Red Jellyfish
L. Dutt
第1章 赤い夢の残滓
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僕と女は海辺に立っていた。
女の足元には、潮に濡れた赤いワンピースが、鮮やかな血のように波に揺れていた。
女は振り向かずに言った。
——「愛って、ほんとはどこに行くんだろうね。」
僕は答えなかった。
代わりに、女の消えてゆく背中を見つめた。
世界が急速に音を失ってゆくように感じた。
そのとき、足に鋭い痛みが走った。
僕は足元を見た。
海面をジェリーフィッシュが踊るように揺れていた。
僕は視線を戻した。
女は消え、赤いワンピースだけが浮かんでいた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 1 》
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飼い猫のこまちの鳴き声で目を覚ました。
「こまち。」
こまちはベランダに向かって鳴いていた。
僕の存在を忘れているかのようだった。
午後の光はすでに傾き、ガラス戸を朱に染める夕陽が、こまちの毛を黄金色に染めていた。
僕はしばらく動けなかった。夢の残滓が、まだ脳の裏側に残っていた。
——また彼女の夢だ。赤いワンピースの女。
もう何度も見る。同じ顔、同じ沈黙。
時には砂漠のような街で、時には廃墟になった港で、時には灰色の海辺で。
どこであれ、彼女は僕の知らない誰かを待っていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 2 》
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『夢から覚めるたび、僕の人格はひび割れまたひとつ剥がれ落ちていく。
床に散らばった破片を拾い集めながら、これは本当に僕のものだったのか、それとも夢のあいだに紛れ込んだ別人のかけらなのか、判別がつかなくなってくる。
時折、拾い上げた破片の裏側に、見覚えのない文字が刻まれていることがある。
詩のような、あるいは誰かの呪いのような。
僕は仕方なくその破片を顔に押し当てて、新しい人格の形を作る。
だが、つくったそばから思う。
これは僕ではない、と。
僕を模した何かが、僕の体の中で勝手に生活を始めている、と。
ときどき、胸の奥から聞こえてくる微かな囁き声は、その〝何か〟が僕にかけている指示なのかもしれない。
オリジナルの僕はどこへ行ったのだろう。
夢の底か、あるいはもっと深いところ——名前が反響しない場所に落ちてしまったのかもしれない。
そこでは、誰も僕を呼ばない。僕自身すら。』
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 3 》
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僕はいつ書いたのかも忘れてしまった詩を呟いていた。
自分が書いたのだと記憶しているのに、その作者が他人のように思える。
詩は僕のものではなく、僕が詩の付属物として存在しているような感覚だった。
相変わらず、こまちは僕に背を向けたままだった。
いつからこまちは返事をしなくなったのか思い出せなかった。
やはり僕は、夢から覚める前の自分ではないのかもしれない。
あったはずの〝僕〟という存在が欠落し、この部屋に〝余白〟が生まれる。
代わりに他者が認識されるまで、この部屋に〝余白〟は存在し続け、こまちは沈黙し続けるだろう。
「こまち。」
やはり返事はなかった。
まるで僕の言葉を別の言語として受け取っているかのようだった。
僕は少し寂しさを覚えながら、洗濯物を取り込むためにベランダに出た。
風は重く、忘れかけていた季節が混じっていた。
樹々はすでに紅葉を始めていた。体内にわずかに残った最後の熱を発しているかのようだった。
年の暮れに向かう、枯れた空気に満たされた世界は、僕の内面を反映したような景色だった。
洗濯物のあいだから、赤い布の一片がひらりと揺れた。
見覚えはない。
しかし、まったくの無関係とも思えない。
まるで僕の行動の隙間を狙い澄ましたかのような出現の仕方だった。
こまちがベランダから飛び出して低く唸った。
毛を逆立て、赤い布を睨みつけている。
こまちの視線は、赤い布の奥に隠された別の何かを見据えているようだった。
僕は赤い布を手に取った。
布を落陽のわずかな光にかざしてみると、織り込まれた繊維の奥に小さな黒い点がいくつも見えた。
最初は繊維の影だと思ったが、よく見るとそれは文字の断片のようでもあった。
判読できるほどの形にはなっていなかったが、〝a〟や〝c〟のような、アルファベットのかけらに見えた。
「m、a、c、…h?、i…」
指先に残る、ぬめりのような記憶。
——赤は残る。彼女は消えたはずなのに。
その赤は、単なる色ではなかった。
布きれが空間の一点を汚染するように、僕の内側にも小さな裂け目を開いていく。
愛情の残滓にも、事故の痕跡にも見えるが、どちらかとも決められない。
決めようとするたびに、布がわずかに形を変えているように思えた。
