冬桜

明(めい)

冬桜


「ああっ」

 

しんと冷たい空気が体を突き刺し、詩乃うたのは渋い顔をして叫んだ。


疲れた体を引きずりながら帰ってきたら、自宅がめっきり冷え込んでいた。


朝家を出るときに、暖房のタイマーをつけ忘れて出社をしてしまったらしい。


溜息をつきながら急いで暖房をつけると、詩乃は冷たくなっている手をこすり合わせて息を吹きかけた。部屋の中まで吐く息が白く、寒さに体が震えていた。

 

寒い、寒い。なにもかもが寒かった。

 

冷え切った二月の深夜は、春まで遠いことを物語っているようで、詩乃の心もまた、固く凍り付いていた。


「春なんて、本当に来るのかな」

 

独り言を呟き、コートを脱ぎ捨てると、先程郵便受けから取り出した大量の手紙を持ったまま、着替えもせずにベッドに寝転んだ。

 

一日中立ちっぱなしで、足がむくんでいるのがわかる。頭痛もする。

 

今日は散々な日だった。いや、今日だけではない。この一年、詩乃は厄年かと思えるほどに、ろくでもない日々を送ってきた。

 

結婚を約束した職のない彼氏のために、アパレルショップの店員として結婚式の費用を必死で稼ぎ、結婚式の日取りと会場とウェディングドレスを二人で決めたのにもかかわらず、待ちに待った式の前日、彼氏に突然別れを告げられた。

 

夜中に電話がかかってきて、詩乃は彼にこう言われたのだ。


「俺、他に好きな人がいるからやっぱり結婚できない」

 

スマホを握り締めたまま、詩乃はショックで言葉を失った。七年も付き合って、お互いの家で親に挨拶までしたのに。


電話口の向こうからは、やけに馴れ馴れしく彼の声を呼ぶ女の声が聞こえてきた。


彼はその女の家にいるらしかった。

 

悲しいとか裏切られたという気持ちよりも、笑いが込み上げてきて、詩乃は電話口で「あはは」と甲高い声をあげて笑った。

 

その瞬間、愛想をつかされたように電話を切られた。


昨年の三月のことだ。

 

翌月、腹いせに貯まった金で今住んでいるマンションをローンで買った。


甲斐性のない彼氏のためにサイドビジネスもいくつかやっていたため、頭金は充分に払えたし、思ったよりも安く購入できた。

 

日当たりもよく、空間も間取りもセンスがよくて、詩乃は一目で気にいった。

 

ところが、マンションに住み始めてから詩乃は頭痛や眩暈が続くようになった。

 

結婚キャンセルのショックや働き詰めで疲れが溜まっているのだろうと最初は思っていたが、買った部屋は昔、殺人事件が起きていたということを後で知らされた。


詩乃は部屋を変えようとした。しかし、空き部屋はここしかないと言われ、他のマンションを買い換えるのもなんだか悔しいような気がして、今でもここに居座っている。

 

夏には風邪をこじらせ肺炎にかかり、入院し、退院してみれば小さい頃から詩乃が慕っていた叔父が亡くなった。

 

その後も詩乃は目まぐるしく働き、一人の誕生日を終え、一人のクリスマスを迎え、今日が来てみれば客からのクレームが後を絶たず、詩乃は一人でクレーム処理を行い、仕事が終わるといきなり社長からリストラを言い渡された。

 

三月一杯で、職を失う。


十年働いた会社からも、詩乃は捨てられたのだ。

 

この三十年景気が低迷しているのは分かっているが、十年働いてなぜ突然クビを切られたのか、詩乃は納得がいかなかった。


「古参より若い子のほうがいいのかな」

 

詩乃は嫌味に似た独り言を漏らした。


店に藤田という五歳年下の、美人の後輩がいる。三年前に入社して以来、彼女の成長ぶりは目ざましく、厄介な仕事も厄介な客の接客もテキパキとこなせるようになっていった。


明るいし、やさしくもある。詩乃とは親しい間柄だったが、彼女は四月から店長に昇格された。


かたやリストラ、かたや店長、詩乃は素直に「おめでとう」と喜べなかった。


それでも詩乃は藤田を憎めなかった。店長になるのは彼女が決めたことではないし、藤田は詩乃にいつでも優しく接してくれている。


彼女を憎んだり嫉妬をしたりすれば、自分の性格の弱さが見えて、詩乃自身が惨めな気持ちになる。

 

