冷や汗が背中に滲む。
シマカだろうか。イヤ、彼女は先程去ッて行ッたばかりなのだ。其れに、襖の音がした方向は廊下ではない。仏間の方だ。仏間と此の部屋を隔てる襖が動いたのだ。恐怖から体を縮こませ、頭までスッポリと布団を被ッた。ズ、ズ、と襖が開く音が無音の室内に響く。少しして其の音が止むと蚊帳が揺れる気配がした。
「坊ちゃん」
囁くやうな小さな声が聞こえた。昼に仏間で聞こえたあの声だ。
「坊ちゃん」
蚊帳を引掻く音がする。あの腕が蚊帳の外まで来てゐるのだろう。
「坊ちゃん」
何時迄経ッても終わらない。一体何が居ると云うのか。ほンの少し湧いた好奇心に身を任せ、意を決して布団の隙間から奴を覗いた。
其処には仏間から伸びる腕が在ッた。紅電気石(ルベライト)の爪を蚊帳の表面に滑らせ、仏間の奥からドロドロとした言葉が俺の部屋を浸食してゐる。
「坊ちゃん。……如何か目覚めて下さいまし」
鶴の居る松の森を割り、其の奥で月光に照らされた赤い瞳が爛々としてゐる。無垢な少女の柔らかな膝の傷から溢れる鮮血の如きヴィヴィットな赤だ。
「如何か、ドウカ、起きて下さいまし」
ギュッと力一杯目を瞑り、小さな子供のやうに布団の中で丸くなる。早くあの恐ろしい怪物が去ッてくれることを祈ッて。
そうしてゐるうちに夜が明け、布団の隙間から流れ込む空気が朝露の冷たさを帯び始めた。声は止み、布団から顔を出せば赤い怪物は居なくなッてゐる。気持ちは永遠だと云うのに、時は一瞬であッた。
ノソノソと体を起こし、大きく伸びをする。庭に目をやれ生き生きとした露華が白い朝日に照らされ、宝石のやうに輝いてゐる。
蚊帳を上げ、布団を畳み、着替えをする。シマカは御勝手に居るらしくトントンと聞き心地の良い包丁の音が廊下に響く。此の部屋を訪れるものは谷間を駆けるヒンヤリとした風のみ。清々しい朝だ。きッと昼には暑くなるだろう。
花に水をやらねばと下駄を履いて庭に出る。ホースを蛇口に繋ぎ、霧雨のやうに撒く水で虹を作ッてゐた。丁度、古い鯉の置物に水が被ッた時、門の方から「オォォイ」と云う男の声が聞こえた。近所の人かと思ッたが、再び「オォォイ」と聞こえた時、其れが祖父の声であることに気が付いた。
低く嗄れ、癖の有る声。昔から聞き馴染ンだ声。門の外、道路を挟ンだ反対側、防火水槽の標識辺りから声は飛ンで来る。声の主の姿は見えない。標識の下は草が茂り、人一人スッポリ覆い隠す程だから其処に隠れてゐるのかもしれない。
何故そンなことをしているのか、サッパリ分からない。此の家は祖父の家なのだから遠慮せず入れば良いと云うのに。イヤ、家に入れない事情が有るのか。あの茂みの後ろには用水路が在るから其処に足を取られて動けないのやも。そうであれば助けなければならない。
取り敢えず、シマカに足を拭ける布を持ッて来て貰おう。そう思い、シマカに声を掛ける為、家に向かッて一歩踏み出した。
縁側に赤い女が居る。夏場の夕焼け色の綺羅を身に纏い、黒鳶の長い髪を床迄垂らしてゐる。暖かい日が屋根で遮られ、暗がりの能面の如き顔は蝋燭みたいな鈍い白をして、針金のやうな細い細い身体を伸ばして立ッてゐる。何よりも其の身体の大きさが異様だッた。身体と家の高さが合ッておらず、頭を傾げ、首が天井に付いてゐる。俺より頭が二つ三つ分大きいだろう巨女だ。赤い爪と瞳が其の女を昨晩の怪物であッたことを主張する。
門の外からは未だ「オォォイ」と呼び声が聞こえてゐる。
巨女はノッソリと動き出し、鳥のやうな細く鋭い素足を伸ばして縁側から庭へ降り立とうとし始めた。沓脱石へ指先から段々と触れていく、其の光景から目が離せない。
俺は昨夜の恐怖を思い出し、体が僅かに震える。足の裏に汗をかいてゐることが何故だか良く分かッた。
どうしよう、其れが頭を占める。シマカを呼ぶか。イヤ、御勝手に居る彼女に声が届くかどうか。門の外に行こう。外には祖父が居るはずだ。兎に角一人でアレに向き合うのは恐ろしい。