ふと気がつけば、赤い布片が僕の体の一部だったかのように、僕の手の中でひどく馴染んでいた。
まるで愛がかたちを変えて、物質として沈殿しているようだった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 4 》
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「愛って、ほんとはどこに行くんだろうね。」
そう呟いたのは僕だったのか、それとも夢の中の彼女だったのか。
夢か現実か、どちらもはっきりしない。
しかし胸に刺さる赤の感覚だけは確かだった。
波の音が耳の奥で反響し、僕の内側の詩が自分の意思とは無関係に語りはじめた。
それは僕の言葉ではなかった。もっと古い、誰かの遺した詩。
死者の言葉のように、静かで、正確だった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 5 》
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夕陽はますます濃くなり、世界の輪郭を焼きつぶしていった。
『黒い影。
視界の端で何かが落ちた。』
心臓が早鐘を打つ。
まるで自分が海中に沈んでゆくように、波の音が増幅し、水の音に溺れた。
息をするたびに海水を飲み込んでいるようだった。
苦しい。
僕は酸素を求めて手摺を掴んだ。
突風が吹いた。
赤い布が僕の手を離れ、生き物のように震えながら空を裂いて飛んで行った。
——赤は消えた。もう戻ってはこないだろう。
『覗き込むというよりは落ちてゆく感覚だった。
視線が、重力に引かれるように沈み、闇の底に触れたとき、ようやくそれが目に入った。
そこに転がっていたのは、悪夢の残りかすだった。
ねじれた手足はタコの触手を思わせたが、もっと乾いていて、枯れ枝のようでもあった。皮膚はヒキガエルを膨張させたように腫れ上がり、ところどころ裂け、暗い液体を滲ませていた。
地面は赤かった。
絵の具をぶちまけたような赤だ。
風が吹いたのか、それともそいつがまだ微かに動いたのか、赤い光景が波打った。
その瞬間、胸の奥で、何か古い恐怖がゆっくりと目を覚ました。
やがて悲鳴が聞こえ、落陽の静寂をざわめきが埋めた。
斜陽が沈んでいくなか、蟻のように死骸の周りに人が群がった。
潰れた生物の口は大きく裂けて笑っているようだった。
それは僕の願望であり、失ってしまった感情のかけらそのものだった。』
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 6 》
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激しい痛みが僕の意識を足元に連れ戻した。
こまちが僕の足に噛みついていた。
血が流れ落ちた。
それは涙のようだった。血の赤が夕陽の赤と混ざっていた。
こまちは振り返ることなく、一目散に部屋の奥へ消えていった。
赤は、ふたたび僕の元に戻った。
もう何も聞こえなかった。
まるで詩の行が途中で途切れた夢のつづきのように、静かだった。
そして数十分の
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 7 》
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「詩が上手く書けないんだ。」
誰もいなくなった暗いオフィスでひとりごとのように僕の声が響いた。
窓を叩く雨音が創作に苦しむ僕を責めているようだった。
真っ暗なオフィスで、僕はまだ2人分の温かさが残るソファに仰向けに寝そべっていた。
マリアは背を向け、自分のデスクのそばで下着の肩紐を直していた。
シャッターの隙間から稲光が沈黙を白く引き裂き、マリアの美しい裸体の輪郭を一瞬、照らした。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 8 》
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マリアは、僕が
年齢は、たぶん僕より二つか三つ上。
けれど、その差に意味はなかった。
彼女の時間は僕の時間とは別の速度で流れていたからだ。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 9 》
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マリアは、いつもどこか異界の香りを纏っていた。
長く豊かな赤毛。
赤縁の眼鏡の奥でブルーサファイアのように輝く神秘的な瞳。
整った鼻梁の下には、小さな薔薇の蕾を思わせる紅く瑞々しい唇。
シャープな顎のライン。
歪みのない長く細い指の先には手入れされた爪が彩を宿す。
色白の大きな胸。引き締まった腰。豊かに張った臀部から伸びるしなやかな脚。
それは、誰かが設計図を引いたような整い方で、
ときどき人間というよりも試作品のように見えた。
赤毛も、瞳も、鼻も、唇も、顎も、指も、胸も、腰も、臀部も、脚も——
