第4話(終) 新しい「しりとり」

 二人の、しりとり勝負は最終日の一週間目を迎えていた。

 文系と理系。

 お互いの専門分野だけの言葉を用いるという、極めて限られた条件だけに、どこかで返信ができなくなるかと思われたが、以外にも拮抗した戦況が続いていた。

 健斗は、お互い忙しい身であることから、ルールとして3時間以内に返信することとしていたが、大学の講義が終わった瞬間に、しりとりの返信が入ることから、2時間以内にするべきだったかもしれないと考えていた。

 だが、今更撤回はできないので、とにかく早く返すしかない。

 早く返せば返す程、相手の選択肢を削るからだ。

 講義と講義の休憩時間で、熾烈を極めた時は、一分以内で、しりとりのラリーが行われた時もあった。

 講義を受けながら、そう思っていた矢先。教授の長話が終わって一息ついた瞬間、スマホのバイブレーションが鳴った。

 講義が終わってスマホを確認すると、送り主は詩織。

 1行目は、今まで見たことのない文章だったのだ。

 そこには、こう書かれていた。


 詩織:『 私は、今日バイト休みです♪ v(o´ з`o)♪ これからの時間は、ガンガン攻めていくから覚悟しなさいよ!』


「……なんだ、これは」

 健斗は思わず声に出していた。

 意味不明な顔文字。

 非論理的なテンションの高さ。

 そして、宣戦布告。合理性を欠いたその文章に、健斗は眉をひそめたが、同時に口元がわずかに緩むのを自覚した。

 面白い。

 そう考えた隙を突くように、間髪入れずに次のSMSが届く。

 どうやら本気らしい。


 詩織:『よ』→『宵闇』


 夕暮れが終わり、完全に夜になる前の、あの青と黒が混じり合う束の間の時間。詩織が好みそうな、情緒的で感傷的な言葉だ。

 健斗は考える素振りも見せず、指を滑らせた。


 健斗:『み』→『密度汎関数法』


 複数の電子の状態を、その密度だけで記述しようという量子化学の計算手法。

 文系の彼女には意味不明だろう。

 健斗が思考を巡らせていると、予想に反して、即座に返信が来た。


 詩織:『う』→『泡沫』 健斗に読めるかな? . • ( ´ー`)フッ


 詩織は、返信と共に顔文字を使って挑発してくる。

 泡沫。

 健斗は、【ほうまつ】と読むのではと思って、調べると『泡沫』と書いて【うたかた】とも読むことを知った。

「やるな。さすが文系」

 健斗は難解な読みに唸りながらも、それに反して優しく微笑していた。詩織を褒めるしかなかった。

 【ほうまつ】と【うたかた】

 読み方は異なるが、意味は同じだ。

 水面に浮かぶ泡。

 そして、消えやすく儚いもののたとえ。

 健斗が放った硬質な専門用語を、まるで柳に風と受け流すかのような、美しい二文字。

 健斗は、読み方に戸惑いつつ、少し感心しながらも、一切の容赦なく打ち返す。


 健斗:『た』→『多体問題』


 互いに相互作用を及ぼす3つ以上の物体が、その後どう動くかを予測することの困難さを示す物理学の難問。

 これもまた、彼女の情緒的な世界とは対極にある言葉だ。


 一定の返信を終えた健斗は、講義室が自分一人を残して空になったことで、スマホのマナーモードを解きポケットにしまい、外に出て晴れた空を見上げた。

「ガンガン攻めてくる、か……」

 厄介なことになった。

 だが、不思議と気分は悪くなかった。

 むしろ、間を置かない詩織の返信の連続に、胸の内で燃える闘志とは異なる嬉しさのようなものを感じていた。

 自分の言葉に、信念を持って答えてくれる存在。

 この勝負、まだまだ終わりそうにない。

 そう思っていると、ピロンとスマホが鳴った。

 健斗の期待に応えるように。


 ◆


 時計の針が、22時を迎えていた。

 以前の話し合いで、24:00時の段階で終了する旨を取り決めていたが、その際に引き分けとするか、延長戦とするかは取り決めていない。あのインテリことだから、返信時間の短い方が勝ちと言い出す可能性がある。