振り返り、門の外を見る。土瀝青(アスファルト)から昇る蜃気楼に祖父の声が溶ける。防火水槽の赤は日差しをより暑くさせる。遠くの山の木々の凹凸が涼し気な夏風に揺れた。
あと一歩で外と云う所で腕を掴まれ、庭へと引き戻された。恐怖から情けの無い悲鳴が出る。腕を引いた者がアノ巨女だと思ッたからだ。しかし、振り向けば其処に居たのはシマカであッた。家事の為か綾襷の姿で俺の腕を掴ンでゐる。
「坊ちゃん。何方へ」
「……祖父が、居たから。あの放火水槽の下辺りから声が聞こえたンだ」
シマカは困ッたやうに眉を寄せた。嘘を疑ッてゐる顔だ。
「私にはちッとも、大旦那様の御声なぞ聞こえませンが……」
気付けば祖父の声は止ンでゐた。
「イヤ、本当に聞こえたンだ。オォォイ、と呼び掛ける声が。アレは確かに祖父の声だッた」
俺は嘘吐きの汚名を雪ごうと足を踏み出すもシマカに止められる。
「不審者やも知れませン。此処は私が」
そう云ッてシマカは防火水槽の元へ向かッた。少しして戻ッて来たが、首を振り誰も居なかッたと主張する。
「そンなはずは無い。俺は確かに聞いたンだ」
「未だ朝ですから寝とぼけが続いてゐるのでしょう。其れか、茹だるやうな暑さですもの、参ッてしまッたのやも。兎に角横になりましょう」
シマカに背中を押され屋敷へ向かう。縁側を見れば巨女は消え、風鈴が揺れるばかりだッた。俺は昨夜から続く巨女の事をシマカに伝える気に成れず黙ッてゐることにした。布団に逆戻りし、不貞寝をする。そンな俺の頭をシマカは井戸水の如き温度の手で一つ撫でると「安静に」と云ッて立ち去ッた。
ボォォン。重い掛け時計の音が鳴る。瞼を上げれば日が傾き始めてゐた。今は何時か。薄い掛け布団を剥いで起き上がる。山向こうに沈む夕日があッた。烏の一匹でも飛んでゐそうなものだが生憎姿は見えない。空は灰に、山は黒く、鮮やかな庭は青へ染まり、認識しずらくなッていく。寝ていたとは云え、祖父の家に居ると時の流れが嫌に早く感じるものだ。
蚊帳を抜け、竹林の襖を開き、ヒンヤリと薄暗い廊下に足を踏み出す。暗い廊下は昼より広く見え、不安を煽る。逢魔時は人の顔が見えにくくなるから好きではない。目の前に居る者が本当に自分の知ッてゐる人間なのか確信が持てなくなるのだ。掛け時計の秒針と足音がシンクロする。其れから外れると何か恐ろしい事が起こるやうな気がして、神経質になり乍ら一歩一歩踏み出す。軋む床が恨めしい。段々と暗さを増す廊下が太陽の死を知らせる。
其の内廊下はスッカリ真ッ暗になッて三寸先迄しか見えない。外から聞こえる木々のさやけき音が時計に搔き消される。地虫や蛙の音が無い秒間の静寂が心の臓を突くやうに重く伸し掛る。廊下はこンなに長かッただろうか。延々と続く廊下を逸る気持ちで歩ゐた。
丁度掛け時計を越えた辺り、時折秒間のしじまに小人の悲鳴のやうな甲高い音が混じるやうになッた。小さいけれど、断末魔のやうに耳を劈く其れは歩を進める毎に大きくなッていく。
カチ……カチ……キィ……カチ……カチ……キィ……。
耳障りな其の音はどうやら廊下の先でしてゐるらしい。足底に床の埃が張り付き、粉ッぽい。時折混じる砂粒が煩わしい。足の不快感を抱えたまま、誘われるやうに板張りの道を歩む。聚楽の壁に指を擦り、心地よいい刺激がとうとう痛みに変容してきた頃、勝手口から廊下へ差し込む青白い光が見えた。真ッ暗の中に現れた光芒の如き其の輝きは砂漠のオアシスのやうに感じられた。其処へ足を踏み入れた瞬間に暗闇の恐怖から解き放たれ、足取りは軽くなる。
御勝手の中にはシマカが居た。月の光線の中に居る彼女はあンまりにも美しく見えて、天道の女人のやうであッた。シマカは不銹鋼(ふしゅうこう)の台の上、大きな灰色の砥石に艶やかに光沢を携えた出刃包丁を滑らせてゐる。変に力ンでゐるからか其の手元からはあの小人の悲鳴のやうな音がしてゐる。
