バスタブの中の銀河

ららしま ゆか

バスタブの中の銀河

 ひとりが寂しくなったので、バスボムを買った。

 今回の彼女とは比較的長く続いたから、ひとりになるのは久しぶりだった。1DKの部屋なのに、なんだかとても広く感じる。部屋の至るところに彼女の痕跡が残っていた。彼女が選んでくれた、Aラインのモダンなワンピース。お揃いで買ったコスメにネグリジェ、それから指輪。彼女が遺したそれらを、わたしはまだ手離せないでいる。

 お湯を張ったバスタブに、そっとバスボムを落とす。しゅわしゅわとした泡とともにバニラの甘い香りが広がり、お湯が淡いマーブルに染まっていく。

 バスボムが市民権を得て、どのくらい経っただろう。

 バスボムは今や、ただの入浴剤ではない。お湯に溶かすと女の子が生まれる――ある種の卵である。色や香り、トッピングを自由にカスタマイズすることで、この世にたったひとりの女の子を生み出せるのだ。

 女の子が生まれるバスボムは瞬く間に広まった。寂しさを抱えたひとびとの、友人、恋人、妹や娘として。わたしもそのひとりだった。

 今回わたしが作ったバスボムは、バニラにトンカビーンズとシーソルトを加え、大粒のカラフルなグリッターをトッピングしたものだ。色はユニコーンをイメージしたシュガーパステルのマーブル。どんな女の子に会えるだろう。わたしはバスタブの中の揺らめく水面を眺める。

 こぽり。ぷくぷく。とろりとしたお湯が、ゼリーのような実体を得ていく。透き通っていた肉体が次第に血色を帯び、人間と同じような皮膚に覆われる。皮膚の下では骨格や臓器が猛スピードで形成されているらしい。バスボムの仕組みなんてもう誰も気にしない。そういうものだからだ。けれど、何回見ても不思議で、とても綺麗だとわたしは思う。

 ぱちん。ひと際大きな泡が弾けた。

 お湯の中から現れた女の子は、猫のようなあくびをした。

 カスタードクリーム色のゆるく波打つ髪に、アーモンドみたいな大きな瞳。いちご味のババロアみたいにぷるんとした唇。大小のグリッターの粒がそばかすのように頬に散らばり、色素の薄い皮膚はお湯の雫できらきらと光って見える。わたしとは正反対の、あどけない、けれどツンと澄ました顔立ちは、シャム猫そっくりだ。

 彼女はじっとわたしを見つめ、ひとこと「おなかすいた」と言った。


 バスボム用のパックミルクを吸いながら、彼女は形のよい眉毛をきゅっと寄せる。クローゼットの中の衣服を全部出して並べても、彼女が気に入る服はなかった。彼女が身に着けてくれたのは、薄桃色のベビードールと純白のドロワーズ。それだって、裸のままでは目のやり場に困るからと頼み込んでやっと着てくれたのだ。彼女は空になったパックをわたしに投げて寄越すと、「もっとかわいい服がいい」と愛らしい頬をぷうと膨らませた。

「これなんか、かわいいと思うけれど」

 わたしは数ある服の中から一着のワンピースを手に取り、彼女の胸に宛てがってみる。生成色の、身頃と裾にピンタックとコットンレースがあしらわれた、カントリーな一着だ。けれど彼女は首を横に振る。

「もっと甘くなくちゃいや」

「じゃあ、これは?」

 次に手に取ったのは、ぱっきりとした水色に白いドットが散りばめられたのジャンパースカート。綿サテンを贅沢に使ったサーキュラースカートは、くるりと一回転したらバレリーナのロマンチックチュチュのように広がる。しかし、彼女はまたしても首を横に振る。

「レースもフリルも全然足りない」

「これなんかどう?」

 黒のジャガード織りのドレスはわたしの一番のお気に入りだ。丁寧に織り上げられた繊細な薔薇模様の陰影が優しく浮かび上がる。スカートの裾を走るエンブロイダリーレースと、ウエストからヒップにかけての曲線が美しい逸品である。

「黒なんて絶対いや! ちっともかわいくない!」

 彼女はとうとう駄々っ子のように声を張り上げてしまった。

「困ったなぁ」

 彼女は随分とこだわりが強いらしい。

 今まで何人もの女の子と暮らしてきた。どの子も個性的で好みがはっきりしていたけれど、彼女ほどではなかったように思う。彼女のバスボムを作るとき、シーソルトを多く入れすぎたのだろうか。もしかしたら、この部屋にある服が、どれも過去の女の子の持ち物だと気付いているのかもしれない。

