プロトコル—法の呼吸

疾風の刃

プロトコル


第一章 宣言 ― 法の定義


法に感情は無い。

存在してはならない。


司法とは秩序の呼吸である。

その呼吸が乱れれば、正義は崩壊する。

平等を欠いた法は、もはや法ではない。


この江戸の町に数多くある長家の一軒にて、

一つの事件が起きた。


被告は長次郎、無職。

被害者は三軒向かいに住む大工の家内と、

生後一年にも満たぬ男児。


凶器は出刃包丁。

目撃者多数。証拠物品多数。

捕縛されたのは賭場にて。

酒に酔い、犯行を自慢していた。


犯行の動機は、賭博のための金子を奪うためである。


――法は作動を開始する。


---


第二章 お白洲の作動


お白洲にて、奉行が裁きを言い渡す。

被告、長次郎。


彼はすでに、証言と自白のために石を抱かされ、

両の足を複雑に折っていた。

意識は朦朧としている。


奉行の声は届かない。

だが、法の作動に滞りはない。


書役が筆を運び、

記録が命令に変わる。


下されたお捌きは、

市中引き回しの上、磔獄門。


太鼓が鳴る。

今日も秩序は、正しく動き始める。


---


第三章 群衆 ― 正義の祭り


裁きの場を囲む町民たちは口々に叫ぶ。

「よっ、名裁き!」

「さすが御奉行!」


拍手と笑いが混じり、

長次郎の名が罵声に変わる。


奉行は動かぬ。

町民の声も、風の音も、

法の作動に影響はない。


正義は静かに、今日も演じられる。


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第四章 留置 ― 静止の呼吸


奉行所を後にした長次郎は、

再び小伝馬町の牢へ戻された。


判は下された。

だが、刑はまだ執行されない。

法には呼吸の間がある。


牢の中は、昼も夜も区別がない。

鉄と湿気の匂いが、

人の境を曖昧にしていた。


長次郎はもう、叫ばない。

喉を痛め、声は出ない。


食も与えられるが、

それは生かすためではなく、

秩序を乱さぬための維持であった。


僧が再び現れる。

「悔い改めよ」

だが、法は聞かない。

法に悔いは存在しない。


外では、風が幟を鳴らしている。

明日の仕置を知らせる合図。


夜が終わる。

痛みがまだ残るうちに、

秩序が更新される。


今日も一人、正義が動く。


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第五章 手配 ― 執行の前奏


長次郎は、もはや歩けなかった。

石抱きで折れた足は腫れあがり、

皮膚が裂けていた。


だが、法の進行は止まらない。


馬廻番が呼ばれる。

市中引き回し用の馬を手配し、

引き手を二人つける算段が立てられる。


役人たちは淡々と口を交わす。

「明け方には出せる」

「縄は新しいものに」

「札の文言、誤字なきように」


誰も怒らず、誰も哀れまない。

それぞれが己の歯車を回す。


馬が到着する頃には、

夜が明けかけていた。


牢の奥で、長次郎は息をしていた。

それは生きる音ではない。

処理を待つ音であった。


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第六章 確認 ― 生死の点検


桶の水が頭から浴びせられる。

冷たさが皮膚を裂き、

沈んでいた痛みが一気に蘇る。


長次郎は喉を鳴らし、叫んだ。

それは命を求める声ではなく、

身体が反射で発する信号だった。


刑の執行にも、人件費と時間がかかる。

死んだ者に縄を打てば、

それは秩序の浪費である。


よって、水をかけて確かめる。

生きていれば作動を続行、

死んでいれば停止。

ただそれだけの手順である。


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第七章 可視化 ― 市中引き回しの始動


長次郎の身体に縄が掛けられる。

首から札が吊され、

そこには名と罪、そして刑の内容が記されている。


馬が用意され、

長次郎は進行方向と逆に座らされた。

町人が顔と札を見やすいようにするためだ。


あるいは、最後の気遣いかもしれぬ。

罪人の目に刑場を映さぬための、

ほんのわずかな慈悲。


それを知る者は、もういない。


太鼓が鳴る。

行列が動き出す。


---


第八章 行進 ― 正義の祭り


太鼓が鳴る。

長次郎と、その他の罪人一向が牢を出た。

罪人道中が始まる。


町内を巡るたび、

道の両側に人だかりができる。

笑い、怒号、囃し声。


子どもが石を投げ、

女が団子を買い、

男が声を張る。


江戸の町にとって、

市中引き回しは娯楽であった。

歩く見世物小屋であり、

生きたお化け屋敷であった。


長次郎は血を吐き、

唾と呪いを町に撒き散らす。

だが、それもまた娯楽だった。


太鼓が鳴り止むことはない。

法は進む。

正義は音と群衆の中で呼吸を続ける。


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第九章 到着 ― 正義の昼餉


牢から刑場までは歩いてほど近い距離である。

だが、行列は遠回りした。

町をひと巡りし、

正義の姿を見せるために。


その間に、

長次郎の身体は石と卵を受けて傷だらけになった。

血と腐臭が混ざり、風に乗って町を巡った。


刑場に着く。

磔用の梁が寝かされている。

縄の音が重なり、太鼓が止まる。


長次郎は馬から引きずり降ろされ、

梁に括り付けられる。


時刻は昼。

町人は弁当を広げ、

茶をすすりながら刑の始まりを待つ。


正義は、日常の真ん中で始まる。

そして誰も、それを異常とは思わない。


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第十章 立柱 ― 正義の頂


磔の梁が縄で引かれる。

男衆が声を合わせ、

馬の力を借りてゆっくりと立てていく。


梁はまっすぐに起き上がり、

長次郎の身体は宙へと引かれた。


彼は聴衆を見下ろす形になった。

町が一望できる。

風が吹き抜け、血と埃が混ざって舞う。


太鼓が鳴る。

正義の最終段が始まる。


---


第十一章 終端 ― 正義の停止


役人が前に出る。

「何か言い残すことはあるか」


長次郎は答えない。

血と泡を吐きながら、

恐怖で見開いた目で、

ただ呪詛を唱える。


役人は小さく息を吐き、

槍手に目配せする。

「胸を二つ」


槍が突かれ、肉が鳴る。

血が梁を伝い、地に落ちる。


太鼓が鳴り、次の名が呼ばれる。

他の罪人たちも淡々と処された。


歓声も涙もない。

ただ、作業が進む。


秩序は完了し、

法は沈黙した。


---


第十二章 記録 ― 終了報告


槍で突かれた長次郎は、静かに絶命した。

その傍らで、首を刎ねられた罪人たちの身体が並ぶ。


遺体は刑場脇に数日晒されたのち、

罪人の共同墓地へと運ばれる。


稀に、遺族が遺体を引き取りに来ることもある。

だが、それはごく稀なことであった。


以上が、

江戸時代における死刑執行のプロトコルである。


正義は完了し、

秩序は再び静寂に戻る。


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