「シ、シマカ……」
集中して包丁を研いでゐただろう彼女は鷹揚に上体を起こした。黒百合の花弁のやうな生気の薄い瞳が俺の首を貫く。ほンの少し上がッた口角はそうせねばならないと云うやうな、ある種の義務感を感じさせる。
「坊ちゃん、目が覚めたのですね。すみませン、未だ夕食の準備が出来ておらず」
「アア、大丈夫。お腹空いて無いからいいや、夕食は。俺は要らないからシマカの分だけ用意すればいいヨ」
「そうですか……」
其れだけ言うとシマカは手元に視線を移した。濡れた爪が小魚の鱗のやうな輝きを放ッてゐる。シマカは再び腕を動かし、「キィ……キィ……」と耳障りな音を立て始めた。
「……少し力を抜いて研いだ方が良い。びびッてゐるから」
頭の奥に迄響く其の異音を辞めさせやうと俺はシマカにそう云ッた。
「そうですわネ」
しかし、シマカは腕を止めるどころか少しも此方に視線を寄越さない。ただ抑揚の無い声でそう云うばかり。
其の態度に俺は先程感じた安堵がスッカリ消えて、背中の毛穴が次々に膨れ上がッたのを感じた。シマカがそンな冷淡な振る舞いをするだなンて初めてだッたから。何か気に触る事をしてしまッたのだろうかと冷たくなる頭を回して考える。けれど、幾ら頭を捻ろうと要因となる事柄はちッとも思い当たらない。
開いた窓から山の涼風が流れ込み、俺の前髪を揺らした。顬に滲む汗が冷やされ、肌寒さを感じる。全身が冷えていくと云うのに足の裏にはビッシリと汗を掻く。身体が乾いて生唾さえ出てこない。
そうして俺は包丁を研ぐシマカを見つめる事しか出来なかッた。キィ、キィと鳴る包丁の不快さと居心地の悪さから感じる不安で吐きそうだ。冷える指先で服を摘み、無意識に擦り合わせる。指に伝わる其の感覚だけが今此の場で安心感を与えてくれた。
暫くして、ふと思い出したやうにシマカは手を止め此方を見遣る。月明かりで薄ボンヤリと光る瞳を細め、笑みを浮かべた。此方を射抜くやうな其の姿は優しげであり、蠱惑的である。鬱蒼とした森林の冷たい腐葉土の如き温度を感じさせる。俺はGrandeOdalisque(グランドオダリスクを思い出した。初めて其れを見た時感じた、艶やかな生気の無い肢体の興奮と影の黒に対する恐れと柔らかな微笑みへの安堵。其れに似た感情が呼び起こされる。腹の底が疼くやうな想いの坩堝に全身が支配されてしまう気がした。
ふらりふらりと揚羽蝶の足取りでシマカは俺の元へ寄ッた。右手には研ぎかけの包丁が煌めいてゐる。新月の夜のやうな其の虹彩から目が離せない。シマカは濡れた左手で俺の右手を取ッた。子供を連れるやうな力で引ッ張られ、俺は反抗する理由も無く大人しくシマカに付いて歩き出した。
御勝手の縁を踏ンで軋む廊下へ出た。振り向けば無人になッた御勝手がある。トン、トン、と水滴が洗い場に落ちる音だけが聞こえて来る。転がッてゐる酒瓶が寂しげに見えた。
シマカは恐れを知らぬ武人のやうに勇ましく進ンで行く。少しも此方を見る事はない。白く冷たいシマカの手にしかと握られた腕が侵食されるかの如く冷えていく。先程シマカに感じた感情は一切消え去り、俺を引き摺り込む闇へ同化してしまッたかのやうだ。
「坊ちゃんの不安の元を払う事がシマカの役目にございます」
突然シマカがそう云ッた。目の前の暗闇を真ッ直ぐに見詰めた儘。驚いた俺は返す言葉も思い付かず、ただジッとシマカの後頭部を眺めた。シマカは特に返事を期待してゐないのか反応も無くまた言葉を紡ぐ。
「坊ちゃんが憂いの無い日々を送る事がシマカの幸せにございます」
いつの間にか辿り着いた寝室で蚊帳の中の布団に押し込められた俺はボンヤリと蚊帳の外に座るシマカの顔を見詰めた。庭から差す月明かりが再びシマカを照らす。蚊帳越しで滲ンだシマカは御勝手で見付けたあの天道の女であッた。シマカは自然の中で一等美しくなる女なのだろう。花の蜜で腹を満たし、木陰に眠り、そよ風で歌い乍ら生きていく。そう思うとなンだか此の家に居る事に違和感がある。