何かの役割を果たすために選ばれた部品のようだった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 10 》
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誰もが知っていた。
マリアがその美貌を通貨のように使っていることを。
そして時に彼女は自分の身体を一枚の名刺のように差し出し、
そのたびに、会社の階段を上がっていった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 11 》
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彼女は出版社の上階に棲んでいる。
階段を上るたびに、空気が少し薄くなる。
おそらくここは編集部というよりも、彼女の飼育場だ。
書類と男を育てては、次々に処分する。
僕はその檻の中の一匹に過ぎない。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 12 》
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ある晩、原稿の束を抱えて帰ろうとしたら、
マリアが僕を呼び止めた。
その瞬間、僕の背中に何か柔らかいものが貼りつく音がした。
彼女は僕の耳元で、締切よりも甘い言葉を囁いた。
そして僕は、その瞬間から彼女の〝お気に入り〟になった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 13 》
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おそらく僕のお尻には、賞味期限が印字されている。
僕には読めない。
マリアだけがそれを読むことができる。
でも、その印字も消えかけていて、
彼女にも読めないかもしれない。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 14 》
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—あなたの詩が好きよ。
いつか、彼女が僕の耳元で囁いた。
その言葉が本当に僕に向けられたのか、あるいは僕の存在を確認するための独り言だったのか、分からなかった。
しかしその声は、僕の鼓膜に貼りつき、僕の意志とは無関係にどこか外部からスイッチを切り替えた。
僕の中の〝部下〟は沈黙し、〝詩人〟の部分が代わりに浮上した。
そのとき、僕は自分が詩人であることを思い出した。
あるいは、詩人の幻影に取り憑かれた、ただの男だったのかもしれない。
彼女の言葉は賞賛というより、呪いに近かった。
そして僕は、彼女の美しさに食い尽くされるため、詩人として横たわった。
まるでマリアという名の雌蟷螂に喉を差し出す雄蟷螂のように。
彼女の美しさは、僕の中の「現実」を食べ尽くし、代わりに空洞だけを残した。
そして、その空洞こそが、僕の詩の正体だったのかもしれない。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 15 》
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ソファに戻ってきたマリアは、まるで習慣のように僕に軽く口づけをし、それから唐突に娘の話を始めた。
シェリー。名前だけは以前から知っていた。高校生だと言っていた。
マリアは離婚して、娘を一人で育ててきたらしい。
ただ、彼女がその「離婚」を説明したことは一度もない。
もし彼女が〝コウノトリが娘を運んできた〟と言い張ったとしても、たぶん僕は驚かないだろう。
夫について。
存在していたのか、存在していないのか、あるいは存在してはいけなかったのか。
マリアは何も語らないし、僕も聞かなかった。
彼女の外側に広がっている世界は、僕には重要ではなかった。
理由は単純だ。
僕はマリアの檻の内側にいる。
檻の外側で何が起きていようと、それが僕の糧になることはない。
マリアが餌を与えてくれる限り、僕はここで飢えることも、逃げ出すこともないだろう。
飢えは恐ろしくても、自由はもっと厄介だ。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 16 》
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——学校から呼び出しの連絡が来たの。
まるで僕の言葉が聞こえなかったかのように彼女は言った。
娘が学校に来ていないのだという。
それを聞いたとき、部屋の空気が一瞬だけ歪んだように思った。
それは僕の感情そのものだった。
彼女は僕の目を見ずに話を続けた。
——夜遊びしているらしいの。新しい男のせいよ。一度だけ見たことがあるわ。彼、きっと不良なのよ。あの子を連れ回してるの。
彼女の口調には確信と絶望が混じり、壊れかけた録音機の声のように同じ調子で繰り返された。
僕はその声を聞きながら、なぜか彼女の顔の輪郭が曖昧になっていくのを見た。
