第18話 名より先に響く声
山は、一晩中、うなっていた。
湖の面はおだやかに見えるのに、その下で水脈がざわついているのが、足裏から伝わってくる。葦の根が、いつもより深く土にしがみついている。鳥たちは、まだ鳴かない。鳴けば、なにかが崩れてしまうと知っているみたいに。
ナカヨは、輪の中央に立っていた。
足が、少し震えている。
寒さのせいではない。山から伝わる低い揺れと、自分の内側で同じように揺れている何かが、ぴたりと重なっているせいだ。
背中には、サヌの気配。
火の匂いの向こうから、ユナの視線。
「……今日、行くしかないね」
イサハの声は、いつも通り、静かだった。
「山の息が、この輪を割る前に」
輪のあちこちに座っている大人たちの胸が、同じように上下する。舟の者も、村の者も、もう区別はつきにくくなっていた。肩にかかる布や、腰に巻いた皮の違いはあるのに、吐く息の長さが似ている。
「私が行く」
ナカヨは、そう言った。
言う前から、体は決めていた。
山の根と湖のあいだ――そこに橋をかけるのは、きっと自分の役目だと。
「私も」
ユナが立ち上がる。火のそばから離れるときの、あの慎重な動きではなく、今日は迷いのない足取りだった。
「火を置いていくわけにはいかない」
「俺も行く」
サヌの声は、少し掠れていた。
眠れていなかったのだろう。それでも、その目は山をしっかりと見ている。
「海の歌しか知らないかもしれないが……山にだって、届くかもしれない」
輪の中に一瞬、静けさが落ちた。
それから――
「なら、背負うのは俺だな」
オホが立ち上がった。
大きな手が、空を掴むように動く。
「ナカヨの足を、その腹に任せて歩かせるわけにはいかん。子の分もある」
「だね」
イサハが頷く。
「サヌ、ユナ、オホ。――三つの息で行きなさい。湖、海、火。それから、子を抱えた女の息。四つあれば、山だって聞くかもしれない」
輪の視線が、一斉にこちらを向いた。
ヒナが、線と丸だらけの手で、ナカヨの腰のあたりをぎゅっと握る。
「戻ってくる?」
「戻るよ」
迷いなく答えた。
怖さは、胸の奥でまだ震えているのに、言葉は揺れなかった。
「戻るために、行くからね」
ハツネは、ナカヨの胸の中で、すうすうと眠っていた。
まだ目は開かない。でも、息はしっかりしている。湖の息とも、火の息とも違う、まだ名を持たないリズム。
(この子を――山にも、聞かせる)
そう思うだけで、足の震えは少しだけ収まった。
*
山へ向かう道は、最初から「道」ではなかった。
葦が膝を打ち、土が踵を押し、石が足裏に冷たさを伝える。ナカヨは、オホの背に揺られながら、そのひとつひとつの感触を確かめていた。
背負われているのに、足は地面の息を覚えている。
ハツネの重みが胸の前にあり、背中にはサヌの気配、すぐ横にはユナの火の匂い。
山は、黙っていた。
けれど、その黙り方が、いつもと違った。
根の深い木々が、葉を震わせずに枝だけ軋ませる。
土が、踏まれる前から湿っている。
風は吹いていないのに、耳の奥で、低い音が続いていた。
「……怒っている?」
思わず、口からこぼれる。
「怒りだけじゃない」
ユナは、足を止めずに言った。
「怖がっている音にも聞こえる。崩れるのを、自分でも止められない山の音」
「山が、怖がっている?」
「人も同じだろう」
オホが低く笑う。
「怒鳴るとき、怖くない奴はいない」
サヌは、黙っていた。
けれど、肩越しに見える横顔は、海を見ていたときとは違う。
