神社の白ねこ

朝吹

 

 秋の陽ざしは銀色味が強い。太陽の放射熱をまともに浴びる夏とは違い、割れた鏡を一面に散らしたように光が眩しい。

 道路の反対側に白猫を見かけたような気がして、蘭子は立ち止まった。しかしどうやら何かの見間違いだったようだ。

 オーバーツーリズムは地方の観光地にも波及して、狭い道ではすれ違うたびに肩や鞄がぶつかってしまう。連れの亜矢は車道と歩道を分ける境界ブロックの上を歩くことを選び、蘭子の少し先に進んでいた。

 亜矢ちゃん、わたしたちはもう三十代なのよ。

 そうおもったが蘭子は何も云わなかった。蘭子とて、小学生の頃は境界ブロックを平均台に見立て、あの上をよく歩いたものだ。


 信号のところで混雑を抜けて裏道にそれた。現在位置情報を反映させる地図アプリがあれば少々脇道に流れても迷わない。神社でもあるのか、紅葉した樹々の塊りがビルの間に顔を出している。端末で検索してみるとやはりそこは神社だった。

「縁切り神社。水に溶ける紙片に悪縁の相手の名を書いて、それを手水鉢の水面に浮かべると、願いが成就するんだって」

 亜矢は記事を読み上げ、「行く?」と蘭子に訊いた。

「べつにいい。無名の神社だし」

「この手の神社、あちこちにあるよね。昔から神頼みしたくなるほど、どうしようもなく嫌な奴っていたんだろうね」

 神さまに頼みたくなるほど、それだけ人の世は昔から棲みにくいものなのだ。


 あの男の名を書いてやろうか。


 黒水に浸るように蘭子の心は翳った。きれいに晴れた空の下、学童帽のような黄色い銀杏が縁切り神社を取り囲んでいる。しかし蘭子は想い直した。こんなに小さな、かわいい神社の手水鉢に、あの男の名を浮かべるようなことはしたくない。

 蘭子と亜矢は神社の前を通り過ぎた。



 小中学校の同級生だった亜矢とは二年前、観光地の体験教室で再会した。職人に教えてもらいながら一輪挿しを竹で作るというもので、初めてのわりにはなかなか上手に作り上げることが出来た。

 竹細工は荷物になる。希望者は宅配便で自宅に送ってくれるというので工房の片隅で送付状を書いていると、蘭子の前にある筆立てからペンを取ろうとした女性が「あれ」と声を上げた。

「蘭子ちゃん」

 誰。

 革ジャンを羽織って短髪を紫に染めたこんな知り合いは蘭子にはいない。しかしその声には憶えがあった。

「もしかして」

「うん、わたし亜矢。小中学校が同じだった蘭子ちゃんだよね」

 お互いに竹細工の一輪挿しを抱えたまま、蘭子と亜矢は歓声を上げた。亜矢とは何度か同じクラスになり、高校で離れてしまったものの、忘れられない同級生のうちの一人だ。

「こんな処で逢うなんて、なんて奇遇なの。わたしはいま実家から会社に通ってるの。亜矢ちゃんは」

「ずっと実家だよ」

 それならば亜矢の家は隣町だ。

「同梱しない? うちに到着したら届けてあげる」

 箱には余裕があり、竹細工の一輪挿しを二つ入れることが出来た。不要だと云ったが、亜矢はちゃんと宅配便の料金を折半して支払った。

 その場はそこで別れたが旅行から戻って竹細工の一輪挿しを届けた折に昔話に花を咲かせ、それから時々休みを合わせて一緒に旅行するようになった。蘭子を驚かせた亜矢の紫の髪はウィッグで、ライブハウス通いをしていた二十代の頃に使っていたそうだ。

「今はこんな格好をする機会もなくて」

 旅に出る時、革ジャンを羽織るついでになんとなく遊びで当時を再現してみたとのことだったが、年齢不詳の亜矢にその仮装はとても似合っていた。

 