それほどまでに、藤田の人柄は温かかった。

 

ダイレクトメールに目を通しながら、詩乃はこれまでの自分の人生を振り返っていた。

 

世の中の無情とはこういうものか。

 

努力をしたところで、なにも報われはしないのだ。恋人により好かれるために、いろんな工夫をしたけれど彼はするりと詩乃の手を抜け、一生懸命働いた会社の恩は、仇になって返ってきた。


詩乃に残されたものは、何もない。

 

思えば、春にはいい思い出がなかった。

 

幼い頃に父が亡くなったのも春であったし、高校の時、大の親友が突然詩乃に「友達をやめる」と言って消息を絶ったのも桜吹雪の舞う春だった。

 

なぜ友達を辞めなければいけなかったのか、未だにわからない。ただ友達と思っていた人が友達ではなかったということだ。

 

叔父も父も彼も友人でさえ、親しい人は、みんな詩乃のもとから去っていく。

 

だから自分の心の中に春など来るはずがないのだと、詩乃はいつも思う。


寒い冬の中を一人きりで歩いているような、覚束ない感じが絶えず詩乃につきまとっている。


「なにもかも、お終い」


詩乃はベッドの上で呟いた。


不運が続けば誰だって卑屈になるのを抑えきれない。


生きればそれだけ俗世に執着して己の不幸に陶酔してしまうのは、人間の性だと詩乃は思う。


自分の人生を悟り、それをおおらかに受け止められるほど心に余裕がないことは、詩乃にもわかっていた。

 

最後の手紙の一枚を手に取った。

 

三日間ほど郵便受けを覗いていなかったため、手紙が溜まっていた。

 

殆どが仕事のストレスで衝動買いしたアパレルショップからのダイレクトメールだ。


たが、今手にしたものは、古風な薄い桃色の封筒だった。

 

丸文字で「松浦 詩乃様」と書いてある。


詩乃は不思議に思い、ベッドから起き上がった。

 

手紙を貰えるような知り合いなどいない。故郷に住んでいる母かとも思ったが、母は確かピンクは好きではなかったはずだと詩乃は思い直した。


 

では誰だろう?

 

封筒を裏返してみるが、差出人の名前は書いていない。

 

はさみで封を切り、中を取り出して見ると、二つ折りの大きなカードが入っていた。


カードもやはり封筒と同じ、薄い桃色だった。


「invitation」


折りたたんであるカードの表面に、流れるような綺麗な筆記体でそう書かれていた。

ははぁ、と詩乃は思った。


もしかしたら、最近流行の悪徳商法かもしれない。綺麗なカードに「招待状」と記してカモに興味を持たせ、高い毛皮を買わせるというのはよく聞く。


カードを開けて、詩乃は顔をしかめた。


悪徳商法の日時と場所でも書いてあるのかと思ったが、そこには予想外のことが記述されていた。


「二月十八日午後十一時、花森公園の並木道であなたをお待ちしています」

 

丸文字で、カードの中央にそれだけ書かれていた。

 

詩乃は冷蔵庫に貼り付けられている、スーパーから無料で貰ったカレンダーを見た。


「明日じゃん」


詩乃はカードに視線を戻した。カードの中にも差出人の名前は記されていなかった。

 

再びメッセージを見て、詩乃は嫌なことを鮮明に思い出した。


「花森公園……」


友人が好きだった公園だ。


花森公園は、全国の公園の中で桜の数が多いことで有名だった。美しく整備された桜は、枝垂桜や八重桜、染井吉野などが様々な種類の桜が等間隔で植わっており、代表的な桜が散っても、五月までは桜が楽しめる場所だ。


詩乃は溜息を漏らした。


十年前の苦い思い出が脳裏をよぎり、友人の声が耳に甦った。

 