山の方角をまっすぐ見据えながら、彼は唇の内側で何かを確かめているようだった。
「サヌ?」
「……海の歌を、少し変えてみている」
「変える?」
「海は引いては寄せる。山は、蓄えては崩す。形が違う。なら、歌も変えないと」
そう言って、彼は小さく息を吸った。
最初の一声は、あまりにも静かだった。
か細い糸のような声が、木々の間をするりと抜けていく。
海のうねりのような揺れはなく、かわりに――
水滴が苔に落ちるような、ひとつひとつの音。
山は、すぐには答えない。
それでも、土の揺れがほんの少しだけ、深いところへ沈んだ気がした。
ハツネが胸の中で、もぞ、と動いた。
眠っているはずなのに、どこかでこの歌を聞いているような、そんな気配。
(届いてる……のかな)
ナカヨは、子の背を撫でながら、サヌの声と山のうなりを同時に聞いた。
*
山の根は、思っていたよりも近かった。
湖から見上げるときには、遠い壁のように感じていたのに、足(と背)で登ってみると、その壁の裏側にたどり着くまで、そう時間はかからなかった。
ひらけた場所に出たとき、ナカヨは息を飲んだ。
そこには――大きな裂け目があった。
地面が、口を開けている。
木の根がむき出しになり、石がひしゃげている。
山の内側から、深く、重い息が漏れていた。
「……ここか」
オホが足を止める。
ユナは、火打石に手を伸ばすのを、ぎりぎりのところで止めた。
「ここでは、火を高くしたくない」
「でも、暗い」
「暗いままでいい。見えすぎると、足がすくむ」
言いながら、ユナは手のひらをすり合わせる。
擦り合わせた手の間に、ほんの小さな火を生む。掌からはみ出さないほどの、豆粒の火。
裂け目の縁に、その火をそっとかざす。
照らされたのは、土の色と、根の影。
そして――骨。
「……骨?」
ナカヨは、思わず身を乗り出しそうになって、オホの肩に手をかけた。
裂け目の浅いところに、白いものがいくつも埋まっている。
獣のものとは、形が違う。
舟の者たちが海に返す骨とも、違う。
「人の骨だ」
サヌが、小さく呟いた。
海で、何度も見てきた形だ。
嵐に呑まれた船の者。
贄として捧げられた者。
戻らなかった者たちの残り。
「昔、ここにも『投げられた者』がいたのかもしれない」
彼の言葉に、山のうなりが重なる。
怒りというより、痛みに近い響きで。
ナカヨは、胸の前のハツネをぎゅっと抱きしめた。
この山は、ただ暴れているわけじゃない。
崩そうとしている場所には、悲しみが集まっている。
「もう、これ以上はいらないって……山が言っているように聞こえる」
「いらない?」
「投げられる骨も、捨てられる背も。全部、もう要らないって」
言ってから、自分でその言葉に驚いた。
でも、口から出てしまったものは、戻せない。
ユナが、静かに頷いた。
「なら、ここで新しいものを見せる必要があるね」
「新しい、もの?」
「投げられるものじゃなくて、抱えられるもの。捨てられた骨じゃなくて、これから肉と息を持つもの」
ユナの視線が、ナカヨの腕に抱かれているハツネへと向かう。
「……この子?」
「そう。この子の息。名の前の声」
オホが、背中を低くした。
「ここまで来たんだ。見せて帰らないと、山に顔向けできん」
ナカヨの足が、ゆっくりと地面に降りる。
土は、思ったよりも柔らかかった。
崩れる前の土の柔らかさだ。
裂け目の縁まで歩くと、膝が少し笑った。
でも、足は止めない。
山のうなりが、さっきよりも大きくなる。
ハツネの小さな体が、腕の中でぴくりと震えた。
(――怖い?)
