黒銅貨行軍録・下篇 鼓動する門
俺は、三日目の朝までに答えを出せなかった。
倉庫番は吊られ、兵たちの噂は一応の行き場を得た。だが帳簿に刻まれた四枚目と、偽印章の蝋は、そのまま残っている。
ソフィア殿下は急ぎの会議に出ていき、天幕には俺一人になった。
机の上には、問題のページを開いた行軍帳簿、第七中隊の名簿、夜間当直表、鼓手ユルクの証言記録。脇には黒銅貨が一枚、冷たく光っている。
三枚で足りるはずのところに、四枚目を差し込む。
それは、ただの横領ではない。
兵たちの頭の中に「誰かが抜いたはずだ」という物語を生み、その物語を、倉庫番の血で補強する仕掛けだ。
数字で揺らし、噂で燃やし、見せしめで固める。
端的に言えば、これは「模範的な冤罪の作り方」だった。
* * *
最初に疑ったのはカイルだった。
帳簿を書いたのは彼。印章も、彼の机にある。
俺が補助書記に下書きをさせ、カイルが最後に確認して押印する。それが最近の流れだ。
その隙間に紛れ込ませるのは容易い。
だが、カイルには動機がない。彼は数字に取り憑かれてはいるが、殿下の信用を崩す理由も、兵たちの不信を喜ぶ性格も持たない。
「お前が俺を疑うのは分かる」
帳簿を前に、カイルは肩をすくめた。
「だがフィリオ、こんな下手な細工、俺ならもう少し賢くやる」
「同感だ」
俺はそう返した。
四枚という数字は、あまりにも露骨だ。傭兵団上がりの兵が多いこの軍では、「三枚」は特別な意味を持つ。そこからの乖離は、必ず目を引く。
賢い犯人なら、二枚を三枚に書き換える。三から四に上げるのは、兵にではなく、記録を見る者に対する合図だ。
つまり、これは俺たち「記録側」への挑発だ。
「補助書記たちの名簿を」
「渡してあるだろう」
「一人、足りない」
俺は名簿の端を指で叩いた。
「事件当夜、第二記録班所属のリューベルト。昨日から姿を消している」
「脱走か」
「そう簡単ならいいが」
リューベルト。王都出身。字が綺麗で、俺の書式をよく真似た。真面目で、口数が少なく、何度か殿下の演説に涙ぐんでいたのを見た。
忠誠心の方向が、やや危ういと感じていた青年だ。
「彼の私物を調べる」
カイルが頷き、保管箱を持ってきた。
中には、折りたたんだ粗末な服、家族からの手紙が数通、真面目な文面の写経、そして──
小さな布袋。
開けると、黒銅貨が三枚、転がり出た。
どれも、倉庫番の懐から出たものと同じ造り。王都鋳造の正式貨とは微妙に違い、表面に細い傷が交差している。
「三枚」
カイルが呟いた。
「お前たちの昔の給金だな」
「そうだ」
傭兵団「黒銅貨隊」の名の由来。三枚の黒い銅貨。
だが、今、その銅貨を持つ意味は別だ。
「四枚あった」
俺は言った。
「一枚は倉庫番の懐。一枚はここで三枚に合流した」
「あと一枚は」
「まだ、どこかにある」
リューベルトは故意に「三」に合わせている。
自分が「本物の黒銅貨の兵」であると演じるためか。
あるいは、「四」を隠すためか。
* * *
レオンを呼んだ。
「お前の斥候が捕らえた密偵は」
「あいつは口を割らず死んだ」
レオンは椅子に腰を下ろし、顎をさすった。
「ただ、『王都から来た』と言い張っていた」
「辺境伯ではなく」
「ああ。お前のところの字の綺麗な坊やと同じ訛りだ」
王都の影。
フィリオとしてではなく、「ソフィアの目」として、俺はそう理解した。
「リューベルトを見た者は」
「昨夜、南の林の方へ行く背中を、一人が。追おうとしたが、鼓が鳴って交代で……」
「鼓」
俺はそこで引っ掛かった。
「ユルクを呼んでくれ」
* * *
ユルクは、昨夜より青ざめていた。
「もう一度だけ聞く。当夜、お前に声をかけた男のことだ」
「銀糸のマントで……腰に、殿下の紋章みたいな」
「声は」
「静かで、早口でした。『急げ、殿下の命令だ』と」
「怖かったか」
「はい」
子供だ。権威に弱い。
「鼓を二度で止めようとしたのは、そのせいか」
「そうです。でも、規定を思い出して、慌てて三度目を打ちました」
「三度目は、いつもより遅れた」
「はい」
ユルクのせいではない。だが、その遅れが門を開けた。
「リューベルトは、お前に近づいたことがあるか」
「よく鼓の帳面を見てました。時間を書き写したいからと」
鼓の帳面。
そこには交代の刻限が正確に記されている。倉庫の開閉と警備巡回は、それに合わせて組まれる。