母親の顔と、僕の上にのしかかる雌蟷螂の顔とが、音もなく入れ替わっていた。
彼女の共有し得ない現実を突きつけられたとき、僕の中で何かが冷え、そして静かに腐っていった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 17 》
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娘、彼氏、学校、母親。
それが檻の中に投げられた新たな餌だった。
吐き気がした。
その餌は空腹を満たすどころか、僕のドラマを壊す毒でしかなかった。
僕は彼女の現実から逃走を試みようとした。
しかし逃げた先にも彼女の影が貼りついていた。
それは彼女ではなく、僕の細胞の余白に貼りついたマリアの模造品だった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 18 》
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「夢を見たんだ。同じ夢をね。もう何度も、まるで壊れたフィルムみたいに再生される。しかも最近じゃ、夢のかけらが現実に滲み出してきて、ひそやかに形を変えて僕の前に現れるんだ。ときには街路をすれ違う知らない誰かとして、ときには目の端をかすめる色の振動として。」
僕は、彼女の話を塗りつぶすように、先ほどの会話の続きに身を戻した。
——面白いアイデアね。
マリアはゆっくりと煙草に火を点けた。短い沈黙のあと、ため息みたいな煙が吐き出される。その視線は、どこかで誰かが残していった古い傷を鞭でなぞるみたいに、僕の顔をかすめた。
それ以上、夢の詳細を語る気にはなれなかった。狂っていると思われたくなかったし、彼女の目は、誰かの失敗を遠巻きに眺める観客みたいに冷めていた。幸い、詩のアイデアだと勘違いしてくれたようだが、僕が引きずっている恐怖までは隠し通せなかった。
「ああ。でも上手く書けないんだ」
——赤い服の女。
そう。
あの日ベランダで赤い布の一片を見て以来、彼女は夢の外にまで影響を及ぼしはじめている。
現実が、夢の延長のように感じられる。
いや、正確に言えば、夢の方が現実に侵入してきているのかもしれない。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 19 》
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僕は日常生活の中で彼女の幻視を見るようになった。
通りすがりの女、信号の赤、誰かの揺れる衣服の布。
そのどれもが一瞬だけ彼女に見え、次の瞬間には他人の顔に戻っている。
幻視と認識する現実の判断が、夢の反射速度に追いつかなくなっていた。
世界の構造が、わずかにずれ始めた瞬間だった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 20 》
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それからまもなくして僕は詩が書けなくなった。
初めは徐々に。
今では完全に。
書き始めた詩の行は誕生した瞬間から紙から浮き上がり、空中で溶けて消えてゆく。
それを見ているうちに、自分が詩人だったことさえ疑わしくなった。
僕自身が詩の存在を認識できなくなっているのだ。
マリアのひと言で決まった詩の雑誌連載も、この状態では休載せざるを得なくなるだろう。
過去に書き溜めた詩を切り売りしていく行為は、貯金を崩して生活するのに似ている。
やがて僕は、詩人として破産するだろう。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 21 》
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街には赤の気配が増し、夜ごと夢は長くなる。
詩を書くことと彼女の影を追うこと。
その境界が、もう僕には見えなくなっていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 22 》
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——あなたの詩には、いつも同じ女が出てくる。
マリアの声に感情はなかった。
——彼女を引用し過ぎているのよ。まるでその女が詩を書いているみたい。
マリアの言葉は、単なる批評ではなく診断のように聞こえた。
まるで僕の詩人としての病理を指摘しているようだった。
僕は笑おうとしたがうまくいかなかった。
マリアの言葉の中にかすかな恐怖を感じた。
すべて見透かされているような言い方だった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 23 》
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「誰のことを言っているんだい?」
自分の声が、少し遅れて耳に戻ってきた。
——それは、あなたが一番よく知っているはずでしょ?
