【亡国の女軍師外伝】黒銅貨は四枚ある

楓かゆ

黒銅貨行軍録・上篇 不在の一枚

 俺は、血の色をした湯気を見つめていた。

 マードックが煮沸鍋をかき回すたび、鉄と薬草の匂いが、野戦病院の天幕に満ちていく。

 外は薄曇りの朝だ。北方氷原から吹き下ろす風が、まだ春を認めようとしない。

「次、足の指だ。凍って黒くなっているところは、全部切り落とせ」

「やめろ……頼む、もう歩ける……」

「黙ってろ。生かすためだ」

 マードックの声は、いつも通り荒い。しかし手は正確だ。

 担ぎ込まれたのは、昨夜まで前線に出ていた第七中隊の兵たちだった。十時間の行軍で二十里を踏破しただけだというのに、異様な数の脱落者が出た。

 重度の凍傷、脱水、疲弊。毒の兆候はない。だが、兵たちは口々に、同じ言葉を吐いた。

「支給された干し肉が、おかしかった」

「銅貨の配り方が、いつもと違った」

「誰かが、俺たちを売った」

 合理的ではない。だが《士気》は理屈とは別の場所で決まる。

「フィリオ」

 背後から名を呼ばれ、俺は振り向いた。

 天幕の入り口に、ソフィア殿下が立っていた。黒い外套の裾に、薄く砂泥が付いている。徹夜明けのはずなのに、その瞳に疲れの色は見えない。

 周囲の衛兵と負傷兵が、一斉に顔を伏せた。

 殿下はマードックの手元を一瞥し、そのまま俺に視線を移した。

「原因は」

「現時点で、毒物の症状は確認されておりません。低体温と過負荷行軍の複合的要因と思われます」

「思われる、では足りない」

 殿下の声は冷たいが、怒りではない。足りない情報に対する苛立ちと、自分自身への催促に近い。

「この程度で二十人倒れるのなら、次の行軍で二百人が倒れる。数字で示せ、フィリオ。感情ではなく、事実で」

「承知しました」

「期限は三日」

 殿下はそれだけ告げて、踵を返した。

 天幕の布が揺れ、冷たい空気が流れ込む。

 俺は深く息を吸った。

 三日で《士気》の病巣を探れということだ。

 この件は、単なる医療の問題ではないと、殿下は見ている。

 だからこそ、数字を書く俺に命じた。


 * * *


 第一日目。補給帳簿と支給記録の照合作業から始めた。

 王都からの新制令で、歩兵の日当は銅貨三枚と定められている。黒銅貨三枚。古い傭兵団の日課が、今は国家の規律になった。

 三枚は象徴だ。分かりやすい。誰にとっても「ちょうどいい」。

「第七中隊、行軍当日の支給」

 カイルが積み上げた帳簿から、該当日のページを開く。

 細かい字が整然と並ぶ。食糧、干し肉、乾パン、油、医薬品。そして日当。

「ここだ」

 俺は指で辿り、眉をひそめた。

「兵一人当たり、銅貨四枚」

「おや」

 カイルも覗き込み、目を細める。

「書き間違いか?」

「他の中隊は、全て三枚になっています。第六、第八、第九……」

 俺は他の欄も順に確認する。

 四枚と記されているのは、第七中隊だけだった。

「実際の支給は」

「三枚だ」

 カイルは即答した。

「そんな勝手な増額、俺が許すか。渡し場の記録もある。確認しよう」

 渡し場の兵站担当を呼び出し、兵士数人にも聞き取りをした。

「三枚です」

「いつも通り三枚です」

「四枚なんて聞いてねえ」

 証言は揃っている。

 帳簿上は「四枚」が存在するが、兵たちの手に渡ったのは「三枚」。

 余計な一枚は、紙の上にだけ現れ、どこへも行っていない。

 ありもしない銅貨が、一小隊分、帳簿に差し込まれている。

「誤記として処理してよいか?」

 カイルが問う。

「よくない」

 俺は首を振った。

「日当は三枚と殿下が自ら宣言した。それが勝手に増えていれば『誰かが一枚を抜いた』物語が、勝手に生まれる」

「噂の種というわけだ」

「そうです」

 兵たちが疲弊した日、その中隊だけ帳簿に「四枚」と記されていた。偶然だとするには出来すぎている。

「帳簿は誰が書いた」

「俺だ」

 カイルはあっさり言った。

「だが、その欄を書き写したのは補助書記の誰かかもしれん。一日に処理する紙は山ほどあるしな」

「印は」

「俺の印章だ」

「なら、その一枚は、お前の指から滑ったことになる」

