5【温かい、優しい、逞しい、親しい、狂おしい、痛ましい、愛しい、憎らしい、欲しい】
卒業証書を持ったまま、一人でふらふらと校庭を横切り、青々と輝く桜の木を見上げ、その足下を毛虫が横切っていく事に、長い間気づかなかったずなちゃんが、遅れて学校に着いた私が門を潜った瞬間、手を振って来た。隣に立った時、桜の木の根元に、まだ寒いのに毛虫が這っていたのを、異様な光景だと思ったのを覚えている。毛虫なんて、毛虫入れから取り出したんだとしても異様な存在だと思う。「高校生、なったけど、どう?」とずなちゃんが言った。
「まだ入学前だよ。今は……そ、卒業生でいいんじゃないの?」
「そっか、やだな。中途半端」証書入れのバインダーで肩を軽く叩かれる。「遅いよ」
気密性が高く、開ける度にぽんぽんと空気が割れる筒は、小学校まで。
最近の証書入れは、和紙のような装丁の、二つ折りになったバインダーに挟まれる。
「どこも卒業ブームなんで。……本当に、被るなんて思わなかった」
「でもこっちの方が人少ないんだから」
「少ないんだから別の日にしたらいいのにね」
「それじゃ、……たしかに。おかげでちょっと早く無職になっちゃった」
「中途半端とか言ったけど、ずなちゃんはもう立派な高校生だから」
「立派じゃないよ。まだ制服も、あっ」大きな口、何かに気づいたような穴の奥から、手が出て来そうだ。「着てない。しろちゃんなんで着替えてんの? 本当に急いだ?」って、私の体を上から下まで見ながら言ってくる。四文字の英単語、意味を知らないロゴが入ったブルーグレーのロングパーカー、長めの裾の下にショートパンツ、ニーハイソックス、厚底のハイカットスニーカーは、何ヶ月ぶりに靴箱から出して来た。「それで高校行ったんじゃないよね」
あの頃の私は、今はまだ、大人ぶった子供みたいな格好だってする。
「だって中学のと似てるから、着てきたら卒業生みたいになる」
「ならないよ。ここに」と胸元を指し、私に背中を向けた。「あとここも校章あるじゃん」
「よく知ってるね。立派な高校生は」
「このままだとお姉ちゃんより立派になっちゃうね」
「そう、あそうだ卒業おめでとうだ。ね、ずなちゃんこっち」
肩に触れると、妹の体は何の抵抗もなく引き寄せられ、短く「なに?」って言うけど、背中に回された腕にすぐ気づいて、証書入れを持ったままの腕が私の腰に回される。雨とか色んな匂いが染み付いた襟に鼻を埋め、頬を撫でる、まだ黒かった髪の毛先がちくちく、それを優しいと感じた。同じシャンプーの香り。同じ血を分けた人の温かみ。あと、恥ずかしがって額をぐりぐり押し付けて来るところ。緩んだプリーツが膝に当たる。その中にある物が、脆かろうと艶めかしかろうと、瑞々しかろうと忌々しかろうと、自分とどれだけ似ていようと、違っていようと、制服の下に何も残っていなかろうと、それでもたった二人の姉妹だって感じた。
もしかしたら体感では五秒、六、七秒くらいで、ずなちゃんが身を捩って抜け出した。
ひんやりした風が二人の体に割って入り、半分の軽さになったように体が揺らいだ。
ずなちゃんの腕がお腹の前に交わされ、柔和な目、笑い出しそうな空気を堪えている。
ふっ、と息を漏らしながら、言った。「式見てないくせになんか感傷的すぎるな?」
「でも今日二個目だから、卒業式。感傷的にならないと割に合わないんだよ」
「知らないけど、こっちまで移って来るところだったじゃん」
そう、したかった、いやしても良かったのだけど。
手持ち無沙汰な両腕、まだ空中に縋りそうで、無理やり後ろに手を組んだ。
反対に妹から私に移って来た物は、二度と手放さないだろうと直感で思った。
腕の中に残った空白に妹分の何かを私は、いつまでも抱き続ける事ができるだろう。
「ねえ、しろちゃん」ずなちゃんは桜の木を見上げ、地面を見た方がいいのに、って懐かしい事を感じて、私は足元に目を向けた。花びらは微かに残ってるけど、誰かが掃き出してしまったようだ。もったい、なくはないか。「天使病ってあるじゃん。社会の授業で習ったやつ」
「クジラが空飛んでる映像? ずなちゃんも見たんだ」
「あれって……やっぱいい、なんでもない。も、っていうか映像は一緒に見たよ」
「じゃあそうだ」って言いながら、私も桜の木を見上げ、真っ青な空に枝が弱々しかった。
何を言おうとしたのか、今でも分からないままだ。聞いてみようかって、思った。
「ねえ、答えてくれたら嬉しいんだけど、……無理か、無理だと思った」
何も答えない、それはマネキンのようで、無機質な人相の輪郭が光り輝くだけだ。
右手を差し出すと、それと触れ合う事は出来ない。
それの右手は肘の辺りで肉が途切れ、肘の先台に支えられた二本の筒が縦に並び、地面に付きそうな位置まで垂れ下がっている。その先端に見える数字の『8』の形、二つ並んだ洞穴の奥底に何があるのか、四一〇のスラッグ弾かもしれないし、何も分からなかった。ただ一つ確実なのは、私にそれが向けられる事は無いという事だ。私が私に、そんな事はあり得ない。
鏡を、それも紫の曇った鏡を見るように、私はそれと向かい合って、何も見ない。
頭からヘルメットのように被さった髪か、花弁かのような物が首の辺りに掛かり、がっしりした肩が首の左右に付いていて、その正面から三角に広がる襟が背中に向かってマントのように広がっていた。少しだけ細くなる腰辺りから四角い帯のような物が垂れていて、平行に並んだ切れ目は動きのない時には袴のように見える。頑丈そうな尻、腿、膝の下からはブーツを履いたような足、踵を高く持ち上げるピンヒールの棘と、それと同じくらい鋭い爪先でそれは立っていた。というのを、光り輝く輪郭の中に、目を凝らしてやっと、見分ける事が出来た。
背格好や、体格や髪の長さ、自信の無さそうな雰囲気、どれも私に似ていた。
誰にでも似ているし、似ていると感じる部分があるかもしれない、とも思った。
これは私だって思う時、大抵の人は自らに同情している部分を他者に依拠している。
その受けた傷を分け合うにしろ、癒やし方を学び取るにしろ、関わり方は常に一方的だ。
本当に同じ物とは何かを分け合ったり、学び取ったりなんて、しようとも思わないからだ。
それの背後には頭部を失い、腕が退化し、その代わりに、肉が頭上に光輪のように発達し、骨が背中に樹木のように広がり、そして大きく膨れた腹は裂かれて、まだ生きている物のように新鮮な赤い血がいつまでも流れ続けている、ある男の、見ようによっては死骸が横たわっていた。もういくつも見慣れた気で居たけど、はっきりと死んでいるのは、これが最初だった気もする。もう母は身代わりになってくれないし、偉大な帝国は彼の事を救ってはくれない。
星縞聖名に至っては、私に手を汚させるつもりだと、はっきり断言するほどだった。
「泣きたいなら泣け、敗戦国らしく。また偉大な父の国に救って貰いたいんだったらな」
その時点で既に湯田寺は戦場と化していた。
破れた座面、折れたパイプ椅子、地面に散らばってるのを、偶然見つけた星縞聖名が嬉しそうに駆け寄って、一つを手に取ると、近くに居た老人を殴りつけ、胴体に二発、銃弾を撃ち込んで戻って来た。閉じた椅子を肘に掛け、マガジンを抜いて残弾を確認する。「自決用に残しておく必要もないからな。空から、ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。失敗したら跡形も無くなるわけだ」歩きながら一度も空を見上げない、そこには何かとの信頼があった。
老人はもちろん、村人ではなくて、天狗参りの日に暴れた人とも違っていた。
参道を横に入って、蔵の方へ、なぜか星縞聖名の足取りも迷いなく、初めから蔵を、蔵の中にある物を、目指していたかのようだ。実際そうなんだろう。それが急に腕を伸ばして、開いたパイプ椅子、星縞聖名が斜めに腰掛けて、投げ出された両脚を組んだ。前方に誰かが立っていた。紺色のスーツ姿の男性、手にはファイル、ボストンバッグを肩から斜めに掛けている。
「名誉白板が居るな」星縞聖名が銃口で示し、そのまま撃つのかと不安に襲われる。
「ああ。朱田さんの娘さんと、スパイの女だ。動くな。動いたら、撃たれます」
増戸が片手を上げ、私達への挨拶か、あるいは遠くの部下に何か指示を出した。
「またどこかから狙ってるのかもしれないが、我々の狙撃手を全て排除出来ますか」
「あの些細な叱責をお前らは、メガトンボムか何かのように恐れているわけか」
「排除、出来るのかと聞いたんです。試してみますか」
増戸のすぐ横にも褐色の肌、精悍な顔付きの青年が、刃が前に湾曲した短刀を持って、蔵の方を見つめている。ククリナイフではない、浅く反っているその形、例えるなら鎌の刃、鷹の爪のような形状だ。死神か、猛禽のようにか知らないけど、私達には全く関心を向けない。
星嶋聖名は拳銃を持った右手、それと左手も上げて、無抵抗の意思を示した。「試すって何をだ、どうせ余計な事をする気だろう。話くらいは聞いてやる。我々は寛大だからな」示したのか。銃を持ったまま、母を従えたままでは、分からない。向こうも態度までは気にしない。
「あの蔵に居る物が何か、知っているみたいですね」と増戸が言う。
「母が恐れている。それだけで充分だ」
「ははぁ? ま、何でもいい。我々が横槍を入れたように思われるのは、心外ですね」そして増戸はしっかりとこちらに向き直る。特徴のない中年男性の顔立ちってだけで、何かひどく凄惨な物を見せられた気がしてくる。「遡れば、なぜこの村に戻って来られたのか、という話になります。なぜ、三つの生首を携えて、捕まりも襲われもしなかったのか。簡単な話です。村のすぐ近くまで送り届けられ、そこから歩き出したのなら、人目に付きもしないでしょう」
「なんで。送り届けたのに、また奪おうとするんですか」
私の疑問、声は届いたのに増戸には何も響かなかったようだ。
「奪おうとしているのに、なんで送り届けたか、ですか」
どちらでも。違う、そもそも送り届ける義理は無かったんだから、じゃあ、奪う為だ。
「米原笑喜、という名前でした。首を切られた人間の素性は、気になりませんか?」
「そんな事、調べようとしても、何も出て来なかったから」
「ネットで軽くでは、ね」自嘲に満ちた返答、笑みを漏らし、彼は言った。「元部下って言ったね。しょうもない女衒だが、首を切られるほどでしたか? そうは思わなかったが、しかし天使が現れたとあっては、天秤に懸けるまでもなく、あんな奴は見切りを付けるしかない」
「どこがだ、きっちり利用したんだろう」
「天使の彼の復讐も果たしてやった。その謝礼はいただいていく、道理は通っていますよ」
「天使は誰にも施しを与えない。遣わせた者のことばを伝えるだけだ」
それは十一・四ミリメートルの、真鍮で出来た円柱の先端にある陥没や亀裂ではない。
それはことばでもない、きっと災害に近い規模の、もっとささやかな何かだ。
増戸が何か答える前、きっと言いたい事は無かっただろうけど、遠くに目を向けた。蔵の前には四人組が居て、そこに倒れている人は、寺の「僧侶まで手に掛けるのか」と星縞聖名が言ったけど、増戸は静かに首を振っただけだ。よく見れば、呼吸をしているし、手が動いた。
「そんなつもりは、今のところはまだありませんよ。動くな、動かないで」
鋭く制止する声、足が瞬間的に硬直し、自分は走り出そうとしていたのだと、気づいた。
四人組は増戸の合図で立ち上がり、犬間良顕を残し、増戸の周囲に戻って来た。
「ハル、ナツ、アキ、フユ。と、呼んでやってください。フユ、本人は言えないんですが」
「今度は四季か。じゃあお前は正月ってところか」
「いえいえ」増戸が笑う。「さて次は。そちらのお嬢さん。役場に勤める朱田さんの娘です」
八つの目、一斉にこちらを向いて私を捉えると、ふっと色が消え、鉄のようになる。
星縞聖名まで、四人組に向き直って背もたれを使って頬杖を突いた。「やってみろよ」
受けて立とう、みたいな事を言うだけで、立ち上がる気もないようだ。
剣を、まだ抜かない、けど抜けるように持って、対峙する。八つの目、それと武器は何も持っていない。ナイフの男は増戸の側に付いているだけだから、大丈夫、たぶん大丈夫。息が整わない。頭がふらふらしそう。私は星縞聖名の肩に触れようと、ダメだ、してはいけない。
不意にナツかアキが顔を上げ、木立の向こうに注意を逸らした。
怖くて振り返れない、けど。何か、空気がうねるような音が、遠くから聴こえていた。
