第7章 -沈黙の交差点- 前編
会議室の扉が開いた瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
取引先との初顔合わせを終えたばかりの芹沢遼は、書類を見つめながら深く息をついた。
少し離れたところには、落ち着いた表情の
橘美桜と、その上司である三浦直哉の姿があった。
「お疲れ、美桜。今日のプレゼン、完璧だったな。」
「ありがとうございます、直哉さん。……でも、直哉さんのフォローがあってこそですよ。」
「はは、そう言ってもらえるのは悪くないな。」
「いえ、本当です。途中で詰まってたら、先方の印象も違ってましたから。」
穏やかに交わされる声。
息の合ったやり取り。
その自然さが、遼にはどうしようもなく痛かったが挨拶する為平然な顔を作る。
「……お二人とも結婚式以来ですね。」
遼が声をかけると、美桜は少し驚いたように顔を上げた。
「あ……芹沢さん。お疲れさまです。そうですね、結婚式以来です。」
「いい式でしたね。陽介らしい、あたたかい式だった。」
「ええ。里奈、すごく綺麗でしたよね。」
会話は当たり障りなく、それでいてどこかぎこちない。
結婚式のときに見た“恋人の前での美桜”とは違う。
今、目の前にいるのは、きっちりと仕事の顔をした“橘美桜”だった。
それなのに、なぜか胸の奥ではざわめきが止まらなかった。
――「直哉さん」。
その呼び方ひとつで、胸の奥がずしんと沈む。
職場で呼び捨てなんて。最近のコンプライアンスの厳しさを知る経営者の考えが頭をよぎる。
それなのに、今はそれがごく自然に、周囲の空気に溶け込んでいる。
そのことが、何よりも現実を突きつけてくる。
遼が無言で資料を再度整理していると、近くの席から小さな声が聞こえた。
「三浦さんと橘さん、ほんと息ぴったりですよね。」
「うちの会社でも噂になってるって。あの二人、付き合ってるんじゃないかって。」
「え、やっぱり? あっちの会社では既に結婚間近なんじゃないかって笑。だってあの雰囲気、距離感、普通の上司と部下じゃないよな。」
「ま、あの夫婦感なら安心だよな。現場もまとまるし。」
笑い混じりの会話。
ただの冗談。
けれど遼には、その何気ない言葉が胸の奥にずしりと沈んだ。
周囲の誰もが、それを“当然の光景”として受け入れている。
まるで、最初からその形が正解だったかのように。
遼は小さく息を吐き、書類を整えながら声を出した。
「三浦さん、橘さん、今回の共同プロジェクト、よろしくお願いします。」
「もちろんです、芹沢さん。いいものにしましょう。」
美桜も穏やかに微笑む。
「私も、精一杯頑張ります。」
その笑顔が、まっすぐで、届かないほど遠かった。
君へと続く季節 ― あの春をまだ、手放せない ― 紬 真白 @mashiro-1105
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