友人の名前は、確か深海響子だったと思う。


高校で出会ってからの三年間。毎年春が来るたびに、花森公園の桜の並木道で、詩乃は響子と二人で花見をしながら将来の夢や希望を語り合っていた。


高校を卒業してもいつまでも友達でいよう、私達の友情は変わらない、そう言い合っていた三年間。


響子が公園の桜を愛でた三年間。

 

三年という月日の思い出は鮮やかに美しく、詩乃は友達に恵まれた青春を謳歌した。


しかし高校を卒業し、それぞれ新たな道を歩み始めた四月、詩乃は響子から公園に呼び出された。そして深刻な表情で言われた。


「あなたと友達ではいられない」


桜の花びらが舞う柔らかな陽射しの中を、響子は詩乃のほうを振り返りもせずに去っていった。


桃色の空気の中に取り残された詩乃は、わけもわからず友人の後ろ姿を見送っていた。涙が、頬を伝った。


その後、電話をしても、自宅を訪ねても、響子は居留守を使った。


彼女の就職先の会社にも当たってみたが、入社してすぐに退職したと受付嬢に言われた。


手紙を出しても返事は来るはずもなく、そのうち詩乃自身も忙しくなり始め、

彼女のことなどもう気にしなくなっていた。

 

ただ思い出すたびに、詩乃は傷ついた。


なにか彼女に気に障るようなことをしてしまったのか、自分が悪いことをしたのだろうか。


嫌われるにはそれなりの理由があるはずだった。でも、身に覚えはない。


幾年経っても埒が明かなかった。なにもかもがわからなかった。そして詩乃は、一つの結論を出した。

 

要するに「友情」とは口ばかりで、最初から向こうは詩乃を友達とは見てはいなかったのだ。


勝手に決めつけることで、詩乃は無理やり納得した。


そして十年。彼女が自分のもとから去った理由を不愉快に理解しながら、詩乃は日々の忙しさに身を投じた。


カードを折りたたみ、封に入れる。


「行ってやろうじゃないの」

 

詩乃は勝気に言った。

 

面白そうだと思った。

 

公園ならば悪徳商法ではないだろうし、仕事場から近い。文字を見れば女が書いていることは間違いないから、必要以上の心配もいらなかった。

 

もしかしたらこれを書いたのは、響子かもしれないと詩乃は思った。

 

詩乃が花森公園に行っていたことを知っているのは、彼女しかいないからだ。


違ったら、それでもいい。でも、響子に会えるなら、もう一度会ってみたい、

十年前の決着をつけてやろう、そう思った。

 

そして何よりも、今の生活から逃げ出したかった。

 

彼氏がいた頃は、こんな怪しい招待状を貰ったところで行くはずもなかった。


「何、これ」と笑いながら破り捨てていたと思う。


しかし今、詩乃はなんでもいいから心が躍るような刺激が欲しくてたまらなかった。


一つでも楽しいことがなければ駄目になりそうなほど、近頃の詩乃は精神的に参っていた。

 

風呂に入りミルクティーを飲むと、詩乃は胸を弾ませながら久しぶりに心地のよい眠りにつく。




 