ジャイロキューブ、当たりを付けただけで、少し気が楽になる。「ドローンか、厄介な。ジャミング装置を出せ」静かに告げる増戸は、それが自動で運転できるって事を知らない。アンテナがいっぱい付いた謎の機械を足下のバッグから取り出し、アキかフユがそれを操作する間に、彼らの頭上に三台、四台の立方体が旋回し始めた。激しい音の幕が下りる。蝉の円盤が飛んでいるみたいだ。ジャミングが効かず、四人は石を投げ付け、一つの軌道が大きく逸れた。
周りには稲島のジジイも、その家族も居ないから、きっと遠隔操縦だろう。
直線で降下、上昇する寸前に放たれたピンが服に刺さり、ハルかそれ以外の体が一瞬、激しく痙攣した。「ハル! テイザーか」ワイヤーを切り捨てた立方体は頭上から離脱、するだけで帰還する事は出来ない。膝を付いたハルは、肘も震えて、体を支えるのもままならない。
しかし続けて放たれたピンを彼らはなんとか防ぎ、立方体は去って行った。
境内に車が入って来て、ブレーキが砂利を跳ね飛ばした。見慣れた車、役場で使っている白いセダンタイプ、その運転席から出て来たのは父だ。「しろ、大丈夫か?」ヨレたスーツ姿のまま、車の前を回って来ようとした父の、体が止まり、倒れて、破裂音が追い掛ける。増戸が上げていた手を下ろした。右側からボンネットに突っ伏した父の手が、真っ直ぐ伸ばされる。
すぐ目の前にある、蔵に向かって。次女に向かって、だと思ってるのかもしれない。
足下が爆ぜる。二つ、三つ、パイプ椅子が弾かれ、星縞聖名が地面に倒れた。
脚から真っ赤な血を流し、横倒しの椅子に体を沿わせたまま、笑っている。「撃つか、撃ったのか、我々の事を?」星縞聖名の事を四季が取り囲み、駆け寄ろうとした私の体は、言う事を聞かなかった。背後から拘束しているのはフユ、それかハルで、しかも剣まで奪われた。
「スパイの女には近づくな。お嬢さんは丁重に。それを交渉に使うしかないからね」
増戸の近くに引きずられる間、財布に触れる余裕もなく、まず同じ手は通じないだろう。
ナイフの男に膝裏を蹴られ、縛られた腕を頭の上で掴まれる。
「ここの人間はどんな抵抗をするか分からない。指を何本か……待て、来る」
ドアの音、今度は助手席だ。母さん、と言いそうになり、そんな訳がなかった。
出て来たのは袴を穿いた中肉中背の男、田中先生だ。三尺近い長刀を左手に持ち、彼は素早く父の体を引き摺り、車の左側面に寝かせると、こちらを見た。憤怒相、それだ。明王像のような、青黒く、陰影がぼんやりと掠れた、古く仕舞われた物の怒りが影のように張り付いて、その姿はよく見えなかった。そちら側なら射線が通らないと、思ったのかもしれない。でも撃った場所は分からない。複数個所であると考えるべきだし、どっちみち母の目からは逃れられない。そう言おうとしても、声が出ない。こちらに向かって、田中先生は足を踏み出した。
「こちらには人質が居ます。銃でも狙っている」
「問題ない」横たわったまま、星縞聖名が答える。「狙撃手の位置は分かった」
「適当な事を言いますね」増戸も声を張った。「朱田さんの娘さんと、お父さんもですよ」
田中先生は答えない。そして歩みを止めない。
私達の事なんか、どうでもいいと思ってるんじゃないかって、表情から読み取れる。
「ハル、ナツ。相手は刀を持っている。注意しろ」二人が前に、二人が後ろから、田中先生を待ち構えた。ナイフの男は私を増戸に委ね、星縞聖名からフォーティファイブを奪い取って、その場で素早く分解した。腹を蹴りつけられ、赤く粘った唾液が口から洩れて、それでも星縞聖名は笑っていた。ナイフの男が戻って来る。スプリングが私の目の前まで転がって来た。
こっそり直して星縞聖名に渡すとか、したいけど、そんな映画みたいな事は出来ない。
田中先生はハルを鞘で薙ぎ払い、ナツの懐に入って腕を巻き込み、アキの足下を掬って転ばせ、フユが近づく前に一気に駆け出した。増戸と私と、倒れた椅子を置き去って、一直線に、蔵に向かっていた。「何をしている、追え」増戸に命じられ、四人がその後を追い掛けた。
「聖名さん」
「開くんだろ、蔵が。だったらもう、いいだろう。お前はおとなしくしておけ」
「開くんでしょうか」増戸の独り言。ナイフの男が剣を拾って、鞘を払ったりしていた。
警備システムは、既に破壊された後らしい、それなのに一瞬足を止めた田中先生、そこに四季が追い付いた。振り返りざま、鞘でハルを殴り付ける。「なぜ刀を抜かない」抜けない、わけじゃない。その必要がないなら、抜かない。もちろん余裕があるなんて、言いはしない。ナツとアキが同時に迫る。一人を投げ飛ばし、田中先生は刀を抜いた。ただし、鞘の先端にある短い鞘をだ。そこから槍の穂先のような、短い刀身が現れ、仰け反ったアキの肩すれすれを通って、同時に抜かれた二尺六寸の刀が背後のフユを斬り払った。紐で引かれた鞘が田中先生の手元に帰る。納刀、と同時に、下段に構えた刀は、伸縮する槍のように間合いを惑わせる。
「なんだあの武器は」と増戸が呟く、でも私は何も答えない。
あるとすればたぶん、暗器みたいな、卑怯を捕らえて呼ぶような名前だから。
「銃剣に似ているな、それが刀に付いてるなら、差し詰め刀剣とでも言うのかな」
ただの斬撃武器全般の呼称、っていうか、星縞聖名の息が切れ切れになっている。
止血くらい、とは思うけど、人質の価値も無いし、放っておければ幸いってところか。
腕を押さえるフユが下がり、代わりに別の二人が前に出た。
ナツは手に農具を持っていた。ハルも、周りに倒れている村人、その誰かが落とした短刀を手にしていた。「行くぞ、ペイル」謎の名前を呼び、増戸が私をナイフの男に押し付けて、蔵に向かって歩き出した。ペイル、と呼ばれた男は、剣を放り捨て、私を乱暴に引きずった。
「黙示録の四騎士」星縞聖名の掠れ声が遠くに聴こえる。「蒼褪めた馬の騎手、だ」
四つに呼び分ける名前、まだそんなにあるのか、それともさすがにあと三人は居ないのか。
どちらにしろ、一人を相手に苦戦している時点で、他の事は考えてもいられない。
下段、地の構え、それは防御寄りの構えだ。
確か、動作の起こりを捉えさせずに、下から合わせる為の構えだ。
姿勢そのものが低くなったと解釈する事も出来る。それは主に上から振り下ろされる攻撃に対して、到達時間を遅らせるという意味がある。実際に、居合や合気では座位から技を出したり、受け止めたりもするし、ボクサーに対して仰向けに転がり、グラウンドでの闘いを挑もうとする例もある。それはローキックでフットワークを殺したのが決め手だったとも聞いた。
白黒かってくらい古い映像を持ち出した、村の誰かが教えてくれただけの事だけど。
特に槍は突き主体だから高く構える意味も、あんまり無いんだろう。
銃剣のようなって意味なら、言ってみれば鞘剣か、それが突き主体かは知らない。
あの武器さえ、ほとんど見た事がない。柄頭に、鯉口に、とにかく刀に仕込み武器はよくあるけど、その切っ先は結局、抜刀した時の剣先で済むと私は思ってしまう。しかし現に田中先生は四人、相手にしても耐え凌いでいる。前後を警戒しながら、負傷したフユが居る方へ、間合いを詰めていた。分かっているから、背後の二人も攻める隙を窺って、どんどん距離を詰めて来る。送り足を軸に、刀は前方に残したまま、振り返る。ちょうど左腰にそれを付けた。
鞘が向いている後方、前方には刀を抜き放って、両方に対応しそうに見える。
しかし同時には出来ない、出来るわけがない。
腰を落とした田中先生は、前方から迫るナツに対して抜刀、しなかった。
柄で攻撃を逸らし、腕に絡めて落とそうとした所で、ナツが大きく飛び退いた。
その刀を勢いよく引き寄せる。
田中先生の背後、鞘先の刃は地面に突き立てられ、アキの右足の内側に入った。
踏み込み損ねたアキの攻撃を仰け反って躱し、体勢を戻す寸前、跳ね上げられた鞘がアキの内腿を掠め、手の中で返した刀を八双に構え直して、再び背後へ袈裟懸けに振り下ろした。その動きの、体を丸めるような小ささ、受けようとしたナツの農具をすり抜け、その瞬間、ほんの僅かに鞘が伸びた。鍔元に白銀が閃き、鞘先で、ばっくり割れた膝頭から鮮血が爆ぜた。
左手で逆手に抜刀、背後を斬り上げると、そこに迫っていたフユが距離を取り、右に振り返りながら鞘を振り抜いて、ハルの攻撃を受け、その下から逆手の刀が胴体に斬り込んだ。その動きは明らかに窮屈そうだった。その場に足を縛り付けたように、田中先生は上体を捻るだけで動こうとしない。なぜ居着くのか、それは戦場という物が常に稀少で、不安定だからだ。
天狗ではない私達は、地面の、変動する相場を正確に把握しなければならない。
平地でも、穴があったり、濡れて滑ったり、一歩先には何があるかも分からない。
もしもそこが吊り橋の上だったら、断崖絶壁の、あるいは百尺竿頭の一歩を進めるのか。
今立って居る状況、それ以上に安心出来る保証がないとしたら、動けるだろうか。
それでも動かなければならない。
居着くには、素早く多くの情報を読み取り、それを的確に利用しなければならない。
蔵の前にはセキュリティシステムがある。警報は言うに及ばず、罠を仕掛けてあると聞かされた事もあった。子供が無暗に近寄らないように、あえて怖がらせたのかもしれないけど、もしかしたら私がずなちゃんを過度に怖がらなくていいように、あえて遠ざけてくれたのかもしれない。その一部でも利用できれば、と考えているのか、そういう事でも無さそうだった。
そこで居着く理由、見ている私には分からず、でも私にしかそれは見えていない。
私に何か伝えようとしてる、もしくは教えようとしてるなんて、考えるべきだろうか。
たとえばそれが閉山の事なら、地面になって全てを受け流すという技だけど。
先生は私にそんな拘束は簡単に抜け出せるだろうと言っているのか。
ほんの少しの身動ぎさえ「うごくな」他人事みたいな命令、きつく締め付ける縄で済まされて、次には指、一本ずつ折られ、裏返した熊手みたいにされるだろう。息を大きく吸い、膨らんだ胸の中、肺が痛みを訴えている。背後で砂利の音、引き摺られ、ペイルのついでに振り向かされた私の目の前、星縞聖名の足が震えながら、やっと立ち上がる。「うごいたらしぬ」
地面と一体に、平坦になるイメージ、根身、そして根心の教えを全身に伝わらせる。
喉元に短刀、私が死ぬかもしれないのに、星縞聖名は気にも留めず歩いて来る。
右足は真っ赤に染まり、背後に点々と死出の道筋を残している。
「分からなかったですか。人質がではなく、これ以上近づいたらあなたが、って事ですよ」
「あの。聖名さんが動いたら、死ぬんですけど」
「なら天にでも祈ってろ、お前のは祖父だったか」
星縞聖名を警戒しながら、喉元のペイルの手、彼は一瞬で私の首を切り離せるだろう。
増戸は遥か遠く東の空を見上げて、偉大な帝国の母に畏敬の念を抱いている。
でも違う。天は、真上の事だ。
ジャイロキューブは単体での離陸機能を持たない。
取っ手が付いているのは、投擲などの補助動作で加速を与える為、ただし例外がある。
磁力で連結したキューブが、三台なら縦一列、五台なら十字型、七台なら眼鏡型、九台なら正方形になって加速、連続して切り離しを行い、最終的に中央の一台を飛行状態に持って行く事が可能なのだ。それこそロケットのように。ほぼ垂直に飛び上がる理由、一つは自由落下による更なる加速を得る為、もう一つは自由落下によって駆動音を鳴らさずに接近する為だ。
稲島善人は私の祖父ではなく、私にとっては天でさえないかもしれない。
祈る必要も無ければ、見上げもしない、でも天命なら、降って来るのを待てばいい。
そして、来た。有り得ない位置からの、狩猟罠。
ペイルの肩に引っ掛かったワイヤー、その時点でキューブは地面に叩き付けられ、首を絞める為にワイヤーが唸りを上げ、巻き取られる。この男は、でも、この蒼褪めた騎士は、息が止まる寸前まで武器を手放さないだろう。首に当てられた短刀、すり抜けるには脱力、それと相反する粘着力を使わないといけない。そうしなければ首は、いつでも、切り離される。この恐怖をリアルにしないといけない。切られてからでは遅くて、その前に恐れるのは、難しい。
意を決する前に、心臓に恐怖だけを残して、短刀が消えている。
どこか、より確実な場所を、脇の下、缺盆、鳩尾、それかもっともっと、急所を。
絞って、握り込んで、すり潰すような場所を。考えない、考えてはいけない。
私も彼に、同じ事が出来るとして、やらないといけなかったなんて事は考えない。
腰に衝撃、いきなり蹴り飛ばされた。
横倒しの視界をオーバーサイズのジャケットが流れていった。
真っ赤に染まった右足、固く地面に突っ張って、星縞聖名は乱れた髪を耳に掛ける。
