真実を語れ

エドゥアルト・フォン・ロイエンタール

真実を語れ

 私がまだ幼かった頃から父に言われ続けた言葉がある。

「正しいことを成せ、真実を言え」と。

 けれど昔の私は臆病で、他人の顔色を窺い、対立を避けていた。

 終身刑を言い渡され、生涯を独房で過ごすことになった私は、今は亡き父の教えに従い、自伝としてここに真実を示し、訴えたい。


 最初に何を書くべきか。

 しばらく考えた末、幼かった頃に何度も読まされた本に習い、私の出自と両親のことから書こうと思う。

 父はドレスデン郊外にある小さな町の内科の開業医で、母はそこの看護婦だった。

 また父は、仕事柄今勢いのある政党の党員で、地域の名士などの党員がよく診察に来ていた。

 両親は朝早くから夜遅くまで働き、私のことをあまり顧みてくれず、また兄弟もいなかったが、近所に住む少年少女達が参加していたワンダーフォーゲルの一団で知り合った友達がいたので寂しくはなかった。

 皆でハイキングをしたり、川で遊んだりして、ごく普通の生活をしていた。

 時が流れ、私が14歳になる年、ドレスデン近郊に新しく政府が管理する寄宿中等学校ができた。

 父の所へ来る診察へ来る患者の話によると、そこを卒業すれば、大学へ行けるらしい。

 父は私に自分の跡を継いで医者に成ること を望んでおり、何としても大学へ行くように言っていた。

 当時の私も変な仕事をするよりも、親の跡を継いで医者になる方が良いと考えていたので反対はしなかった。

 それから勉強して、試験に合格し、晴れてクロッチュにあるナポラという学校へ入学した。

 入学試験も難しかったが、内部でも競争が激しく熾烈で、放課後はスポーツを行うことが奨励され、生徒には軍隊のような規律を求める、宛ら幼年学校のような場所だった。

 授業内容も基本的な学問に加えて、ドイツの歴史と文化に重点が置かれ、現政権の理念や思想についての授業も行われていた。

 党員になっていた父からの助言で、入学前から今の総統の著書を熟読し、本の内容や授業の内容は大体理解していた私にとっては「所詮人気取りの為の詭弁」にしか聞こえなかったので、これらの授業はとても退屈なものだった。

 入学から4年後の38年。18歳になった私はナポラを卒業し、父の望み通り、ヨーロッパにおける医学の最高学府の一つ、ウィーン大学の医学部へ進学することができた。

 ただし、周りからは「親ドイツ派が学長を務める大学へ、党員の父が手を廻したからだ」と陰口を言われ、同級生の多くが陸軍大学校や親衛隊士官学校へ進学した中、医学部へ進むことを「臆病者」だと罵る奴もいた。

 とても悔しく、腹立たしかったが、怖いのも事実で、軍に入って戦場へ行くのも嫌だったので、強く否定できなかった。

 ウィーン大学で私は、付属小児病院に勤めているアスペルガーという医者と知り合い、彼から「知的障害者の中には歳不相応なほどの驚異的な能力を持った者がいる。そして彼ら彼女らと親身に向き合い、交流を重ね、自らの障害を個性だと受け入れられるよう知育することで社会に溶け込める、優秀な子供に育てることができる」という話を聞いた。

 最初は半信半疑だった私も、病院にいる類まれな子供達を見たことで、信じざるを得なくなった。

 若干7歳にし、6か国語を流暢に話す少年や、とても長い小説を一読しただけで殆ど暗唱できる10歳の少女など、驚異的な能力を持った子供達がそこにはいた。

 同時にどの子供も何かしら、精神的な問題を持っており、7歳の少年はその場にじっとしていることができず、10歳の少女は自分の好きなこと以外には一切興味を示さない子供だった。

 私は医師と出会い、その考えを知り、類まれな子供達と交流し、何より父も望んでいたので内科医になるべく、以前にも増して勉強に励んだ。

 けれど在学中の39年から始まった戦争の影響で、私は43年の年明けにアウシュビッツに新設された収容所で、常勤医師として勤めることになった。

 その過程で親衛隊に入隊することになり、親衛隊二等兵の階級を得た。

 収容所には政治犯やソ連軍の捕虜、そしてポーランド人やユダヤ人などが居て、近隣の大規模な科学プラントへ労働力を送っている。

 ただこの地域では長年チフスが流行っており、この収容所でも毎日多くの囚人が亡くなっており、常に焼却炉が動いていた。

 収容所所長のヘスという男へ挨拶をしに行き、改めて私の仕事についての説明を受けることになった。

 どうやら昨年末に各収容所へ「あらゆる手段を用いて囚人の死亡率を下げるように努力し、以前にも増して囚人の健康と栄養状態を注視し、配慮と改善を行わなければならない」と指示が出され、今医師団の拡充が行われているらしい。