その言葉を聞いたとき、悪寒と共に正体不明の記憶がフラッシュバックした。
ふたりで立っていた冷たい海辺。
喉に滲みる海水のしょっぱさ。
羊水のような海中の音。
暗闇の中に消えてゆく
「き、君も見たのか!?」
僕は思わずそう聞いた。
夢の中の女。赤いワンピースの女を、マリアは知るはずがないのに。
マリアは肩をすくめた。
——知らないわよ。赤い服を着た女。あなたの詩集の中に何度も出てくる。名前も知らない誰か。だけど読んでいるうちにこっちが彼女の顔を覚えてしまう。不思議と詩人のあなたよりも、彼女の方が現実的に思えてしまうの。まるで彼女の方が実在していて、あなたは彼女の影に過ぎないみたいにね。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 24 》
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マリアは煙草の火を消した。
灰皿の中の口紅のついた吸い殻が、僕の詩人としての人生のように不自然に曲がっていた。
マリアの声は消えたはずなのに、壁の向こうから小さなざわめきが聞こえてくる。
詩の中の女。
赤い服の女。
その名はない。
夢の中の女。
現実に出てきた女。
赤いワンピースの女。
それらが同一人物かどうか、判定できる人間はおそらく、この世界で僕しかいない。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 25 》
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——あなたが詩が書けなくなった理由は、その女よ。
マリアは言った。
冷暖房のスイッチが切り替わったような感覚だった。
僕は動揺していた。
続くマリアの声は、何倍にも増幅してスローモーションのように聞こえた。
——彼女があなたの創作を食っている。詩が書けないのはそのせいよ。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 26 》
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僕は雨の中を歩いていた。
マリアの車から途中で降りたのは、ある種の脱皮行動だった。そこに残された古い“皮”は、もう僕のものではなく、過去の詩そのものだった。
マリアは何も言わず、僕を見送った。あの沈黙は、どこかで誰かを殺したあとに残る沈黙に似ていた。彼女自身、それに気づいていなかっただけだ。まるで言葉そのものが彼女の中で死に場所を探しているかのようだった。
雨は濁った針のように落ち続け、僕の肩と背中に小さな傷を刻んでいった。
しばらく歩いていたかった。歩きながら、頭の奥でひび割れていく声の正体を確かめたかった。
あれはたぶん、僕自身の名前を呼ぶ声だったし、同時に、僕以外の何かが僕を呼び寄せる声でもあった。
マリアが言い放った言葉はあまりに決定的だった。
僕は赤いワンピースの女を、もう一度思い出さなければならなかった。
それは僕の闇であり、葬り去れるはずもない原点だった。
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
赤色灯の赤い光が、闇の中でゆっくりと蠢いていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 27 》
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ドアの向こうに出れば、自分が夢の中の登場人物になってしまう気がした。
その瞬間、ドアを開けるのが少し怖くなった。
ノブを回すと、物理的な圧力のような光が闇の裂け目から進入してきて、内部に溜まった暗闇を押し出した。
長年閉じ込めらていた記憶が逃げ出すように、こまちは小さな影となって外へ飛び出した。
反射的に僕も外に出たが、こまちの姿はすでにどこにもなかった。
名前を呼んだ。
自分の声がまるで他人の声のように響いた。
返事はなかった。
呼ばれたのは、猫ではなく、僕自身だったのかもしれない。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 28 》
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駅へ向かう。
体が重い。
鉛の背広を着ているようだ。
昨日の雨のせいかもしれない。ずぶ濡れで帰って、風呂も入らず眠った。
だかこの倦怠感は、風邪のように一時的なものではなく、もっと形而上的な――肉体の深い場所で起きている変化のようだった。
自分という器の中身が、ゆっくりと別の液体に入れ替わっていくような感覚。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 29 》
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出勤ラッシュの駅構内。
人間の群れ。
無数の顔、どれも似ていて、どれも違っている。
顔と顔のあいだに空気が存在しない。
それでも人々は呼吸している。
僕はそこに異物のように立っていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 30 》
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すれ違う瞬間、視線が交わった。
赤いワンピースの女――。
だが次の瞬間、彼女は群衆の渦に吸い込まれて消えた。
もしかすると最初から存在しなかったのかもしれない。
それでも僕は無意識のうちに群衆をかき分けていた。
