毛皮商ミオの夜市 〜私は今夜、あなたから何を剥ぐのか〜
ソコニ
第1話 毛皮商ミオの夜市〜私は今夜、あなたから何を剥ぐのか〜
月が赤い夜、私は人から感情を剥ぐ。
「今夜は、何を脱ぎますか?」
十四歳の領主ミオが尋ねると、大人たちは疲れた顔で答える。
母への憎しみ、商売敵への嫉妬、亡き夫への悲しみ——。
ミオは一つ一つ、丁寧に剥ぎ取っていく。
すると、感情はもふもふの毛皮になる。赤く、緑に、青く光りながら、ミオの手の中で温もりを放つ。
「はい、お預かりしました。明日の夕方、取りに来てください」
客たちは軽やかに帰っていく。笑顔で。
これが、ミオの仕事。
屋敷の裏庭で開く「感情毛皮商・ミオの夜市」。
祖母から継いだ、小さな商い。
夜市が終わると、ミオは倉庫へ向かう。
屋敷の地下にある石造りの部屋には、色とりどりの感情毛皮が棚に収まっている。まるで生き物のように、小さく呼吸している。
赤い毛皮(怒り)。緑の毛皮(嫉妬)。青い毛皮(悲しみ)。金色の毛皮(愛)。
ミオはそれらを丁寧に仕舞っていく。触れると、毛皮たちは温もりを返してくる。
棚の最奥に、ミオが決して触らない「灰色の毛皮」がある。
他のどれよりも大きく、重そうで、光を吸い込むように暗い。
ラベルには——「父・ユウキ / 生きる意志」。
ミオは目を逸らす。
その隣には、もう一つ。
**「レン / 愛」**と書かれた金色の毛皮が、山になっている。
毎晩、一つずつ増えていく。
翌朝、ミオは学園へ通う。
クラスメイトは明るく話しかけてくる。
「おはよう、ミオ!」
「昨日はありがとう、お陰でスッキリした!」
みんな笑顔だ。屈託なく。
ミオも笑顔で応える。
だが、許嫁のレンだけは違う。
レンは教室の隅で、無表情でミオを見ている。
「……おはよう、ミオ」
声に温度がない。
(またか)
ミオは知っている。レンは毎晩、夜市に来る。そして**「ミオへの愛」を売る**。
翌朝のレンは、いつもこうだ——冷たく、他人のように。
だが夕方になると、レンの体内で「愛」が再生される。そして夜、また売りに来る。
「僕、この感情、いらないんだ」
レンは毎晩そう言う。
ミオは黙って、金色の毛皮を受け取る。
その毛皮は、他のどれよりも温かい。
そして、ミオの胸を締め付ける。
授業が終わり、ミオは領主館へ戻る。
執務室では、父・ユウキが書類仕事をしている。
「おかえり、ミオ」
父は笑顔で迎える。穏やかな、完璧な笑顔。
「ただいま、お父さん」
「今日の学園はどうだった?」
「楽しかったよ」
「それは良かった」
父は微笑み、また書類に目を戻す。
会話はそれで終わり。
ミオは父の横顔を見つめる。
いつも笑顔。丁寧。完璧。
だが、何も感じていない。
食事をしても、目が笑っていない。ミオが怪我をしても、心配している"感じ"がない。
まるで台詞を与えられた役者のように、正しい言葉を、正しいタイミングで口にするだけ。
ある夜、ミオは父に訊いたことがある。
「お父さん、夜市のこと、嫌じゃない?」
父は笑った。
「嫌?ああ、そういう感情もあったね。昔は」
過去形だった。
それ以来、ミオは父に感情の話をしなくなった。
ある日、ミオは祖母の部屋を整理することにした。
祖母が亡くなってから一年。誰も手をつけていなかった部屋には、埃が積もっている。
本棚の奥に、一冊の日記を見つける。
革装丁の、重厚な日記帳。
開くと、祖母の几帳面な文字が並んでいる。
祖母の日記(抜粋):
夜市を始めて二十年。客は増え続けている。
人は、感情を手放すことで"楽"になれる。それは間違いない。
でも、戻ってくる客もいる。「返してください」と泣きながら。
私は返さない。
感情は、一度脱いだら"他人のもの"になる。
ミオは頁を捲る。
——息子のユウキが、ついに来た。
「母さん、僕から"生きる意志"を取って」
私は拒んだ。それだけは、駄目だと。
でも、ユウキは頼み続けた。