左手でジャケットの左襟を掴み、右手を上衣の内側に差し入れた。拳銃、いや。他に持っていたのは、水鉄砲だったはずだ。出て来たのは黒い、銃にしては太くて軽そうな扁平な物体だった。回転する短刀、それは星縞聖名の右手を一緒に貫通し、そのまま後ろに跳ね上げた。
右手を庇い、吠える。「くそっ、速すぎんだっ、この」銃のホルスター、軽いわけだ。
追い掛ける銃声、破裂音、破裂音が腹部と、そのずっと向こうの地面に穴を穿った。
「何のハッタリですかそれは。武器も無しに、よくもまあ追い掛けて来ましたね」
目の前に剣。二つの櫃、輪状の金具が付いた、反りのある幅広の片手剣が落ちている。
手を伸ばした瞬間「おっと、いけない。それを拾ったらもう、敵です」と言われ、そこにある銃口、私に狙いを定めていた。シリンダーがあって、正面から弾丸が見える。薬室の右に一発、その下の左右、半分隠れている二発、だから引き金を引けば次弾は確実に発射される。
距離は五メートル程度、剣を抜いて踏み込むまでに一発、更に回避か二発目が来る。
「そ、そんな事より、四季が。負けますよ」
「まとめて呼んだら意味がないですよ、おっと」と増戸が半歩動いた。
首を掻き毟り、ふらつくペイルの足取りは、増戸に軽く避けられ、遂に膝を付き、蹲るような姿勢になる。蒼褪めたどころか、その顔は赤黒く鬱血している。冷めた目で一瞥、それから増戸は二度とペイルに気を払わなかった。「朱田さんを助けたいのなら、おとなしく蔵までついて来てください。死にたいなら、どうぞ。その武器を取って一か八か挑んでみたらいい」
大きな音、心臓が止まりそうになる。銃声じゃない、銃声じゃなくて、蔵の方からだ。
「田中先生」まだ、立っている。立っているだけだ。
「どうするんですか」と聞くのは、どうにかさせたいらしい。「従うか、死ぬか」
抗うではなく、死ぬ。従っていたら、でも、その間に父が死んでしまうかもしれない。
武器を取るか、それとも取らないで、車まで走って、そのまま逃げられるだろうか。
増戸は私を必要としている。天使が私を必要としている、と増戸は考えているからだ。
本当にそうだったら、逃げても抗っても、今はまだ撃たれはしないはずだ。
だからって。だからって。
「聖名さんも」私は、淡々と、それを言う事が出来た。「松尾さんも、克聖も、戸波のおじいさんも、神辺さんも。全員。襲われた人、全員、助けたい。けど、助けられるんですか。私が抵抗しなかったくらいで」父を、田中先生を、そこから切り分けて、生かして何になるか。
剣よりも重く、価値のある物があると、実感できるのか。
また大きな音、蔵が揺れるような衝撃に、さすがに増戸の注意が逸れる。
一発目を飛ばして、回避か、相打ちの一発を迫る事が出来る、隙が出来ていたのに。
私も蔵に目を向けて、そのまま釘付けにされた。
左側のドアが吹き飛んで、ナツの体に覆い被さっていた。倒れているフユとハル、田中先生は蔵の壁に背を預け、そこから座り込むまでの、斜めの軌跡を血痕に残していた。蔵に入ろうとした、アキが弾き飛ばされた。閃く分厚い刃、その長い柄に続いて、ジャージ姿の女性が戸口に現れた。それからもう一体、光り輝く輪郭を持った人影が、蔵の奥の方に控えている。
「目覚め……」たのか、と言う前に増戸は何かに全身を打たれ、地面に投げ出された。
剣を拾い、一瞬だけ、増戸を確実に仕留めてから、という誘惑にも似た発想が過った。
蔵、増戸、いや見比べるまでもない。私は決して手を汚したいわけじゃない。
急いで蔵に向かうと、冷美さんはドアの横に回って、私を出迎えてくれる。
蔵の中から見えないように、壁に身を寄せて冷美さんが言った。「遂に生まれたのよ」
頭が重くて、冷美さんの泣きそうな声、遠くから、何重の靄の向こうから聴こえる。
「生まれた、愁生……さんが?」
「呼び捨てでもいいのに」冷美さんが首を振り、蔵の中を横目に見る。「生まれたのは、しろさん、直接見た方が早いと思うから。でも、ねえ。それが何だとしても、愁生の事は恨まないであげてね。あの子はあの子なりに、頑張ってたのよ。さあ、こっち」と促され、背中を押される間、一つの疑問を発する事も出来なかった。本当は、見る前に知りたかった事がある。
秋津愁生だった物は、どうなったのか。
戸口に押し込まれ、薄暗い蔵の中、自分の影を投げ込んで、そこに私は居た……
目の前に落ちている拳銃、手を触れるとグリップは厚みがあり、小さかった。ハンマーがあるはずの部分まで覆い、その右側面にも、針の穴ほどの小さな穴、銃口だろうか、反対側にトリガーとは別の指で押すスイッチが付いている。握った途端、重量が手の中を支配し、トリガーの固いバネの反発が私を前に引いていくようだ。照準はただの、凹と凸、銃身の上にある。
片目で覗くと、二つの細い隙間、左右に並んで交互に揺らぐだけだった。
背後、何かを察知して銃口を向ける。左手でグリップを支え、それを持ち上げるのか、引き寄せるのか、挟み込めばいいのか。扱い方は何も分からない。止まっていた息が、浅く、浅く再開され、誰も居ない境内に対して、警戒が解けそうになる。湯田寺、社務所の方、思い出した。目を向ける、白い車の横に人が倒れている。父さん、お腹を押さえて苦しそうだった。
生きているなら、いいか。救急車は呼べるだろうけど。
そうだ、蔵。私は増戸と対峙し、武器を取るか、死ぬか、あるいは抗うか選べと言われ、武器を取ろうとしていた。剣、どこにも落ちていない。拳銃よりも、あれの方が手に馴染んでいるのに、どうしよう。撃った事があるのは唯一、水鉄砲くらいだ。蔵を見ると、左側のドアが吹き飛んでいた。そして蔵の奥に、そうだ。目覚めたんだ。何が、分からないけど、私はそう口にした。恐れていたからだ。そして歩いて来る人影、着古したジーンズ、ジャンパーもよく知っている。落としたはずの剣、ちゃんと左手に持ち、すぐ抜けるように柄に手を掛ける。
私が居た。
なんていう顔を、当惑だろうか、悲しそうに頬も眉も歪ませ、奥歯を噛んでいる。
朴訥として、意志薄弱、意欲も無さそうで、体幹は安定してるのに動作に自信がない。
愚かしくも、こんなかわいそうな人間が、田舎の村では、のうのうと暮らして行けるのだ。
「なん、で?」私にか、問うような言葉は途切れ、柄を握る手に力が入る。
こちらこそ問い質したいけど、それは私にじゃない。
「あ、父さんは。生きてる」一瞬横に視線が動いた、この隙を突く事も出来ず、私は私の父がまだ無事な事を再度確かめ、安堵を感じた。救急車くらい、呼べるだろう。生きてるし、こっちを見ていないといい。たった一人の娘が一人、目の前で死ぬかもしれないなんて、それが私か、もう一人の、どちらだとしても、さすがにかわいそうだから、私だって撃ちたくはない。
斬られたくもないけど、両方を取る事は、一人では到底難しい。
「蔵の中は、どうなってる?」
私の質問は、それを私が知らないという事を、理解している問い掛けだった。
銃の間合い、剣の間合い。
そこに初速の差などは関係なく、あるのは点と線の違いだけだと言っていい。
どちらも当たれば致命傷。
五メートルなら踏み込み一回で届くし、それは人差し指を引き切るよりも短い。
十メートルなら。
百メートルなら、いよいよ銃でもまともに当たらないけど、じゃあどこまで逃げて、どこまで追われればいい。たったの五発、の内の残り三発で、牽制し、無力化し、仕留めさえしないといけないとしたら、距離を取るのは脚力の勝負になり、しかも五メートルか、単純な剣のリーチで言っても、三メートルくらいまで迫られて、脹脛の一つでも斬られたら私の負けだ。
自然と右手を引き、空の左手を前に出していた。
攻めの銃、先手の銃なんて、考えるまでもなく、もはや手遅れだった。
相手はまだ剣を抜かず、睨みつけられる手元、強張った人差し指に力が入り、入ってもまだ誤射すらしない引き金の固さまで、見抜かれている。これは、ほとんど相手の体に押し付けたと同時に撃つしか、確実に当てる手段はない。そう、思わせておき、親指を僅かに浮かせる。
押す、スイッチは音もなく沈み、瞬時に相手の体に赤い、点が、灯る。
レーザーポインター。だと思った。
右に、一歩。駆け出した相手が左腰から剣で斬り払う。飛ぶ、飛べ。後退し、抜かずに振るわれた鞘の終わり際を掴もうと、いや。間に合わない。距離を取りながら、相手の左に付けるように、回る。もう少し、少し。踏んだ。柔らかく潰れる嫌な弾力、膝を屈し、その辺りを手で探ると、キューブがあった。それだけ、役に立つ物は何もない。キューブももう動かない。
相手が剣を抜いた。同じように、撃鉄を起こしたかったけど、そんな機能はない。
近づいて来る相手、地面に膝を付いた私が、お互いに向かい合う、あるいは。
相手は高所、自分は低所に居て、壁面で上下に重なっている、とも言えるのでは。
練習した。下段、脛斬りを、そうと覚られずに振るのには苦労した。
でもそれは、上中下の下を、っていう事でしかない。屈んだ姿勢に対して、相手は下段しか振るう意味がない。しかも銃持ちに対して、待ち気味に合わせようとしている。前に、空の左手を前、銃を握る右手を後ろにして、前に進む。剣の、一足一刀の間合い、ちょうどに入る。
気掛かりなのはまだ鞘を捨てていない事。
巌流島の逸話が思い出される、あの国会議員同士の対決。ノイズだ。何も考えるな。
鞘の太さは、櫃に入るだろうか。何でそれを、試しもしなかったんだろうか。
手元でリーチが二倍にも伸びたら、ここで組み上げる算段は全て崩れ出してしまう。
銃口は相手の腹部に。
剣先も目線の位置に、私から最も大きく見えるように下段に構えられている。
踏み込む。合わされる、違う、振りだけだ。
相手は剣先を上げながら、後ろに下がった。
拳銃、照門の辺りを咥えて、タックルで飛び込む。取り方は何でもいい、でもなぜか、私はスクールボーイスープレックスを思い出していた。脚の内側を取る、そこを軸に、背後に吊り下がる。腰の横、破れかぶれの剣閃が掠めた、気がした。きっと正面に居たら斬られていた。
それは学校で最初に習うような、という意味であり、それは武術的に言えば捨身技だ。
股の下から片脚を抱え込んで、後ろへ引き倒す、そのまま足を取って押さえる。
相手はフェイントを警戒していた。振り下ろした瞬間、逆に撃たれる可能性をだ。だから近かった。私が下がった所にまで、まだ斬り込める距離を保って、こんな消極的で、今までどうして生きて来られたのか、空恐ろしくなる。母だ。星縞聖名が全部蹴散らしてくれていた。
足を抱えて裏返しながら思う、体ばかり立派になって、まだほんの子供みたいだった。
それから武術的に言うなら、この技は受け身こそが重要っていう側面もある。
だから少年部の中で流行っても、危険な技だったとしても、禁止まではされなかった。
受け身が取れないなら、この先も道場では、いや。どうでもいい。背中、右腕、順番に押さえ、手首を極めて剣を蹴り飛ばした。シリンダーを唾液が流れ落ち、どちらの手で銃を持つか考えて、何も思い付かない。首に腕を回し、私も息苦しさを覚え、何も考えないようにする。
たとえばそう、打撃は殴るも蹴るも、斬撃でさえ、一撃で致命傷に達する事は稀だ。
銃だって、当たるか外れるか、そこに問題がある。戦場で受ける傷の多くは、爆弾や、爆弾に仕込まれた破片や鉄片、建物などから飛んだ瓦礫の方が、銃弾よりも多いらしい。一射一殺などは魔弾の領域で、単射、連射を問わず、銃撃戦は弾幕を張る事に多く弾丸を割いている。
もちろん二百本ある骨の全てが対象ではないとはいえ、関節は取れば大抵は極まる。
外したという時、空を掴んで極めていたなんて事は起こらない。
腱の可動範囲内で叩くより、範囲外へ捻じった方が、簡単だって誰もが思うわけだ。
ここまで来れば剣のリーチも恐れるに足りないけど、これで不安が全て取り除かれたってわけじゃない。私の目は、車の向こうから飛び出した別の人影、その焼けた黒い肌、手に持った棍棒にも気づいている。それこそ。それこそまだ、リボルバーなら五発。剣なら血と脂で斬れなくなるまで。棍棒でさえ、肩の力が続く限り、振り回せば二、三人は足止め出来るだろう。
じゃあ一人と組み合っている間、もう一人が現れた時はどうしたらいい。
グラップリングは、一対多には向かない。向かないかさえ分かっていない。少なくとも私はまだ、それを習っていない。いつか出来るのだろうか。いつか私は襲い来る複数の敵を、蜘蛛の巣で絡め取るように自在に拘束出来るのだろうか。そんな技術が存在出来るのだろうか。
せめて縄や鎖を用いる捕縛術をやわらと呼べるなら、今ここで何人も吊るしてやるのに。
紐状の物さえ、手元には何もない。
