散歩拒否するのは、犬じゃなかった
心地よい静寂が、世界をそっと包み込む冬の早朝。
清浄な空気は肌を刺すほどに冷たく、見上げる空は夜明け前の
人も街もまだ安眠と
「ハァ。ハァ。ハァ」
妻から「最近、太ってきたね」というさりげない一言がきっかけで始めた日課のジョギング。
始めた当初は億劫で仕方なかったが、今では早朝に走らないと、どうにも身体が本調子にならない。
それほどまでに、ジョギングは生活の一部になっていた。
そのおかげで、三十代前半としては、まぁまぁ身体も引き締まっている。
(ジョギングにここまでハマってしまうとはな……)
想像もしてなかった今の自分に苦笑しつつ、木々の生い茂った運動公園の外周コースを走り続けていると――
「ん?」
前方。周囲を照らす街灯の下に、なにかの物影が二つほど見えた。
「……なんだ?」
警戒心がサッと胸中に差し込むなか、俺は慎重にその物影に近付いていった。
間近まで近寄ると、それが一匹の犬と、道の真ん中で大の字になって倒れている人間だとわかった。
「な!?」
俺は声を上げ、慌てて倒れている人の元へ駆け寄った。
「ど、どうしたんですか!? 大丈夫ですか!」
こちらが声をかけると、倒れている人は苦しそう――な気配など一切見せず、
「あ、どうも」
などと、平然とこちらに挨拶してきた。
「え? あの? ……ど、どうも」
こちらも社会人として挨拶を返す。
……て、違うでしょ、それ!?
「ど、どうしたんですか! こんなところに倒れて!?」
こちらの問いに、倒れている人は謎に不敵な笑みを浮かべ、答える。
「どうしてか、あなたにこのミステリーが解けますか?」
まさかの謎解き!?
話がまったく噛み合わない、この倒れている人物を、俺は未確認生物を見るかのようにまじまじと観察した。
男性で、年齢は五十代後半ぐらいだろうか。
一目見ただけでわかる、仕立ての良さそうな紺色のダウンジャケットと、同色のダウンパンツという身なりをしている。
ベージュ色の防寒用の耳当てキャップを被り、厚底のウォーキングシューズを履き、厚手の手袋まではめている。
印象としては、社会的にそれなりの地位にある人のように
「……あの、どこか怪我をしたとか、具合が悪いとかで、倒れているんじゃないんですか?」
「いやいや。それはあなたの早とちりだよ。わたしは至って健康体だ」
ん? それならどうして道のど真ん中に、そんなにも堂々と倒れているんだ?
「わたしはただ、散歩拒否をしているだけなんだよ」
なんだ、そうだったんだ。それなら納得――なんて、誰が出来るんじゃい!?
「さ、散歩拒否? それはいったいどういう事なんですか?」
「わたしの横に、犬がいるでしょ?」
「……はい、いますけど」
男性の真横。
そこには確かに、
がっしりとした体格に、肩から胸にかけてしっかりとフィットした黒のハーネスをつけられ、その首元からはリードがぶらりと地面に垂れ下がっている。
耳をぴんと立て、何とも愛嬌のある真ん丸の瞳をしていた。
「この子、わたしの飼い犬で、名前をペロンX
「……なんともまぁ、個性的で、この上なく舌を噛みそうな名前ですね」
「そんな。世界一かっこいい名前だなんて、褒めないでくださいよ」
「おやおや。
「そんな、かけがえのない愛犬と散歩していたんですが、もう疲れ果ててしまい、これ以上は歩けないので、断固たる意志のもと、こうして寝転んでペロンX
飼い犬に対して散歩拒否を示すなんて……。まったく、人類の進化は留まることを知らんな!