僕の中の何かが誰かに遠隔操作されて、夢の続きを歩かされているようだった。
ただ、彼女を見失ってはいけないというプログラムに近い感情だけが残っていた。
僕は階段を駆け上がり、違うホームに飛び込み、また別のホームに移り、ただ赤の残像を追った。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 31 》
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気づけばホームのベンチに座っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
電車も、時間も、目的も、意味も、すべてが過ぎ去ったあとだった。
残っているのは、頭の奥に響く鈍い痛みだけ。
頭蓋の内側で、何かが蠢いている。
それは敗北のかけらかもしれないし、崩れた詩の死骸かもしれなかった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 32 》
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――彼女があなたの創作を食っている。詩が書けないのはそのせいよ。
昨夜のマリアの言葉が聞こえた気がした。
その時、音もなく気配だけのような存在が隣に腰を下ろした。
ただ、空気の密度だけが変化した。
顔を上げると赤いワンピースの女がいた。
彼女は微笑み、まるで夢からの長い亡命の果てに再会した旧友のように、何も言わなかった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 33 》
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その笑みは、懐かしさより先に、既視感を呼び起こした。
同じ顔。同じ沈黙。
――ああ、そうか。
僕はずっと前から、この光景の中に閉じ込められていたじゃないか。
今日はここというだけだ。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 34 》
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時々、冷たい風が吹いた。
鼻の奥にまとわりつく埃と煤煙のにおいは、遠くで燃え尽きた誰かの夢の灰が舞っている都市そのものの呼気のようだった。
ベンチの金属が、腹を空かせた蚊のように無言のまま体温を奪っていく。
アナウンスの情報としての響きだけが、ただの空気の振動としてホームに残った。
電車が停まるたび、レールが悲鳴をあげた。
その音は、夜のどこかで失踪した詩人たちの声に少し似ていた。
これは夢ではない。
夢が逃げ出したあとの、現実の質感だった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 35 》
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「ついに君は夢の世界を飛び出してここに現れたわけだね。」
しばらくひとりごとのように彷徨った言葉は線路の向こうの暗がりへ吸い込まれてゆく。
女は何も答えなかった。
その沈黙の中に、夢で見た南米の果ての町の夕暮れの色を思い出した。
誰もいない駅。誰かが置き忘れたノート。ページの隙間に砂が入り込み、詩人の名前だけが読めなかった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 36 》
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「君は生きているのか?」
僕はもう一度尋ねた。
女は少し首を傾けた。まるで質問の意味を忘れた人みたいに。
彼女の沈黙は答えよりも正確で、冷たい空気をゆっくり切り裂いていった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 37 》
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「今はどこで暮らしているんだい?」
――あなたのすぐそば。
声は確かに聞こえた。しかし、その発生源は僕の頭の中で響いた気がした。そしてその短い言葉は、古いタイプライターのキーの音のように、確かにこの現実を打ちつけた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 38 》
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「そばにいるならどうして声をかけてくれなかったんだい?」
問いかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その動きは、長い間沈黙の底に沈んでいた人間が、ようやく水面へ浮上する瞬間みたいだった。
それから彼女は、あたかも誰かに前もって書かされたセリフを思い出すような調子で口を開いた。
――私は詩人よ。私の言葉はすべて詩になるの。
詩。
その単語が胸の奥で反響したとき、時間の底で小さな波が立った。
詩という言葉は、時々、危険な側面がある。
それは、砂漠の真ん中で突然現れるオアシスのように、実在を疑わせる。
彼女の声に乗ってその語が放たれた瞬間、僕は、彼女が僕に真実を語っているのか、それとも新しい嘘を編んでいるのか判別できなくなった。
駅のベンチが金属ではなく、無数の言葉の層でできているように感じた。
硬質なのに柔らかい。冷たいのに、どこか温かい。
僕はベンチに座ったまま、自分が文字の中に沈んでいく錯覚に陥った。
――僕が愛してしまった幻?僕の詩を食べる女?