来るな、来るなと願って、八本の手足が自分の物になるように、更に力強く締め付ける。
明らかに異質な音が響き、腕の中で何かが大きくズレて、何もかも重くなる。
それでもまだ抱える腕を解く事が出来ず、噛み締めた銃の奥で私は呻いている。
どちらが本物か、考える意味はなく、もしも自分が偽物だったら、どうだとも言えない。
でも、私は。
これを命じられた時、最初、最初の最初、この件に国が関わってるなんて思わなかった。
「ブラックか」という呟きが聞こえ、視界の端で星嶋聖名が体を起こしていた。「黒い馬の騎手は飢饉をもたらす。いや、色は何でもいい」右手、右足を押さえ、パイプ椅子の方へ這いずって行きながら、不意にその頭だけがぐるりと向きを変え、言う。「お前は誰だったっけな」
口を開き、拳銃が落ちた。「わら、私は、聖名さん、ずっとさっきまで一緒に」
「そういう事か」椅子を立て、攀じ登って星嶋聖名は体を凭れさせた。その真正面、新たに別の人間が現れて、血で汚れた鎌の刃のナイフを拾っていた。「ああ、お前は分かる。お前はホワイトだな」そいつは別に、肌が白いわけでも、そもそも馬に乗ってるわけでもない。手の中でナイフを返し、逆手に持ち直して、それを椅子の真上に振り上げようとしていただけだ。
私は咄嗟に叫ぼうとして、それより一秒も早く、ホワイトが横倒しに吹き飛んだ。
立て続けに五度、空気を震わせるような無音に耳を閉ざされ、気が付くと風や、木々のざわめきや、人の息遣いが騒音となって耳に溢れた。立ち上がり、濡れたリボルバーを拭って、尻のポケットに押し込んだ。剣と鞘、それぞれ離れて地面に落ちているのを回収、納刀する。
遠くでサイレンが鳴っていて、誰かが救急車を呼んだらしい。
でも誰を搬送するべきなんだろう、まず父と、私と、田中先生と、星縞聖名と。でも私は。
正門の方を見ると、白い車に向かっている、私が居る。
一人は棍棒、もう一人は猟銃を持って、車の後部に倒れていた。もっと近くには二人、鎌の刃のナイフを持ったのと、首を絞めつけるワイヤーを掻き毟って、悶えている私が居た。見ている私にまで伝わって来る、その息苦しさ、思わず首に手をやって、何も無いのに寛げようと爪で掻いていた。膝の力が抜け、地面に倒れて、何も踏まない足、バタバタと空を掻いた。
それがホワイトと、ペイルだったとしたら。
車に向かっているのは、残りの色、ブラックと、あと一人は何色だろう。
「聖名さん」
「レッドだ。あぁ、くそ……痛いな。母の……おい、代わりに声を聴いてくれないか」
「なんの?」思わず聞き返しながら、空を見ようとしている。「無理です。あの」と、何と断ればいいか分からず、たぶん最初に救急車に乗るほどじゃない、軽傷だから、って言おうとしたんだろう。「私は、蔵に行かないと。あれ、違うな。もう目覚めたから、あれを壊し、て」
蔵、の方から。今度は三人、農具を持って駆け寄って来る、私達が。
違う、こっちじゃない。私はお前らに。
「父親だろう」と星縞聖名が言った。「車の側。助けに行かないのか」
ああ、そうか。そうだった。
ワイヤーで首を絞められ、息絶えた私を横目に見ながら私は、歩き出そうとした。
別の足音、すぐ近くで、跳ねた。
振り向きざま、抜き放った剣、鎌の刃のナイフを滑り、反らされ、目の前に誰も居ない。
上、じゃない。左、右、下だ、屈んでいる。右手首に圧迫感、掴まれたと同時に、喉元に刃が迫っている。首を反らせ、仰け反って避ける。「行かせない」と相手が言い、再び首を狙う鎌の刃を鞘で払う。「お前は、私じゃない」と、そんな当たり前の事を、相手が私に言った。
だから利用しようとしたのに。
今度は右手首に刃が迫る。
肘関節を固められ、相手の腕の中に巻き込まれた剣が地面に落とされた。
直後相手の体が肉迫する。
肩で、当たられ、尻もちを衝いた所で、突っ張らせた腕の先に相手が立っている。
落ちて来た切っ先を、足を振り上げて払い、そのまま相手を蹴り、左手で後転する。
親指が緩んだ隙を突いて、抜けた。目の前、鈍い黒鉄色が光り、手の側面を斬られる。
同時に鳩尾へ、順手に持った鞘の先で突きを入れる。だが躱された。
体を捻りながら、相手が私の膝を踏んだ。右肩を掴み、そのまま私の頭を飛び越える。
背後に着地、した、足音だけが聴こえた。顎の右下、冷たい熱が走り抜けて、襟元に伝い落ちる。引き倒され、体を裏返された。右肩、右肘、背中に乗せれらた膝で肺が押し潰され、息が出来なくなる。再び、首筋に冷たい感触、首が熱くなり、その他の全てが冷たくなった。
強烈な睡魔、それと乗り物酔いみたいな、息苦しくて、寒い。とにかく寒くて死にそうだ。
砂利を踏む音が聴こえ、いくつも聴こえ、それが近づいて来る。
来なかったのはナツだけ、それくらいの事は分かる。
左手の指から鞘を剥ぎ取り、落ちた剣を鞘に納めて、立ち上がる。
私が三方に展開し、白い車の方へ、徐々に詰めて逃げ道を塞がれる。
居着くな、立ち止まるな。
ハルとアキの間から、走り抜けようとした。左から農具が迫っている。鞘で外から受け、脇の下を取って投げた、と同時に、逆回転しながら、抜いた剣を喉元に添えた。つんのめりながら、ハルが鮮血を噴き出して倒れた。アキは両手に短刀を持っている。右手の突き、胸元すれすれで避け、左手は振り下ろし、懐に入って胴を薙ぎ払った。眼前、鉄の歯が全てを覆った。
右目から左顎に掛けて、先端の鈍い鉄の歯がゆっくりと沈んでいく感触に襲われる。
ちょうどその時、門を潜って救急車が滑り込んで来た。
白い車のすぐ横に付け、後部ハッチがゆっくりと上がる。
私は剣と鞘を奪い、そちらに駆け寄ろうとした。棍棒を持って、ブラックの私が私に向かって来る。バットよりも太く、細い持ち手にはテープ、テニスのラケットみたいだった。テニス部に入ろうかって話をした事を思い出した。合同の体育の授業、ずなちゃんは上だけジャージを着て、私はジャージを腰に巻いて、袖を結んでいた。確か姉妹で一緒の部活は嫌だって言われて、私は少し、ほんの少しだけ悲しかった。結局、ずなちゃんは何部にも入らなかった。
何で私はそれを覚えているのか。
だって私は今、首を、違う。首を、絞められたのを見て、助けようともしなかったんだ。
ああ、ダメだ。剣を抜く。鞘は腰に付けた。
短剣術、片手剣術は両手で扱う物か、片手の場合、空いている手は腰に添える。
最初の最初、うっかり斬られないようにって教わったの、子供向けの注意だと思った。
棍棒を肩に乗せ、相手が打者のような構えを取る。
右に出ると、相手も少しだけ右に出る。その体に父の姿が半分くらい隠されている。まだ息はあるか、間に合うだろうか、私の心を見透かされるようだ。ストレッチャーではなく、折り畳みの担架が出て来て、そして無音が一回。二回、透明な半球のように頭上に覆い被さった。
大振りの棍棒に対して、こっちは刃を当てるだけでいい。
右手を突き出し、昂然と距離を詰めていく、その間に相手から反応はない。一つだけ引っ掛かる。棍棒は頭の向こうで、おおよそのリーチも見えない。まあいい。注意するべきは足の方だ。切っ先が届くまであと、十歩。九歩。そろそろ、と思う前に、前足が強く踏み込んだ。
咄嗟に手を引いて、間合いを外した。
目測、七十センチメートルの棍棒、もう一瞬遅ければ手の骨を砕かれていただろう。
そして甚大な隙を晒した右半身に一気に詰め寄り、そして見てしまった、真っ暗な目。
その銃口、30‐08の、半自動式狩猟用小銃は、照星、照門がぴったり重なっていた。
眉間。その閃きは、脳の奥が破裂する衝撃、空気が裂けて、続けて来た銃声は聴こえない。
後頭部に血漿の花を咲かせ、泥中を浮かび上がるような緩慢さで、倒れていく、その姿をスコープに捉えながら、私はゆっくりと立ち上がった。車の後部から慎重に体を出し、棍棒を持った相手、たぶんブラックの方へ歩き出す、その「今の誰を撃ったの?」と問う声に、一歩目が引き止められる。すぐ真横、救急車の運転席はドアが全開で、目の前に薄青い救急服、ヘルメットを被った私が居る。「倒れてるのは」と瞳が横に動く、その隙に素早く猟銃を構えた。
眠っているように静かな歩み、一つ、二つ。目が見開き、相手が言う。「あっ!」
気にするな。気にしてはいけない。
後退するか、心臓を狙うか、悩む前にどちらも行っていて、なぜか銃が重くなる。
外側から銃身、スコープを掴まれ、重量がぐっと増す前に、私は右手を離していた。
射線の外を維持し、銃床で肘を取ろうとして来る相手、反対に私は垂れたスリングベルトを突っ張って、銃身ごと腕を取り、内懐に入って相手の襟を掴んだ。撃たれないなら、撃たなくていい。猟銃は両者の体に挟まっているだけで、もはやどちらのでもない宙吊りの関節だ。
先に持たれていた方は撃たれる事を警戒し、捨てた方は奪われる事を警戒しなくていい。
左に振り、相手が大きく頭を仰け反らせ、崩れた瞬間、足の内側に入り、腰に相手を乗せ、屈もうと、した。頭に衝撃、電源が落ちたように暗転し、天地が消える。殴られた。いや、もっと重くて固い、何かが、暗い中で、息が出来なくなって、少しずつ視界が晴れていった。
ヘルメットを被った、私の顔、血に汚れている。違う、鍔の部分に付いているだけ。
地面に仰向け、背中に砂利が当たって痛く、喉に銃身が食い込んで、何も、出来ない。
動かなくなったのを確認すると「行って!」と車内から様子を見て来た私に叫び、猟銃を拾い上げた。絡まった腕が持ち上がって、再び力なく投げ出された。あと何発、どうやって確認するんだろう。まあいい。砂利に打ち付けた、ひび割れた音の先、棍棒が跳ねて転がった。
ブラックの私が倒れた私から剣を奪い取って鞘に納めていた。
運転席のドアが閉まる。救急車が勢いよくバックし、砂利が斜めに滑って、それから急発進で正門を潜っていった。サイレンは遠く、それがたくさんあって、徐々に近づいてくる。今度は何だ、パトカーと、鐘のような音、消防車も来ているらしい。そして一歩、一歩ずつ、根を張るように砂利を踏む音、静かに近づいて来るのを、先台を支え、銃床に頬を付けて構える。
銃声に、右手の人差し指が痙攣し、冷たい引き金に触れて不意に我に返る。
何を、しようとしていたんだ。私は、人の命を救わないといけないのに。
目の前で銃声、銃声が続き、次に撃鉄が落ちる音だけ、粘るような響きを長く残してから消えた。倒れた私が、目の前で血を流している。背中、腎臓の辺りに一つ、赤い染みが広がっていて、あとの二発は、体にも、地面のどこにも、弾痕は見つからなかった。負傷した手で、ダブルアクションリボルバー、二キロ、三キログラムもある引き金を絞ったら、当然の結果だ。
星縞聖名は左手で脇腹を押さえ、伸ばした右手、銃口の横に赤い小さな光点が灯る。
……ニシが走り去った先、境内の中で入り乱れる私達、どれがニシかは分からなかった。
いきなり蔵の屋根から飛び降りて来た。
そのまま天使に撃たれて真横に吹き飛んだ。
その次には剣と鞘を拾って走り去った、私の後ろ姿を、頭痛と腹痛に襲われながら、見ている事しか出来なかった。「もう大丈夫なの」背中を摩りながら、冷美さんが不安そうに横から尋ねて来る。「もしあれだったら」後ろを振り返り、唾を飲んだ。「ここから離れようか」
私は酸っぱく込み上げる物を抑え、固く強張る首で頷く事しか出来ない。
私は後ろを振り返らない。
肩を借りながら、ゆっくりと外に出た。
冷美さんが一瞬足を止め、生まれた物に対して何か、祈るような動作をしていた。
「この状況が、何かちょっとでも良くなればって思ったんだけどね」
血で汚れた薙刀、小さく跨いで、ドアの下にあるアキの死体は少し迂回して避けた。
周りには村のおじいさん、おばあさんが倒れていて、みんな蔵を守ってたみたいだった。
ジャイロキューブがこんな所にまで、それから千切れたグラブワームも落ちていた。
蔵を離れれば、少しだけ体が楽になり、それでも迫り来る不安や重圧は拭いきれない。
前方、白い車に向かう途中で、あの無音が襲い、私達は横に逃げた。見なくても、天使が両腕の上下二連装砲身で、何か、たとえば私を、撃ったのだと分かる。再び前を向くと、立ち上がった私が私を順番に殺して回っていた。一人を襲い、すると必ず、次の一人に襲われる。
増戸、ニシ、ペイル、ホワイト、ハル、アキ、フユ、レッド、そして最後に救急隊員。
見ている事しか出来なかった。
そして星縞聖名は、撃ち殺したばかりのブラックの私を見下ろしたまま、動かない。
そこら一帯、赤色灯が回っている。
血溜まりが熱され、陽炎になり、霧になったみたいな、幻想的な光景だった。
「聖名さん」