翌日、詩乃は残業が長引き一人で店に残っていた。


クビになったとはいえ、上司は嫌というほど仕事を持ってくるし、三月まではきっちり仕事をやるつもりだ。


仕事に手を抜けない性格が祟ってか、気がつくと午後十時を回っていた。店の証明は一部を除いて落ちている。


詩乃は我に返った。招待された時間から、既に一時間が経過している。


キリのいいところで仕事を終えると慌ててシャッターを閉め、詩乃は招待を受けた先へと向かう。


空には満月が出ていた。


帰り道と反対の電車に乗り、ドア越しにもたれかかると、詩乃はなぜか緊張してきた。


この先に、誰が待っているのかは知らない。大幅な遅刻だから、待ち人はもういないかもしれない。


ただ、もう十年もあの公園へは行っていないのだ。苦い思い出が残る公園に、今更過去を蒸し返すようなことをなぜ自らしようとしているのか。


そう思うと詩乃は緊張し、己を嘲笑したくなった。情けなくも懐かしい気持ちに心が満たされ、響子に会いたい衝動に駆られた。


どこで何をしているのか。結婚はしたのか、幸せでいるのか。


十年彼女を憎み続けた一方で、友を許し、響子の幸福を望んでいる自分がいることに、詩乃は驚いていた。


電車は夜の閑散としたプラットホームに滑り込み、緩やかに止まる。


電車を降りて改札を抜けると、刺すように冷たい風が詩乃の両頬を吹きぬけていった。


一目見て、駅前は変わったと詩乃は思った。


駅の目の前には、十年前にはなかった二十四時間営業のファミリーレストランやコーヒーショップ、大きな商業施設などが立ち並んでいる。


外からは、ガラス張りの綺麗なレストランの中で制服を着た若者たちが楽しそうに話している姿が窺えた。


これから朝まで入り浸るつもりだろうかと、詩乃は初々しい彼らを見ながら時代の移り変わりを感じていた。


十年前、寂しいばかりで何もなかった駅の近辺は、整然と都会化されていた。


カルチャーショックを受けながら公園へと続く道を歩み始めると、詩乃は体が公園の場所を覚えていることに気がついた。


頭の中の地図は、もう消えている。道のりを説明しろと言われても、詩乃は答えられない。


だが足は勝手に道路沿いの急な坂を上る。通り過ぎる車のヘッドライトや街灯で、道は暗くはなかった。春になればこの通りの陽射しも暖かくなり、ところどころ人工的に植えられた桜の花が満開になる。


卯月の通りの暖かさと甘く柔らかい春の香りでさえ、詩乃は覚えていた。


坂を上りきってから三つ目の信号を左に曲がると、暗く寂しい一本道へとたどり着く。


詩乃は少し、息を切らした。十年前と違って体力が衰えている。昔は響子と二人で二十分の道のりを苦もなく歩いたものだったが、今では歩いている重みが、何重にも背中にのしかかってくるようだった。


ヒールの踵を鳴らしながら住宅街を通り、今度は緩やかな坂を上ると、そこはもう公園の敷地内だった。


南へ回りこみ、公園の入り口を見つけると、いそいそと入っていく。花森公園は、二十四時間三百六十五日解放されているが、今、人は誰もいない。


静まり返った夜の自然の中に、詩乃は取り残さているような寂しさを覚えた。


冬にここへ来るのは初めてだった。だが、公園の中は十年前と少しも変わっていない。

 

歩くと、最初に名の知らぬ多くの広葉樹が出迎える。


秋にも落ち葉を楽しめるという意図だろう。更に進むと、人口で造られた小さな池があり、短い橋を渡って桜の並木道が顔を出す。

 

詩乃は腕時計を見た。約一時間半の遅刻だ。不安になりながら歩みを進めた瞬間、詩乃は目を見張った。

 

冬の冷たい風に煽られながら、どういうわけか桜が満開に咲いていた。

 

枝から溢れんばかりの桜の花が月に照らされ闇に光り、桃色の輝きが遥か遠方まで鮮やかに続いている。

 

詩乃は驚き、走って並木道の傍まで行った。どの木も満開だった。

 

まだ二月だというのに、なぜこんなに桜が咲いているのだろうか。

 

返り咲きという言葉が、頭を掠めた。それでも満開の花の見事さは、返り咲きと言うには不似合いなほどに春の空気を漂わせている。


「お待ちしておりましたよ、松浦詩乃さん」

 

詩乃の背後から、聞き覚えのある声が響いた。

 

反射的に振り返ると、白く綺麗な女の顔があった。


「藤田さん……」

 

詩乃は目を見開き、呟くように言った。


「どうしてここに? 仕事が終わって帰ったんじゃなかったの?」

 

藤田は静かに首を振った。


「招待状を出したのは、私です」

 

妙にかしこまった口調だった。会社にいたときとは違う、水色のスーツを着てめかし込んでいる。まるで、パーティーにでも出かけるような姿だった。

 

藤田は僅かに微笑し、桜の木を見上げた。


「見事な桜でしょう」

 

詩乃は状況がよく飲み込めず、戸惑いながら言った。


「この桜を見せるために、私を呼んだの?」

 

藤田は頷く。


「姉からの遺言です。ここの桜を、あなたに見せるようにと」


「遺言?」

 