つまり、リューベルトには「門がいつ開き、どのくらい開いているか」が丸見えだった。
そこへ「偽のソフィア」として現れ、合図を早めるよう急かせば、警備の隙も読める。
「ユルク」
「はい」
「お前は、先ほど『殿下の紋章みたいな飾り』と言ったな」
「はい」
「それは、これに似ていたか」
俺は懐から、小型の印章ケースを取り出した。殿下公印ではなく、書記官用の検印だ。
ユルクは目を丸くした。
「そうです、それに似てました」
検印なら、補助書記でも扱える。リューベルトも見ている。
それを腰に下げ、銀糸の縁を縫い込んだマントを羽織れば、暗がりでは「殿下の側近」に見えるだろう。
「行っていい」
ユルクを下がらせる。
点は揃った。
リューベルトは鼓の帳面と行軍予定から「門が開く時間」を把握していた。
偽装した権威でユルクを脅し、合図をずらし、倉庫番には偽印章で命令を装い、第七中隊への物資をすり替えた。
干し肉を古い物に差し替え、帳簿の日当記録を四枚に書き換え、その「余計な一枚」を黒銅貨で倉庫番に握らせる。
そこへ別筋から「辺境伯の銅貨」として密告を流す。
倉庫番は追い詰められ、自白する以外なくなる。
ソフィアは軍律に従い処刑し、秩序は保たれる。
その裏で、「補給は歪む」「上層も買収される」という印象だけが残る。
実際には毒も賄賂も決定的ではなく、全て「そう見える」だけの仕掛けだ。
巧妙だ。
だが、少し饒舌過ぎる。
四枚目、黒銅貨、偽印章。
これは、外敵というより、「内部からの裁き」を演出したがる者の手口だ。
* * *
夕刻、簡易の審問が開かれた。
出席者はソフィア殿下、カイル、レオン、マードック、一部高級将校。そして被疑者として連行されたリューベルト。
彼は憔悴し切った顔で縄につながれていたが、目だけは妙に澄んでいた。
「フィリオ。説明しろ」
殿下の言葉にうなずき、俺は一歩前へ出た。
「まず、第七中隊への支給記録は四枚となっていましたが、実際の支給は三枚でした」
「それは誤記だ」
リューベルトが口を挟んだ。
「書類の山で、誰でも間違えます」
「そうだな」
俺は頷いた。
「だから、単体では誤記でよかった」
黒銅貨を一枚、卓上に置く。
硬い音が響く。
「だが、倉庫番の懐から、これと同じ黒銅貨が出てきた」
ざわめき。
「辺境伯領の鋳造ではない。王都の旧税務庫で使われていた様式に近い。王都出身で帳簿に触れられる者なら、手に入れられる」
殿下が静かに問う。
「犯人は」
「リューベルト補助書記官です」
天幕の空気が凍った。
リューベルトは、わずかに笑った。
「証拠を」
俺は淡々と並べる。
「一つ。鼓手ユルクの証言。交代の合図を急かした銀縁のマントの男は、腰に書記官検印に似た飾りをつけていた」
「誰でも真似できます」
「二つ。鼓の帳面。交代刻は書記官しか閲覧できない。お前は頻繁に写していた」
「真面目なだけです」
「三つ。お前の私物から見つかった黒銅貨三枚。倉庫番の一枚と合わせて四枚。問題の帳簿の『四枚』と揃う」
リューベルトの指先が、わずかに震えた。
「四つ。偽印章の蝋。線の甘さは、検印用印章を模したもの。お前はそれを毎日見ていた」
「それだけで、私を裏切り者と?」
「最後に」
俺は一歩近づき、彼の目を見る。
「お前は倉庫番に『敵からの金だ』と黒銅貨を握らせた。毒も混ぜていない。だからマードックは毒を検出できない。だが、倉庫番は買収されたと自白せざるを得なくなる。兵たちは納得し、殿下は軍律を守って処刑する。全てお前の筋書き通りだ」
「……」
「目的は、何だ」
しばしの沈黙の後、リューベルトは笑った。
涙を浮かべていた。
「殿下のためです」
天幕がざわめいた。
「殿下の軍には、まだ汚れた者が多い。辺境伯の金で動く奴らも、古い貴族に繋がる奴らも。だから、見せなければならなかった」
「何をだ」
殿下が問う。
「裏切れば、即座に首が飛ぶということを」
リューベルトの声は震えていない。
「倉庫番は弱かった。指示に従い、金を受け取り、自白した。ああいう者を晒せば、誰も殿下を侮らない。噂は良い。殿下が恐れられれば恐れられるほど、誰も逆らえない」
「お前が勝手に恐怖を演出したと」
俺は言った。
「はい。殿下の威光を守るために」
狂信ではなかった。
計算された、歪んだ忠誠だった。
「王都の誰に教わった」
俺の問いに、リューベルトの肩がわずかに揺れた。
「……誰も」