 私はここで、囚人の心の健康を管理、診断を行い、必要な場合は治療とケアを行うことになるようだ。

 所長への挨拶を済ませ、病棟へ向かうと、多くのチフス患者が横になっており、囚人であるが、看護婦の看護婦も含めて医者、看護婦達が慌ただしくしていた。

 それからはずっと、私は専らチフス患者の看病を手伝った。

 この収容所では週に1日は休日があり、囚人達は飛び込み台付きのプールで遊んだり、看守達とスポーツで遊んだり、と自由に過ごせる。

 また、囚人と看守で構成されたオーケストラや合唱団が、定期的にコンサートを行い、皆に文化的な体験をさせてくれている。

 私はこの時間に家族単位で収容されている囚人が暮らす家族棟に行き、子供の発育と健康、そして親の精神的な健康を管理する為に、家族ごとに診察を行っている。「子供の成長や健康状態が気になって、親の仕事の効率に影響が出ることが懸念される為の訪問診療」ということにしているが、実際には囚人のケアを兼ねた私個人のちょっとした息抜きだ。

 他の看守や医師達のアプローチはわからないが、私はこの子供達に今の戦争や迫害に晒される謂れはないと考えているので、収容所で暮らす大勢の子供達にも、ドイツ的に適切な教育を受けさせれば何も問題なく、今後のドイツ社会に溶け込むことが出来るという確信の下、アスペルガー医師が行っていた医療を真似た知育を試している。

 所長含め、多くの看守達は私の行動に冷めた目線を送り、中には非難する人もいたが「あくまで私の個人的な趣味」ということにして受け入れてもらっている。

 ある時、看守が一人で重そうな工具と脚立を運んでいるのを見かけた。

 放ってはおけず声をかけ、脚立を持ってあげることになった。

 何をしようとしているのかを聞くと「チフス患者の遺体を安置している遺体安置室の排気ダクトへ通じるファンが故障したので、交換を頼まれた」らしい。

 早急に修理をしないと、万が一腐敗ガスが発生して充満すると、安置室が使えなくなり、大変なことになるそうだ。

 脅しなのか冗談なのかわからない怖い話を聞きつつ、焼却炉の併設された遺体安置室へやってきた。

 焼却炉の煙道と安置室の排気ダクトは繋がっているらしく、交換が終わるまでは焼却炉が動かせないようで、焼却担当の人達に急がされながら、安置室へ入り、交換を行った。

 中は排気口以外に穴や窓のない、一面コンクリでできた壁に囲まれたシンプルな部屋だった。

 その後すぐに交換を終え、すぐさま焼却炉が動き出し、煙突から煙を昇らせていた。

 収容所に配属されて2か月ほどが経ったある日、本国からシューマンとクラウベルクという二人の医者がやってきた。

 二人は産婦人科医で、親衛隊全国指導者の指令書を携え、女性収容棟の一角を借りて、何か実験のようなことをやろうとしていた。

 数日後二人が女性の囚人を使って恐ろしい人体実験を行っているという噂が広まった。

 曰く「放射線や化学物質を用いて、従来の外科手術を行わずに不妊手術を行う効率的な方法を研究している」というものだ。

 私はこの噂の真相に多少の興味はあったが、真実を知るのが恐ろしく感じ、深入りしないようにしていた。

 けれどいつものように週末に訪問した家族から「1か月以上前に実験室に連れていかれ、そこで謎の薬を飲まされ、それから1か月以上経っても生理が来ない」のだと相談を受けた。

 私はこの話を聞き、実験室でどれほど恐ろしいことが行われているのかと、恐れ慄いたが、知らなかったことにするのは許せず、自ら実験室へ出向き、事実を知ろうと決心した。

 実験室に入るとシューマン医師だけが居て、薬を調合している最中だった。

 医師に訪問先で聞いた話をすると「遺伝的疾患を持った人に不妊処理を施す方法の研究」を行うよう親衛隊全国指導者様から勅令を受けてやってきたと語った。

 処理方法として薬を使い、卵巣に炎症を起こさせることで閉経させる方法を研究しているらしく、その過程で被検体の卵巣や子宮の摘出も行っており、少なくない数の犠牲者も出ていると続けた。

 私はその言葉に恐怖し、何も言えなかった。

 そして部屋を後にし、速やかにヘス所長の下へ行き、転属を申し出た。

 所長には多少引き留められたものの、転属の許可をくれた。

 それから数日後、付近にあるもう一つの収容所のビルケナウ収容所へ転属が決まった。

 5月のことであった。

 転属先でもやることは変わらず、家族棟に出向き、各家族と子供達の健康を調査する日々が続いた。

 けれどここではチフス患者はかなり減ったようで、医師と看護婦が総出で看病するほどではなかった。

 それでも毎日50人ほどの囚人が依然として亡くなっており、今年に入ってから増設され、稼働し始めた二つの焼却棟は常に動き、併設されている遺体安置室も常に満杯で、仮設の遺体安置室を建てて対応していたが、今度はネズミが大量発生してしまっている。