心の中で問いかける。
当然、答えは返ってこない。
代わりに、自分の心臓の音が、いやに大きく響いた。
「ナカヨ」
背後から、サヌの声。
「……なに?」
「震えているのは、おまえの足だけじゃない。俺も、ユナも、オホも、山も震えている」
彼の言うとおりだった。
山の揺れと、自分の震えと、他の三人の息が、全部混ざり合っている。
「怖いのは、ここで止まることだ」
サヌが一歩、裂け目の近くまで歩み寄る。
その背中は、もう「誰かに捧げられる背」ではなかった。
そこには、支えるための意志があった。
「行くなら、行こう」
「うん」
ナカヨは、ハツネを胸に抱き直した。
小さな顔は、まだ眠ったまま。
山の息が、一層強くなる。
裂け目の底から吹き上がる風が、髪を乱し、紐の端を揺らした。
そのときだった。
ハツネの指が、きゅっとナカヨの衣を掴んだ。
小さな指。
まだ力の入れ方も知らないはずなのに、その握り方には確かな意志があった。
閉じていたまぶたが、ゆっくりと震える。
眠りの膜が、世界とこの子のあいだから薄く剥がれていく。
「……あ」
ナカヨの口から、かすかな声が漏れた。
その瞬間――
山の揺れが、一段階、強くなった。
木々が枝を鳴らし、土がわずかに崩れ、裂け目の縁に砂が走る。
ハツネの小さな体が、大きくぴくりと震えた。
そして――
「……い」
それは、途切れかけた息のような。
でも、確かに「声」だった。
まだ言葉ではない。
音の形も決まっていない。
だけど、その一音に、すべてが詰まっていた。
息。
生きる。
行き。
域。
山のうなりが、一瞬だけ止まる。
世界が、その一音に耳を傾けた。
「……き」
続いた二つ目の音は、震えながら、それでもまっすぐに裂け目の底へ落ちていった。
「いき……」
名ではなかった。
でも、それは確かに、この子が世界に向けて放った、最初の「呼びかけ」だった。
山の息が、変わった。
怒りのうねりではない。
悲しみのうなりでもない。
深く、深く沈んでいく――安堵のため息。
裂け目の縁に転がっていた小さな石が、ころり、と元の場所に戻るように動いた。
むき出しの根が、土を掴み直す。
崩れかけていた土が、ゆっくりと落ち着いていく。
ハツネは、もう一度「いき」と言おうとして、うまく言えず、小さな泣き声に変わった。
「……っ、…………ぁ……!」
泣き声は、山にとっては、きっと雷よりも強い音だった。
海は雷に驚く。
山は子の泣き声に、膝を折る。
ナカヨは、胸の奥が熱くなって、思わずハツネをぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ。――ここにいるよ」
自分に言い聞かせるような言葉を、子の耳元で繰り返す。
サヌは、裂け目を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
「……聞いたな」
「山が?」
「ああ。山も、湖も、海も。――ここにいる全部が、今の声を聞いた」
ユナは、掌の中の小さな火を消さなかった。
火はただ、静かに揺れている。
「いま、この子の声は、まだ名じゃない。でも、その前のものを山が覚えた。――なら、もう、同じような骨はここに投げられない」
オホが、ぐっと地面を踏む。
「投げようとする足があったら、俺が掴む。ここは、もうそんな場所じゃない」
山のうなりは、さらに深く沈んでいった。
どこかで、水が静かに満ちていく音がした。
裂け目の底に、小さな水たまりができはじめていた。
それは、涙のようにも見えたし、新しい泉のようにも見えた。
*
山を下りるとき、足取りは来たときよりもずっと軽かった。
崩れかけていた土は落ち着き、木々の葉は静かに光を受けている。
鳥たちが、ようやく短い声を落としはじめた。
ハツネは、ナカヨの腕の中ですやすやと眠っていた。
さっきの泣き声が嘘みたいに、安らかな顔で。
「……さっきの」
ナカヨは、小さく呟いた。
「ハツネの声、聞こえた?」
「聞こえた」
サヌは迷いなく答えた。
「山の揺れの中でも、はっきりと」
「なんて、聞こえた?」
「“いき”だ」
彼は、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「生きる、息をする、どこかへ行く、その全部が混ざった声。――この子に、ぴったりだと思う」
