スポットライトの影で

羽鐘

仮面の下の素顔

 彼女の指先から生まれる物語は、いつも鮮やかな色彩を放っていた。部屋の片隅でキーボードを打つ彼女の横顔を、僕は特等席で見つめる。

 この一瞬を、僕は息を潜めて見守る。

 彼女が小さく、ため息をひとつ。

 僕は背筋を伸ばし、顎の奥が軋むのを堪えながら、笑い話を絞り出す。彼女は視線を上げない。 だが、キーボードの打鍵音の拍子が明らかにゆるんだ。ため息ひとつで、部屋の照明がかすかに揺らぐ。

 僕は道化。

 スポットライトの影に立つ。ただ一瞬の笑顔を引き出すためだけに。誰も僕の心臓の鼓動を聞かない。ましてや、この仮面の下、彼女の細い指先に触れたいと願う狂おしい気持ちなど、知る由もない。

「道化は気持ちを悟られてはいけない」

 この役割がなければ、僕は彼女のいるこの世界に、いられない。



 彼女と出会うまで、僕の胸にはいつも、暗夜に沈む砂漠が張り付いていた。

 凍てつく寒さ。食事は与えられず。月明かりの下に晒される。

 母は責め立てた。「もっと私を気遣いなさい!」

「役に立たないお前なんていらない」と吐き捨てられた。

 母の言葉は僕の存在意義を根こそぎ引き抜き、深い谷底へ突き落とした。

 氷の棘が心臓に突き立ち、鼓動を凍てつかせた。

 その冷たさが血管を這い、肌を石のように冷たくする。それが残った触覚だった。「僕は無価値な存在なんだ」と、自分で自分に判を押した。心は動きを止め、生きるための熱量を失った。僕はただ、世間の流れに押し流されるだけの残骸だった。



 僕は再び光を見た。とある創作サークルの片隅で。

 エゴと承認欲求のぶつかり合い。議論は、やがて否定と嘲笑の濁流になった。

 ふと、彼女と目が合った。

 サークル内の喧騒の中で、彼女はたった一人、批判の嵐に晒されながらも、言葉が持つ美しさと儚さを守ろうとしていた。周囲の冷ややかな視線と辛辣な言葉が彼女を襲う中、彼女が僕の方を向いた。

 僕の存在など気にも留めていない、ただの偶然の一瞥。

 だが、その瞬間、彼女の瞳に宿る、自分の創造を信じ抜く揺るぎない炎が見えた。

 凍てついていた僕の心に、熱が灯る。その熱は、過去に僕を打ち据えた否定の鎖を断ち切る、希望の光。

 僕は反射的に立ち上がり、腹の底から笑い声を響かせた。

「皆様のご高尚な意見、この阿呆めにはピンとこない故、子どもに語り掛けるようにお願い致しまする!」

 道化が生まれた。

 それは、彼女の盾になるため。彼女の視線が再び作品に向かうため、僕にできる唯一の行為。

 彼女が語ろうとしていた言葉は、僕の心を破壊した「無価値だ」という言葉とは真逆の、命を吹き込む創造の世界だった。

 そして、僕は決意した。この人の笑顔を守る、束の間の道化として生きる。

 この人の笑顔のために、僕の心臓が止まっても構わない。



 僕の務めは、滑稽な言動で彼女の心から雑音を取り除くこと。そして、彼女の創り出す世界に寄り添うこと。

 いつしか彼女は僕を「最高の協力者」と呼んだ。その言葉は、朽ちた船の心臓の奥を締め付けた。

 キーボードの音と、テーブルの微かな木の匂い。デスクランプの光が、道化が演じる舞台と彼女を優しく照らしていた。それが、僕らの世界だった。

 ある夜。作業を終えた彼女が、疲労からか、無言で僕の隣にふわりと腰をおろした。

「ねえ、道化さん」

 彼女はそう呼びかけ、静かに僕の肩に頭を預けた。石のように固まる身体。 決定的な、わずか一歩の侵入だった。

「私ね、道化さんのそういうところが好きよ。どんなに私が追い詰められても、あなたはいつも 笑っているから。何も言わなくても、そこにいてくれるだけで、救われる」

 それは、道化にとって最高の賛辞。僕の胸は熱に満たされた。

 同時に、背筋に氷の刃が走った。彼女が「好き」だと言っているのは、この仮面だ。虚像だ。

 ――抱き寄せるな。 ――真実を吐露するな。

 もしそうすれば、彼女は驚き、戸惑い、僕から離れていく。僕は唯一の役割を失い、無価値な過去へ逆戻りする。

 僕は彼女の温かさの中で、息を殺した。

 だが、僕の足の裏だけが、アスファルトのように冷たい現実の床から、浮いているように感じたが、道化らしく、明るい声で冗談を言い、彼女の頭が離れるのを促した。

「ほら、物語の続きが待っていますよ、ヒロインさん」

 彼女は微笑み、再びキーボードに向かう。僕の役割は果たされた。だが、彼女の体温が残る肩だけが、触れたいという禁じられた願望を、静かに焼いていた。



 彼女は一つの作品を完成させた。優しさと慈しみが溢れる、美しい恋の物語。世界は、道化の願いとは無関係に冷酷だった。

 彼女の作品は、批評家から厳しい評価を受けた。 「テーマは良いが、表現が現代的ではなく、もどかしい」 「優しさが優等生的であり、表面的にしか感じられない」

 その言葉は、道化の限界をそのまま作品に突きつけられた、僕自身の痛みだった。

 彼女は深く傷つき、数日間、創作から離れた。マグから立ち上る湯気は、ゆらり揺れて、やがて消えた。 沈黙が、僕らの舞台に幕を下ろした。

 笑いかける。だが、彼女の顔から笑顔は消えたままだった。僕が提供できるのは刹那の癒しだけ。

 絶望が彼女を押しつぶそうとする。膝を抱える彼女の傍で、僕は心の中で過去の冷たい叫びを聞いた。 ――何もできやしない。

 ある日の夜、彼女は突然立ち上がり、僕に言った。

「道化さん、私、別の世界に挑戦するわ。今までのやり方じゃダメなの。誰も触れていない、もっと泥臭くて、人間らしい痛みに満ちた物語を書く。 もう一度、ゼロからやり直す」