詩乃はぽかんと口を開けたまま、ただおうむ返しするだけだった。

 

藤田は悲しそうに目を細めると、静かに言った。


「深海響子は私の姉でした」

 

詩乃はそれを聞いたとき、心臓が高鳴った。なぜ名前を聞いて反応してしまうのかは分からない。


ただ藤田が「遺言」と言ったのと、「姉でした」という過去形の言葉が、響子がもうこの世にいないことを示しているのだと悟った。


「あなたが響子の妹? でも、あなたとは名前が違う……」


「姉が亡くなった後、両親が離婚して姓が変わったのです。今日は今までのことを全てお知らせしようと思ってあなたを呼びました」

 

藤田は至極冷静に、ゆっくりと言葉を放った。


「この桜並木を歩きながら、お話ししましょう」

 

藤田は道に沿って歩き出した。詩乃はわけが分からずに彼女のあとをついていく。

 

そういえば、響子には妹がいたことを詩乃は思い出した。


高校の頃、響子の妹に会ったことはなかったが、話は時々聞いていた。当時はまだ小学生くらいだっただろう。

 

響子の話の中でしか出てこなかった人間が、今は職を同じくして詩乃の前を歩いている。なんとも不思議な思いで詩乃は藤田の後ろ姿を見つめていた。


「十年前、姉はあなたにここで、『友達ではいられない』と言いましたね」

 

桜を見上げながら、藤田は言った。

 

詩乃は「ええ」とだけ答えた。響子に対する十年分の思いは複雑すぎて、一言ではとても言い表せなかった。


「姉は高校卒業間近になって病にかかり、余命を言い渡されたのです」


「病?」


詩乃は思わず訊き返した。


「病名すらつかない原因不明の病気でした……」

 

十年前、詩乃の目には響子が病気のようには見えなかった。元気で生き生きとしていたように感じられた。


なぜあの時話してくれなかったのか、十年も経ってなぜこんなことを聞かされるのか、詩乃にはわからなかった。


「余命を宣告されて、姉は入院をすることになりました。あなたに別れを告げたのは、その前日です」


「なぜ教えてくれなかったの? 会社にも自宅にも訪ねたのに」

 

詩乃が訊くと、藤田は首を振った。


「姉の希望です。このままあなたと病院で別れてしまうくらいなら、いっそのこと自分から友達をやめると言い張っていました。その裏には、あなたに迷惑をかけたくない気持ちがあったのでしょう」


「迷惑だなんてそんな……。友達なのに」

 

詩乃は弱々しい声で言った。困った時こその友人であるのに、なぜ頼ってくれなかったのかと響子を恨んだ。

 

藤田は詩乃の心を汲み取るように言った。


「あなたと親友だったからこそ、姉は自分が病気である姿を見られたくなかったのかもしれません。姉は何よりも、あなたに看取られるのが怖かったんだと思います。死によって友情が断ち切られてしまうことを姉は恐れていた。あなたの記憶の中から姉が、深海響子という人物が消えていってしまうのを恐れた。自ら友達をやめると言って印象づければ、自分が死んだ後もあなたの心の中に深海響子という人間が残ってくれるかもしれない。だから、姉はあなたとの友情を切ったんです」


「響子がそう言ったの?」


「……姉の日記に書いてありました」

 

詩乃は溜息を漏らした。胸が痛かった。


桜は咲いても、冬には違いなかった。冷え切った風が頬を突き刺すように、藤田の言葉が鋭い矢となって詩乃の心を突き刺していた。


「響子が亡くなったのはいつ?」


「入院してから三ヵ月後。十年前の七月の初めでした」

 

詩乃は更にショックを受けた。あんなに仲良く過ごした三年間の後、すぐに響子は息を引き取ったのだ。


詩乃はその知らせも受けず、通夜に行くことも焼香することも許されなかった。

 

響子、そんなに私は頼りない友達だったの?