「教本のように整った冤罪の構造だ。お前一人の頭ではない」
殿下は席から立たない。
ただ、その眼差しだけが鋭くなる。
「答えろ」
リューベルトは、しばし唇を噛んだ後、小さく名を漏らした。
王都評議会の高級官僚。かつて旧王政の徴税を取り仕切り、今も形式上は王家に仕える老人の名。
俺はその名を記録に留める。
殿下は、わずかに目を細めただけだった。
「殿下。私は、正しいことを」
「黙れ」
その一言は、刃より冷たかった。
「命令なく印章を偽り、倉庫を開け、無辜の兵を危険に晒し、虚偽自白を誘導したな」
「しかし、結果的に」
「軍律に照らせば」
殿下は机上の法文書を指先で叩いた。
「敵前工作、印章偽造、虚偽命令、兵站攪乱。死刑」
「殿下……私は殿下のために」
「私は命じていない」
殿下の声は淡々としていた。
「私の名を使い、私の軍を汚した。それだけで充分だ」
リューベルトはなおも何か言おうとしたが、衛兵がその口を塞いだ。
「判決を執行せよ」
ソフィア殿下の言葉で、審問は終わった。
* * *
夕暮れ、処刑の太鼓が鳴った。
だが今回は、広場での公開ではない。小規模な軍律執行として、静かに行われた。
兵たちは詳細を知らない。ただ「もう一人裏切り者が出た」とだけ聞かされた。
噂は広がる。
「殿下の印章を真似した書記が裁かれた」
「帳簿をいじった者は即座に首だ」
《士気》は揺れたが、崩れはしなかった。
俺は処刑場には行かなかった。代わりに、ソフィア殿下の執務天幕を訪れた。
「報告します」
殿下は机に向かい、地図の上に視線を落としていた。
俺が書いた審問記録は既に彼女の前にある。
「リューベルトによる単独実行。そして、その背後に王都官僚の影響があった可能性。確証はまだ薄い」
「十分だ」
殿下は記録から目を離さない。
「辺境伯だけが敵ではないと、分かった」
「はい」
「四枚目は」
殿下が問う。
俺は懐から、例の黒銅貨を取り出し、机の上に置いた。
「四枚ありました」
「倉庫番の懐、お前の補助書記の箱、そして」
「もう一枚は、審問の最中にリューベルトが握っていました。彼が殿下に忠義を尽くした証だと言い張っていたものです」
「それは」
「処刑の際に没収させ、溶かすよう命じました」
殿下は頷き、机上の黒銅貨を指先で弾いた。
小さな音が、木の上を転がる。
「よくやった、フィリオ」
短く、それだけ。
「感情ではなく、数字で追い、印で辿り、鼓の乱れから門の隙を見抜いた。二人目の裏切り者を、三日以内に捕らえた」
「殿下」
俺は一拍置いてから、言った。
「申し上げたいことがあります」
「許す」
「この件を公にすれば、王都の古い勢力を直接敵に回します。公にしなければ、同じ手を使う者が、また現れます」
「だからお前は、記録にだけ残した」
「はい」
審問記録には、高級官僚の名を伏せ、内部保管とした。殿下の決裁印付きで。
殿下は初めて視線を上げ、まっすぐに俺を見た。
「我々は、まだ盤上の駒だ。今、全てを晒して戦えば、この国は割れる」
「承知しています」
「だが」
殿下は黒銅貨をつまみ、光にかざした。
「四枚目を仕込んだ手を、私は忘れない」
その言葉には、氷のような記憶力と、復讐の予告が含まれていた。
俺は静かに息を吸う。
「殿下」
「何だ」
「黒銅貨は、本来三枚でした」
「そうだ」
「しかし今、四枚目です」
「そうだな」
殿下は指を離し、黒銅貨が再び机の上で転がった。
「だからこそ、見えるものがある」
俺は言った。
「余計な一枚があれば、その影を辿って、偽物を炙り出せます。三枚の均衡だけでは見えなかった敵が、四枚目の歪みで見える」
「どういう意味だ」
「次に誰かが、殿下の名を騙り、門を勝手に開けた時」
俺は黒銅貨に視線を落とした。
「必ず、その手を掴みます」
殿下はわずかに笑ったように見えた。
冷たく、しかし満足した笑み。
「頼むぞ。影の書記官」
「承知しました、殿下」
黒銅貨は四枚ある。
三枚目までが表の正義で、四枚目が影の企み。
だが、その影を見抜き、記録し、裁きに繋げる役目があるなら。
俺は、その四枚目を恐れない。
「黒銅貨は四枚ある。だからこそ、誰が本物かが見えるのです、殿下」
【亡国の女軍師外伝】黒銅貨は四枚ある 楓かゆ @MapleKayu
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