「見てみろ。人助けも出来るらしい」横柄な問い掛けに、なぜか判断が掻き乱される。星縞聖名が指しているのは、薄青い救急服、ヘルメットの鍔が血で汚れた私だ。猟銃を両手で抱えていて、しかし構えは解いてしまっている。「記憶の混濁は最初だけか、かわいそうに。そのまま戻らないよりは、かわいそうだ、お前らは。それで次は、誰がそいつを殺すんだろうな?」
「そんな事は、もう」なぜ終わりか、それは、私がオリジナルだから。なのか。
「放っておくわけにもいかないだろう。もはや見た目だけじゃなく、中身も全て、お前だ」
「あなたには」冷美さんが代わりに問い掛ける。「何でそれが分かるの?」
「行動や反応にそいつの性格が出ている。何より母がそれを区別出来ていないのが証拠だ」
「母?」
「なんか人工衛星みたいなのでずっと監視してるみたいです」
「そう。それで、あなたはあの天使を、どうするつもりなの?」
「我々は、どうだろう。考えてる最中だ。壊すかもしれないし、奪うかもしれないな」
「しろさん、あの人も天使が撃ってしまうんじゃ、ダメなの」
「ああそれはダメだ」地獄耳、内緒話を聞き付けた星縞聖名が振り返り、弾倉が空の拳銃を向けて来て、それからゆっくりと、転んでいないだけの足取りで、パイプ椅子まで進み、座面が歪みそうな勢いで腰を落とした。「作戦続行不可能と判断されたら、この体は当然母に消されるわけだが。ここに」こめかみに銃口、抉るように当てて、言った。「埋め込まれたマイクロチップを追跡しているから、大体の位置は分かる。ところがこの体が転化した場合、最後に居た地点で複数の同一個体を認識してしまったら、どうなるだろうな。当人さえ見分けが付かなかったとしてもだ、母は絶対に取り逃すつもりは無い、その全員でも消そうとするだろう」
「でも、その怪我。放っておいたら結局、聖名さんは」
「放っておくつもりか?」振り返り、星縞聖名が私を見る。「放っておけるのか?」
救急隊員の私は、負傷した人間を苦しそうに見て、苦しそうに猟銃を握り締めている。
星縞聖名は笑い、そして少し掠れた声で言った。「逆に聞こう。お前、自分を複製するような天使をどうする気だ。たとえばこれが、健康な若い女の体に転化する現象なら、欲しい奴は欲しいだろうな。使って殺せば死体の判別は不可能。生き永らえたい人間にとっては若返りの秘術だ。お前の顔や体型を気に入るかは問題だが、ある程度は整形で変える事も出来るしな」
「だとしても、嫌ですよ自分がいっぱい増えるなんて」
「たとえば、だ。コピー元を変えられるなら変える。ダメならオリジナルを消すかもな」
結局それが嫌なのか、コピーがあればオリジナルは要らない、あるいは、ただ要らない。
救急隊員の私は、猟銃を持っていて、構える気も、まして撃つ気も無いようだ。
でもそれは、オリジナルの邪魔をしないように、自ら消えるつもりがあるわけではない。
「たとえば。それこそお前の妹の遺志が、お前が失われないように予備を作る事だったら」
冷美さんの動揺、それはだって、天使はずなちゃんじゃなくて、秋津愁生から生まれた。
「予備って言ったって、それは結局本物にはなれないですよ」と私は虚しく答える。
「だが世間的には残った方が本物だ。失われるような物の方には、誰も興味はないだろう」
「私は消えるつもりなんかないですけど」
「殊勝にもな。こちらの個体はどうだろう、消えるつもりはあるのかな」
救急隊員の私は、自分が話題の中心に置かれるとは思っていなかったようだ。
「え、いや」ヘルメットの下、戸惑う顔付きはどこか精悍にも見え、しかし私の顔だった。
しかし私じゃなかった。だって、それを見ている私は何なのか、っていう話になるからだ。
「私は誰も……聖名さんも、他の人も、負傷者は出来るだけ助けたい、だけで」
「オリジナルがそれを成し遂げると言ったら、コピー、お前はあっさり消えるのか」
「オリジナルとか、コピーとかはよく分からないけど、一緒に居ちゃダメなんですか?」
首がぐるりと向きを変え、長い髪が肩に掛かる。「どうだ、オリジナルとしては」
「その人は、でも。救急隊員で、私じゃなくて」
「別人だとしても一緒だ。それを奪うのは淘汰じゃなく侵略だと思いながら斬れよ」
救急隊員の私は猟銃を構えない。
私は冷美さんの肩を離れ、そばに倒れているブラック、左手の鞘と、右手の剣を拾った。ベルトの左腰に鞘を差し、剣は右手に持っておいて、落ちている農具を拾って、金具の部分を蹴り外した。櫃に差してみても、五十センチメートル、伸ばした所で、取り回しは良くない。
それに銃なんかには、あまりにも射程が届かない。無いよりはあるってだけだ。
「ここで聖名さんを、撃てば、全部済む話だと思うけど」と私は言う。
天使がじゃなく人が撃って、転化するのではなく、つまりそういう事だ。
「それは出来ないって、自分でも分かってると思うけど」と救急隊員の私が言う。
星縞聖名が笑うと、病床の喘ぎのように微かで弱々しく、最後には咳に変わっていた。
そう、それが嘲りを込め、親密さも含んだ態度だって事が、分かってる。
この人の事、好きとまでは言えないけど、一方で嫌いなんて事も無いらしい。
逆に私の姿に転化してしまえば、星縞聖名の私には簡単に手を下せるかもしれない。
負けても私が残るっていう、結局それは予備を持つ事の安心に縋ってるわけだけど、ただそうなると結局は全員が母に消されるだけらしい。偶然にもそれは、身を守る為ではなく、全員を道連れにする為の、星縞聖名の背後に居る者達にとっての安全装置になっている。星縞聖名が望んだ事ではないだろう。でもそれで言ったら消される事だって望んではいないだろう。
「早くしないと」目が合わない事で、気づいた。その目は蔵の方を見ていた。「こっちの事情に関係なく、誰彼構わずお前のコピーにするだろう。まあ、全部消されたところで、その後にまたお前を作ればいいんだから、あの天使にしてみれば、問題にはならないんだろうがな」
「しろさん、天使が」と冷美さんも言うから、分かってるって、出て来たって事だ。
「聖名さんはどうしたいんですか」
「あん? 奪うか壊すかで言ったら……」
「そうじゃなくて。その怪我、私になった方が、もしかしたら助かるかもって」
「またそんな、自惚れを。せいぜい時間稼ぎくらいしか求められてはいないよ」
レーザーポインターが付いたダブルアクションリボルバー。
弾切れになった拳銃を、まだ持ち続けているのは、狙う事、それ自体が儀式だからだ。
何のか、母にとってのだ。武器なんか持っていなくても、母は何でも貫く事が出来る。
今すぐそれをしないのは、連射は一度もしなかったって、ずっと見て来たじゃないか。
再充填。その時間稼ぎ。それだけかもしれない。
最も恐ろしい事が起こる前には、それが何であるかを完璧に把握する事は難しい。
背後、ずっと離れている蔵の前に、倒れた老人達、ドアに潰されたナツ、その真っ只中に立って、天使が右腕を突き出し、真っ直ぐに伸ばし、天上に向けて狙いを付けている。その狙っている先を見る事はしないし、何も見えないだろうけど、そこに何があるかは知っている。
だからってそんな事が出来るのか。
ディープ・スロゥン。帝国の母を、私に変えるなんて事が出来るのか。
「天使同士の闘いは歴史上で二例だけ、結果その両方で何も起こらなかった」
「じゃあ、これが初めての」と救急隊員の私が呟いた。
敗北、あるいはまだ見た事も無いような、特別な何かが起きるのかと、少し思った。
ところが天使は右腕を下げ、代わりに左腕を構えた。上下二連装、二本の筒を束ねた砲身を向けられ、星縞聖名が首を大きく傾けた。口の端から粘ついた赤い筋が垂れ、脇腹の傷に指を食い込ませた。震える手がリボルバーを構え、私と、冷美さんの間の、天使に向けられる。
「全員、道連れか?」口角を吊り上げた悪魔のような顔は、もはや笑ってすらいない。
そして椅子の上、全ての音が閉ざされ、衝撃を浴びた星縞聖名の全身が震えた。
その体が転化し、マイクロチップの反応が消失すれば、最終地点に居る人間と、同一個体と判断された全ての人間が母によって一気に消される。それは全てのコピーがという意味に留まらず、オリジナルの私さえ含むのかもしれない。ただ一つ、天使さえ無事なら、誰かの体を使って再び私、朱田真白羽を作り出せるのだから、そこまで恐れる事はないのかもしれない。
無音が吹き払われ、次に星縞聖名の私が目覚めた時、全てが終わってしまう。
ずなちゃん、と心の中で呼んでいた。天使でも、誰でもいい、私を助けて欲しいと。
祈りは届かず、私の目には妹が泣くのを堪えている顔が見え、何もかも無くなる。
最後に見たのは、セルフカットに失敗して、髪型がボブみたいになった時だ。
直前まで胸の下くらいまであって、その時も色はキレイなアッシュピンクだった。
それは夏前、六月から三十度越えの日が続いて、我が家のエアコンは休み無しだった。
リビングの設定温度は二十四度、やや肌寒くて、念の為、私は薄手の長袖を羽織っていた。
いつの間にかコタツの布団が仕舞われている。
それでも中に籠った暖気に包まれるように、私は卓の下、四つ脚に絡まりながら、身を縮めて横になっていた。床すれすれに心地よい冷気が溜まって、部屋から持って来たタオルケットから足先を出すと、ちょうど快適なくらいだ。枕は二つに折った座布団、右に、左にごろごろと転がって、気が付くと正午を過ぎていた。ずなちゃんが部屋に入って来ると、まず私を見つけて吐き捨てた溜め息、その始点には軽蔑を向ける冷たい視線があった。顔を上げ、何か言おうとして胸が詰まった。「アイスあるよ」と教える。「一個食べたから、一個食べていいよ」
興味を捨ててやったという、白い目をして、ずなちゃんが言う。「もうお昼だよ」
「何か食べる物ある?」
「作るから。手伝って」そう言って、ずなちゃんがパジャマの上から身に着けた、メイドみたいな白いフリル付きのエプロンは、朝から椅子の背もたれに掛かっていた。メイドって、西欧の家政婦でも、カフェのウェイトレスでもない、もっと何かキャラクター的なイメージの話だけど、説明するとしたら難しい。本当に黒いワンピース、白いエプロンだけのイメージだ。
下がショーパンで、エプロンの下に何も穿いてないように見えるようなのとは、違う。
首に付くくらいのピンク髪、小さく括ったのは、華美でない黒いヘアゴムだ。
ずなちゃんが開けた冷蔵庫、肩越しに覗き込むと、遅れて来る冷気に体が震えた。
「やっぱり部屋寒くない? ちょっと窓開けて来てよ」
「大丈夫かな」と口で渋りながら、さっさと向かって、薄く大窓を開けた。
網戸の向こうから、巨人の吐息を浴びるような、嫌な熱気が顔に触れた、さて。
外気を入れた分、設定温度を上げるか下げるか、決められないから据え置きの二十四度にしておいた。ついでに軽く庭先を眺めて、何も変化は無いと確かめる。家の前の道、一時間置きくらいに警察が見回りに来る事になってるけど、今は見えないし、通り掛かりもしない……
手術台の上、無影灯の光は人工の眼球、ではなく視線、人工の太陽、ではなく真昼だった。
……今は両親とも留守、というか母は父のお見舞いに行っている。
姉妹二人だけで、また前みたいな襲撃が起こったら、今のままでは対処しようがない。
稲島善人などが、遠隔ロボットで監視しに来てくれるけど、卓袱台みたいなクモのロボットが急に現れたら、その方が怖かった。それも要するに、新しいガジェットを試したいだけだろう。その為に襲撃が起きろ、とまでは思っていないだろうけど、何か飛ばすのにも、許可取りに手古摺ったりして、少し苛ついている。やっぱり襲撃者にぶつけたいだけかもしれない。
午後からは波瑠斗や朝太郎達が訪ねて来る事もあって、これも新ガジェットを試すついでだった。グラブワームを連れて来た事もあった。そのまま貸して欲しかったけど、専用の電磁式の充電装置が信じられない電力を食うらしいから、ソーラーパネルも導入する必要があると言われ、億劫になってしまった。子供達は、ずなちゃんにも普通に挨拶し、遊んでもくれる。
それで言えば稲島のジジイは、さすがにずなちゃんへのセクハラは控えていた……
回転する刃の一つ一つに、絡み付いた神経が引きずり出され、引き千切られるようだ。
実際それは引き千切られ、腕の一本につき、何本、何十本も失うような苦痛になった。
流れ出す血の一滴すらも、私は永遠に消えない痛みの幻想に、全神経を蝕まれていた。
……戻るついでにテレビを付け、音量を少し低めにして、台所側の椅子を引いて座った。