 ――彼女にだけお古を与えるなんて、フェアじゃないよね。

 わたしはほんの少しだけ懐を心配し、けれどすぐに思考の外側へと追いやった。

「この中でいちばんマシと思える服を着て。きみだけの服を買いに行こう」

「いいの? やったぁ!」

 はじめて見た彼女の笑顔は、やっぱり猫に似ていた。


 ♡♡♡


 街はバスボムであふれている。

 ここがランウェイであるかのように、華やかな容姿な女の子が路地を行き交う。人工的な髪色に、異様に整った容貌、均整の取れた身体――まるで生きたお人形カスタマイズドールだ。

 アパレルショップが建ち並ぶエリアでは、特にバスボムから生まれた女の子が多く見られる。バスボムのためのショップもここ数年で随分増えた。みんな、自分だけの女の子を着飾るために、そして着飾らせた女の子を自慢するために、ショッピングに勤しむ。わたしたちも似たようなものかもしれない。


 ショーウィンドウに並ぶマネキンを眺めては、彼女は不満げに首を振った。モードもだめ、トラッドもいや、カジュアルやストリートなんてもってのほか。ならばとガーリーなブランドに連れて行ったが、彼女のお眼鏡には適う服は見付からなかった。もう十軒目になるだろうか。どうか日が暮れるまでに、せめて一着でも気に入るものが見付かって欲しい。そう祈りはじめたとき。

「あ」

 不意に、彼女が足を止めた。つられてわたしも立ち止まる。彼女の横顔が、みるみる明るくなる。大きな瞳を更に大きく瞠って、じっと一点を見つめ、否、見惚れている。わたしは彼女の視線の先に目を向けた。

 そこには、一体のトルソーが立っていた。

 砂糖菓子ドラジェのように淡い桃色のジャンパースカート。肩紐から上身頃、スカートの前面をフリルとレースが走る。胸元には大きなリボンが三つ、お行儀よく並んでいる。裾が幅広のフリルになっているスカートは、まるでランプの傘のようにまあるく広がっている。

 ジャンパースカートの下に重ねられているのは、純白の丸襟ブラウスだ。キャンディスリーブと呼ばれる袖はその名の通り手首の位置で一度すぼまっている。キャンディの包み紙のように広がったレース付きのフリルがかわいらしい。トルソーの傍らには、猫脚の椅子が一脚。紅いベルベット張りの座面に、ジャンパースカートと同じ色をしたエナメルのストラップシューズがちょこんと置かれている。

 装飾過多な、けれど決してくどくなく、可憐で。スイートロリィタと呼ばれるその衣裳は、まるで、砂糖菓子の妖精のためにあつらえたみたいだ。

 彼女の潤んだ唇からうっとりとした甘やかな溜め息がひとつこぼれたのを、わたしは聞いた。

「入ってみよう」

「……でも、」

 彼女はなぜだか尻込みしたように一歩後退あとじさった。せっかく好みの服に出会えたのに、なにを躊躇うことがあるだろう。彼女はちらりとショーウィンドウの中の床へと視線を落とす。わたしもその先に目を向ける。そこには毛足のある白いラグが敷いてあるだけで、他にはなにもなかった。

 ――ああ、なるほど。

 今まで覗いたショップでは、ショーウィンドウのディスプレイには価格が記されたプレートが添えてあった。それが、ここにはない。つまりはきっとそういうことだ。

 あんなに駄々を捏ねていたというのに、変なところでしおらしくなるんだ。思わずぷっと吹き出してしまう。

「いいよ。買ってあげる」

「いいの? ……高いんでしょ?」

「たぶんね。でも、きみが気にすることじゃないよ」

 わたしがわたしの都合で生み出したのがきみなのだから、わたしにはきみの衣食住を保証する責任がある――だなんて、はっきり言葉にしたりはしないけれど。彼女のために、彼女に似合う服を贈りたい気持ちは本当だ。

「さ、行こう」

 彼女の小さな手を取って、わたしはメゾンのドアを開けた。


 まるでキャンディポットの中に迷い込んだみたいだった。

 パステルカラーを基調にした店内は、色とりどりの洋服であふれていた。ロリポップやツイストマシュマロを思わせる甘い色彩だ。

「いらっしゃいませ。どうぞごゆっくりご覧くださいね。ご試着の際はお声掛けください」

「ありがとう、そうします」

 バスボムらしき店員は、テディベア柄のスカートにオフホワイトのスクエアネックのカットソーという、比較的カジュアルな着こなしをしていた。ブルーベリーガムみたいな色の髪は耳の上でふたつに結われ、スカートとお揃いのリボンが飾られている。その完璧な愛らしさは、カスタマイズの賜物か、それとも本人の好みなのか、わたしには判然としない。