 なら、短い時間で返信した方が有利だと詩織は考える。

 詩織は自室のベッドの上で、膝を抱えながらスマホの画面を睨みつける。

 夕食時間というインターバルを過ぎてから、激しいラリーを行った。

 今は詩織のターンが終わったところだった。

 健斗からの攻撃は、まだない。

 最後の言葉は、詩織が送った言葉。


 『雪解け』

 春になり雪が溶けること。


 次は「け」から始まる言葉だ。

 この一週間、健斗が繰り出す無機質な専門用語を、詩織は必死に調べ、そして文系の知識を総動員して打ち返してきた。

 それは、言葉のキャッチボールというより、ぶつけ合う言葉のドッジボールだった気がするほどの応報だ。

(どんな理系の言葉で来るかしら……『ケイ素』? それとも『傾斜角』?)

 心臓が、少しだけ速鐘を打つ。

 もはやこれは、ただの勝負ではなかった。相手の世界を覗き込み、自分の世界を必死に伝えようとする、もどかしくて、でもどこか心地よい緊張感を伴う対話だった。

 学食で話した、あの時間。

 宇宙の話をする健斗の目が、いつもより少しだけ優しく見えた。膝を突き合わせ、あんなにも話し込み、面白いとさえ感じた。

 もっと彼のことを知りたいと思った。

 だから、絶対に負けないと決めた。

 しかし、それが何なのか、自分でもよく分からなかった。

 ただ、ずっとこのまま続けばいいと思ってしまうほど、楽しい時間に思えたのは確かだった。

 ピロン、と短い通知音が静寂を破った。

「来たわね」

 詩織は、期待に心を踊らせながら肩を震わせ、慌てて画面をタップする。

 健斗からのSMSだ。

 『け』から始まっている。

 当たり前だ。

 

 ……『け』?


 一瞬、思考が停止する。

 健斗がルールを間違えるなんて、ありえない。

 まさか、何か別の意図が?  詩織はごくりと唾を飲み込み、そのたった二文字の言葉を目で追った。


 健斗:『結婚』


「―――ん」

 詩織の息が、止まった。

 指先から急速に血の気が引き、スマホを握りしめたまま、詩織は完全に固まった。

 時間が、まるで凍りついたかのように動かなくなる。

 窓の外で鳴いていた虫の声も、部屋の時計が秒針を刻む音も、何もかもが遠くに消えていく。

 視界に映るのは、ただその二文字だけ。


 けっこん


 その言葉が持つ質量が、ずしりと彼女の心にのしかかる。

 『ん』で終わっている。

 これは……何だろう?

 理系の用語にこのような言葉があるか、この時点では分からないが、しりとりのルール上、『ん』が最後についた以上、使った者の負けだ。

 つまり、これは健斗の負けだ。

 あっけない、あまりにも唐突な幕切れ。

(負け……? あの健斗が? こんな、わざとみたいな負け方で?)

 違う。

 これは、ただの負けじゃない。

 この二文字が、ただのしりとりの駒であるはずがない。だって、それはあまりにも、あまりにも――。

 脳裏で、これまでの光景がフラッシュバックする。

 保育園の砂場で泥団子をけなされたこと。中学の文化祭で脚本にダメ出しされたこと。高校の体育祭で応援合戦を馬鹿にされたこと。

 そして、つい先日、図書館で言い合ったばかりの、あの憎まれ口。

 ずっと反発し合ってきた。

 ずっと理解し合えないと思った。

 ずっと噛み合わないと思ってきた。

 なのに、なぜ。

 どうして今、この言葉を。

 詩織の心臓が、凍りついた時間の中から、ドクン、と大きく脈打ち始める。それはやがて、耳元で鳴り響くほどの激しい鼓動に変わっていった。

 『ん』で終わったことへの怒りなのか、それとも、言葉の裏に隠された意味への戸惑いなのか。

 いや、違う。

 そのどちらでもなく、心の奥底でずっと蓋をしていた、甘くて苦い感情の蕾が、無理やりこじ開けられようとしている音だった。

 ともかく返信をしなければならない。

 健斗の真意を訊く。

 指が震えて、うまく文字が打てない。

 勝ったという嬉しさよりも、詩織は怒りのメッセージを叩きつけた。


 詩織:『なによ。この終わらせ方! 「ん」で終わらせるにしても、この言葉の意味は、どういうことよ?』


 健斗は、その返信をスマホの画面で確認すると、計画通りだと言わんばかりに口角を上げた。まるで難問が解けた時のような、静かな満足感が彼の胸を満たしていた。

 彼女は必ず、言葉の『意味』を問うてくる。

 その性格を、健斗は知り尽くしていた。

 すぐに、用意していたメッセージを送信する。それは、詩織の混乱を誘う、知的で悪質な罠だった。


 健斗:『化学では常識だと思っていたが、文系の君には理解できないか。いいだろう、特別に講義してやる』


 詩織がスマホの前で「何ですって?」と眉をひそめる間に、追撃のメッセージが立て続けに送りつけられる。


 健斗:

 【結婚】

 異なる特性を持つ二つの高分子ポリマーが、特定の触媒下で強固な架橋構造を形成し、単一の機能性材料へと不可逆的に相転移する現象のこと。

 元のポリマーの特性をそれぞれ維持しつつ、全く新しい特性を発現する。

 その結合のあまりの強固さと、一度結合したら二度と分離できない特性から、材料工学の分野では古くからそう呼ばれている。

 民明書房刊『詳説・高分子化学における不可逆的相転移』より


「高分子ポリマー。 かきょうこうぞう? ふかぎゃくてき、そうてんい?」

 詩織は、スマホの画面に表示された解説の羅列を、呆然と声に出して読んだ。

 まるで呪文のようだ。

 聞いたことがないだけに、『結婚』という専門用語があるのだと思うだけの、説得力がある。特に引用文献を提示しているあたり、なぜか強く胸に突き刺さる。

「まさか、本当に理系用語なの? じゃあ、ルールにのっとった負け?」

 健斗の『常識だと思っていたが』という追撃の一文が、詩織のプライドをぐらぐらと揺さぶる。

 悔しい。

 あの健斗に『無知』だと思われるのは、我慢ならない。

「……こうなったら、徹底的に調べてやるわよ!」

 詩織はベッドから飛び起きると、ノートパソコンの前に陣取った。研究者としての探究心と、負けず嫌いの執念が、彼女の指をキーボードの上で踊らせる。

 まずは大学の論文データベースに、書名を打ち込んだ。


 検索ワード:『詳説・高分子化学における不可逆的相転移』

 検索結果:0件


「あれ?」

 おかしい。これほど専門的な書籍なら、引用文献として一つくらいヒットしてもいいはずだ。誤入力をしているのではないかと思うが、一文字一文字確認しても入力ミスはない。

 詩織は首を傾げ、次に一般の検索エンジンに切り替えた。今度は出版社名で検索してみる。

 検索ワード:『民明書房』

 エンターキーを押した瞬間、画面に表示された検索結果に、詩織は目を疑った。


【民明書房とは (ミンメイショボウとは) - ニコニコ大百科】

【民明書房 - Wikipedia】

【民明書房、男塾名物「ウソ解説」の出版社が本当にあったら?】


「……は?」

 表示されたのは、学術的なサイトではなく、漫画のタイトルやサブカルチャー系の解説記事ばかり。

 恐る恐るその一つのリンクをクリックすると、そこには衝撃的な一文が書かれていた。


『民明書房とは、漫画『魁!!男塾』に登場する、架空の出版社である』


「……………」

 詩織の頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。

 架空? 漫画? ウソ解説?

 つまり、健斗が長々と送りつけてきた、あの難解で、もっともらしい解説は、全部―――。

「デタラメじゃないのぉぉぉぉ!!!」

 詩織の絶叫が、静かな自室に響き渡った。

 顔がカッと熱くなり、耳まで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かった。

 信じた。

 一瞬でも「へえ、そうなんだ」なんて感心した自分が、恥ずかしくてたまらない。

「あいつ……! 私をからかうためだけに、こんな手の込んだ大ウソを!」

 怒りでスマホを握る手がわなわなと震える。

 しかし、その怒りの嵐の奥底で、ふと、別の感情が芽生えていることに詩織は気づいた。

 それは、呆れ。

 そして、ほんの少しの、可笑しさだった。

 あの無表情で、無味乾燥な理系男が、夜中に一人、こんな荒唐無稽なウソの解説文を、真面目な顔でポチポチと打ち込んでいた姿を想像すると、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきてしまったのだ。