「塩焼きそばが昨日までだった」三食入りの生麺を見せて来て、それを調理台に並べて、ずなちゃんが不意に顔を上げる。「手伝わないんだ?」返事を待たず、手を動かし始めたのを見ていると、また目が合いそうになって、私は素早くテレビに視線を逃がした。情報バラエティの隙間、短時間のニュースが流れている。『国内で三例目の天使病が確認された花間市、保之函村では、現在も行方不明者の捜索が続けられていますが、身元不明の遺体が多く、政府から派遣された専門の機関によって鑑定が進められています。現在までで確認された死傷者が二十名に達し、行方不明者は八名、身元不明の遺体だけでも十……十! えー、失礼致しました』
十一体ではないとすれば、一体、もしくは二体を一一体と読み間違えたんだろう。
そしてその全てが間違っていて、身元不明の遺体は、まあ正確には分からないけど、きっとゼロだろうし、その全てが朱田真白羽と同一個体であると確認されたはずだ。性別、年齢、血液型、身長、体重は出血量で変わるとしても、遺伝子型もだし、色々な要素が、そうである事を指し示している。天使が、正確にはこれも天使が生んだ何かだけど、説明してくれれば、話は簡単なんだけど、そうはならない。対話可能な天使は、それこそ過去に例がないらしい。
ニュースはいくつか、地元ローカル局も含めて、たまに情報がぐっと踏み込んで来る。
『また昨年から村に移住して来た外国人グループが天使を発見し、その強奪を目論んで村の住民達を襲撃したという事も、地元住民の証言などから分かっています。住民達はドローンなどの機械を使って抵抗し、彼らの撃退に成功したと語っていますが、外国人グループがどこへ行ったのかまでは現在も分かっていません。彼らの移住を斡旋したエバープランニングという会社も実態はなく、所在地のビルを調べたところ、事務所などは何も残っていませんでした』
それ以上は、裏ビデオを製造販売するプロダクションに関する話も、どこにも出なかった。
ネットでは、まあそれはいいか。
美少女姉妹とかいう、あんまり嬉しいとも言ってられない、なんか意外すぎる視点からの情報が流れていたけど、すぐに規制が掛かって、外国人グループの素性に関する胡散臭い噂が流れるようになった。四季であり、東西南北であり、黙示録の四騎士である事は、どこも触れていなかった。それでもコードネーム以上に意味のある情報は、たぶん彼らには何も無いのだ。
そして星縞聖名については、存在した事実さえ、完璧に抹消されてしまっている。
それもそうか。遺伝子から別個体になって、母からも拒絶されてしまったのだから……
気が付くと、手足を失い、全身を焼かれ、血液を冒された痛みの記憶、全てが消えている。
転化した肉体は、新しい私、そして最も慣れ親しんだ私の感覚を、全身から鳴り響かせる。
慣れ親しんだ感覚は、激痛や、幻肢痛などではないし、薬による眠気や嘔気などでもない。
でも忘れてはいけない。
私が覚えているのは、刻み込まれた記憶か、書き直された情報か。
思い出しているのは、過去に見た夢の内容か、現実の身に起こった経験か。
私を感じている私は、元の脳細胞か、新しい脳細胞か、その違いを考えてはいけない。
何の私かは知らないけど、元の誰かはこの苦痛に耐え抜いたのだろうか、それとも。
とっくに狂ってしまって、存在しない女の精神と肉体の幻想に縋っているのだろうか。
ただ一つ言えるのは、もし天使が居るなら、もう一度転化して完全な別人になりたかった。
……チャンネルを変え、変え、通販の興味もない説明に集中している振りをした。
俎板を叩く包丁の音、瑞々しい繊維が断ち切られる音の中に、洟を啜る音が混じっている。
振り返って腰を浮かせ、ずなちゃんの手元を覗き込む。「玉ねぎ入れるの?」
「じゃあ、あと何。あ、豚バラ入れる? 入れなくてもいい?」言いながら目を拭っている。
先にレンチンとかするんじゃなかったっけ。
「肉無しはさすがに?」
「じゃあ出して。あとフライパンに油、温めて」そしてまた、ざっくりと断ち切られる音。
立って言われた物を用意しながら、別に一人で出来るよなあと思った。
私にも手伝わせたいだけだろう。
冷凍庫、冷蔵庫を見ると、白いスチロール容器があった。「あ、半分しかないや」
ラップを剥がし、容器を持ったまま、急に手を洗いたくなった。濡れた手でフライパンを持って来て、電気式のヒーターの方に置いた。油、油が見当たらないと思っていると「下にあるから!」ってずなちゃんの怒ったような声、スリッパの爪先でシンク下の収納を指していた。
あったあった。白いペットボトルが。
横で見ている間に、肉を切り、麺を開け、ずなちゃんは具材から順番に炒め始めた……
防護服みたいな服、顔もガラスのゴーグルの向こうで、そこに私の顔が反射している。
何もない顔、何も無かったら、顔ですらないから、そんなわけがないけど。
何だろう、苦しむ事にさえ飽きて、もはや何も感じようとしなくなったような顔だ。
一気に五歳も十歳も老けたように見え、ふと、それは何歳から見た話だろうかと思った。
でも二十一だ、常に。またそこに戻るから、それだけは絶対に変わらない。
防護服は少しでも個人情報を、人種、性別、年齢、職業、そして感情が、どんな残虐な仕事をしても全く動かないって覚られないように、そんな恰好をしているんだと思った。感染の予防なんかは関係なく、つまり羞恥のような感情を問題として、彼らは生きているようだった。
作業と作業の合間、逐一部屋から出て行って、同じ防護服でも中身は入れ替わっていた。
それは次の私かもしれないと考えた事もあった。
作業によって、肉体の様々な損壊、そして本来の目的は精神の、破壊が行われる。
壊れて、別物にすり替わって、それで完璧に治るのなら、それこそ本当の転化だからだ。
萎縮した脳を転化して、記憶や、人格が戻れば、それは本当の転化だから。
腫瘍や病巣だけ残った存在がまた人間になれば、それは本当の転化だから。
そもそも元が人間じゃないと、何でいけないのか。
私だって元々は、犬やイルカや豚、山羊や悪魔かもしれないじゃないか。
分かっているのは死体じゃなかった事、一度も死んではいないという事だけだ。
死体は、転化しないから。
だからどうか、戻ってもいいから、理不尽に終わる事の無いよう、それだけを祈る。
終わってしまった方が楽だなんて、また始まった時に思えないから、きっと嘘だった。
それとも私は、それが分からなくなるような何かに転化し続けているだけなのだろうか。
……手際よく水を加え、麺をほぐして、私に指示して粉末のソースを入れさせる。
フライパンの熱気、スパイスの匂いが混ざり、食欲を掻き立てられる。
迷いなく動かされる菜箸、麺と野菜と肉が絡む動きを見ていると、終わりが見えない。
「無難に上手いね、ずなちゃんって」なんとなく思った事。
「これくらい、書いてあるじゃん袋に」こっちを見て、後ろを見る。「お皿出して」
「どれ?」
戸棚を開け、真っ先に聞き返すと、ずなちゃんは少し答えず、それから短く「焼きそばが盛れるやつ」とだけ答えた。別に私だってここで小鉢や小皿を持ち出すほど、物を知らないわけじゃない。ちょうど良さそうな、確かカレーを食べた時のお皿を二枚、場所が無いから、俎板をシンクに降ろして、そこに置いた。「隠し味とか言って、変な物入れて失敗するタイプの人って居るじゃん」ずなちゃんがそう言って、焼きそばを盛り付ける。「もう入ってるのに」
「そんな事しないけど」
「しろちゃんは、全部切って炒めて一気に味付けてるだけだからね」
「それでも食べられるし」
もう一皿に盛り付け、ずなちゃんが背後を通った。「それテーブルに運んどいて。あとサラダか何か欲しいから、なんか。桃切ろうか」振り返ったら両手に桃、まだ白いのと、ちょうどいい色、二つ持って戻って来た。桃はちょうど一昨日、矢間さんが軽トラで村中に譲り回っていた。「っていうか切る場所さあ」少し考えて、ずなちゃんはキッチンタオルを一枚取った。
「あとでもいいけど」
「あとでしろちゃんがやるの?」
箸を止め、考えている間にずなちゃんが小皿とフォークを一緒に持って来た……
頭部だけになり、脳髄だけになり、一片だけから転化したこの体は一体何なんだろう。
失われた手も足も、音も光も、失う前と同じように戻っている事にただ安堵してしまう。
戻らないはずの物が戻ったというのに。
残っていた部分は、同じ自分が続いているとまで思っている。
同じ、私が。
切り刻まれ転化し、切り刻まれ転化し、切り刻まれ転化して、こうなったのだと。
その最初が何だったかは、もう思い出せないし、何でも無かったのかもしれない。
微かな記憶を探る。
思い出してはいけない、強い、痛みがフラッシュバックする。
引き裂かれた腹、下腹部から血が溢れ、誰かが泣いていて、痛みに何度も失神した。
そして次は目覚めないんじゃないかという深い暗い眠りから、何度も引き戻された。
目の前で裸の私が泣いていた。
手を伸ばすと、強い力で握って来た。
見つめる先に何も映らない、その透明な瞳、対顔する私が、そこに存在していないかのようだった。声を掛けたくなる。潰れた喉、掠れた声、漏れる息は冷たく、血が赤い靄になって漂うばかりだけど。ずっと求めていた気がする、その泣き声が、やけに愛おしく、忌々しくもある。どうして泣くのか。悲しいのか。その理由を私は知らないけど、私になるまでは、知っていたんじゃないのか。だったら、教えてくれないか。私を同じように泣かせてくれないか。
私自身を憐れませて、私を救わせては貰えないだろうか。
……見てないなら消すよ、ってリモコンに伸びた手の、すぐ下に手を突っ込んだ。
見てたわけじゃないけど。「付けときたい、見てなくても」と答えるしかない。
「だったらなんか、音楽とか流していい?」
「いいけど」仕方なくリモコンを渡すと、ずなちゃんは最初から決めてたみたいに、海外のアイドルグループのミュージックビデオを検索して再生した。正直ニュースだって見たくないけど、見てない所で何かが報じられても、それはそれで嫌だから見るしかない。「あーこれ知ってる」私は心にもない事を言って、麺を啜り、そのまま同じ箸で桃の切り身を口に運んだ。
「あ、桃まだちょっと固かったかも」
薄甘い果肉、噛んで飲み込み、答える。「全然平気だけど」
「平気とかじゃなくて」呆れられ、それから不意に表情が緩んだ。「あたしも桃食べよ」
「何急に笑ってんの」
「何って」半分だけ齧って、ずなちゃんはゆっくりと咀嚼した。「平日にこんな事して」
まだ収まらないのか、口の端の垂れた果汁、箱から二枚取ったティッシュで拭っていた。
「仕方ないよ。まだ外が騒がしいんだから。家に居るしか」
「でもこれからどうしてくんだろう、って思っちゃうじゃん」
「そういうの思わなければいいだけ。ずなちゃん、今年二十歳だっけ?」
「え、確かそう。しろちゃんの二個下だから、今年ニー二に上がったのかな」
って、中、高の上のニートで二年生って意味か。普通にひどい事言われてた。
私もうニー四か。「でもニートじゃなくてフリーターだし、学年とか無いから」
「先輩から色々教わるのかと思ったら」箸先で皿を叩き、言った。「ご飯作らされてる」
まだ半分以上もある麺、ずなちゃんは叩く場所を作る為に、わざわざ片側に寄せていた。
「好きな時間に適当に作って食べればいいんだよ」
「ちゃんと朝昼晩の決まった時間に食べた方がいいよ」
教師っぽく言った言葉、すぐに上から被せられて、私には言い返す言葉の用意もない。
「とにかく」と間を置いて、考える。朝昼晩にって、小学生に言い聞かせるような内容を真っ向からぶつけられて、ちょっと感心してる場合じゃなかった。結果ずなちゃんが作ったからだけど、ちゃんとお昼に食べてるわけだし、作った事に関してはまだしも、食べる時間に関しては何か言われる筋合いも、あんまり無いかもしれない。「急いであれこれ考えなくても、時間はいっぱいあるんだからって話じゃないの。やりたい事、とかはまあ、いいとして。そのうち道場とかにも行ってみる? 基礎からだけど、運動すれば考え方とか変わるかもしれないよ」
やりたい事なんて、ここに無いから、ずなちゃんは遠くに行こうとしてたのに。
「道場。暇だし今度見てみようかな」なんて、今は話を合わせてくれる。
出て行かないように、村に縛り付けようとしてるの、気づかれてるだろうけど……
天使が居た。
おかっぱの頭、セーラーの襟、背中に大きく広がって、両腕の先には上下二連装の筒、腰を一周する短冊のような垂れ、逞しい両脚に踵の高い厚底ブーツを履いた姿が、光り輝く輪郭の中に見え、人と見紛うような動作で、部屋の、右の壁際に佇んでいる。部屋、そうか。コンクリートが剥き出しの、巨大な直方体の空間、これを私は部屋だと思っているのか。だって他の場所を知らないから。天井には隙間なく照明パネルが敷き詰められ、壁の高い位置に通気口、散水栓が並んでいて、低い位置にある唯一の出入口は、壁と見分けが付かなくなっている。
