試験勉強とそれを邪魔する連想ゲーム

柴山 涙

試験勉強とそれを邪魔する連想ゲーム

 期末試験まであと2週間をきった日曜日。


 まだ試験範囲すら確認していない私。


 SNSで見た情報を信じ、喫茶店での勉強を試みる。


 店に入り食事を頼むとまずは社会科の教科書を開く。


 近くの席には世間話をしている女子高生が二人……いや、大学生かもしれない。


 私には他人の背景を話の内容から連想してしまう癖があった。


 しかし、その服装に目を向けてみると二人の服装は自分の思う高校生像からは少し外れているように見えた。


 実際のところ、世間話のくだらなさなんてものはどの年齢層もそれほど変わらなかったりするのであまり当てにならない。


 ほら、少し耳をすましてみれば遠くにいる主婦の集まりも同じように何かの不満だったり、文句ばかりを楽しそうに話している。


 みんな、自分の理想が正義で自分が一番賢いと思っている。


 例えば、SNSを眺めてみてもそうだ。

 本来、公共の福祉(教科書47P)の観点から一番言葉を選ばなければいけない場所であるのに、何かが爆発してしまったかのように刺激的な内容を投稿してしまう人がいる。


 それは誹謗中傷や独特な思想、性的なものであったり深夜の飯テロなど様々に至るが、このような行為に至る人々はきっとインターネットが現実と隔離された別の世界であると勘違いしてしまっているのだと思う。


 だとすれば怖い話である。


 なぜなら周りを見渡せば、似たように少し過激な言葉でそこにいない誰かの陰口を叩いている人間がごまんといるからだ。


 それは、SNSで見かける過激的で恐ろしい存在である彼らがネットリテラシーの面で異端であるというだけで倫理観の面においては別段特異な存在であるわけではないということを意味しているのである。


 ならばそういった他者に向ける攻撃的な思考が何故生まれてしまうのか。私はそんなことを考えながら社会の教科書を閉じて次は数学の教科書を鞄から取り出した。


 私の理屈だとこうだ。

 

 世の中は全てX(現状)+Y(変化)=Z(結果)の形で成り立っている。


 この計算式における解であるZに自分の理想を代入した時、Xと Yに代入する数字を謝ったり、そもそも自分の理想に対する解像度が低いが故にZが自分の思う理想と別の値になって計算が上手くいかないことへの不満がそれぞれの悪意の根源となっているのではないかと考えたのだ。


 例えば、そこの女子大生(仮)の二人の話にそれを当てはめてみる。


 彼女たちの抱く不満は最近ご飯を食べに行った先輩が食事代を出してくれなかった。との事だった。


 だとすれば自分の行動で願いを叶えたい場合、式の解はZ=相手が奢りたいと思うような人物像。となる。

 そしてその式はX(自分の相手からの評価)+Y(相手が自分に対して食事を奢りたくなる条件)となるのである。


 この場合Yに代入される値の例は、(この子には奢ろうと思える人柄や態度)や(偽りであったとしても奢られることに対して日常的に感謝の姿勢を見せている)であったり、はたまた(金銭的に問題を抱えていそうな背景)などが挙げられるだろう。


 しかし、彼女らは私達は別に聞きたくもない話を聞いてあげているのだし、わざわざ足を運んでいる。なんなら、服や化粧代だって私たちの方が高いのだから奢られて当然であるなどといっているわけである。


 その場合、式はX(自分の相手からの評価)+Y(自己満足な努力と見返りを求める姿勢)という計算式になり、これでは解となるZは(他者の視点や価値観を無視してわがままをいう面倒臭いやつ)となってしまうのである。


 だが、しかし彼女らはその解に生まれた大きなずれの原因を自らで変えられる範囲内にあるのだとは考えずに、新たに作り出した自分達ではどうすることもできない方程式であるはずのX(周りの人、環境)+Y(自分たちが至らない部分に合わせて変化したルールや人々の行動)=Z(自分達の理想)を持ち出して解決しようと話しているのである。


 こういった話は他にも山ほどある。


 スポーツで個人や性別における給料の格差を問題視する人間は小説家や漫画家などその他エンターテイメントに置き換えて考えてみてほしい。

 そもそも給料の財源はどこなのだろうか、そんな疑問を抱くはずである。


 世代を理由に若いものを否定したり老害なんて言葉を使う人は、同年代の立派な人間を盾に自分を棚に上げていないか自分を見つめ直してほしい。

 自分が叩いているのは未来や過去の自分自身なのではないだろうか。


 何の努力もせず自分には友達やパートナーができないと言っている人や、自分の置かれている定義に違和感があるから皆んなには自分の見方を変えてほしいなんて言っている人たちは、そもそも人間関係というのがX(互いの評価)+Y(お互いの言動)=Z(互いの関係性)という過程を経て継続して成り立つものなのだということを理解してほしい。

 第一印象から入り、互いをどれだけ理解して気遣い、互いの特徴にどれだけ譲歩できるのかを相手と築き上げたい関係性から逆算して行動するよう心がければ、この世界が自分の理想を語るだけでうまくいくような簡単なものではないということに気がつけるはずだ。


 なんてことを考えているうちに既に1時間近くの時間がたっていた。


 頼んだ食事もとっくに食べ終え、これ以上の長居は店に迷惑が掛かってしまうだろう。


 教科書の内容は……ほとんど頭に残っちゃいない。

 しかし謎の満足感だけが残っていた。

 

 こんな真理に触れたかのような口調で妄想を膨らませている私は一体どれほど立派な人生を歩んできたのか?などと疑問を自身に投げかけてみる。


 所詮これらは妄言だ。


 理想や行動に移す事柄を計算で求められたところで、実際に行動に移す所までができなければ何も意味もないのだ。


 みんなすぐに自分の理屈を並べたがる。


 みんな自分の理屈が正しいと思っている。


 しかし、本当にそれが正しいのであれば人が挫折することはないのだろうし、夢なんて言葉も生まれていない。


 みんな間違っているのだ。


 だけど、それでも実際に行動に移したわけでもなく証明されたわけでもないような机上の空論はあちこちで育ち、私たちのような行動に移さない人間たちの口数ばかりが増えていく。


 そうして文句を並べる人間たちはまるで自身が行動に移したのだと言わんばかりに、脳が錯覚して生まれた謎の達成感を理由に自分が偉いのだと勘違いする。


 長々と色々と考えてみたが人が文句を口にする理由なんてこんなものなのだろう。


 そうやって結局口だけが達者になって、偉くなったつもりで自分を正当化する。


 行動が正の方向へと進むものなのだとするのならば、思考は負の方向へと人を導くものになるのだろうか。


 だとしたら、この脳みそはいつも私を負へと誘うように行動を阻害し思考する。


 その上、その思考を言葉に置き換えるという行動すらも思考の流れに巻き込んでどこかへと運んでしまうのだから仕方がないなと思う。


 なんてことを考えながら、掛け算の勉強をしつつ家路を辿る。


 依然、脳は行動を妨げ、ただ道を歩くことですらままならず何度も不注意のもと小石に躓き足を擦りむいた。


 試験までは、あと2週間弱か。


 また、次の試験もあまりいい点数を狙うことはできなさそうだ……


 そしてまた一つ、今日も何に役に立つのかわからない妄想の延長が私の自己肯定感を少し上げてくれた気がした。

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