 まるで詩織の行動を覗き見しているかのようなタイミングで、スマホにSMSの着信を知らせる音が鳴った。

 詩織は、スマホの画面を見た。


 健斗:『「ん」で終わったから、僕の負けで結構だ。『月読のこよみ』の先行購読権を譲ろう。ん? 何か文句があるのか? なら、直接聞く。明日、大学前のカフェで食事に付き合え』


 それは、いつもの彼らしい理屈っぽくて、高圧的な命令口調。

 まるで、解の決まった数式を読み上げるかのように、揺るぎない響きを持っていた。

 これは、この大ウソの答え合わせをするための、彼らしい不器用で、回りくどい誘いなのだと。

「……上等じゃない」

 詩織の口元に、怒りと呆れと、ほんの少しの期待が入り混じった、獰猛な笑みが浮かんだ。

 明日は、ただ文句を言うだけじゃ済まさない。この借りは、きっちり返させてもらう。

 詩織は、決意を込めて返信を打ち込む。


 詩織:『言いたいことが山ほどあるから、覚悟しておきなさいよ! この朴念仁!』


 最後に憎まれ口を付け足すことだけは、忘れなかった。

 送信ボタンを押すと、詩織はスマホを胸に抱きしめ、ベッドにぱたりと倒れ込む。天井の白い照明が、なぜだか今夜は、満月のように優しく見えた。

 健斗に、からかわれた。

 今までの詩織なら、烈火のごとく怒っては健斗に噛みついていた。

 なのに、詩織の口元は、どうしようもなく緩んでしまっていた。指先はまだ微かに震えているのに、胸の奥からは、ぽかぽかと陽だまりのような温かさが広がっていく。

 詩織が、しりとりの最後に使った言葉は『雪解け』

 それは、春になり雪が溶けること。

 転じて、長く続いていた緊張関係や対立が解消され、和やかな雰囲気になること。

 新しい始まり、希望、和解、春の訪れ。冷たく閉ざされていたものが、温かい光によってゆっくりと開かれていくような、優しく前向きなイメージのある言葉。

 それに対し、健斗が使ったのは、『結婚』

 画面に映る無機質なゴシック体の文字列が、今まで読んできたどんな美しい物語の言葉よりも、キラキラと輝いて見えた。

 あの健斗が放った、たった二文字。

 どういう意図で、健斗がそんな言葉を使ったのか知らないが、そんなことはもう、どうでもよかった。詩織の心には、その言葉が持つ、一番シンプルで、一番強い意味だけがまっすぐに届いていた。

 雪の季節が終わったのだ。

 保育園の砂場から始まった、冷たくて硬い氷の壁。それが今、このたった一つの言葉の熱で、音を立てて溶けていく。

 詩織は、込み上げてくる笑いを隠すように、そっと息を吐いた。

 明日は、何を話そう。

 開口一番「何よこれ!」って怒ってやるべき? それとも、冷静に意味を「これって、どういうことかしら?」と、問い詰めてやるべき? どっちにしても、きっとまた口喧嘩になる。

 でも、その口喧嘩は、今までとは全く違う、温かい響きを持つに違いなかった。

 詩織はベッドから飛び起きると、クローゼットの扉を勢いよく開けた。中には、たくさんのワンピースやブラウスが並んでいる。

 いつもなら直感で手に取る服を、今夜は一枚一枚、丁寧に吟味していく。

「あんまり気合入れてるって思われるのも、しゃくだし……」

 ぶつぶつと独り言を言いながら、鏡の前で服を合わせるその横顔は、自分でも気づかないうちに、恋する物語の主人公のように、柔らかく綻んでいた。

 かくして、幼馴染の二人が繰り広げた七日間の言葉の戦争は、たった一つの言葉で、あっけなく終わりを告げた。

 けれどそれは、終わりであると同時に、始まりの合図。

 これまでは、言葉の尻尾だけを捕まえ合う「しりとり」だった。

 でも、明日からはきっと違う。

 相手の言葉の、その奥にある本当の意味を、心を受け取って自分の心で言葉を返す。

 嬉しい、という言葉に隠された少しの不安を。

 大丈夫、という言葉の裏にある強がりを。

 好き、という言葉に込められた、たくさんの覚悟を。

 そんな、世界で一番難しくて世界で一番温かい、二人だけの新しい「しりとり」が、今また始まろうとしていた。


(終)

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その「ん」は、終わりじゃなく始まりの言葉 kou @ms06fz0080

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