#5手紙

 一九四五年の秋にぼくは帰ってきた。帰るべき場所なんてもうないというのに。この世の誰よりも信頼し、愛していたはずの女は僕をうらぎってほかの男とできていた。その時のぼくといえばどんな顔をしていたんだろうな。


 とにかくつらかったよ。これこそまさに“心にぽっかりと穴が空いた感覚”だった。この表現をはじめに思いついた人はすごいと思う。まさしく僕もそんな感じだったから。心の何処か欠けてはいけないところがげっそりと抜け落ちた感覚なんだ。


 ブルックリンのあの橋で他の男の腕に抱かれる彼女の顔を見た。まさしく“偶然”だった。その時の彼女の顔はどこか見覚えがあった。そうだ、あの蛇の顔だ。醜悪な蛇の顔。ならやはりネズミは僕自身だった。そして、ボードレールのあの詩もミスリードを誘うための意味不明なものではく、今のこの酷い状況を暗示するものだったんだ。アイツは男の上でクネクネと体を揺らす醜い蛇だ。間違いない。

 でもだからと言ってあの女を憎む気持ちは湧いてこなかった。憎みたいのに憎むことができないのだ。ただ、彼女のあの顔を見て、裏切られた事を知った時こう思ったんだ。“こんなものか、所詮こんなものか”ってね。感情よりはっきりとこの言葉が頭に浮かんでは繰り返されたよ。一体何に対してそう思ったのかは僕も分からないけれど。ただ、今はとても辛い。


 丸腰の僕を狙ったドイツ兵は何でぼくを見逃したんだろうか。意味がないと思ったから? 人情のため? けれどそんなのはどうでも良かった。人を殺せば褒められる。それが戦争だ。そしてまた“偶然”があった。嫌な偶然だったよ。ぼくは彼を撃ち殺した。


 心にぽっかりと穴が空いたぼくは、楽しいことを楽しいと、幸せなことが幸せだと分からなくなっていた。いや、客観的に見てぼくは幸せなんだろうなと推測することはできる。でもそれだけだ。ニヤリと口を歪めて笑っていても何処か遠いところから、何が面白いのか説明してみろ、って冷たい目でもう一人の僕が睨んで言うんだ。

 

 今はとても楽な仕事をしている。だから心の負担になることも、頭を使うこともないからぼーっと出来て楽なんだ。死ななければいけない、なんていう強迫観念も幾分よわまった。


 ぼくは孤独だ。まったくもって一人なんだ。それが心地良いときもあれば、とても人が恋しくなる時もある。僕は誰からも愛さされていなくてよかったんだ。誰かを愛しているというだけで救われたから。その事実だけで、この世界は戦う価値のあるものだと思ったから。でも今は誰かを愛することなんて出来ない。


 真っ暗闇のトンネルを永遠と歩いているような感覚だった。いつトンネルに入ったのかもすでに覚えてはいない。太陽の光がどんなだったかも思い出せない。たまに思い出したように自分で仮初の光を作り出し、その方向へ進むだけが今の僕だ。僕は光の届かない深海を彷徨うチョウチンアンコウ。


 少々長くなってしまった。こんなに長く書くつもりはなかったんだが。ここまで読んでくれた君はきっと良いひとだ。だから、もしこの手紙を大西洋に浮かぶ小さな瓶の中に見つけたのなら、僕に一本電話をかけてほしい。そして少しお話がしたい。そうすればきっと、運命って名前の偶然を信じられるかもしれないから。


 その手紙を見つけた八歳の男の子は、その変に歪んだ文字を読んではみたがあまり深く理解はできなかった。その紙を再び瓶に戻して、ぽいっと濁った水に放った。あとでそのことを父に話すと、父はその手紙を取ってきて神妙な顔つきでそれを読んだ。祖母にもそれを見せた。祖母の涙を見たのはそれが初めてだった。

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27回目の偶然 @link2025-11-05

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