 蘭子から話をきいた亜矢は鼻に皺を寄せた。

「そういう人いるよね」

「わたしの発言はすべて却下よ」

 会議で蘭子が何か云うたびにせせら嗤い、根回し済の取り巻きの男たちと眼くばせをして蘭子の案を潰してきた田北拓也とその取り巻き社員。

「彼らには掟があるのよ」

「どんな」

 亜矢は今日も紫のウィッグをつけて派手めなメイクをしている。傍目には実に奇妙な二人連れだろう。

「どんな些細なミスでも他人のミスなら大声で激しく糾弾する一方、自分たちの重大な落ち度は仲間内で庇い合ってもみ消したり他人になすりつけてしまうの。そんな仲間だから一度でも加担したら足抜け禁止」

 蘭子の後にほぼ同じ案を上司が口にすると、田北は「すばらしい」と涙を流さんばかりに拍手する。あれほどにあからさまだともはや喜劇だ。

「蘭子ちゃんは仕事が出来るから」

「ただ日々の業務をルーティンでこなしてるだけよ」

「田北組はおそらくそれもろくにやらないでしょ。ごますりとパフォーマンスと根回しだけで大きく見せるタイプ。だから真面目に仕事をする社員は彼らからみれば脅威なのよ。今のうちに足許をすくって潰しておかないといけない目の上のたん瘤ってとこ」

 もしそれが本当ならば田北たちは仕事をなんだとおもっているのだ。その莫迦らしさにより、いったい何人の有能な人間が転職を余儀なくされてきたことか。そのたびに上司の覚えめでたい田北は空いたポストに上がるのだ。


 お昼はラーメンでも食べようかと亜矢と店を探していると、大きな音がした。事故だ。倒れた自転車から男性が投げ出されて腕を抑えている。

 行き過ぎるかにみえたバイクはちゃんと停止した。現在はそこかしこに監視カメラがあって現場から失踪したとしてもだいたいは後で捕まる。

「すみません」

 バイクの若者は逃げる気はなかったようで、安全な場所にバイクを停めると駈け戻ってきた。たちまち人だかりが出来る。左折しようとした自転車の前輪にバイクが当たったようだった。転倒した自転車の男性はもう立ち上がっている。双方ともにスピードを出していなかったのが幸いして、救急車の必要はなさそうだった。

 混雑している店を避け、少し奮発することにして坪庭のある蕎麦屋に入ることにした。料理を待つあいだ、入口近くの小机に積んである観光パンフレットを取ってきて、観光名所を午後からどの順番で巡るかを決めた。

 運ばれてきた蕎麦定食には蕎麦のほか、揚げたての天ぷら、山芋、かやくご飯がついている。割りばしを割るとその音に重なるようにして救急車のサイレンが外から聴こえてきた。

「さっきの事故のことで通報があったのかな」

「多分違うわよ」

 店員が引き戸をあけて表をちょっと窺っている。救急車は素通りしていったようだ。

「いつまでもわたしなんかと旅行してないで、亜矢ちゃん、誰かと結婚したら」

「賢者の助言をありがとうございます。見て蘭子ちゃん、この三つ葉、二枚しか葉がない。双葉になってる」

 結婚はいいものよ。あなたも結婚しなさいよ。

 そんなことを云う資格は蘭子にはない。三十歳になる前に駆け込み婚をしたが子どもが生まれないまま二年後に離婚して実家に戻った身だ。なんて嫌な奴だと多くの人から軽蔑されている田北のほうが三人の子どもに恵まれて、子どもをそれぞれ名門私立に通わせて円満な家庭を築いているとは皮肉なことだ。

「ああいう人間は見栄っ張りだから、家庭の内実は分からないよ。身内からも嫌われていたり、全員が嫌なやつかもよ」

「同じことをやろうとしたらよほど作戦を練らないと出来ない気がするのに、すいすいと人の懐に入っては、他人の成果を自分のものにしてしまうのよね」

「バンドメンバーにもそういう人いたなぁ。実はないくせに立ち回りが異様にうまくて調子いいんだよね」

 天ぷらを小皿の塩をつけて、亜矢は笑った。

 給料は我慢料というが、仕事のことではなく田北のような社内の人間のやることに我慢するのが無駄すぎる。

 そば湯を呑み干し、蘭子は坪庭に視線を逸らした。

 部下が異動願いを出したり辞めてしまうたびに、今の若い奴は根性がない、あれほど指導してやったのに恩知らずだと田北は泣かんばかりに主張する。その力説の声があまりにも大きいので、毎回のように部下をこき使う田北の狡さや無能さは有耶無耶になってしまう。