と――
「……クゥーン」
傍らにいたペットの柴犬が、か弱く鳴いて頭を下げてきた。
その愛くるしい
(……な、なんて礼儀正しい犬なんだ……)
まさか、これほど律儀な対応をする柴犬が、この世に存在しているとは……。
それに比べて、その飼い主ときたら。
「ペロンX
いい歳して、駄々っ子みたいなことを喚き散らし、見事なまでにド直球な大人げなさを披露していた。
そんな飼い主の身勝手極まりない言い分を、柴犬はそっぽも向かず、くりくりとした目を真っ直ぐに向け、黙って聞いていた。
(……ど、どこまで立派な犬なんだ……)
そんじょそこらのロボット犬よりも、遥かに優秀なこの柴犬に、俺の心は振動フィットネスマシンに乗ったかのように震えてしまった。
「あー。地面に寝っ転がっていたら、眠たくなってきたな。このまま寝たらマズいかな」
うん。この状況で寝ようとする、あなたの神経が相当マズいよ。
さすがの柴犬も、これには反対のようで、飼い主の耳元でワンワンと抗議の鳴き声をあげた。
「おいおい。そんな耳の近くで吠えないでくれ、ペロンX
あなたの発言も、ある意味でうるさくてかなわないと思うのは、果たして俺だけでしょうか?
というか、もうそろそろ俺はこの場から立ち去ってもいいのだろうか……。
でも、この倒れている人――では絶対なく、この柴犬をこのまま置いていくのも気が引けるし……。
「ワンッ!」
と、柴犬がひと吠えする。
ハッと柴犬を見ると、そのくりっとした目が俺に――
「駄目だろ、ペロンX
えぇい、黙れ飼い主!
俺と柴犬――ペロンX
――そのくりっとした目が俺に語りかけてくる。
『僕たちのことは気にしなくていいから、ジョギングを再開しなよ』と。
そして、くるんと巻いた尻尾を、工事現場の交通誘導員のように、『どうぞ行ってください』とでも言うように大きく振ってくれた。
ペロンX
「いや〜、すいませんね。うちのペロンX
確かに。未だに地面に寝転んで、一向に立ち上がろうともせず、ペロンX
やはり、こんな欠落人間ならぬ欠落飼い主の元に、ペロンX
……でも、だからといって、俺にいったいなにが出来るというのか……。
ちくしょう! いち会社員の力なんて、所詮この程度なのか!?
「クゥン」
気付くと、俺の足元に、ペロンX
己の無力さに打ちひしがれるこちらを気遣うように、その顔は笑っていた。
……元々、犬の顔は笑っているように見えるという真っ当な意見は、どうか胸の奥に仕舞っていてほしいと願いつつも、ペロンX
その笑顔が伝えていた、『あなたが悲しむことはないよ。後は僕が何とかするから』と。
すると、ペロンX
「お、おい。勝手に動き出すな、ペロンX
飼い主が慌てて声をあげる。
その声を聞いて、ペロンX
そして飼い主を一瞥すると、また前へと向き直り、今度は走ることなく、ゆっくりと歩き出した。
「行くなって! こっちは歩き疲れて、散歩拒否してるんだぞ!」
それでも一向に止まる気配のない、ペロンX
「戻ってこい! 戻ってこいって! も、戻って……。うわ~ん! 待ってよ、ペロンX
地面に根でも張っていたかのように、寝転んで微動だにしなかった飼い主が、ガバっと勢いよく立ち上がると、そのまま泣き声と大粒の涙、そして鼻水を垂れ出しながら、ペロンX
その
まぁ、実際は五十代後半ぐらいの大人なので、中々見れない――というか、
そして見やると、ペロンX
きっとあのまま、飼い主を自宅まで誘導するのであろう。どこまでも賢い犬である。
見上げると、空は群青色から、目の覚めるような青色へと変わっていた。
この空のように、あの柴犬みたいな超絶ペットがいるこの国の未来は明るいと、俺はそんなことを思いながら、再びジョギングを再開するのであった。
―――完―――
一話完結。コメディ短編集 案山子 @158byrh0067
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