「本当は此処に居ない方が良いンじゃないか」
思わずそう呟いてしまッた。云うつもりは無かッたが此の家にシマカが囚われてゐると考えると余りにも哀れに感じたから。其れに、きッとシマカは妊婦だ。妊娠とは縁遠い俺ですら何となく分かる程腹が膨れてゐる。孕ンで久しいのだろう。そンな妊婦がどうして下女をやる運びとなッたのか。身重の身で働くなど辛いだろうに。
「……坊ちゃんは御優しいのですネ」
シマカは悲しそうに微笑ンだ。其の儘ぼやけて消えてしまいそうな笑みだッた。俺は布団から這い出て、蚊帳を捲り、シマカへ右手を伸ばした。悲しみからの笑みではなく、嬉しさからの笑顔が見たかッたから。此の腕一つで何が変わるわけでも無いけれど、思わず伸ばしてしまッたのだ。シマカは同じ笑みを浮かべ乍ら俺の手を取ッた。変わらず冷たい指先で俺の手背を撫ぜる。
「こうして労ッて下さると一等励みになります」
「其れではシマカが辛いだろう。家に帰ッて安静にした方が……」
「云ッたでしょう。シマカの役目は坊ちゃんが、ひいては玉木の御家が日々を恙無く過ごせるやう計らう事にございます」
「……」
突然シマカは俺の手の甲を口元へ運ぶとチゥと吸い付いた。
「ワッ!」
驚いて腕を引ッ込めた俺を悪戯が成功した子供のやうにクスクスとシマカが笑う。
「大丈夫、全て此のシマカに御任せを」
安心させるやうな声色でそう云ッた。未だにシマカが握る三徳包丁が力強く光る。其れになンだかとてもホッとした。
「サ、もう御眠り下さいまし。きッと直ぐに朝が来ますから」
布団へ入るやう促され、大人しく従う。一礼し、襖を閉めて立ち去るシマカを横目に見送ッた。
右手を掲げ、手背を見詰める。接吻された所が僅かに湿り、小さな水晶硝子のやうに煌めいてゐる。自分の心拍が早くなるのを感じる。シマカにとッてはただの揶揄いなのだろう。洋物を厭う癖に洋風な行動をするなンて不思議な女だ。気恥ずかしさから接吻された所をポリポリと爪で引ッ掻く。
腕を下ろし、硝子の向こうにある庭を見詰める。大きな月の下、誇らしく咲く花々が夜風で揺れてゐた。夜でも花が開いてゐるなンて珍しい事もあるものだ。夏で気温が高いからか。都会と比べて気温が低い此の場所でも花にとッては暑いのだろうか。
またキィ、キィと云う包丁を研ぐ音が聞こえ初めた。シマカが御勝手に戻ッたのだろう。先程は不快でしかなかッた其の音も優美な庭と併せれば心地好く感じる事が出来る。瞼を閉じてゐれば其の内音が遠くなり、寝落ちてゐた。
肺の中に籠もるやうな濃い花の匂いで目を覚ます。随分寝てゐたらしく太陽の光が垂直に地面へ差してゐる。もう昼時だろう。寝過ぎて痛む腰を摩り布団から出る。今日はシマカが来ないやうだ。其れに少しの寂しさを感じつつ、朝支度を行う。
顔を洗う為、洗面台に向かおうと廊下に出る。二、三歩進むとぬるりと右足の指に冷たく触れるものがあッた。見れば其れはほンの少し黄身がかッた透明の液体であッた。少々の粘性が有り、仄かに青臭く、薄く床へ拡がッてゐる。
其れは緩やかに蛇行し乍ら線を描くやうに仏間の前から御勝手へ続いてゐる。再び踏まないやう慎重な足運びで廊下を進む。何故辿ろう等と思ッたのか、其れは自分ですら分からない。しかし、此の透明な道標の先を確かめねばならぬ気がしたのだ。
液体は玄関の曇り硝子から香るやうに差す陽の光で柔らかく照らされて光ッてゐる。其れは母親に毛繕いされる生後半年以内の仔共の産毛のやうな、初めて軽犯罪を犯した中流階級の少女の後ろめたさのやうな、ぼぅッとした明るさだッた。
