【短編】猫はいらない

タイフーンの目

🐈🐈🐈

 猫を飼いたい。

 

 わたしはリビングのソファから、キッチンのお母さんにうったえた。


 世間は空前の猫ブームだ。

 いまもテレビの情報番組では『愛猫家あいびょうか特集』とやらをやっていて、うらやましいことに、なかには五匹もの猫に囲まれて幸せに暮らす中年夫婦もいた。


 わが家は郊外にある一戸建ての持ち家で、お父さんは残業も多いけれど、そのぶん稼いでくる給料も多い。お母さんは専業主婦で、お姉ちゃんはわたし以上に猫好きだ――これだけの好条件がそろっているのに、夕食の準備をするお母さんは聞く耳を持たない。


 わたしはちょっとむかついた。


「ねえ、お母さん聞いてる?」


 しかしお母さんは、「はいはい」と言うだけで、まともに取り合ってくれない。


 向こうがその気ならこっちにも考えがある。腹いせに、夕飯を食べないという形で怒りを示してやろうかと思いつく。けれど少し考えて、方針変更することにした。たぶん、食欲には勝てそうにないからだ。


 代わりに、しばらくお母さんとは話さないという方針をひそかに決定し、ほくそ笑んでみた。


 ——しかし、こういうときこそ無類の猫好きであるお姉ちゃんの援護射撃が有効だというのに、さっきからずっとスマートフォンに向かってニヤニヤしている。


 最近付き合い始めたという恋人と、連絡を取り合っているのだろう。

 きっと、今日は高校でなにがあったとかなかったとか——わたしには理解できない、退屈きわまりない文字の往復に違いない。


 夕食のときもお姉ちゃんは、料理や家族の顔よりも画面を見つめる時間のほうが長くて、お母さんにぷりぷり叱られていた。


 猫より男か。

 わたしは、裏切り者の横顔にため息をついた。


   ◇


 昔、お姉ちゃんの飼っていた文鳥が死んだとき、お母さんは「命あるものはいずれ死ぬ」という意味のことを言った。


 幼かったわたしも、お姉ちゃんと一緒になって庭にお墓を作った。

 お姉ちゃんが穴を掘って、ティッシュペーパーに包まれた文鳥を横たえ、土をかぶせ、かまぼこ板の質素な墓標を建てたのだ。


 わたしたちは手を合わせて冥福をいのった。


 もしかしたら、お姉ちゃんはあのことがあったから、生き物を飼うことに臆病になったのかもしれない。命を扱うという重い責任に、耐えられなくなったのかもしれない。


 わたしたちにも、いずれ死はやってくる。

 それはとても悲しいことだけれど、でも、それならばなおさら、生きているうちにやりたいことを全部やってしまいたい。


 猫だって飼いたい。


 お姉ちゃんみたいに恋もしてみたいけど、あんなふうにだらしない顔つきになるのなら、ちょっと考える。



  ◇ 



 結局、あれからお母さんとは口を利かないまま翌朝を迎えた。


 朝食後、まるで見計らったようにドアのチャイムが鳴る。


 樹里じゅりちゃんだ。

 彼女は姉の同級生。家が近所の幼なじみ。


 しかしお姉ちゃんは寝ぼすけなうえに、支度にも時間がかかる。最近は特に、学校で会う恋人のためにはりきっているから余計に遅い。


 お姉ちゃんがそんなだから、樹里ちゃんの相手をするのは、身支度の早いわたしの役目だ。いつも通りにあいさつすると、


「あ、おはよう莉花りか


 樹里ちゃんはごく自然に玄関に座り込んで、わたしに微笑み返した。勝手知ったる他人の家とは、このことだろう。


 でもこれは、樹里ちゃんなりの気遣いでもある。バレー部のエースである彼女は、すらりと背が高く、目を合わせようとするとわたしの首が疲れてしまう。高校二年生の平均身長は、彼女のような人種が引き上げているのだろう。


 私も、彼女に釣られて隣に座った。

 樹里ちゃんはとてもおしゃべりなので、一緒にいて飽きることがない。朝のわたしの、憩いのひとときでもある。


「聞いてよ莉花。私さ、放課後遊びに行くんだ。ショッピングモール。あ、男子じゃないよ? 女友達ね。いやあ、部活から解放されるってのも、悪くないね」


 彼女はせいせいしたような口ぶりで言うけれど、それが本心でないことをわたしは知っている。


 彼女の右手首は、包帯でぐるぐる巻きになっていて痛々しい。


 樹里ちゃんは先週、交通事故に遭ったのだ。


 信号のない十字路を自転車で通り抜けようとしたとき、横合いからトラックが突っ込んできた。

 持ち前の反射神経を活かして間一髪で避けたものの、転んだ拍子に右手首の骨を折ったのだという。そのうえ、靴下で覆いかくされているけれど、足首もひどく捻挫している。


 利き手と利き足。

 スパイカーとしては致命傷といえる。


 彼女もよく左右を確認していなかったらしいので、向こうにばかり責任があるわけではないにしろ、日頃から部活にかける熱意を語っていた樹里ちゃんだ。悔しくないわけがない。