 彼女はといえば、店内を見渡しては何度も感嘆の吐息をこぼしてる。懐古主義的なデザインのジャンパースカートに三段ティアードのスカート、タータンチェックのセットアップまで、どの洋服も彼女によく似合うだろう。

 わたしは近くにあったハンガーラックに並ぶ服の中から、一着のワンピースを手に取った。

 アイボリーの、身頃の短いベビードール風のデザイン。前ヨークの両サイドには共布のフリルがあしらわれ、袖はふんわりとしたビショップスリーブになっている。胸の下から広がるスカート部分は透明感のあるオーガンジー生地に覆われ、ベルのようなシルエットになっている。愛らしく、けれど上品なデザインだ。

「わたしはこういうのをかわいいと思うんだけど、きみはどう?」

「……もう少し、甘いのがいい」

「これだと足りない?」

「うん。もっとレースもフリルもいっぱいで、ふわふわしたのがいいの。色も……もっと美味しそうなのがいいな。チョコスプレーがいっぱい掛かったクリームカップケーキみたいに」

「なるほどね」

 少しだけ彼女の好みがわかった気がした。

 メルヘンチックと形容するにはいささか華美で、けれど決して下品ではない。お砂糖たっぷりの、スパイスを効かせたお菓子のようなそれは――きっと、己のためだけにまとう繭であり、鎧だ。それを少女趣味のひとことで片付けてしまうなんて、わたしには出来ない。

「ワンピースとジャンパースカートならどっちがいい? ああ、スカートにカットソーでもかわいいよね」

「選んでくれるの?」

「一緒に選ぼうよ」

「……うん」

 彼女の柔らかそうな頬が赤く染まる。彼女は靴の爪先でフロアをつんと叩き、上目遣いにわたしを見た。はにかんだ表情がかわいくて、つい口元がゆるんでしまう。

「ジャンパースカートがいいの。ショーウィンドウの中にあったみたいなの」

「同じのを出してもらおうか?」

「他のも見てみたいな」

 彼女はわたしのジャケットの裾をつまみ、控えめに引いた。彼女に導かれるままに、わたしはトルソーとディスプレイテーブルの間を縫って進む。あちこち目移りしながら進むから、目が回りそうになった。

 彼女は店の一番奥のハンガーラックの前で足を止めた。ラックには、まさしく砂糖菓子の色をしたジャンパースカートが並んでいる。シュガーピンクにサックスブルー、レモンイエロー、ミントグリーン、それからピュアホワイト。彼女はそのうちの一着に手を伸ばし、何秒か躊躇って、ハンガーを掴んだ。

 シュガーピンクのそれは、純白のレースがアクセントになった王道のデザインだった。スカートの裾がスカラップになっており、規則的に並ぶ半円の合間からは幅広のチュールレースが覗いている。背中側は細いリボンがコルセットのように編み上げられていた。

 彼女は、ショーウィンドウのトルソーを眺めていたときよりもっと表情を輝かせた。高鳴った鼓動まで伝わってきそうなほどの高揚。大粒のオパールみたいにきらめく瞳に、わたしは目を奪われる。

「試着してみたら?」

「……似合うかな」

「きっと」

 今度はわたしが彼女の手を引く。店員に試着をしたいと伝え、試着室まで案内をしてもらう。ジャンパースカートに合わせるブラウスとパニエも見繕ってもらった。店員からそれらを手渡された彼女は、少しだけ不安そうにわたしを見る。その視線の意図は読み取れない。彼女はもじもじとしたまま、試着室の前から動こうとしない。

「どうしたの、試着しておいで」

「ファスナー、上げてくれる? 背中のリボンも」

 なんだ、そんなことか。わたしは笑ってしまいそうになるのをぐっと堪えて、

「いいよ、やってあげる」

 彼女はやっとほっとしたように表情を和らげ、試着室のカーテンの中に入っていった。


 試着室の側で待っていると、不意にカーテンが数センチ開いた。小さな手が手招きするように伸びたかと思えば、わたしの二の腕を掴む。柔い力で引き寄せられて、わたしは慌てて靴を脱ぐ。足がもつれるのをなんとか踏ん張り、姿勢を正す。顔を上げた先には、ロリィタ姿の彼女が居た。カスタード色の髪と瑞々しい肌にシュガーピンクがよく映えている。