「そう言うな」

 カイルは苦笑したが、その目は笑っていない。

「数字は嘘をつかない」

 俺は帳簿を閉じた。

「だが、数字を書き込む手はいくらでも嘘をつける」

 三枚しか渡していないのに、四枚と書く。

 それだけで、「一枚消えた」という物語が成り立つ。

 その物語を、誰が望む。


 * * *


 第七中隊の兵舎跡を回り、質問を重ねた。

 行軍前夜、彼らは確かに特別扱いをされたと感じていた。

 配給の干し肉は、一見して質が良かった。だが硬く、噛み切りにくかった。味が淡く、水を多く飲ませる。結果、行軍中に体力を奪われる。

 毒ではない。

 ただ少し古く、塩の抜けた肉。

 他の中隊の樽には入っていない。

「倉庫の門が、長く開いていた」

 何人かが同じことを言った。

「いつもの時間なら、鼓が三つ鳴って、交代と同時に閉まるはずなのに。あの日は、二つ鳴ったところで門番が誰かと揉めていて、そのまま少し開いてた」

「誰と」

「偉そうなマントを着たやつだ」

 若い兵が言った。

「銀糸の縁がついた、将校みたいな。名前までは」

 銀糸入りのマントは、一定以上の役職者なら誰でも着る。特定はできない。

「門番は」

「『ソフィア殿下付き書記官様のお達しだ』って言っていた」

 俺は足を止めた。

「俺は命じていない」

 心の中で呟く。

 倉庫番から正式な伺いは来ていない。書類も残っていない。

 誰かが俺の名を使った。

「門番を呼ぶ」

 俺は兵に命じた。


 * * *


 倉庫番は、震える手で帽子を握りしめていた。

「その夜、門を開けたままにしていたと聞いた」

「誤解です。あれは、その……」

「誰の命令だ」

「その……フィリオ様の印章を押した文書を見せられまして。『第七中隊の追加補給を許可する』と。だから私は……」

「文書は」

「今は……見当たりません」

 都合よく消えている。

 だが、偽の印章と偽文書が使われた可能性は、これでほぼ固まった。

「誰が持ってきた」

「銀縁のマントを着た方で……顔は、フードで」

 証言はぼやけている。意図的か、恐怖からか。

 俺は倉庫の内側を確かめた。

 扉の閂には、削った跡がある。内側から釘で留め直した痕跡。開閉時間を僅かにずらすには十分だ。

「フィリオ」

 背後から声がした。

 カイルだ。悪い顔をしている。

「鼓手ユルクが戻った。合図の件で話があるそうだ」

「行こう」


 * * *


 鼓手ユルクは、まだ頬に幼さが残る。

 三つの軍鼓を連ねた帯を肩にかけ、縮こまって立っていた。

「ユルク。当夜の交代の合図を説明してくれ」

「はい。その……二更の交代で、いつも通り三度、鼓を打つはずでした」

「はずでした?」

「二度打ったところで、その、後ろから声をかけられて」

「誰に」

「銀糸のマントの方です。『急げ、殿下の命令だ』と」

 胸がざわつく。

「それで、一瞬、二つでやめかけて……慌てて三度目を打ちました。遅れてしまって」

「顔は」

「フードを被っていて、はっきりとは……でも、腰の位置に、殿下の紋章とよく似た飾りが」

 ユルクの証言は曖昧だが、点は繋がる。

 門番に偽の命令、鼓手の合図を急かして交代の隙を作り、倉庫を開けたままにする。

 その間に、第七中隊用の樽だけを差し替え、帳簿を書き換える。

「ユルク」

 俺は問いかけた。

「あの夜、三鼓の後、門は閉まったか」

「はい……たぶん。ただ、その時には、もうその人はいませんでした」

 鼓の乱れが鍵だ。

 一拍の揺れが、門を開ける時間を生む。

 偽の指揮官が、それを利用した。

 銀糸のマント。殿下の紋章に似た飾り。偽印章。

 本物と見分けがつかない「権威の影」を、誰かが作り出している。


 * * *


「犯人は見えたか」

 夜、執務用天幕で、ソフィア殿下が問うた。

 机の上には、各隊の支給記録と、マードックの報告書が並んでいる。

「まだです」

 俺は正直に答える。

「毒物の混入は確認されていません。干し肉の質の差、小隊単位での過負荷行軍、雪上行動の不慣れ。それらが重なって、中隊単位で倒れた」

「それだけなら、医療と訓練で改善すればいい」

