最後のズレ
夜8時00分。
世界は、いつもと同じようで、しかし明らかに違った。
空の色は鈍い灰色に染まり、
街灯の光はゆらゆらと波打つ。
建物の形が歪み、道が途切れたり延びたりしている。
日常がズレた。
誰もがそれを感じていた。
しかし、誰も口にできなかった。
そして――
そのズレは、急速に広がりつつあった。
⸻
◆ 8時15分
**田中祐也(たなかゆうや)**は自宅の窓から外を見ていた。
向かいの家の屋根が、波のように上下に揺れている。
通りを歩く人々は、互いにぶつからないように空中を滑るように動く。
声を出そうとしても、言葉が空中で分解されるように聞こえなかった。
祐也はスマホを手に取り、連絡しようとしたが、
画面には「連絡不可能」と表示される。
電話もネットも、すべての通信が途絶えていた。
部屋の時計を見る。
針は止まっている。
デジタル表示は、午前3時33分を永遠に示し続けていた。
⸻
◆ 8時30分
外に出ると、世界の景色がさらに崩れていた。
駅のプラットフォームは空中に浮かび、
車道は地下へ潜り込み、地面の上に川が流れている。
人々はただ、無言で歩き続ける。
動きはスローモーション。
目を凝らすと、誰も“顔”を持っていない。
目だけが虚ろに光っている。
祐也は後ずさり、家に逃げ帰った。
ドアを閉めた瞬間――
部屋の壁が、液体のように溶ける。
家具は空中で形を崩し、床は波打つ。
自分の足元が、確かにそこにあるのかすら分からなくなる。
⸻
◆ 8時45分
テレビをつける。
画面にはニュースキャスターが映っているはずだった。
しかし映ったのは、無数の顔が重なった影。
口を開くと、音声は意味を持たず、ただ祐也の名前を呼ぶだけ。
「たなかゆうや……たなかゆうや……」
画面の中で、キャスターの目がぐるぐると回り、
体が壁を突き抜け、天井を破って伸びていく。
祐也は叫ぶが、声は自分の口から出ず、
空中で泡となって消える。
⸻
◆ 9時00分
世界のズレがピークに達した。
道路、建物、人、空。
すべてが意味を失い、バラバラになりながらも、
同時に存在し続ける。
祐也の意識は宙に浮き、
視界の端に、同じように浮いている他者の意識がちらつく。
彼らもまた、逃げ場を失っていた。
全員が、日常の枠組みを失った世界で、
ただ存在することしかできない。
⸻
◆ 9時15分
部屋の中、机の上に置いた時計が、突然再び動き出した。
針は一周するごとに、色が変わる。
壁の中から声が響いた。
「ようこそ……最後の世界へ」
声の主はわからない。
しかし全身を震わせる冷気が、祐也を包み込む。
部屋が天井も床もなくなり、
意識が空に溶ける。
⸻
◆ 9時30分
祐也は見下ろした。
街全体が、巨大な立体パズルのようにバラバラになり、
空間がねじれて、光と闇が混ざる。
人々は同じ動作を繰り返す。
朝食を食べる人、スマホを見る人、駅に向かう人――
動作だけが残り、意識はどこかに消えている。
祐也もまた、行動のループに巻き込まれた。
⸻
その瞬間――
世界の中心で、光が爆ぜた。
目の前の景色が消え、音が消え、重力も消えた。
祐也は、ただ「存在」しているだけになった。
⸻
◆ 10時00分
世界は静寂に包まれた。
すべての街、建物、人々は跡形もなく消えた。
残ったのは、祐也の意識だけ。
あたりは暗闇。
無限の空間。
時間も存在せず、空気すらない。
耳元で、囁きが聞こえる。
「日常のズレは……こうして完成する」
祐也は目を閉じ、もう逃げられないことを理解した。
世界は、
完全に、
壊れた。
⸻
終
日常のズレ― The Fractured Ordinary ― 神田 双月 @mantistakesawa
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