「似合うね」

「ちゃんと着てから言って」

「ごめん」

「……ファスナー、上げて。リボンも、お願い」

 彼女は右向け右をして、左腕を肩の高さまで上げた。真っ白なブラウスが、ジャンパースカートのファスナー部分から覗いている。わたしは腰の位置にあるファスナーの引手をつまみ、そっと引き上げた。ブラウスの布地を噛ませないように、慎重に。それから、彼女の後ろに回り、背中のシャーリングを覆うように編み上げになったグログランリボンへ指を掛ける。きつすぎず、ゆるすぎす、上半身のラインに沿うように、ゆっくりと引き締める。左右対称になるように、蝶々の形にリボンをゆわく。

「出来たよ」

 彼女はくるりと身体を旋回させて、身体の正面をこちらに向けた。

 端的に言って、とても似合っている。まるで彼女のために仕立てたみたいだ。彼女がこぼしたのと同じ色をした溜め息が、わたしの唇からもこぼれる。きゅっとくびれた腰から滑らかに広がるスカートは、パゴダ傘のような美しい曲線を描いていた。店員に見立ててもらった丸襟のシンプルなブラウスは、ジャンパースカートだけでなく彼女の面立ちまで引き立てている。

「うん。やっぱり似合ってる。思った通りだ」

「ありがと」

 くすぐったそうに彼女は微笑む。

「靴下と、靴も合わせて買おう。このまま着て帰りたいでしょう?」

「……ほんとにいいの?」

「いいよ。こんなに似合うんだもん、別の服を着せるのがもったいない」

 一度試着室から出て、店員に声を掛ける。彼女が身に着けている衣服を購入したいこととこのまま着て帰りたいこと、靴下と靴のおすすめを見せて欲しいことを伝えると、店員はすぐさまおすすめのレッグウェアと靴を見繕ってくれた。店員が持ってきてくれた中から、彼女はレースとリボンの付いた白いハイソックスと、白いエナメルのストラップシューズを選んだ。一式をカードで支払い、タグを外してもらう。

 彼女の前に跪き、靴のストラップを留めてやる。彼女はおとぎ話のお姫さまみたいな表情をした。わたしはそれに微笑みを返した。


 ♡♡♡


 ロリィタメゾンを出たわたしたちは、カフェで休憩することにした。バスボム向けのこのカフェは、バスボム専用のミルクとスイーツのメニューが充実している。人間向けのメニューはほんの少し、申し訳程度にコーヒーや紅茶があるくらいだ。

 注文から間もなく、ウエイトレスが頼んだドリンクとフードを運んできてくれた。彼女の前にマシュマロの浮いたホットミルクにマカロンとメレンゲクッキーが、わたしの前には炭酸水の瓶とグラスが置かれる。

 彼女はショーウィンドウの前ほどではないものの、瞳をきらきら輝かせてマカロンに手を伸ばした。さくりと軽やかな音を立てて砕けるマカロン。甘い香りがふわりと舞う。まるで小動物みたいにちまちまと食べるものだから、微笑ましい気持ちになる。わたしは炭酸水をグラスに注ぎ、口に含んだ。糖類の入っていない炭酸水はしゅわしゅわと食道を流れ落ちていく。何故だか後味が甘く感じた。