「問題は、そこに意図的な『噂の誘導』が重ねられていることです」

 俺は帳簿を開き、第七中隊の欄を指さした。

「ここに書かれた『四枚』。そして、実際には三枚しか渡っていない事実。この齟齬は、兵たちが『横領』を疑うには充分です」

「わざと齟齬を作ったと」

「はい」

「倉庫番は」

「偽印章の文書を見せられたと証言しています。文書は消えましたが」

 殿下の目がわずかに細くなった。

「印章の偽物を作れるのは限られる」

「そうです」

 ソフィア印章は、王都鍛冶とごく少数の書記しか原型を知らない。そこに関与できる者は、内側にいる。

 それを口にする前に、外から騒ぎが飛び込んできた。


「捕虜が自白しました!」


 伝令が天幕に飛び込んできた。

「昨夜の倉庫番が、敵密偵に買収されて干し肉に毒を混ぜたと自白を!」

 殿下の視線が、伝令に向く。

「毒は見つかっていない」

 マードックの報告書に目を落とし、淡々と言う。

「ですが本人が認めております。倉庫番の手元から、辺境伯領の銅貨も」

 都合が良すぎる。

 俺は口を開きかけたが、その前に殿下が言った。

「軍律に従い、公開処刑とする。兵に知らせろ」

「はっ!」


 伝令が去る。

 殿下は俺に視線を戻さないまま言った。

「フィリオ。死刑執行までに、その『四枚』を詰めろ」

「殿下。あの自白は」

「偽であろうとなかろうと、兵たちは『犯人が裁かれた』事実で落ち着く」

 殿下の声に、感情はなかった。

「だが私は、帳簿の中の一枚を放置するつもりはない」

 俺は頷いた。


 * * *


 翌朝、処刑は簡素に行われた。

 倉庫番は縛られ、罪状を読み上げられ、首を刎ねられた。

 血が雪に黒く滲む。

 兵たちは「裏切り者は罰せられた」と納得した顔をして散っていった。

 その背中に、まだわずかな疑念が揺れているのを、フィリオとしてではなく、一兵士としての感覚で感じた。

 終わったように見えるものほど、信用できない。

 俺はマードックの天幕に寄り、処刑された倉庫番の遺留品を確認した。

 小さな袋に、銅貨が数枚。

 その中に、一枚だけ妙なものが混じっていた。

 王都鋳造の標準銅貨ではない。黒く鈍く光る、厚みのある銅貨。

 かつて俺たちが、傭兵団時代に扱っていた黒銅貨と、ほとんど見分けがつかない。

 表には王冠ではなく、擦り減った紋章。裏には、微かに狼の爪痕にも見える傷。

「見せろ」

 背後から声がして、俺は反射的に手を閉じた。

 ソフィア殿下だった。

 いつの間にか、そこにいた。

「黒銅貨か」

「はい。ただし、王都鋳造の様式から外れています」

「どこから来た」

「分かりません」

 殿下は、俺の手元の銅貨をじっと見つめた。

 その視線は、硬貨そのものより、その意味を分析しているようだった。

「もう一枚あるな」

「はい」

 俺はもう一つの物を取り出した。

 行軍帳簿の端に挟まれていた、小さな破片。

 柔らかい蝋。そこに押し潰された紋章の欠片。

 王家の紋章に似ている。だがほんの僅かに線が太く、輪郭が甘い。

「私の印章ではない」

 殿下は即座に言った。

「偽物です」

「だが兵たちには区別がつかない」

 俺は言った。

「偽の印章で門を開け、帳簿に余計な一枚を刻み込み、干し肉を差し替える」

「毒は要らない」

 殿下が続ける。

「弱った兵が倒れればいい。そして『裏切り者』が一人、都合よく名乗り出て、吊られる」

「残るのは」

「『補給は歪められる』『指揮官の影は偽れる』という疑いだけだ」

 殿下は、微かに口元を歪めた。

 それが不快か、興味かは分からない。

「フィリオ」

「はい」

「その一枚は、誰が刻んだ」

 俺は黒銅貨を握りしめた。

 帳簿の中に差し込まれた、存在しない四枚目。

 倉庫番の懐に紛れ込んでいた、場違いな黒銅貨。

 鼓手を急かした銀糸のマント。偽の印章。

 全てが、同じ手の匂いを放っている。


「三枚で閉じるはずの盤に、四枚目を置いた者がいます。殿下」

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