第6章 ―約束の春、そして―

白いドレスに包まれた里奈の笑顔を見た瞬間、陽介の胸が熱くなった。

 あの日、帰国してすぐに迎えに行ったあの人が、今こうして自分の隣にいる。

 それだけで、もう十分だった。


 「陽介、緊張してる?」

 「……してないって言ったら嘘になるな。」


 控室の鏡に映る二人。

 陽介のネクタイを直しながら、里奈がそっと笑った。

 彼女の瞳の奥には、長い時間を乗り越えてきた強さがあった。


 ——あの日、空港で。

 ただ一言、「迎えに来た」そう言った自分を思い出す。

 そしてその日の夜、夜景の見えるレストランで伝えた言葉。


 “これからの人生を、一緒に歩いてほしい。”


 あの瞬間の、里奈の涙の理由を、今もはっきり覚えている。


 式場の扉が開く。

 ゲストの拍手が響く中、陽介は里奈の手を強く握った。


 ——隣にいる、この人を、もう二度と離さない。


 会場の後方には、見慣れた顔ぶれもいた。

 芹沢遼、橘美桜。

 二人の姿を見つけた瞬間、陽介の胸に込み上げるものがあった。


 “これで、やっと全員が揃ったな。”


 心の中で、そんな言葉が静かにこぼれた。


 ⸻


 披露宴の途中。

 笑顔と祝福の声に包まれる中で、遼はふと、美桜の姿を探していた。


 テーブルの向こう側。

 白いワンピースに身を包んだ美桜は、同僚たちと談笑していた。

 その隣には、同じ会社の上司・三浦直哉。

 彼がグラスを渡すと、美桜が小さく笑って頷く。


 そんな姿を見た周囲の数人がささやくのが聞こえた。


 「ねえ、やっぱり橘さんと三浦さんって付き合ってるのかな?」

 「うん、そうみたい。うちの会社でも有名だよ。すごくお似合いだよね。」


 笑い声と祝福の拍手の中で、その小さな噂だけが遼の耳に刺さった。


 “……お似合い、か。”


 グラスの中で氷が溶ける音が、妙に遠く感じた。

 自分の心の奥にある“失ったもの”の輪郭が、また少し鮮明になる。


 遼は静かに視線を逸らし、陽介と里奈を見つめた。

 二人の幸せそうな笑顔。

 それを見ているだけで、胸が締めつけられる。


 ——本当は、自分も守りたかったはずのもの。


 高校の春、別れを選んだあの日。

 あの選択が、どれほど彼女を傷つけたのかを思い知ったのは、ずっと後になってからだった。


 けれど、美桜には言えなかった。

 家が傾き、父の会社が危うかった。

 「日本の大学で推薦を取ってもいい」と言われても、それを捨てて海外に行くことを選んだのは、家を守るためだった。


 ——あの日の沈黙が、すべてを壊した。


 もし、ほんの少しでも違う言葉を選べていたなら。

 もし、もう一度だけ「信じてほしい」と伝えられていたなら。


 ステージでは、陽介がマイクを握っていた。

 「俺は、世界で一番幸せです!」

 その声に会場がどっと沸く。

 笑顔、涙、拍手——。


 遼は静かに目を閉じた。

 その音の中で、自分の心だけが取り残されていくのを感じた。


 グラスを持つ手がわずかに震える。

 ふと横を見ると、美桜が微笑んでいた。

 遼と目が合う。

 一瞬、空気が止まったように感じた。


 けれど次の瞬間、彼女は小さく会釈をして、隣の直哉に視線を戻した。

 その何気ない仕草だけで、胸の奥に鈍い痛みが走る。


 “……もう、届かないんだな。”


 その痛みは、懐かしさと後悔と、少しの優しさを混ぜ合わせたような感覚だった。


 陽介と里奈の笑顔が、ぼやけて見えた。

 涙ではない。

 ただ、時間が滲んでいくように感じただけだった。


 “陽介……おめでとう。”


 遼は心の中でそう呟き、もう一度グラスを傾けた。

 春の光が差し込む披露宴会場で、氷の溶ける音が静かに響いていた。

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