 わたしの視線に気付いたらしい彼女は、ガナッシュが付いた親指の腹をぺろりと舐めた。そして、カップの持ち手で指先を遊ばせながら、

「ねえ、あなたについて教えて」

 予想外の言葉にせそうになった。いかにもわたしに興味がありますというサインに、少しだけおなかのあたりがむずむずする。

「構わないけど、たぶんなんにも楽しくないよ」

「いいの、あたしが知りたいの」

「なにが知りたい? 答えられる範囲で答える」

「ファッションに興味があるひとなの?」

「特別そんなつもりはないけど、どうしてそう思ったの」

「服、いっぱい持ってたし、ジャンルもばらばらだったから……それに、」

「うん?」

「……すごく、魅力的だから」

 あまりにも直球で、だからわたしは笑ってしまった。彼女は愛らしい頬をぷくりと膨らませ、わたしを睨む。

「笑うことないじゃない」

「ごめんね。……そうね、もしわたしがそう見えているなら、今までの同居人のおかげかも」

「……同居人?」

 彼女の眉がわずかに歪む。わかりやすく感情が顔に出るところも嫌いじゃないなと思いながら、わたしは頷いてみせた。

「そう、同居人。わたし、ずっとバスボムと暮らしていたの」

 バスボム、と口にした瞬間、彼女の表情はあからさまにほっと和らいだ。幼い嫉妬心が揺らいでいる。本当に、かわいい。

 炭酸水をひとくち飲んで、小さく息を吐く。

「うちにある服のほとんどは同居人たちのでね。みんな好みが違うからああなったってわけ」

「あのドレスも、そうなの? 黒い……」

「あれは最初のバスボムが最後にわたしに選んでくれた服」

 小さな唇がきゅっと結ばれ、尖る。小さな火に薪を焚べてしまったかしら。だとしたら、少し悪いことをした。けれど同時に心地好くすら感じてしまうのだからたちが悪い。自分の底意地の悪さを心の中で嘲笑わらいながら、わたしはグラスの中の炭酸水を飲み干した。

 彼女はマカロンとメレンゲクッキーをもしゃもしゃと頬張り、ホットミルクをあおった。飲みっぷりのよさに笑みがこぼれる。

 彼女の唇の端を汚すとろけたマシュマロを、人差し指で拭ってやる。見せつけるように舌先で舐め取ると、彼女はきゅっと眉根を寄せた。その頬は、少しだけ赤らんでいる。

「帰ろうか」

「……うん」


 ♡♡♡


 バスタブの中のお湯がちゃぷんと音を立てた。バスタブの中の水面には、わたしたちの身体をぎりぎり隠せるくらいの泡が浮かんでいる。砕き入れたバブルバーの量が少なかったのか、それとも給湯の勢いが足りなかったのか。もしかしたらその両方だったかもしれない。バブルバスと呼ぶにはささやかな泡を、彼女は掌に載せてふーっと息を吹き掛けた。

「まさかきみがお風呂に入りたがるとは思わなかったよ」

「だって、いっぱい歩いて疲れたんだもん」

「ついさっきここから生まれたばっかりなのに」

「いいでしょ、別に。……あなたと一緒に入りたかったの」

 ふたりで入ることを想定していないバスタブは、そう広くはない。わたしたちはまるでドーナッツにサンドされたクリームとフルーツみたいに重なり合いながらバスタブの中に収まっていた。彼女はわたしの脚の間に座り、けれどわたしの上半身を背凭れにはしなかった。

 彼女の髪や身体をそっと撫でながら洗ってやる。くすぐったいのか、彼女はときどききゃあきゃあと笑った。彼女は髪も身体も柔らかくて、いつまでも撫でていたくなる。

 浴室が甘い香りで満たされていく。わたしの身体の奥深くまで染み込んでいくみたいだ。彼女と同じ、バニラの香り。わたしは彼女のうなじにそっと唇を触れさせる。

「きゃっ! もう、いたずらしないで」

 けれど彼女はわたしを振り払ったりはしなかった。

 彼女はくすくすと笑いながら、甘い声でささやく。

「明日はどこに連れてってくれるの?」

「あなたと一緒なら、どこだっていいんだけどね」

「あたしを作ってくれたのがあなたでよかった」

「ねえ、あなたのなまえ、おしえて?」

「あたしね、あなたとならうまくやっていけそうよ」

「あなたのこと、だいすきになっちゃったもの」

 ぱちぱちはじけるキャンディみたいな彼女のこえが、だんだんととおくなる。

 じゅわり、しかいがにじみ、とろけだす。

 ゆびのさきが、

 くるぶしが、

 かみが、

 からだが、

 かたちをなくしていくのがわかる。

 ごめんね、

 もう、わたしは、――


 とぷん。


「……えっ?」


 ✕✕✕


 小さなしずくの音に、あたしは振り向いた。

 バスタブの中のお湯がばしゃんと大きな波を作る。

 目の前には、シミひとつない綺麗な壁があるだけだった。

 そんなわけない。あるはずない。でも。

 あのひとが、居ない。

 どこに行ったの?

 ――まさか、


「あなたも、バスボムだったの」


 浴室の中で、あたしの声が反響する。

 ねえ、あなたもこんな気持ちだったの。

 どうして気が付かなかったんだろう。

 何人ものバスボムと暮らしていたってことは、その全員をうしなってきたってことだ。

 あなたは一体、どんな気持ちであの服をわたしにくれたというの。

 喉の奥が、ひりひり痛い。

 あたしはあなたの最後のバスボム女の子に相応しかった?

 答えてくれるあなたは、もう居ない。

 バスタブの中のお湯からはすっかり泡が消えていて、細かいラメがきらきらと漂うだけだった。

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