御勝手からは合わせ味噌の塩気のある匂いがグツグツと云う心地の良い音と共に漂ッて来る。廊下より暖かい其の場所では割烹着姿のシマカが昼食を作ッてゐた。焜炉では熱い味噌汁が茹だち、榛摺の俎板の上では裏の山のやうな深い緑の漬物が等分に切られ、炊飯器は白い湯気を立ち上らせ、もう直ぐ炊けそうだと伝えてゐる。
相変わらず転がる酒瓶の中にやたらと大きな白いゴミ袋が鎮座してゐる。透けた白の向こうには鮮やかな朱色と陶器のやうな肌色が見えた。液体は其のゴミ袋迄続いてゐる。
そンな御勝手の真ン中で、シマカは鼻歌を歌い乍ら出来上がッた卵焼きを皿に盛り付けてゐた。卵焼きの端ッこを口に放り込ンだ時に此方に気付いたのだろう、慌てたやうに口を押さえてゐる。
「おはようシマカ、摘み食いかい?」
やッと飲み込ンだシマカが頬を赤らめ口を開いた。
「御早う御座います。お恥づかしいところをお見せしました。申し訳御座いませン」
「イヤ、良いンだよ、気にしないで。俺にも一口おくれヨ」
「直に出来上がりますから御待ち下さいませ」
仕方のない子供を見るやうにシマカが笑う。在り来りだが花が綻ぶと云う表現がピッタリな明るい笑みだッた。釣られて俺も笑ッてしまう。
「ところで、廊下が濡れてゐるのだけれど一体何があッたンだい」
「マァ!申し訳御座いません。スッカリ忘れておりました。後で掃除しておきます」
「アア、シマカは忙しいだろうから暇な俺がやッておくヨ」
「有難う御座います。朝から坊ちゃんの優しさが骨身に沁みますわ」
「大袈裟だネ」
シマカは目を伏せ、ホホ、と笑ッた。
「サァもう居間へ。此処は暑いでしょう。直ぐに運びますから」
「手伝うヨ」
「大丈夫ですから。起きたばかりでしょう。ボンヤリして運べば折角の昼餉を落としてしまいますヨ」
背中を押され御勝手を追い出される。確かに突ッ立ッてゐるだけの人間は邪魔なだけだ。手伝いを申し出ても断られたと云うことは本当に必要としていないのだろう。結局何があッたのか答えてもらえぬ儘、御勝手を後にした。
居間へ着いて一番に足を塵紙で拭く。液体は乾いて薄膜が皮膚に張り付いてゐる。爪先で引ッ掻くと透明な屑がポロポロと落ちた。
不意に軒先の風鈴が大きく揺れる。屑が吹き飛ばされないやうに慌てて塵紙を丸めた。手の平で転がし、其の儘屑籠へ投げる。しかし、再び揺れた風鈴のせいで其れは見当違いの方へ転がッてしまッた。面倒に思い、身体を床へ伏す形で手を伸ばす。畳の藺草が腕に食い込ンで染みるやうな刺激がある。丸い塵紙を掴み、何気無しに外を見た。
突き抜ける紺碧の空から巨大な入道雲が迫ッてゐた。地響きのやうな風の唸り声と入道雲が山に落とす影、目を焼く陽射しの痛み、けたたましい風鈴の音。其れらが此の身を震えさせるやうに軒樋の下から此の居間へ押し寄せて来た。
ドッと全身の毛穴から汗が吹き出る。五感が其れらに占拠されたやうに意識が逸らせない。此処で死ぬべきだと云われてゐるかのやうだ。此処以外で生きる価値が無いと。其れ程迄の美しさが此処にあッた。
俺は夏に生きてゐる。
「坊ちゃん、如何なさいましたか」
いつの間に部屋に入ッたのか、頭上からシマカが顔を覗かせる。手には昼食を乗せた御盆がある。
「イヤ、一寸、ゴミを取ろうとネ。横着した」
「はしたない真似はおよし下さい。玉木の名が泣きますヨ」
「ハハ、そンな立派なモンじゃあないだろう」
上体を起こし、今度こそゴミを屑籠へ放り込む。御盆を机に置いたシマカは聞き分けのない子供に言い聞かせるやうに優しい声を発した。
「何を言いますか。ずぅと此の地に根を下ろし、続いてきた御家じゃあありませんか。私共は感謝しておりますのヨ。これ迄もこれからも」
柔らかく腹を撫でつつ、胸を張ッて云うものだから面食らッてしまッた。昔はまだしも今は誇るやうな家名じゃあないだろうに。其れに此の家には今、祖父しか住ンでゐない。両親は別の地で上手くやッてゐるし、俺も大学の近くに居を構えてゐる。今後も此の家に戻ッてくる予定は無い。