場所が分かっていても、それを打ち破ったり、抉じ開けたりする事は出来ない。
一方の壁に私は背を預け、地面にへたり込んでいた。
へたり込むって、何かを見た時に使う言葉だと思っていた。
実際私は立ち上がる気力もなく、その様子を他人事みたいに眺めている。
もう一つは、反対側で妹が私と同じようにへたり込んでいる、というのもある。
片脚は膝を少し浮かせて前に伸ばし、片脚は膝を折って踵を尻の横に付けている。
片腕は体の横に垂らして床に支えて、片腕はお腹の前から腿の上に置かれている。
自分を見下ろす気もないけど、妹と同じような恰好をして、表情をしていると思う。
白い手術衣みたいな服。
赤い内出血みたいな痕と、切創、刺創、擦過創などの様々な出血の痕跡。
顔にもそれは、目の端、口の端を伝って垂れる赤い筋となって付着している、だけ。
それが顔を痛々しく、弱々しく見せているだけで表情は無く、痛みすら感じていない。
私が立ち上がって向こうに行けば、その表情を明るくする事は出来るだろうか。
今まで、自分一人の力だけで妹を喜ばせた事があっただろうか。誕生日に贈った物。連れて行った場所。日常の些細な会話とか、辛い時、悲しい時に寄り添って慰めた事が、あっただろうか。あったとしても、それを二人が同時に思い出す事は出来ないかもしれない。その瞬間瞬間にはいつも精一杯だけど、後になればなるほど、自分は無力だったような気がしてくる。
一番良い時も、良くない時も思い出して欲しくない、この私は一体どう見えるだろう。
この卑屈な思考すら、天使に奪われてしまうという事が、何よりも私の気力を萎えさせる。
天使は、その左腕に持つ上下二連装の筒を真横に伸ばして私に向けている。
そして引き金を、そんな物は体のどこにも付いてないけど、引こうとしている。
右腕は向かいの壁に居る妹に向けて伸ばし、同じように、何かを引こうとしている。
……四季と闘った田中先生はまだ自宅で療養中だった。
師範代も居るし、道場が開く平日なら、基礎鍛錬くらいならいつでも出来るだろう。
機械学習でもいい。
事故が怖いなら、初めは相手や器具の要らない、安全なトレーニングだけでもいい。
見ているだけだっていい。
一人でやるより、皆と居るだけの方が、学びの量で言えば、全然そっちの方が多い。
受け身と素振りだけでも、やっておけば、その先で学ぶ事の伸び率は全然違う。
差し当たっては、如何に怪我をしないか。
「次食器洗うのしろちゃんだからね」台所から、ずなちゃんが結構強めの声で言って来て、思わず立ち上がって「やるから」と返し、ムキになって割り込むような事は、特にしない。ああ次だな、次だと明日のお昼かな、それとも二人だけの昼食はしばらく無いかな、って現実を逃避していくだけ。水の音、泡の音に、たまに食器が当たって、それが不安定で心地良かった。
ずなちゃんが最後に道場に来たのは、昇段試験の日、予定が無くて暇だったからだ。
わざと空けてくれてた、なんて自分に都合のいい解釈はしない。
「格闘技とかあんま苦手だけど」と言って、水の音が止まる。「どんな事するの?」
考えてみれば、特にこれを、っていう決まりは無かった。スリッパの音が近づいて来て、顔のすぐ横、真っ白な脚が現れる。哀れなほどには細くもなくて、汚れてなんかいない。エプロンをソファに放り出し、ずなちゃんが足を引いた。「こんっ」爪先が脇腹に捻じ込まれる。
「いぃっ! たぁもう、なに?」反対側の腰まで、つーんと衝撃が抜ける。
「……なに鍛えないとダメなの。腹筋割れてる? 触ってもいい?」
「あぁー、別に割れてはない。力入れたらちょっとなるだけ」
床に膝を付いて、捲られるシャツの裾、ハーパンと、ショーツのゴムが少し出た。
「またこんな色気のないボクサーパンツ。下着で外とか出歩いてたりしないよね?」
「しないけど。どうせ汗かくなら短パンスポブラと変わらないし、これ上下だったら」
「全然違う。割ってよ早く」
「だから。力入れると、このくらい」と、息を止め、集中する。
わりと薄い皮膚の下、申し訳程度に強張った筋肉の層は、目を凝らしても分からない。でも指でなぞれば六つに分かれた線に触れられる。ほとんど家から出なくて、運動も室内で出来る事さえしていない、一か月分の成果も、冬の霙みたいに薄く積もっている。その下には、ぐちゃぐちゃに濡れた黒い汚れが隠されているのかもしれない。ずなちゃんが指を押し付ける。
針の先みたいに冷たい、尖った感触、皮膚の一点から深く深く入って来る、気がする。
反射的に体を捩り、手を振り払っていた。「つ、つめた、指」
「洗い物しないからだよ」って言うのは、私の事らしいけど。そういう問題なのかな。
「お湯で、やるような季節でもないけど。ずなちゃん、元から体温低いんだから」
「冷血人間だからね」と言って、口を尖らせた。
「そうは言ってないよ」
適当に口を動かしながら、立てたままの人差し指に注視、自然と体が避けそうになる。
同じ手が、映像の中で男性の、とにかく色んな事をして、させられていた。私が克聖に出来なかったような事も、鮮明に映像として思い出せる。今のずなちゃんが、それと全く同じ状態だとは思わないけど、なんか、むしろ。私でさえ、ずなちゃんをあんな風に汚してしまえるんじゃないかと思うと、相手から触れられるのさえも躊躇われて、過敏になってしまうのだ。
その手付き、最初は触れないくらいで止まる覚束ない感じを、知っているのか。
悦ばせようというような意図が、寸分も含まれていないなんて、言い切れるのか。
静かに立ち上がり、脱ぎ捨てられたスリッパ、ずなちゃんはタンブラーを持って、ソファの真ん中に腰を沈ませた。ミュージックビデオの関連動画、豆知識とか、ゴシップとか、ネットの反応集をだらだら眺めながら、冷たい視線が時折、飲み物に注がれ、私も飲みたくなる。
持って来て、なんて頼むまでもなく、テーブルにポットが出しっぱなしだった……
天使が居た。
天使は右腕を私の方に伸ばし、上下二連装の筒を構え、左腕は向こうの壁に向けている。
真向かいの、部屋の反対側の壁際には妹が立っていた。
白い手術衣みたいな服。
血が赤茶色になって乾き、服はひどく汚れてるのに、傷一つない体、切り揃えたばかりのような、ピンクアッシュのセミショートヘア、不安そうな顔で私を見つめている。ずっと同じ光景を見ていたようで、何か違和感があった。私は、同じ光景を見ていたんじゃなかったか。
天使は鉄の檻のような物で拘束され、恐ろしく太い鎖で両腕を縛られた。
その檻であり台車は、天使を左から右へと、ゆっくりと横切らせ、そうだ。
これは実験の合図だった。
途端に得体の知れない焦燥感が、胃の底から沸々と起こり、妙に息苦しく、肌寒くなる。
吐き気に襲われ、渇いていた喉から更に何かを吐き出したくなるけど、何も出て来ない。
痛み、いや違う。
それに痛みを感じるような光景や行為に対する、嫌悪感の記憶だ。
たとえ腕が無痛だろうと、すぐに生えて来ようと、切り落とす事自体に対して起こる。
力の入らない足を奮い立たせ、立ち上がろうとすると、壁に当てた手が滑り、転びそうになった。じゃらじゃら、金属の音が無数に鳴り続け、一瞬手足に掛かった重みが消える。見ると手足から黒い鎖が、その端には黒い手枷、足枷が付いている。軋む首を動かして、部屋の壁を見上げる。窓、半面鏡、何も無い。監視カメラだ。照明パネルの、四隅、壁と天井の間、壁に埋め込まれた物さえ、何か一つでも、見つかるはずだ。どこかから、この部屋の中で起こる現象を、多くの人が監視していた。どうして人が転化するのか、転化した人がどうなるのか。
ただ一つ確実なのは、誰であっても転化させられれば実験に送られるという事だ。
何を探しているのかさえ分からずに、妹も不安そうに天井を見上げている。
妹って誰のだ。私には、二つ年下の妹が居て、ずっと一緒に村で暮らして来た。
私が二十歳の時に妹が家出をして、今は、違う。その妹は私の妹じゃない。
もしかして、姉だったんじゃないかって思うけど、きっとそういう事じゃない。
目の前で天使が運ばれて行く、その途中で台車が不意に止まった。
天使が暴れている。拘束された檻の中で身を捩り、腕を振り、今にも羽化しそうな激しい弱々しい動きで、強く◯み合った金具、きつく縛られた鎖が、何の音も立てない。しかし苦しそうに蹲っていた天使の背中が一瞬、大きく膨れ上がったかと思うと、破裂し、半球状に広がった両肩の辺り、左右に二つの、弧を描く物体が檻の外に向かって生えていた。まるで光背、如来像のようだ。更にいくつもの細長い筒状の物体が、その線上で等間隔に、放射状に配置されていって、天使から見て全方位に上下二連装の筒が向けられ、ガンラックのようになった。
体の側面に沿って縛り付けられた両腕の代わりに、施設内のどこにでも向いている。
そして目の前で全ての音が消え、強烈な遠心力が私達を惑星の外へ投げ出そうとする。
永遠に離れ離れになるか、そうでなければ姉妹は、ずっと同じ部屋の両端で二人きりだ。
……防犯アラームが鳴るより前に、稲島善人からの連絡が入った。
「家の前見てみろ」と言われ、見るまでもなく画面にキューブで撮影した映像が映される。
家の庭、他のセキュリティの位置がマーキングされた、少し粗い画質の中、奥の玄関に向かう飛び石の上、小さな人影がおろおろと、飛び跳ねながら歩いている。そしてアラーム音が庭に鳴り響き、驚いた人影が縮んで、ゼロに丸め込まれそうになり、膨らんで、元の大きさの誤差くらいにまで大きくなった。胸を押さえ、その場で荒く息をしている。有線のグラブワームが近づいても、そちらに気づきもしない。背後を見上げ、少女のような容貌、大きな目は濡れて光り、懇願するようにキューブを見つめていた。「こいつは、通報、した方がいいんか」
「一応出てみるけど。通報も出来るようにしといて」
「分かった。気を付けろな」
「しろちゃん?」耳が押し潰されそうなアラームを解除しながら、ずなちゃんの目が問う。
口元に指を立てて応える。
数秒待ってみると、もっと軽快な音、玄関の方から、インターホンが鳴らされた。
「じゃあ、出てみます」と言い、電話を切る。
インターホンが二回、三回と繰り返され、玄関越しにか細い声が聴こえる。「居ないんですかあ、居ると思うんですけどお。あの、ドローンがあ、怖いんで早く、出て貰ってえ」間延びした調子は緊張感が微塵も無く、それが逆に緊張を強いてくる。ドアの所まで来たずなちゃんが足を止め、私は玄関まで進んだ。柄に櫃が付いた剣が、鞘に納めて立て掛けてある。柄になるような物は、近くにはない。クイックルワイパー、みたいなのとか。何でもいいんだけど。
とりあえず左手に提げておき、錠を二つとも下ろして玄関を開けた。
チェーンが張った隙間、十代くらいに見えるショートヘアの女の子が覗き込んで来た。
「あ、居たんですねえ。どうもどうもです。ちょっとお話、いいですね?」
「いや、今……応対出来る人が居ないから。何の用事かだけ聞いても?」
「あ、わたくしはですね、こういう者どもでしてえ」と、尻ポケットを探る。
奇妙な服装だ。上は白いブラウス、ジャストサイズなのに、主に胸の辺りが、ずば抜けて張り詰め、苦しそうなほどだった。胸元に太いリボンタイを結んで、捲り上げた袖に留め具を付けている。事務員だろうか。下は前開きのロングスカートで、内側に黒いショートパンツ、黒いストッキングは薄くて、膝頭なんかが白く透けていた。そして足元が異様で、タールの上でも走って来そうな分厚い耐油底の安全靴を履いていた。それ以外、武器とかは無さそうだ。
隙間から差し込まれた名刺には名前とメールアドレス、そして鎖を巻かれ、南京錠を掛けられた禿鷲のシンボルが描かれている。梅田、星羽。「あ、音読みしないでねえ」と言って、苗字の辺りを指でなぞられた。紙の上を滑る動き、ぞわぞわして気持ち悪かった。しかも玄関に剣を隠しているから、私は片手で応対しないといけない。「で、下の名前は濁らないでね」
「ほしは、ですか?」
「星に羽でショウだねえ」
「それで何の用なんですか?」
「分かってると思うけど、上司が一人、この村で消失したんですよねえ」
「大変ですね今。行方不明も多いし、死傷者、二十人以上ってニュースでやってました」