「名前……じゃないよね」
「名は、まだだ」
ユナが横から口を挟んだ。
「いまのは、名の前の声。名はあとでいい。焦ってつけると、息より重くなってしまうから」
「うん……」
ナカヨは、ハツネの額にそっと唇を寄せた。
(あなたの名は、もう少し、あとでいい)
そう心の中で言ってみる。
(いまは、“いき”だけで十分)
子の胸が、小さく上下する。
それだけで、この山の根っこまで揺らす力を持っているのだと思うと、世界が一回り大きく見えた。
*
湖に戻ると、輪はすでに形になって待っていた。
子どもたちが葦の影から飛び出し、大人たちの胸が一斉にふくらむ。
舟の者も、村の者も、同じように立ち上がる。
「戻ったね」
イサハの声は、いつもより少しだけ高かった。
「山は?」
「……泣き止んだ」
ナカヨは、そう答えた。
言葉にしてしまうと、あまりにも簡単に聞こえる。
でも、それでよかった。
ヒナが、まっすぐナカヨの胸の前――ハツネのいるところに走ってきて、足を止めた。
「声、聞こえたよ」
「ヒナにも?」
「うん。山のほうから、こっちのほうから、全部から聞こえた。“いき”って」
子どもは、ときどき、恐ろしく正確なことを言う。
イサハは、輪の中央に歩み出て、手を広げた。
「山は、骨を返さなかった。かわりに、揺れを静かにした。――なら、ここで祝いをしよう」
オホが、舟のほうを振り返る。
舟の者たちの中から、年長の女が一歩前に出た。
「海も、今日は静かだった。遠くの波が、揺れをこっちまで連れてこないようにしていた」
「湖も静かだった」
村の男たちが言う。
「なら、三つの水が、同じことをした」
ユナが火の側にしゃがみ込む。
「火も、揺れすぎないようにした。焼きすぎると、崩れるから」
輪の中央に、火がともる。
いつもより少し低く、でも、確かな熱を持って。
イサハは、ナカヨとサヌとハツネを輪の真ん中へと招いた。
「この子の名は、まだない」
そう言ってから、輪のほうを見渡す。
「でも、この子の声は、もう皆が聞いた。山も、湖も、海も。――なら、この子はもうここに“いる”」
誰も、異を唱えなかった。
名を持つ前に、輪の一部になる。
それはきっと、これまでにあまりなかったことだ。
「名を急いで決める必要はない。名は、あとからついてくる。――息が先で、名があと」
イサハの言葉に、骨の笛が応える。
今日の笛の音は、昨日までよりも少しだけ高く、少しだけ長い。
ヒナが、砂に線と丸を描く。
線は山から湖へ、丸は輪を囲み、その丸の内側に、小さな点がひとつ増えた。
「ここが、“いき”の場所」
「まだ名じゃないよ?」
「うん。でも、場所は先に決めていいでしょ?」
ヒナの言い分は、どこかでイサハと似ていた。
ナカヨは、輪の真ん中で、ハツネを抱き直した。
サヌは、その横で、胸を高くしたり低くしたりしながら、皆の息の長さを耳で測っている。
(この子は――)
湖と山と海と火、その全部に「最初の声」を聞かせた子。
どこかの神として祀られるかもしれない。
ただの子として、ここで笑いながら大きくなるかもしれない。
どれでもいい。
どれになってもいい。
(まずは、息)
名前をつけるときは、きっと今日のことを思い出す。
裂け目の縁で、山が震えを止めたあの瞬間を。
輪の中に、笑い声が広がる。
魚の匂い、塩の匂い、火の匂い、土の匂い、葦の匂い、遠い海風の匂い。
全部が混ざって、ここだけの夜になる。
ハツネが、眠ったまま小さく息を吸い、吐く。
そのリズムが、輪の息と、湖の息と、山の奥の静けさと、少しずつ重なっていった。
最初に生まれたのは、名ではない。
息だった。
その息が、これから道を作る。
道ができたら、いつか名がつく。
名が生まれても、息は消えない。
息のほうが、先にあったから。
ナカヨは、火の向こうに見える山影を見上げて、そっと目を閉じた。
山は、もううなっていない。
ただ、深く、静かに――生きていた。
海と火の間で、君と息をあわせる 桃神かぐら @Kaguramomokami
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