ましてや御手伝いを頼む程の財力も無いのだ。子供どころか、シマカの此の先も雇用が続くとは思えない。流石に祖父もそう長くはないだろうから。寧ろ何故今になッてシマカを雇ッたのか不思議な程だ。
「……シマカはどうして此処に来ようと思ッたンだい」
あンまりにも酷な事を此の女に云ッていいものか。そンな考えが過ぎり出てきた言葉が其れだッた。
「必要だッたからです」
シマカは麦茶を透明な洋盃(グラス)へ注ぎ乍ら云ッた。
「余り踏み込むのは良くないのだろうけれど、どうして必要だッたんだい。態々住み込みでなくとも……」
目の前に置かれた茶碗から立ち上る炊きたての白米の柔らかい匂いが鼻を掠める。
「良いのです。だッてこうして坊ちゃんと御会い出来たのですから」
湯気越しに微笑むシマカが見える。何故シマカはこンなにも俺を好いてくれるのだろうか。媚びてゐると云われても納得出来る程だ。
「家は遠いのかい」
「イエ、すぐそこに」
「じゃあ尚更どうして」
シマカは詰まらなそうに笑い、立ち上がると俺の横へやッて来た。其の白鳥のやうな手で俺の頬を包む。
「坊ちゃんが穏やかな日々を迎え続ける事、其の為ならば此の程度」
「俺は直に帰るヨ、来年にならないと君に会えない。お別れだ」
滑らかな親指が目の下の際を撫でた。下睫毛に爪先が掠め僅かな恐怖を煽る。
「……学舎は楽しいですか」
「楽しいヨ。勉強は得意でないけれど、友人がゐるし、此処より色ンなものがある」
呂色の光沢ある瞳が俺を射抜く。
「坊ちゃんは玉木の人間に御座います。ゆくゆくは此の家に戻られるのでしょう」
「イヤ、どうだろう……」
シマカの表情は一切変わらないのに頬を包む力だけが強くなる。
「此処は素晴らしい場所です。坊ちゃんにも、いづれ御生まれになる御子息様にも、これ以上無いかと」
「エット」
「坊ちゃんが此処で生涯を過ごす事が必然だと、私はそう思うのです。其の為に此のシマカがゐるのです」
「……」
シマカは俺と離れたくないのかもしれない。どう返すべきか言葉が出ず、シマカを見詰める事しか出来ない。
返事が帰ッて来ないと分かるとシマカは俺の肩を突き飛ばし、畳の上へ転ばせた。突然の暴挙に反応出来ず倒れ、畳に腕の皮膚が擦れて血が滲む。頭も打ッたらしく視界がユラユラと蜃気楼のやうに揺れる。
「アア、坊ちゃん。どうか肯定して下さいまし。シマカは美しいでしょう。貴方の為にあるのですから。貴方の為の女なのですから」
「シマカ、何を」
「シマカの為に生きたいとそう云ッて下さいまし。此処で生きると、此処で死ぬと。伴侶を迎え、子供を作り、代々を此処で此の家で過ごすと」
「……」
「シマカは、エエ、其の為ならば何だッて致しましょう」
シマカが涙を一粒落とし、其れへ重ねるやうに俺の頬へ唇を触れさせる。何回も、何回も、接吻痕を付けるやうに強く吸われてゐるのが分かる。
俺は其れをジッと見詰め、接吻を落とす毎にシマカが若美しくなッていく事に気が付いた。濡鴉の髪はより深くコシのあるものに、肌は白練で艶やか、梅重の唇は強く目を引く。薊の棘のやうな睫毛が涙で濡れてキラキラと光ッてゐる。腰の上に乗るシマカの腹の質量がありありと感じられる。時折揺れる其れが妙な生々しさを醸し出す。
其の内、顔中に接吻を降らせ終わると首から胸へと移動して行く。襟を緩めてドンドンと接吻を落とし続けてゐる。とうとう上半身が暴かれようとした時、今の今迄感じていなかッた羞恥心が腹の底から湧き上がッて来た。身体中がカァと熱くなり、汗が吹き出す。己の身体だけが猛暑のやうだ。
「シ、シマカ、もう止してくれヨゥ……云うから、アア、云ッてしまうから」
そう云うとシマカはピタリと動きを止め、期待に満ちた目で真ッ赤になッた俺の顔を見詰めた。
「……坊ちゃん、シマカの気持ちを御分かりになられたのですね」