「知らない?」首を大きく傾け、というのは、玄関の隙間から見るには、そうするしかないんだけど、大きな濡れた瞳が私を覆い尽くそうとする。「別に、身柄攫って尋問しようとか、そういうんじゃないんだけどねえ、探さして貰ってもいいかなあ、って。聞こうと思っててえ」
「それは、役場の方に」
「もう言ったよ。それで、迷惑にならないように、山とか家の敷地には入るなって」
「丸腰ですか。なんか、襲われたり、野生動物も出ますけど。母が居るなら大丈夫か」
「母? もう子供じゃないんだから、一人で来たよお」って、どっちか分からない言い方。
ディープ・スロゥンに関しては、知らされてない可能性も、無いとは言えない。
「上司の人は、何度か会いました。神社の場所聞かれたりして。聖名さんですよね」
「うん、知ってる。あの人さあ、苦手だったんですよねえ。でも消えるとは思わなくて」
「それだけですけど。あの、何かあったら連絡、ここにメール送ればいいんですか」
「うん。ありがとねえ。連絡待ってる、あ。あとねえ」人懐っこいわけじゃない。意味は分からないけど、梅田星羽はむしろ、自分に対してさえ心を開いていないように見える。隙間に手を掛け、手を、挟まれても構わないように、その小さな隙間から、彼女は言う。「今、あなたはいつで、どこなのかなって。あ、言わなくてもいいけど、考えて。気づいて欲しいんだ」
「いつって、六月の、もう二十日過ぎか。ここは自宅ですけど」
「あなたはそう。でも、もしかしたら、違うとしたら、どうなんでしょうねえ」
よく分からない、としたら、だった。「どういう意味ですか」って聞き返したくもない。
指を千切り落としてでも、自分は今すぐ玄関を閉めるべきなのかもしれない。
そう考えていると、不意に指が消え、玄関から少し離れた所に梅田星羽の顔があった。
「また会えたらいいですねえ」と言い、梅田星羽が手を振る。「それじゃ探して来ますねえ」
二つの錠を上げ、剣を下駄箱に立て掛けると、詰まっていた息が一気に漏れ出した。
リビングに戻ると、ずなちゃんが怯えた様子で部屋に引っ込み、ソファに飛び乗って、そこから身を乗り出して来た。「何だったの?」と少し不機嫌そうに聞かれる。私はポットから紅茶を注ぎ、コップを二度、空にしてから、名刺に目をやった。フリーメールアドレスか。調べて貰おうと思えば調べられるけど、たぶん何も出て来ないだろう。星嶋聖名がそうだった。
「知り合いの、知り合いかな。居なくなっちゃったから探してるんだって」
「へえ、こわ。この村最近そんなのばっかじゃん」
その一部、というか切っ掛けみたいな所があるくせに、なんか言ってる……
無機質な直方体、両端の壁と壁に姉妹が立っていて、姉の方は、つまり私だった。
白い手術衣みたいな服。
モニターの中に何度も見て、知っているのに、何かに違和感を持ってしまう。
今は、私はジャージの上に白衣を着ていた。
下着が、なぜか履いてなくて、上もだ、あまりにも開放的で落ち着かない。
そんな事よりも、目の前の四つのモニターには、背部に上下二連装の筒を発達させた天使が映っていて、その筒の一つは、カメラのレンズを真っ直ぐ狙っていた。それは映像越しにここまで届くのか、それとも天使、カメラ、私の居る位置が直線で結べるのか、分からないし、どっちでもいい。問題なのは今、私は朱田真白羽になっていて、二人存在しているって事だ。
鏡、近くには無い。
一回モニターの電源を切って、黒いパネルに顔を映すと、確かにそうだった。
本当に問題なのは今、片側に四挺、合計八人が同時に転化した可能性があるって事だ。
映像の中、姉妹は立ち上がる気力も無いまま、お互いの顔を見つめ合っていた。
転化すれば、肉体的な疲労、損傷もリセットされる。元の私、朱田真白羽と朱田瑞南帆の基準状態になるから、妹の方が気分にムラがあり、姉の方が比較的安定しているって差はあるけど、それ以外は概ね若い健康な体で、実験に用いやすい。少なくとも、病気に罹りやすかったり、近い将来病気になるっていう事も、あんまり無さそうだ。極度の寒冷状態、乾燥状態や、低圧状態にあっても、ほとんど健康状態に乱れはない。人並みに調子は崩すけど、特に姉の方は適応力が高かった。だからって、そんな体になりたいと、手放しで思えるわけでもない。
そうだ、中年の、しがない研究者の成れの果てが、人体実験なんかしていても。
若い健康な女の体を手に入れたいと思ったり、手に入れてしまうとは限らないのだ。
だって私だけじゃなく妹の、いや。何を、考えてるんだろう、俺、私は。
少し混乱しているらしい。だったら、ずなちゃんだって混乱しているはずだ。
右と左で分かれているのなら、私が四人、妹も四人、どこかで転化したはずだ。
私一人に対し、妹一人が余って、施設のどこかで独りぼっちで待っているはずだ。
探しに、いや。違う、だから、私は姉妹に転化させられただけだ。
でもモニターを見ていると、寂しげな妹の姿に心を掻き乱され、見つめ合う姉の姿に、懐かしさや羨ましさを覚え、私も私の妹を見つけないといけないって気分にさせられる。考えないといけない事は、いくらでもある。転化させられた私は、私を証明する方法を持たない。そうでなくても、動物や、病巣や、同じ個体の別の部分や、胎児や、生殖細胞や、という様々な出自を持つ姉妹が存在し、それらはまた転化させられ、転化させられ、転化させられている。
私だけを特別扱いとして、研究者として残す事は可能だろうか。
研究データや、もっと広範な知識を披露すれば、判別はされるかもしれない。
しかし今後私は、姉妹のどちらかにしか転化できず、決して元に戻る術はない。
摩り替え、乗っ取り、取り違え、私を危険に晒す、どんな理由だって考えられる。
唯一救われる道は、あの村、オリジナルが住む村まで逃げる事だけど、それだけは起こってはならない。オリジナルのオリジナル性が失われれば、あの姉妹が存在する意義さえ失われかねない。その時にこそ、あの天使は、無差別に人類やあらゆる生物を姉妹に転化させて、永遠に姉妹が失われないであろう世界を作ろうと暴走するだろう。半端に小規模な現象を起こすせいで、その結果。その結果、何が。知識を。知見を。もし何かを尋ねられれば、この天使に関する適切な解答は出せるかもしれない。しかし今は、何を自分に問うべきかを見出せない。
更にかわいそうなのは妹の方だ。
右中上の筒に対応する、左中上の筒で撃たれた誰かは、自分を証明できるだろうか。
私が守ってあげないと。ずなちゃんは、ふっとどこかに消えてしまうから。
ドアが開く音が聴こえ、ばたばたと足音が重なって、いきなり背後から両腕を掴まれた。
無理に引き抜く事はしない。右側、下から入って、左右からぶつかって来る軸をずらし、両者を衝突させるように、引いた。防護服と防護服がぶつかり、右の防護服の腕を捻り上げ、左の防護服の足を払い、机に叩き付け、椅子を蹴り込んで転ばせ、その上に叩き付けた。背後にもう一人、肩を押さえられる。首に何か、衝撃。麻酔を打ち込まれたのなら、もう無理だ。
ずなちゃん、心の中で何度も呼び掛ける。目の前が暗くなっていき、思う。
心の中でごめんと思う。いつかそれを言う事が出来たら、何よりの救いだと思う。
……消滅した星嶋聖名、座っていたパイプ椅子は穴だらけになっていた。
冷美さんが私の肩を支え、椅子に近づこうとする私を、全力で引き止めて来る。
「しろさん、あの人、どうなったの?」
「私、じゃない。ずなちゃんに転化して、消されました。さっき言った人工衛星に」
それも天使らしい、超兵器の事なんかより、冷美さんは別の事に驚いている様子だった。
「妹さんに?」
「あの天使が」振り返ると、まだそれを構えている。「左腕で撃ったらそうなるみたいです」
一瞬、どこか分からない、目が合ったと思うと、天使は正門に向かって歩き出した。
パトカーが門の周りを塞ぎ、そして装甲車が山道を近づいて来るのも見える。
「天使だから、やっぱり国の研究機関とか、そういう所に持ってかれるのかもね」冷美さんは天使を見ながら、淡々と、努めて淡々と言った。「ここに置いといたら、また誰かが奪おうとして、こんな事になるかもしれないし。もったいないけど、しろさんも、その方がいいよね」
「でも、ずなちゃんが」
「今消えたんでしょう」
「そうじゃなくて」言えるか、そんな、禍々しい願いを。
大体、誰を転化させて、それを妹だなんて呼ぶつもりだ。
「あの」考え方。きっと許されない、冷美さんにさえ、そんな方法を見つける。
「誰かを妹さんにして、また一緒に暮らそう、って思ってるのね?」
先回りをされ、私は怯えながら首を横と、縦に振った。一番の一番は、冷美さんにバレずに誰かを転化させて、自力で帰って来たのと、自宅で合流する事だった。「その誰かが居ないんですけど。襲って来た、ナツとかにしてもだし、田中先生とか、犬間和尚とか、助かるなら病院に連れて行った方がいいし、やっぱり。誰かをって時点でよくない考えなんだと思います」
「あのね」と冷美さんが言う。
諦めると言ったのだから、この上説教なんて受けたくない。
しかし冷美さんは背後、蔵の方へ指を差して言った。「愁生、あんな事になってるけど、まだ生きてる、かもしれないのよね。一応、天使だったわけだから。生きてるなら、転化できるんじゃないかな、って思うんだけど。もちろん、しろさんが嫌だって言うならしないけど。あの子、……あの子のおかげで妹さんが戻って来るって考えたら、近くに居させてあげても」
いきなり、目の前にそんな物を垂らされても、食い付くべきか、迷ってしまうけど。
「それって、ずなちゃん? それとも愁生、さんって事?」
「分からないけど、さっきのしろさん達は、どう感じた?」
「自分がいっぱい居る、って」
「じゃあ、妹さん。なんじゃないのかな」
そんなのでいいのか。「でもどうやって撃たせれば……」って思った時には、天使が振り返っていた。冷美さんに肩を引っ張られる。そして無音、衝撃は蔵の中へ、腹が裂けた天使を吹き飛ばし、そして天使は歩き始める。境内に入って来た装甲車から、フル装備の兵隊がぞろぞろ出て来て、すぐに天使を囲んだ。「これがそうか」とか「大丈夫ですか」って言いながら、私達を取り囲む兵隊も居た。更に二台、三台と入って来て、私達はその一台に乗せられた。
「あ、まだ。奥の蔵に人が。た、助けて貰えますか」
「分かりました。おい」と、別の兵隊に指示が出て、銃を持った二人が蔵に向かった。
鉄の檻、というか金庫のような物に天使が収容され、別の車両で運ばれていった。
戻って来た兵隊達は、薄い毛布を肩に掛けられただけの、ずなちゃんを連れて来た。
「しろ、ちゃん?」毛布を掻き抱き、胸を隠しながら、ふらつく足取りで私の隣に駆け込んで来る。「何があったの?」とずなちゃんが私に聞き、それは秋津愁生には見えない。今の所はまだ混乱状態で、ずなちゃんの精神と記憶が前面に出ているだけなのか。そもそも天使の秋津愁生に精神や記憶なんて物があったのか。どうでもいい。ずなちゃんが居るだけで充分だ。
「天使病。秋津愁生って居たでしょ、あの人がなって、それを奪おうとした人が居て」
「ああ、あの」と、急に振り返り、ずなちゃんが小さくなる。「その人のお母さん、ですか」
「そうだけど。あなたは、朱田瑞南帆さん、よね?」
「はい。あたし、あれ? なんで蔵の中に居たんだっけ」
「あそこが一番安全だと思ったから隠れてたんだよ」
「いや全然安全じゃなかったじゃん、扉とか吹っ飛んでて。……あの、どうかしました?」
「え、なんか。姉妹っていいなあって思ったのよ」冷美さんが弱々しく微笑んだ。
ずなちゃんは照れて、はあ、とか、へえ、って曖昧な相槌しか絞り出せなかった。
何せ全裸だし、何で全裸かを疑問に思う余裕も無いようだし、予備でも何でもいいから、何か着る物でも貸して貰えないかと思ったけど、何もないから、ジャンパーを脱いでずなちゃんに着させてやった。薄い毛布は腰に巻いて、ノーパンだけど、少しはマシになっただろう。ずなちゃんは膝をもぞもぞと擦り合わせ、たまに思い出したように、私の服の袖を抓んで来る。
「しろちゃん」と急に顔を覗き込んで来て、不安そうに言った。「まだ着かないの?」
「まだっていうか。もうどこも危なくないから、寝てればいいよ」
「この恰好で? 無理だよ何も履いてないのに」って、ちょっと声が刺々しくなる。
なんだか懐かしい響きだった。
どっちでも、なくてもいい、今この子とは決して離れたくないとだけ、思った……
ルーデンスの目と目と手と手 川島太郎 @socialist_inn
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