「もう疲れたんだ。領主として、父として。全部が重すぎる」
「でも死ぬ勇気もない。だから、生きたいという気持ちだけ、取ってほしい」
一週間、私は悩んだ。
最後に、私は剥いだ。
灰色の毛皮は、他のどれよりも重かった。
ユウキは笑顔で帰っていった。
翌日も、その次の日も、彼は笑顔だった。
完璧に。
ミオの手が震える。
(祖母が……父から……)
日記には、さらに続きがある。
感情は、返しても元に戻らない。
体は受け入れるが、心は拒絶する。
だから私は、返さない。それが、商人の仕事だから。
——ミオへ。
もしあなたがこれを読んでいるなら、私はもういない。
夜市を継ぐかどうかは、あなたが決めなさい。
ただ一つだけ、覚えておいて。
商人に必要なのは、商品への愛情ではない。
客への同情でもない。
必要なのは、"続けること"。
それだけよ。
ミオは日記を閉じた。
胸が苦しい。何かが、喉の奥で引っかかっている。
(私は……何をしているんだろう)
その夜、夜市に異変が起きた。
客たちが、いつもより多く集まっている。
そして、誰もが同じことを言う。
「ミオちゃん、君も何か脱いでみたら?」
「そうしたら、もっと楽になるよ」
「僕たちみたいに」
彼らは笑顔だ。でも、どこか"欠けている"笑顔。
ミオは後ずさる。
「私は……商人だから」
「商人こそ、感情は邪魔でしょ?」
ある貴族の女性が囁く。
「罪悪感とか、迷いとか。全部、商売の邪魔よ」
客たちが、じりじりと近づいてくる。
ミオは逃げ出したくなる。でも、足が動かない。
その時、最後の客が現れた。
レンだった。
レンは、いつものように金色の毛皮を差し出す。
「今日も、これを」
ミオは受け取らない。
「レン、もうやめて」
涙が溢れそうになる。
「どうして?毎晩、どうして愛を捨てるの?」
レンは無表情のまま、静かに答える。
「……君を好きでいるのが、苦しいから」
「なんで?」
「だって——」
レンは言葉を切る。そして、初めて、わずかに表情を歪ませた。
「君はいつか、僕を忘れる」
ミオは息を呑む。
「君の祖母も、君の父も、感情を失った。君も、いつかそうなる」
「だから僕は、先に忘れたい」
レンの目に、わずかに——ほんのわずかに——悲しみが浮かぶ。
「愛を持ったまま、君に捨てられるより」
ミオは倉庫へ走った。
棚の奥から、父の「灰色の毛皮」を取り出す。
(これを、父に返せば……)
でも、祖母の言葉が頭に響く。
感情は、返しても元に戻らない。
ミオは泣きながら毛皮を抱きしめる。
柔らかい。温かい。そして、恐ろしく重い。
(これが、お父さんの"生きたい"……)
その時、背後で声がした。
「ミオ」
振り返ると、父が立っている。
笑顔で。
「困っているね」
「お父さん……」
「商人は、客を困らせちゃいけない」
父はミオの肩に手を置く。
「君が迷っているのは、罪悪感があるからだ」
「それを脱げば、楽になる」
ミオは震える。
「でも……それって……」
「大丈夫。僕も、そうしたから」
父は優しく微笑む。
その瞬間、ミオは理解する。
(お父さんは、祖母に頼んだんだ)
(楽になりたくて)
(そして、私も——)
ミオは、自分の胸に手を当てる。
すると、黒い毛皮が浮かび上がってくる。
「罪悪感」。
重く、べたついている。触れると、指に絡みつく。
ミオは、それを掴む。
(これを脱いだら、私は——)
客たちが囁く。
「そうだよ、ミオちゃん」
「商人に、罪悪感はいらない」
「楽になって」
レンだけが、遠くで立ち尽くしている。
無表情で。
でも、その目だけが——まだ、何かを訴えている。
ミオは、毛皮を引き剥がす。
痛みはない。
ただ、何かが軽くなる。
黒い毛皮は、ミオの手の中で小さく脈打っている。
まだ温かい。
ミオは、それを棚に仕舞った。
ラベルに書く。
「ミオ / 罪悪感」
翌朝。
ミオは夜市を再開した。
看板は新しくなっている。