 それは、過去の成功体験をすべて捨て去る、彼女自身の本質への、壮大な賭けだった。

 僕は道化の仮面の下で、強く唇を噛みしめた。新しい世界に踏み出す彼女の瞳には、傷つきながらも立ち向かう、以前の炎とは違う決意の光が宿っていた。

 僕は知っている。 彼女は必ず、心の内側を削り取る。 そして、道化の笑顔は、ますます無力になる。

 だが、僕は彼女の前に立った。涙顔の笑顔を張り付かせたまま。

「それは素晴らしい! 最高の舞台になる! さあ、新たな旅の始まりだ!」

 僕は最大限の笑顔を作り、彼女にエールを送った。僕の役割は変わらない。彼女が前に進む限り、僕は道化師として、立ち続けるしかない。



 彼女が挑む痛みに満ちた物語の創作は、過酷だった。

 これまでの優等生的な手法を捨て、彼女は過去の軋轢と、魂の源泉を掘り起こしていく過程で、彼女の表情から笑顔は消えていった。

 道化の存在は小さくなった。 彼女が求めたのは、刹那の笑いではなく、痛みを分かち合う共感。

 彼女の作品で体現する痛みは、無慈悲な言葉を投げつけられてきた僕にも深く突き刺さった。彼女の作品に没入しそうになる。その衝動を、月を見上げることで幾度も押し殺した。

 その領域には踏み込んではいけない。 心を通わせ、愛を求めてしまえば、道化の役割は終わる。 無価値な僕に戻る。

 それでも、僕は静かに傍に立ち続けた。壁にぶつかったとき、静かにコーヒーを淹れる。徹夜明けの朝、毛布をそっとかける。言葉にならない支えだけが、僕に許されていた。

 秋から冬へと季節が移ろうころ、魂を削り取って描かれた、血の通った真実の物語が完成した。彼女の孤独と、生きようとする強い意志の結晶だった。

 彼女は、その作品が形になるうえで最もふさわしいと思える出版社への公募へと提出した。

 結果を待つ数週間の地獄のような時間。彼女は不安に押し潰されそうになった。

「ねえ、道化さん。もしダメだったら、私、もう書けないかもしれない」

 そんな時、僕の役割は再び必要とされた。僕は仮面の下で恐怖に震えながらも、 いつも通り大げさに笑う。

 彼女の手を握ろうとして、寸前で止めた。

 代わりに、力強く語りかけた。

「そんなことはありえません! あなたの物語は、誰かの心を打ち、誰かの痛みを癒す光になる! 僕はそう信じている! ほら、笑顔! あなたは、あなたの作品を、最後まで信じてあげるべきだ!」

 僕の支えと、彼女自身の情熱が、不安を押し返した。 そして、運命の日を迎えた。



 彼女の成功を信じ、僕はささやかなお祝いの品を買いに、いつもの店へ向かっていた。

 彼女は、誰もいない部屋で、静かに結果を知ることになっただろう。

 彼女の悦びに満ちた顔を想像しながら、信号の点滅を気にしながら、交差点へ。空は秋晴れ。眩しすぎて、僕の影が異様に細長く伸びていた。

 スマートフォンが激しく振動した。彼女からの着信だ。

 僕は立ち止まり、笑って電話に出ようとした。喜びの声が聞こえるはずだ。

 だが、届いたのは閃光と、タイヤが焦げ付く強烈な匂い。そして凄まじい音。 鋭い衝撃に身体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。

 激しい痛みが全身を貫き、鉄錆びた味が口内を満たす。 意識は急速に遠ざかっていった。

 視界が歪む中、スマートフォンが近くで、まだ鳴り続けている。僕は手を伸ばし、なんとか画面を見た。彼女の笑顔のアイコンと、着信を知らせる文字。

 僕の仮面は地面に落ち、白い塗料にひびが入る。道化ではいられない。 もう、彼女と心を通わせることもない。

 僕は最後の力を振り絞る。微かな、掠れた声で、あの問いを口にした。

「……僕の心臓が止まっても、君の笑顔は……絶えないでくれますか?」

 彼女は、きっと成功したのだろう。だから、笑っているはずだ。

「……ああ、神様、僕は、役に立てていますか?」

 彼女の束の間の癒しにしかなれなかった。痛みを分かち合うこともできなかった。でも、一歩を、支えることはできたか?

 僕自身の存在意義を確かめる、最後の問いが口をつく。

「……道化の僕は……生まれても、良かったのですか?」

 視界は完全に暗転した。

 地面に落ちたスマートフォンは、ようやく着信を終えた。画面には、新しいメッセージが点滅している。

 公募受賞の報告と、一言だけの、飾らない感謝の言葉が。

「ありがとう」

 道化の仮面は、永遠に静止した。その下で、「心を通わせたい」と願った、ただ一人の男の恋心も また、静かに終わりを告げた。

 だが、彼女の世界に、新しい太陽は確かに昇った。

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スポットライトの影で 羽鐘 @STEEL_npl

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