 食事の後、やはり先ほどの神社に戻って縁切りを試してみることになった。「しつこい元カレとの縁を切りたい」と亜矢が云い出したのだ。

「昔からある神社なんだから、少しくらいはご利益があるでしょ」

 乗り気の亜矢とは違い、鳥居をくぐった蘭子の脳裏に浮かんでいたのは同じ縁切り神社でも形代かたしろで真っ白に覆われた京都の安井金毘羅の不気味な碑だった。うずくまった雪男のようなあの碑はそのうち、背負わされた怨念で動き出しそうだ。そんなことを考えるのも、蕎麦屋からここまでの道で、白猫をまた見かけたような気がしたからだ。

 蘭子の心を撫ぜるようにしてすうっと横切っていく、白い猫。まるで幽霊のような。

 境内は無人だった。看板の案内のとおりに小銭を木箱に入れて透明ケースの中の薄紙を一枚とる。備え付けの鉛筆で元カレの名をそこに書く亜矢を蘭子は見守った。

 どんな人たちが、どんな気持ちを抱えて此処を訪れたのだろう。身分のある人。それとも下民。怒り、涙。

 神社の規模からてっきり火鉢のような鉢を想像していたのだが、その神社の手水鉢は横長の大岩を彫って地下水をかけ流した、魚の水槽のように大きく立派なものだった。

「冷たい」

 水に触れた亜矢が悲鳴をあげる。

 切りたい縁。悪い縁。不要な縁。

 亜矢が水に浮かべた紙はあっけないほど素早く溶けていった。

「氷の浮かぶ風呂にあいつを漬けこんだ気分」

「どうなのそれ」

「もう溶けて消えちゃった」

 跡形もなく紙を呑み込んだ清水が鉢の中で渦を巻いている。

「神社はいいね。どんなに周辺の自然が開発されても、ここだけは木造建築と土の匂いが残ってる」

 森林浴でもするように蘭子と亜矢は秋の空気を吸い込んだ。昔はこの辺りも森と田畑だらけで、小川が流れ、山の向こうに落ちる夕陽が何処からでも見えたはずだ。

 幾多の悪縁を流してきた神社。

「蘭子ちゃんはやらないの」

 切りたい悪縁。それはこんな自分だ。かなり前から分かっていたのにどうして迷っていたのだろう。上層部まで田北に丸め込まれているような会社に身をおいておく意味などない。転職活動と並行して退職届けを出そう。毎度のように田北がいちばん焦るだろうが、その様子を冷笑してやるのだ。お生憎さま。あなたは普段「使えないあいつらを俺が監督してやってるんですよ」と散々に蔑んでいるけれど、わたしたちのような平凡な働き者がいなくなると、成果を横取りして威張ることが途端に出来なくなるのよね。

 アットホームな会社です。

 求人文句にこれが出ている会社は人がすぐ辞める説は正しかった。アットホームだとおもっているのは口先だけの絆で人を縛りつけながらうまい汁を独占している者たちだけなのだ。

 鳥居の向こうに何かがすっと過ぎていった。猫に見えたが白狐かもしれない。蘭子と亜矢は神社の外に出て周囲を見廻したが、何も見当たらなかった。

「何かいたよね」

「いた」

 霊獣がこの神社に連れて来てくれたのかな。秋の光の下で蘭子は旅行鞄を持ち直した。

 そういえば、『置かれた場所で咲きなさい』という言葉が大嫌いだったわ。




[了]


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柴田恭太朗さまの自主企画三題噺より。本文中に使った単語は後ろから#120→#114の順。

#114「自然」「渦」「身分」#115「作戦」「双葉」「賢者」#116「店」「通報」「机」#117「庭」「失踪」「腕」#118「事故」「ラーメン」「掟」 #119「輪」「職人」「水面」 #120「紅葉」「反対」「光」

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神社の白ねこ 朝吹 @asabuki

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