言葉は消えかけた蝋燭のように空気に溶けてゆく。
僕はもう、言葉が存在を必要としなくなった世界に足を踏み入れていた。
僕は彼女の表情を観察した。
その目の奥には疲労とも諦念ともつかない影があったが、それらは奇妙に静かで、何かを決定的に拒んでいるようにも見えた。
しかしそれは彼女の表情ではなく、僕の表情だったのかもしれない。
もはやどちらでもよかった。
僕の世界はこの女が現れ始めた時から、ずっと傾き続けている。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 39 》
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彼女の唇が動く。
音はない。
けれど、その言葉は脳の内側に直接届いた。
――あなたの中の詩を、少しもらうわ。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 40 》
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世界がかすかに歪む。
遠くでレールが叫ぶ音。
ホームに血を混ぜたような赤い車両が到着する。
人々が流れ込む。
僕はふと、自分の影を見た。
それが僕のものでないと気づくまで、さほど時間はかからなかった。
ベンチの上の影が、ゆっくりと薄くなっていった。
その消え方が、まるで僕に合図を送っているようだった。
女はいなかった。
僕はほとんど反射的に立ち上がっていた。
何かを追っているという確信よりも、誰かが僕の名前を呼んだ気がした。
それは声というよりも、昔読んだ詩の一節のようだった。
僕はためらわずに乗り込んだ。
電車は、乗った瞬間に動き出した。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 41 》
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生活の間隙を縫って進む列車のように車内は静かだった。
途中、静寂を殺す若者たちが数人乗ってきたが、彼らが去ると、再び車内は静かになった。
朝のラッシュで滞留していた人々の溜息は車窓から差し込む陽光によって車内の四隅に押し出され、貫通扉の隙間から逃げるように車外へ消えていった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 42 》
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電車の中にいる乗客たちは、同じ仮面を貼りつけたような表情をしていた。
彼らはうつむき、手帳や本を開いている。
隣の座席の男が何か書いていた。
手帳の上を引っ掻くペン先の音。
僕はその文字を覗き込んだ。
だが、手帳の中には言葉ではなく、砂のようなものが詰まっていた。
僕は薄汚れた座席を立ち、車内を移動した。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 43 》
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貫通扉のフレームの向こう、次の車両に女の姿が見えた。
車両のいちばん奥、向かいの窓際。
色彩の抜け落ちた車内の中で、赤いワンピースはかすかに発光しているように見えた。
気がつけば、僕は女の隣に座っていた。
彼女は本を読んでいた。
開かれたページには、見覚えのある詩の断片が書かれていた。
僕の未完成の詩の死骸だった。
死んだはずの詩が、知らぬうちに女の手の中に移っていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 44 》
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僕は何も言わなかった。
彼女も何も言わなかった。
車両が揺れるたびに彼女の髪が微かに波打ち、 ページがめくられるたびに、葬り去った僕の詩が生き返った。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 45 》
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やがて、見覚えのある駅舎の影が車窓に現れた。
破れたポスター、壊れた時計台、黄ばんだ看板、錆びた橋脚、草だらけの河川敷――軌条の繋ぎ目を踏む車輪の乾いたジョイント音が、一定のリズムで鳴る映写機の回転音と重なり、風景は記憶を再生する16ミリフィルムのように後ろへ流れていく。
そのとき僕は、電車が十七年前の記憶の駅へ移動しているのが分かった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 46 》
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電車がトンネルに入った。
暗闇の中で、窓ガラスが鏡になった。
そこに映っていたのは、今の僕ではなかった。
若い頃の僕。
十七年前の、まだ僕が詩を書くことに何の疑いも持っていなかった頃。
まだ何も失っていなかった時の僕。
僕の隣にはあの頃と同じ、赤いワンピースの女が座っていた。
彼女の瞳は十七年前のあの日を見通しながらその日が来るのを待っているような眼差しだった。
電車が再び地上に出る。
窓ガラスから僕たちは消えて、
光が戻ってくる。
外の景色が変わっていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 47 》
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車両が止まった。
ドアが開く。
古い駅。ひび割れたプラットフォーム。
白いシャツ、安い靴、疲れた目。
そこには、幼いこまちを抱えた十七年前の僕が立っていた。
あの頃、町に別れを告げ、彼女の詩から逃げるように電車を待つ僕が――。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 48 》
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女が立ち上がり、僕のほうを見た。
その表情は、どこかで見たことがある。
夢の中か、現実の途中か、もはや区別がつかなかった。
――行かなくちゃ。
彼女が言った。
その声は、僕の古い詩の最後の行のように、かすれていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 49 》
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彼女が降りたあと、電車はしばらく動かなかった。
静かだった。
車内は僕ひとりだけになっていた。
外を見つめた。
ホーム上で、彼女の姿はゆっくり薄れていった。
そして代わりに、十七年前の僕がこちらを見た。
――これは帰郷ではない。
僕はゆっくりと立ち上がった。
ホームに降り立つとき、電車に乗り込む十七年前の僕とすれ違った。
――僕は、忘れ去ったはずの過去に降り立ったのだ。
ドアが閉まる。
車両が動き出す。
時間というものが、いま僕の足元で急速に巻き戻っていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 50 》
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Red Jellyfish L. Dutt @401o_o104
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