「感情毛皮商・ミオの夜市 / どんな感情も、お預かりします」
客が来る。
ミオは完璧に笑う。
「いらっしゃいませ。今夜は、何を脱ぎますか?」
もう、迷いはない。
客が何を求めても、ミオは淀みなく応える。
手際よく、感情を剥ぎ取っていく。
赤い毛皮。緑の毛皮。青い毛皮。金色の毛皮。
全てが、商品。
全てが、預かり物。
レンは、もう夜市に来ない。
ミオは、それすら気にならなくなった。
それから、三ヶ月が経った。
ミオの夜市は繁盛している。
客は増え続け、倉庫には感情毛皮が溢れている。
ミオは完璧な商人になった。
笑顔で、効率的で、一切の迷いなく。
学園でも、誰もがミオを頼りにする。
「ミオちゃん、助けて」
ミオは笑顔で応える。
「いいよ。今夜、いらっしゃい」
そんなある夜。
最後の客が帰った後、倉庫に誰かが入ってきた。
レンだった。
でも、いつものレンとは違う。
彼は——笑っていた。
初めて見る、感情のこもった笑顔。
「やっと、終わったね」
ミオは首を傾げる。
「レン?」
「ああ、久しぶりだね、ミオ。本当の僕は」
レンは倉庫の奥へ歩いていく。
そして、棚から**「レン / 愛」**と書かれた金色の毛皮の山を見つめた。
「全部で、九十二個」
レンは振り返る。
「僕が君に"売った"愛の数だよ」
ミオは動けない。
「何の、話?」
「ミオ」
レンは一歩、近づく。
「君は知らないだろうけど——この夜市の真の後継者は、僕なんだ」
言葉の意味が、理解できない。
「君の祖母はね、二人の子どもがいた」
レンは淡々と語る。
「君の父と、僕の祖父」
「祖母は、二人のうち一人に夜市を継がせようとした」
「でも、君の父は感情を失った」
「だから、継承権は僕の家系に移った」
ミオの背筋が冷たくなる。
「でも、僕には問題があった」
レンは笑う。
「僕には、商人に必要な"冷たさ"がなかった」
「感情が強すぎて、客の苦しみに共感してしまう」
レンの目が、何かを宿す。
「だから、君の祖母は言った」
「"完璧な商人を育てて、その商人を手に入れれば、お前も完璧になれる"」
ミオの呼吸が止まる。
「それで、君は——」
「そう」
レンは頷く。
「僕は毎晩、君に"愛"を売った」
「君が僕への愛を受け取るたびに、君の中に"罪悪感"が蓄積されていく」
「なぜなら、君は僕の感情を奪っていると感じるから」
レンは、ミオの頬に手を伸ばす。
「そして、その罪悪感が十分に溜まったら——君は自分からそれを脱ぐ」
「完璧な商人になる」
ミオは声が出ない。
「君が完璧な商人になれば、僕が君を"買える"」
「感情のない、完璧な道具として」
レンの目に、歪んだ何かが浮かぶ。
「だって、僕は君が好きだから」
「君を、永遠に僕のものにしたかった」
「感情なんて邪魔なものがない、ただ僕だけを見る——完璧な君を」
ミオは、ようやく理解する。
(レンは……最初から……)
全てが、計画だった。
毎晩の「愛」の売却。
冷たい態度。
悲しげな言葉。
全てが、ミオを罪悪感で満たすため。
そして、ミオ自身に**「脱ぎたい」と思わせるため**。
「君は、完璧だよ、ミオ」
レンは微笑む。
「もう何も感じない。何も迷わない」
「だから——」
レンは、懐から一枚の契約書を取り出す。
「君を、僕に売ってくれないか?」
契約書には、こう書かれている。
「感情毛皮商ミオの所有権を、レンに譲渡する」
「君には、もう自分の意志なんてないだろう?」
レンは優しく囁く。
「だったら、僕のものになればいい」
「僕が、君を完璧に使ってあげる」
「夜市も、君も、全部——僕のもの」
ミオは、契約書を見つめる。
頭の中で、何かが囁く。
(サインすればいい)
(もう、何も考えなくていい)
(楽になれる)
ミオの手が、契約書に伸びる。
レンは嬉しそうに微笑む。
「そうだよ、ミオ。それでいい」
ミオの指が、ペンを掴む。
署名欄に、名前を書き始める。
「ミ」
「オ」
——その時。