「分かッたから、もう十分だからサァ」
シマカは再び俺の頬を両の手で包むとグッと鼻先を付けるやうに顔を近づけた。
「嬉しゅう御座います。エエ、とても」
嬉し涙でまた濡れた睫毛が俺の睫毛と絡みそうだ。
「……喜ンでくれて嬉しいヨ」
「エエ、エエ、何よりで御座います」
シマカは本当に嬉しそうで、其れは今迄見た中でとびきりの、満開の花畑のやうな美しい笑顔だッた。
「では、約束して下さいまし。此のシマカと、共にあると。ずぅと此処で暮らしていくと」
どんな願いでも叶えてやりたくなる無邪気で婀娜な姿であッた。
「……アア、俺はずッとシマカと、」
そう言いかけた時、突然太陽が陰ッた。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 受想行識 亦腹如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」
隣の仏間から流れて来た読経は嫌に無機質であッた。思わず、言葉を止めてピタリと閉じられた仏間の襖を見詰める。
「是故空中無色 無受想行識 無限耳鼻舌身意 無職聲香味触法 無限界 乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」
シマカも仏間の方を見詰めて動かない。其の横顔からは感情を読み取ることが出来ない。
「三世諸佛 依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚」
ふと、此の家に来てから仏間に入ッてゐないことに気が付いた。読経以外の音が聞こえない其の部屋はどンな風だッたか。上手く思い出せない。
「故説般若波羅蜜多呪 即説呪日 揭諦 揭諦 波羅揭諦 波羅僧揭諦 菩提薩婆呵 般若心経……」
とうとう終わりを迎え、音が無くなッた部屋の中を妙な緊張感が支配する。スッキリ陽の光は遮られ、薄灰色に暗くなッたそこで俺もシマカも黙ッた儘であッた。
「シ、シマカ……」
灰色の沈黙に耐え切れず、俺はシマカに声を掛けた。シマカはゆッくりと首を此方に戻す。一瞬目を瞑り、次に開いた時、そこには数多の小さな眼球がビッシリと並ンでゐた。其の一つ一つ全てが俺を見詰めてゐる。二、三秒経ち、やッとシマカが口を開いた。
「アア、口惜し」
蝉の大絶叫で目を覚ます。暴れる風鈴と蝉は睡眠を妨害するには最適だった。玉のような汗をびっしょりとかいた身体は重く、やけに身体が痒い。隣の仏間から聞こえる読経がその不快感を増強させる。パジャマと布団は汗を吸って湿っている。おかげで喉がカラカラだった。
襖を開け、読経する人物を確かめようと目を凝らす。そこにいたのは父親だった。仏壇の前にタブレットを置き、般若心経を流している。目を瞑ってスッカリ聞き入っているようだ。
「……何してんの」
寝起きのカサついた声で疑問をぶつける。父はそこでようやく俺が起きたことに気づいたようで、タブレットを弄りお経を止めた。
「おはよう。いやなに、今日はじいちゃんの七回忌だろう。予習しとこうと思ってな」
「はぁ、」
父は寝起きで怠い俺の顔をマジマジと見た。そして驚いた声をあげる。
「お前、顔すごいことになってるぞ。虫刺されか?蚊取り線香とか蚊帳とかやらなかったのか?」
「え、」
慌てて顔に触れるとポツポツと出来物のような感触がある。頬など大きく腫れ上がり、表情が動かしづらい。
「病院行った方がいいかもなぁ。保険証持ってきてるか?」
「……バッグの中な気がする」
「とりあえず着替えて顔洗ってこい」
父は「母さん!病院の電話番号分かる何かないか?」と叫びながら母親がいるであろう台所へ向かった。
俺はパジャマからラフなTシャツとズボンに着替え、顔を洗うため洗面台へ向かう。廊下は埃っぽく、濡れてはいない。大きな掛け時計は壊れて止まっているし、襖が開け放たれた居間越しに見える庭は荒れ果て雑草が茂っている。