 早急に衛生的な遺体安置室を増設し、ネズミの増殖を抑えないと、別の病気が発生する可能性が高まるのは明白だった。

 私も最近は患者の看病よりも、遺体を運ぶことの方が増えている気がする。

 普段は焼却棟の入り口で担当者に遺体の乗った台車を引き渡すのだが、ある日担当者が足りず、この焼却棟3の地下にある遺体安置室まで運ぶのを手伝うことになった。

 ここは最も新しい焼却棟なだけに、遺体安置室の壁もまだ綺麗なままだった。

 転属して2週間ほどたった5月30日に、ヨーゼフ・メンゲレという医師が転属されてきた。

 メンゲレ医師は、戦争前まで小児科に勤めていたらしく、お互い子供好きですぐに仲良くなった。

 私とメンゲレ医師はよく子供達と遊び、ドイツ的な人間に育ってほしいという願いを込めて交流した。

 医師は子供の中でも特に双子が好きなようで、時々自家用車に乗せて、ドライブに行ったりもしていたようだ。

 ただ医師の双子へ向ける関心は、周りの多くの人にとって奇異に見えたようで「双子を使って人体実験をしている」などと言った根も葉もない噂が広まっていた。

 私の知る限り医師は子供を大切にしている普通の医師で、家族思いの良き父だった。

 子供を人体実験の材料にするような人間には、到底見えなかった。

 私がこの収容所に配属され、1年以上が経った44年の秋。

 数か月前に始まったソ連軍の大攻勢によって、ドイツ軍は大きく後退し、このビルケナウまで攻めてくるのも時間の問題なのは明白だった。

 そこで収容している囚人の中から女子供を中心に、本国の収容所へ移送する計画が立てられ、ミュンヘンにあるダッハウ収容所や、ハノーファー近郊のベルゲンベルゼン収容所へ移されることが決まり、私もプラハにある野戦病院に移動し、兵士達の治療を手伝うように指令が出された。

 メンゲレ医師はまだここに留まることになっていたものの、後に聞いた噂では、年が明けた頃にシュレジエンにあるグロースローゼン収容所へ移動し、その後の行方は分からないらしい。

 プラハに移った私はそのままドイツの降伏の知らせを聞き、「親衛隊員は発見され次第その場で処刑される」という噂と周りの勧めで、すぐにイタリアのトリエステへ向かい、カトリック教会と現地のドイツ人の協力を借りて、アルゼンチンへなんとか脱出することができた。

 それからアルゼンチンの片田舎で、内科医として平凡な生活を送っていた私に、衝撃的なニュースが入った。

 アウシュビッツやビルケナウの収容所で何度か見かけたことのあったアドルフ・アイヒマンという親衛隊将校がイスラエルに拉致、逮捕され、裁判にかけられているというのだ。

 罪状はユダヤ人の大量虐殺を主導した罪などで、虐殺は私も働いていた両収容所で行われていたということになっている。

 この裁判は見せしめなのか、その様子が全世界に中継され、罪状などが語られた。

 裁判では、私が何度も出入りしていた収容所の焼却棟にガス処刑室があり、毎日何百人ものユダヤ人が、シアンガスで処刑されていたとされていた。

 そしてそこで提出される証拠や、証言はどれも嘘ばかりで、聞くに堪えないものだった。

 けれどイスラエルの裁判所は、この嘘だらけの証言を根拠にアイヒマンを死刑にしてしまった。最初から死刑にすることが決まっていたように。

 この結果を知り、私は恐ろしくなった。

 実在しない人々を虐殺したという無根拠な理由で、自分が逮捕されて処刑されるのではないかと思うと、恐ろしくて堪らなかった。

 アイヒマンが処刑されてから半年ほどたったある日、いつものように自宅へ歩いて帰っていた私は、車に押し込まれ、拉致されてしまった。

 拉致したのは、サイモン・ヴィーゼンタールというユダヤ人とその協力者で、彼はナチスの戦犯を追い求め、逮捕して回っているらしい。

 そんな彼らに捕まった私は、イスラエルの裁判所に引き渡された後、アイヒマンが受けたのとまったく同じ、ユダヤ人の虐殺に関与した罪で裁かれ、弁明や減刑の余地なく、終身刑となった。

 そして今私は、アイヒマンが処刑されたのと同じ、アヤロン刑務所にある独房でこの自伝を書いている。

 誰一人私の言葉を信じてはくれないが、父の教えに従い、私は真実を訴え続けたい。何度でも言い、いつまでも訴え続けるつもりだ。


「ユダヤ人を虐殺などしていない。焼却棟に殺人ガス室などなかった」と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真実を語れ エドゥアルト・フォン・ロイエンタール @Eduard_von_Reuental

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画