 お姉ちゃんから聞くところによると、それでも樹里ちゃんは部活に参加すると先生に申し出たらしい。無事なほうの手足や腹筋なんかはトレーニングできるだろうと言って。

 それが無理でも、球拾いだとかでチームメイトの役に立ちたい、と。


 けれど、ドクターストップがかかった。

 まだ骨折にも響くからと、病院の先生にも学校の先生にも止められたらしい。


 いつもの元気いっぱいな笑顔に、どこか陰りが見えるのは間違いなくそのせいだ。


「樹里ちゃん……。わたしの前じゃ無理しなくてもいいよ」


 そう声をかけると彼女は、ちょっと困ったような顔をして笑う。


「心配してくれてんの? あんたにまでそんなこと言われるなんて、私もおしまいかな」


 わたしは本気で心配してるのに……と、ちょっとむくれてみると、


「あ、怒った? でもありがと。あんたも出かけるときは気をつけてね」

「大丈夫。こう見えても、運動神経には自信があるんだから」

「はは。あんたにもっと背があったら、私の代わりに活躍してもらうんだけど」


 言って、怪我をしてないほうの手でわたしの頭を撫でた。力加減がうまくいかないのか、ちょっとぎこちなかったけれど、とても優しい手つきだった。



  ◇



 その日の夕方。

 お母さんの帰りがいつになく遅くて、わたしはひとり、リビングのソファでうずくまって退屈をしのいでいた。


 けれど、いつもは夕飯の買い物が終わるとすぐに帰って来るのに、日が沈もうとも、窓から見える家々に明かりが灯っていこうとも、お母さんは帰って来なかった。


 何だか嫌な予感がしてきたそのとき、玄関のほうで物音がした。


「お母さん?」


 急いで向かうと、けれどそこにはお姉ちゃんだけが立っていた。制服姿で、息を切らしている。


「莉花――」


 わたしの顔をじっと見て、お姉ちゃんは言った。


「お母さん、入院したの」



  ◇



 買い物中に具合を悪くしたお母さんは、救急車で病院に連れられていったのだという。


 お母さんに会いたい。

 わたしは何度もうったえた。


 けれど、病院から戻って来たお父さんに頼んでも、面会はできないのだと取り合ってもらえなかった。


「家族なのに会えないなんて、どういうことなの」


 わたしの疑問にも、お父さんは目をそらすばかりだった。

 お母さんの病名が、漢字だらけの聞いたことのない難しいものだったことも、わたしの不安に拍車をかけた。


 しかも、そんな大変なときなのに、お父さんは明日から出張だという。


 なんて薄情な。

 わたしが非難してもお父さんは、どうしても断れないからと困った顔をするばかりだった。

 

もちろん、お父さんがクビになったらわたしたちの生活費や、なによりお母さんの治療費を得ることができなくなるので、それはそれで困るのだけれど。


 大人たちが話し合った結果、わたしとお姉ちゃんは、隣町にある親戚の家に預けられることになった。

 

 わが家でお母さんのことを待ちたかったのだけれど、姉妹だけでの留守番は危険だという理屈がまかり通って、わたしの抵抗は無駄に終わった。



 お母さんのいない寂しさと、慣れない家での生活は、わたしの心をひどく締めつけた。眠れないし、食欲も沸かない。


 親切に接してくれる依子よりこおばちゃんには悪いけれど、あまりに息苦しくて、吐き気すらもよおした。


 このまま会えなかったらどうしよう。

 最後に交わした会話が「猫を飼いたい」だなんて、そんなのは絶対にいやだ。



 二日目の夜、とうとう我慢できなくなったわたしは、お姉ちゃんの制止をふりきっておばちゃんの家を飛び出した。


 街灯だけが照らす路地を、ひたすら走る。

 どこまでも続くアスファルトは冷たくて恐ろしかったけれど、そんなことより、とにかくお母さんに会いたかった。


 病院の方向なんて分からない。

 分からないから、家のほうへと走った。


 もしかしたら家に居るかもしれない。お母さんが帰っているかもしれない。そうだとしたら、お母さんは家族がいなくて寂しい思いをしているだろう。


 早く行ってあげないと。


 へいによじ登って、屋根に跳びうつり、できる限りの速度で最短距離を突っ切った。


 お母さん、お母さん。お母さん。


 信号のない交差点に着地したとき、まばゆいライトがわたしの全身を照らした。甲高いブレーキ音がしたのと、車輪がわたしの体をはね飛ばしたのは、ほとんど同時だったと思う。


 追いかけてきたお姉ちゃんが悲鳴のような声を上げ、わたしのことを抱きあげたのを、うっすらと覚えている。


  ◇


 お母さんは、急性虫垂炎きゅうせいちゅうすいえんという未知の病気から生還し、わが家に帰ってきた。


 自転車との接触事故を起こし、検査のために池田クリニックの白いケージに閉じ込められていたわたしも、このたび無事に解放され、リビングのソファでお母さんに抱かれてまどろんでいた。


 お母さんの柔らかなひざと、優しい手のひらから、命の温かみを感じた。


 猫なんて飼わなくても、わたしたちは幸せだった。



〈終わり〉

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