第24話 美紗和に訊ねる。

 美由紀とは喫茶店を出て大学に行くバス停まで一緒に歩いた。

 芸大には日曜でもどうしても取りかかる作品を抱えている生徒の為に教室を開放している。そんな描きかけの絵があるのか。描きだしたら止められない場合がある。下絵が乾かないうちに更に上塗りするのだ。ゴッホの絵にはそんな痕跡が残っていた。すなわち下絵の色に別な色を上からゆっくりと双方の色が完全に混ざらないように、筆先に強弱を付けて描く。下絵の乾き具合によって、上から塗る色使いも微妙にパレットで混ぜたのとは似ても似つかぬ色合いが出来る。それを今から仕上げに大学へ行くそうだ。

「それで思い通りの色が出るのか?」

「下絵の乾き具合によって違うのよ。筆先の力加減によっては微妙なバランスのグラデーションになる。この混ぜ合わせはパレットでは出来ないのよ」

 具体的には油絵の具の固まり具合によって、上から塗る色使いも微妙に変わってくるらしい。

「それで今朝はあんな時間に起きていたのか」

「それもあるけど。祥吾の言った山上さんの星月夜の解析も訊きたかったのに」

 ビリヤードのあとの飲み会で酔いに任した北原の美術論に花が咲いて星月夜について解らんなりにも大学の講師の説明を思いだして受け売りで話しただけだった。それを夜に吐いた北原が、介抱した美由紀に、山上の凄い理論を吹聴したらしい。美由紀を送ったあと、あれでも少しは成果もあったと得心した。

 帰り道は往きと違って散歩がてら歩く年寄りと出くわした。まさか日曜出勤なのか何人かのバス停に行く若者とすれ違った。向こうは山上を犬も連れていないで、此の辺りを徘徊していると変な目で見られた。

 慣れない道を歩いてやっと深泥池のシェアハウスに戻ると、日曜なのに美紗和さん以外は部屋なのか見当たらない。冴木さんは吉行君の運転で出たと聞かされて、悔やんでもしゃあない。

 美由紀と一緒じゃないと知って彼女は気の毒がった。

「あらあら独りで帰って来て、どうしたんです」

「あの人の入居を決めたのは冴木さん、それとも美紗和さん」

「なんで急にそんなこと聞くの?」

「あの人、ぼくが答えに窮するとやけに聡明ぶって言うから参ったよ」

 エッ、この人は父が長年付き合っている臨床心理学の阿倍先生が、自信を持って推挙した人じゃなかったのと、美紗和さんは驚いている。

「山上さんは大学で何を習ったの」

「心理学ですが、絵に関しては彼女のほうが上手なようで、途中で切り上げてきたところです」 

「そうなの。さぞ美由紀さんも残念がっていたでしょうね」

 実際は下絵の乾かないうちに描きかけた途中の画を仕上げに行ったお陰で、ボロが出なくてひと息付けたなんて、美紗和さんには言えない。

「まあそうですね」とお茶を濁すしかない。

「ところで、冴木さんと柳沢君以外はみんないるのか?」

「みんな出たわよ」

「まあ、日曜なのに若いもんが部屋に燻っているわけはないわなあ」

「それ、あたしへの当て付け」

 言葉とは裏腹に彼女は笑っていた。それが余りにも可愛いすぎた。

「どうですか、みんな出掛けたのなら、僕たちもちょっと出掛けませんか。どうせオートロックでみんな鍵は持ってないんだし、その点は楽ですよね」

「そうね、鍵の掛け忘れもないし、第一、頭の中に入っていて失う事がないのよね」

「新しい賄いの前島さんはどうするんです」

「ご心配なく。インターホンで連絡すれば、中から誰でも解除できるようになってるの」。

「そうですか、それは良かった。……それで何ですが、出掛けませんか?」

 実に回りくどい人だと呆れても、さりげなく承諾する彼女の駆け引きの上手さに舌を巻いた。

 玄関を出ると深泥池を右に見て、直ぐに雑木林に覆われた小高い山裾を回り込むような車線のない狭い道を歩き出した。

「今朝はせっかく美由紀さんの話を聞きに出掛けたのにそのまま帰って来るなんて」

「描きかけの絵があるんじゃしゃあないよ」

「文化祭に展示するのかしら」

「そうか、この時期なら芸大の学生たちは文化祭の催し物に頑張ってるのか」

「大学でワイワイ騒いだあと、深泥池のほとりのシェアハウスは落ち着けるらしいけど、どうもあの池はひっそりしすぎるのよね、父から聞いたときはそうでもなかったのに。いざ住んでみるととても独りじゃ気が落ち着かなくて、そこへ行くとあの学生さんたちが居ると伯父は気が紛れるそうなのよ」 

「なんだ、それじゃあ入居者の基準はそこにあるのか。北原君と岸部君は合致しない気がするけど美紗和さんが口添えしたんですか」

「いいえ、ほとんど伯父の一存で決めたけど、あの人たちが何か気になるんですか」

「気になるよりかなり個性的だ」

 此処の住人に関しては彼女より冴木さんの影響のほうが大きいのか。

「梨沙ちゃんはともかく、柳沢君は気に入ってるのか、冴木さんはいつも休日には柳沢君の運転で出掛けているそうだなあ。もちろん休日限定なら月四五回ていどだが、それで冴木さんは満足してるんですかね」

「良く解らないけど、平日は物足りないのか、散歩に時々独りで出掛けているわよ」

 それは勿体ない。ひと言口添えして欲しい。

「ぼくの場合は在宅職業だから、行きたいところがあればいつでも運転するって言ってくれましたか」

「まだ来たばかりで、変に思われても困るでしょう。折を見て言うつもりだけど、押し付けるより、これから前島さんが来れば自然と伯父が手の空いたあたしに頼んで来ると思うの。伯父も山上さんの運転には問題ないようだからその時に推薦してあげますから、あとは貴方次第ですよ。なるべく早く伯父の精神状態をきめ細かく掴んで欲しい」

 山上が誘ったのに、美紗和さんの用件を一方的に言われるなんてこれではあべこべだ。

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冴木とシェアハウスの五人 和之 @shoz7

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