 

詩乃は響子に訴えかけるように満開の花を見つめた。

 

私は響子の引き立て役と、勝手に誤解したまま過ごした十年の罪悪感を、どう償えばいいのか分からない。


「姉はそれでも、あなたの身を案じ、あなたの幸せを願っていました。そして、死ぬ間際、奇跡を起こすと言いました」


「奇跡?」


「十年後のあなたの誕生日に、桜を咲かせると言いました。満開の桜を。それが深海響子と松浦詩乃の友情の証だと、姉は言っていました。私が詩乃にできる唯一の罪滅ぼしだと」

 

十年後、それは十年前に、詩乃と響子がよく話題にしていたことだった。

 

十年後はなにをしているのか、どんなことをしているのか、お互い未来に夢を描き、笑いあった。


今でも詩乃の心の高いところにある、一番楽しい思い出だった。響子はそれを、覚えていたのだ。


「満開の桜を咲かせてみせる」

 

詩乃とよく似て勝気だった響子は、きっと最期の最期まで強気でそう言ったのだろう。

 

それを思うと、涙が溢れた。詩乃のために返り咲きの桜を咲かせると、響子は言ったのだ。


死ぬ直前に思ってくれたのが家族でもなく、藤田でもなく、この自分だったということに気づくと、詩乃は立ち止まり、泣いた。


「私があの店に勤めたのは、あなたを追ってですよ」

 

藤田は泣いている詩乃に白いハンカチを渡しながら言った。


「私はあなた達の仲が羨ましかったんです。だから、なんとしても姉の遺言を守るためにあなたを探した。転職をしていなかったから、あなたを見つけるのは簡単だった。私もあの店に勤めだし、あなたと仲良くなろうと思った。ずっと姉から聞かされていたので、どんな人か知りたかった……」

 

藤田も笑いながら泣いていた。月明かりに照らされてぼうっと浮きだつ二つの影は、互いに慰めあうように一つの影に重なった。


「松浦さんに出会えてよかった。姉の言ったとおりの人でした」

 

藤田は詩乃の肩に手を乗せながら言った。詩乃は頷いた。

 

藤田と気が合ったのは、偶然ではない。響子の性質に似ていたからだ。詩乃は藤田を通して、ずっと響子を見てきた。十年間、彼女のことを忘れられるはずもなかったのだ。


「姉の言った奇跡は、私は今日まで信じていませんでした。ただあなたに全てのことを解ってもらおうとして、私はあなたをここに呼んだんです。でもここに来てみたら、本当に桜が咲いていた。姉の魂はここで生き続けていたんですね」

 

詩乃は頷くばかりだった。嬉しいような悲しいような複雑な気持ちで泣いていた。


「さあ」

 

藤田は詩乃の手を取ると、歩き出した。

 

子供のように詩乃は藤田の手に引かれながら、並木道を抜けた。

 

その瞬間、詩乃の涙は吹き飛んだ。

 

樹齢数百年とも思われる大きな枝垂桜が地に根をおろし、濃いピンク色を帯びて咲き誇っていた。

 

詩乃を待ちかねていたように、木が風に揺れて出迎える。

 

見ると枝垂桜の下にピクニックバスケットがあり、その上にワインの瓶が三本、紙皿三つと紙コップが三つ、置いてあった。

 

藤田が用意したものらしい。


「ここで、宴会をしましょう。桜を愛でて、詩乃さんの誕生日を祝って……そして、姉を偲んで」

 

詩乃は手で涙を拭き取り、微笑んだ。

 

並木道の桜も枝垂桜もざわざわと音を立てて大きく揺れる。

 

十年間変わらぬ友情があったのだと、この桜が友情の証なのだと、詩乃は改めて思い知らされた。


「ありがとう」

 

不意に、優しさを含んだ声がどこからか聞こえてきた。

 

詩乃は空耳かと思い、不思議そうな顔をして辺りを見回した。

 

藤田は宴会の準備をし始めている。


「ありがとう、私を覚えていてくれて」

 

今度ははっきりと、聞こえた。

 

紛れもない、響子の声だった。

 

響子はここにいるのだ、ここにいて桜を愛でながら生きているのだ。

 

詩乃はそう思った。十年間の心の枷が、一気に取れていくような気がした。

 

素晴らしい奇跡を、ありがとう。

 

詩乃は心の中でそう言った。

 

春が、詩乃の心に舞い戻ってきたようだった。



                 「了」










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冬桜 明(めい) @uminosora

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