ルマ — 世界でいちばん小さな言語 —

@xmii

第1話

病院の待合室は、冬の空気のように乾いていた。

天井から垂れ下がるスピーカーが、淡々と番号を読み上げる。

私は言語学者だ。ぼんやりと順番を待ちながら、周囲の声を反射的に聞き分けていた。

だが、そのとき、耳が異常を検知した。


隣の椅子に座る若い男女が、奇妙な言葉で会話していたのだ。


「talme… siren?」

「siren, siren. náfe。」


抑揚は穏やかで、発音も自然だった。

けれど、そのどの音にも私は聞き覚えがなかった。

中国語でも韓国語でもない。

ベトナム語やタイ語の声調とも違う。

構造的な規則を探そうとしても、どの語も体系に収まらない。

私は自分の耳を疑った。

この二十年、アジア諸語の研究し続け、近年は知らない言語に出会うことなどなかったのに。


どうしても気になって、思わず声をかけた。


「Excuse me, what language are you speaking?」


二人は同時にこちらを見て、目を丸くした。

男が小さく笑って言った。

「……あ、日本の方ですか?」


驚いてうなずいた。「ええ、そうです。お二人も?」


「はい、日本人です。」


日本人。まさかと思った。

聞き取れなかった言葉が、日本人の口から出ていたということか。


「さっきのは……なんという言語なんですか?」

私が尋ねると、女が少し照れたように笑った。


「……変ですよね。あれ、私たちが作った言葉なんです。」


「作った?」


「はい。どこの言語ももとにしてません。ゼロからです。」


彼女の声は柔らかく、恥ずかしそうだった。

男が続けた。


 「ある日、彼が突然、知らない音を口にしたんです。意味はわからなかったけれど、なんとなく、彼が“おはよう”と言った気がして。そこから、私も同じ音で返した。それを毎日、少しずつ広げていったんです。文法も、言葉も、ぜんぶ二人で。」


男がうなずく。

「最初は、身振りで確かめ合いながらでした。でも、いつの間にか、“言葉”になってた。」


私は息をのんだ。

私の頭の中の言語学的好奇心が爆発した。

ピジンでも、クレオールでもない。構造言語でも、コードでもない。

世界にたった二人の話者による、純粋な“創発言語”。


「すごいですね。……もしよければ、その言葉、少しだけ教えてもらえませんか?」


二人は一瞬顔を見合わせた。

そして、男がゆっくり首を横に振った。


「すみません。これは……僕らの間だけのものなんです。」


「他の人には、説明できないんです」と女が続けた。

「日本語だと、同じ意味にならないんですよ。」


なるほど、と私は思った。

言語は、本来“社会”のためにある。

だが彼らの言葉は、ふたりという最小単位の“世界”のためにある。

外部に翻訳された瞬間、意味を失うのだ。


「理解します。無理を言いました。でも……少しだけ、何かひとつ、単語を聞かせてくれませんか?」


少しの沈黙のあと、男が静かに言った。


「……ルマ。」


柔らかく、光が差すような響きだった。

私は思わず繰り返した。「ルマ……。」


 「それ、どういう意味なんですか?」と聞くと、女は微笑んだ。


「彼が言うときと、私が言うときで、意味が違うんです。だから、日本語では訳せません。」


私は言葉を失った。

言葉とは、共有のための道具ではなく、結びつきそのものになり得るのか。

二人にとって“理解”はすでに不要なのだ。

ただ、響きを交わすことが、すなわち会話であり、愛なのだ。


「……素敵ですね。」とだけ言うのが精いっぱいだった。

呼び出し番号が鳴り、私は立ち上がった。

振り返ると、二人はまた何かを囁き合っていた。

その音は、どの辞書にも載っていない。けれど、不思議と心が温かくなった。


私の胸の中で、彼らの言葉が静かに残響した。

——ルマ。

意味のない音に、すべての意味が宿る。

それは、世界でいちばん小さくて、いちばん幸福な言語だった。

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