第8話 そして、マーちゃんも…
マーちゃんは陽の当たった五階建ての病院を見上げていた。二、三歩後ろに下がって、もう一度見上げた。いかにも病院らしい無表情な建物だった。その建物の圧力に負けないように厳しい表情を作ると、勢いよく玄関から入っていった。
先日と同じ診察室だった。だが、今日は先日あったはずの花瓶がなかった。もちろん、ハイビスカスもあるはずがなかった。医者だけは変わらない。
「お加減はいかがですか」
黒縁メガネの医者は、パソコンの画面から視線を移すと、存外に温かみのある声で言った。
「今日はご相談があるんです」
「治療のことですか」
医者は眉間に皺を寄せた。マーちゃんが、治療は嫌だと言うのを恐れているようだった。
「今の私のステージについて、もう一度詳しく教えてもらっていいですか」
「いいですよ」
医者の声は事務的だった。そこに感情が籠らないよう注意しているようだった。だが、話しているうちに、
「──ですが、天野さんのⅡaというステージは、今すぐ手術に取り掛かるなら、十分に治癒の可能性がある状態なんです──」
というところで、声に力がこもっていた。
じっと聞いていたマーちゃんだったが、その表情は診察室に入ってきてから、ずっと同じ厳しいままだった。最後まで説明を聞いても様子は変わらなかった。
「ご質問はありませんか」
「あの、手術をしても、転移がないように抗がん剤治療か何かするんですよね。苦しいんですよね。その時ってお店には立てるんですか」
「程度問題なのですが、やはりしばらくは入院が必要になると思います。ですが、トータルで考えてください。もちろん、天野さんがお店を休むときはありますが、可能性で言えば、それ以上に長くお店を続けられることになるのではないか、と私は思います」
医者の言葉を咀嚼するように何度も頷くと、マーちゃんは目を閉じて、唇を固く結んだ。しばらく黙していた。学校のチャイムの音が、風に乗ったのか、どこからか聞こえてきた。マーちゃんは目を開けた。
「先生。間に合いますかね」
「何がですか」
医師は首を捻った。
「手術です。お願いしたいんですけど」
はっきりと言った。黒縁メガネの医者は、今度は驚いたように眉を上げた。しばらく口を開かなかった。
「間に合います。間に合いますとも。よかったあ」
詰めた息を吐き出すように答えると、黒メガネの医者は、下を向いてそのメガネを外し、机の上に置いた。ゆっくりハンカチを取り出すと、横を向いて目を何度も拭った。
「先生、どうなさったんですか」
マーちゃんは狼狽えた。医者の反応が理解できなかった。
「一緒に頑張っていきましょう」
医者は顔を上げた。黒メガネを外した顔を見ていると、マーちゃんは何かが頭の中で爆ぜる気がした。そして、今度はマーちゃんが目を丸くした。
「あれ、ひょっとして、タカ君、かい」
マーちゃんは頓狂な声を上げた。昔、よく真庵に天ぷらを買いに来ていた泣き虫の小学生だった。いつも勝手口から入って来る子供の一人だった。引っ越しで、いつの間にかいなくなったのだった。
「いやあ、覚えていてくれたんですねえ。マーちゃんのところに来ていた子供たちは、とっても多かったからなあ」
それまでは見せなかった笑顔だった。
マーちゃんは天井を見上げた。優斗や、目の前のタカ君や、これまで真庵で話をしたことのある、多くの子供たちの顔が浮かんできた。
(父ちゃん、しばらくそっちに行くの、遅れそうだわ)
そう心の中で告げた。
了
マーちゃんの決断 @asobukodomono
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