洗面台の白く濁った鏡に写った自分は随分と酷い有様だった。顔から胸にかけて至る所が蚊に食われ、全体的に腫れぼったい。寝ている間に掻きむしったのだろう、ところどころ血が滲んでいる。
「どう?」
母親が顔を覗かせる。手には朝食だろう菓子パンが握られていた。
「思ったより酷いね。ほらこれ朝ご飯、車で食べな」
投げて寄越された菓子パンの外装が刺さり、少し痛かった。
「米ないの?」
「それがさぁ、炊飯器もレンジも壊れてんのよ」
母の呆れたような声色でそれが本当であることを知る。
「電話したら麓の病院が見てくれるって」
病院に電話をしたらしい父が俺のリュックを持って玄関へ向かいつつ言った。父が玄関の曇り硝子を開けると突き刺さるような陽の光が黒いタイルを焼く。
「先に車行ってるから、終わったら来いよ」
そう言って玄関扉を開けっ放しで出て行った。
俺は母に急かされ顔を洗い、タオルも無かったものだから腕で顔を拭うと慌てて外に出た。外にはエンジンを響かせる車がある。後部座席に乗り込むと夏の車特有の蒸し暑さが車内に充満していた。
「暑っつい。クーラーは?」
「もう少ししてからかけるから。まずは換気だ」
父が車窓を開くと生温い風が吹き抜けた。前髪が煽られ、汗が乾いて冷たくなるのを感じる。ようやくやって来た母が助手席に乗り込むと車は動き出した。
「しっかし、酷い虫刺されだな。父さんそんな刺されなかったぞ」
「母さんも。アンタほんとに刺されやすいね」
バックミラー越し両親と目が合う。なぜだか気まずく感じ窓の外を見た。タイヤの走る音、木々が擦れる音、蝉と鳥の鳴く声、それらがチカチカと目をくらます木漏れ日と共に次々やってくる。
「あんまり外に顔出さない方がいいよ。枝にぶつかって怪我するよ」
「……おぉ」
母の忠告に曖昧な返事をする。確かに先程から車体に枝がぶつかる硬い音がしている。
「去年より枝が道に出てきてないか?」
「あれでしょ、車が通らないから。ほら村田さんが去年死んでここら辺はもう誰も住んでないじゃない。だから木が遠慮しなくなったんでしょ」
「なるほどなぁ」
ボンヤリと両親の会話を聞いていた。コツンと小さな音がして、車窓の内側に亀虫が止まった。少し嫌な気持ちになって爪先ではじき出す。亀虫は抗えずに車外へ落ちていった。
「ピアノって売れるか?どこで引き取ってもらえるんだか」
「ピアノねぇ。誰も弾けないし、解体して捨てちゃってもいい気がするけど……」
「でも、良いやつらしいぞ。あと、本もどうする?重いやつは片さないと床が抜けそうだ」
「やっぱ家は住まなくなるとすぐ駄目になるね」
「もってる方だろ」
道の隅に狸の死体が落ちていた。そのうち蝿と蟻が集るはずだ。
「そうだ、夜に何食べたいか考えておいて」
いきなり母がこちらを向いて言った。
「なんか買うのは駄目なの?」
「買ってきてもいいけどレンジが使えないから冷えたまま食べることになるよ。あと、お風呂も使えないから今日は銭湯ね」
「ん、おっけ」
山を降りる毎に気温が上がっていることが肌感覚で分かる。もうすぐ山の麓だろう。
携帯にやっと電波が入った。友人からのメッセージがいくつかきている。酔わない程度に返事を返した。何もない此処は綺麗だけどつまらなくて、早く帰りたいなという気持ちにさせる。
一瞬木々が開け、見えた町は前よりも寂れている気がした。遠くに絵画みたいな入道雲が見える。きっとあの下は大雨だ。
まだ覚醒しきっていない頭は酷く物悲しい感情を反芻させる。なぜだか分からないけれど涙が滲んだ。
診断名は蚊刺過敏症だった。
シマカの家 鞠丸治義 @marimaruharuyosi
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