倉庫の奥で、何かが光った。
**「ミオ / 罪悪感」**と書かれた黒い毛皮。
それが、小さく震えている。
まるで、呼んでいるように。
ミオの手が、止まる。
レンの表情が、わずかに歪む。
「……ミオ?」
ミオは、ゆっくりと振り返る。
そして——棚へ歩いていく。
「ミオ、何を——」
ミオは、黒い毛皮を掴んだ。
そして——自分の胸に、押し当てる。
「やめろ!」
レンが叫ぶ。
でも、遅い。
黒い毛皮が、ミオの体に溶け込んでいく。
罪悪感が、戻ってくる。
一瞬の静寂。
そして——ミオの目に、涙が浮かぶ。
「……レン」
ミオの声が、震える。
「あなた、最低」
レンは息を呑む。
ミオは泣きながら笑う。
「私を、騙してたんだ」
「利用してたんだ」
「私が苦しんでるのを、ずっと見てたんだ」
涙が、止まらない。
でも、ミオは——笑っている。
「ひどいよ、レン」
「大っ嫌い」
レンは、後ずさる。
「ミオ……君……なんで……」
「なんでって?」
ミオは毛皮の山を見つめる。
「これ、全部——あなたの愛なんでしょ?」
「九十二個も」
ミオは一つ、金色の毛皮を手に取る。
「こんなに温かいのに」
「こんなに、私を想ってくれてたのに」
ミオは、レンを見つめる。
「それを全部、"道具"にするために使ったなんて」
「馬鹿みたい」
レンの顔が、歪む。
「……僕は、君が好きだから——」
「好きだから、支配したかったの?」
ミオは首を振る。
「それ、愛じゃないよ」
レンは、何も言えない。
ミオは続ける。
「でもね、レン」
ミオは泣きながら、笑いながら——金色の毛皮を抱きしめた。
「私、これ返さない」
「あなたの愛、全部——私がもらう」
「あなたが私を利用したみたいに、私もあなたを利用する」
ミオの目に、決意が宿る。
「この夜市、続けるよ」
「でも、私のやり方で」
「あなたの計画通りになんて、させない」
レンは、崩れ落ちそうになる。
「……君は、僕を許さないんだね」
ミオは頷く。
「許さない」
「でも——」
ミオは、金色の毛皮を一つ、レンに投げた。
「これ、一個だけ返す」
毛皮は、レンの胸に当たって消えた。
レンの目に、涙が浮かぶ。
「あ……」
感情が、戻ってくる。
愛が、痛みが、後悔が——全部。
「ミオ……僕……」
「二度と来ないで」
ミオは背を向ける。
「あなたの愛は、私が預かっておく」
「いつか、あなたがまともになったら——返してあげる」
レンは、泣きながら倉庫を出ていった。
一人になったミオは、倉庫の床に座り込む。
そして——声を上げて泣いた。
「祖母……お父さん……」
「私、どうすればいいの……」
でも、答えは返ってこない。
ミオは、金色の毛皮の山を見つめる。
温かい。
切ない。
そして——重い。
「私、このまま商人を続けるのかな」
「それとも……」
ミオは、自分の胸に手を当てる。
そこには、戻ってきた罪悪感。
そして——新しい感情。
怒り。悲しみ。そして、諦めきれない希望。
「……決めた」
ミオは立ち上がる。
倉庫の扉を開けると、朝日が差し込んできた。
新しい看板を書こう。
「感情毛皮商・ミオの夜市 / お返しします」
客が脱いだ感情を、いつか返す。
それが、私の新しい商い。
レンの金色も、お父さんの灰色も、私の黒も——
いつか、返す日のために。
ミオは倉庫を振り返る。
色とりどりの毛皮たちが、朝日に照らされて輝いている。
全部、誰かの大切なもの。
預かっているだけ。
いつか、返す。
それが——新しい、私のルール。
月は沈み、朝が来る。
ミオは、笑った。
今度は、本当の笑顔で。
完璧な商人には、心がいらない。
でも、心を取り戻した商人には——
返す勇気が、必要なんだ。
【終】
毛皮商ミオの夜市 〜私は今夜、あなたから何を剥ぐのか〜 ソコニ @mi33x
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