『お疲れ様刑事』は全てを解決する

安曇みなみ

 金曜の夜。

 都心の夜景が、大きな窓の向こうに広がってる。無数の光の粒が、黒いビロードの上に撒かれたダイヤモンドみたい。キラキラと瞬いてとっても綺麗。でも、地上四十階から見下ろす街には、現実感がない。まるでミニチュアかなんかのように。


 テーブルの上には、あたしが腕によりをかけて作ったディナーが並んでいる。皮目をパリッと焼き上げたサーモンのポワレ、バルサミコソースの酸味が香るベビーリーフのサラダ、それから近所のパン屋で買ってきたバゲット。注がれた白ワインが、間接照明の光を柔らかく反射してグラスの中で静かにきらめいてる。


 壁に掛けられた大きなテレビに流れているのは、『お疲れ様刑事デカ』だ。


 毎週決まって見ている刑事ドラマ。派手さはないけれど、決まりきった安心感、疲れ切った頭でも理解できる内容なのがお気に入りだ。今週も、強烈なプレッシャーに耐え抜いて仕事を終わらせた。もうへとへと。

 それでもささやかな手料理をこしらえて、彼と二人で食事をしながら、このドラマを見ること。それはあたしにとっての週末を迎えるためのささやかな儀式だった。


 彼は、ほとんどテレビに目をやることもなく、黙々とナイフとフォークを動かしている。そんな彼の無関心にも慣れたはずだったけど、やっぱり少しだけ寂しかった。


「またこれか」

 不意に彼が言った。声には、あからさまな軽蔑が滲んでいる。


「何が?」

 あたしは平静を装って尋ねた。彼の不機嫌には、とっくに気づいていた。


「犯人、どうせあの社長秘書だろ。一番怪しくない人物が犯人っていう、お決まりのパターンだよ」


 画面の中では、ベテラン刑事が被害者の勤めていた会社の社長に、鋭い視線を向けている。確かに。いかにもなミスリードに見える。


「まだ始まったばかりじゃない。決めつけるのは早いわ」

 あたしは努めて冷静に返した。フォークの先で、サラダの葉を弄ぶ。


「毎週見てるんだろ。展開が読めるじゃないか」と彼は続けた。「このあと、崖の上かどこかで犯人が動機を泣きながら語って、刑事が『お前の気持ちもわかる』みたいな人情味あふれる説教をして、逮捕。そして決め台詞、『』。見飽きたよ」


 彼は冷めた声で、言い切った。テレビの中では、刑事が倉庫街で犯人らしき人影を追い詰めている。これまたありふれたロケーションには違いないけど、でも。


「そういうのがいいんじゃない。一週間働いて疲れているんだから、安心して見られるものがいいの」


「安心、ね。思考停止してるだけじゃないのか。物語っていうのは、もっとこう、人の価値観を根底から揺さぶるような……」


 声に、隠しきれない侮蔑が滲んでいた。その言葉は、あたしのささやかな習慣ごと、この穏やかな食卓の空気ごと、切り捨てるみたいだった。言いかけた彼の言葉を遮るように、あたしは静かに口を開いた。


「でも、がこれを楽しみにしてるのよ。こういうのが、いいんじゃない」


「『たくさんの人』って誰だよ。何も考えずに見られるものが好きなだけだろう」


 棘のある言葉が、まっすぐにあたしに向けられた。グラスを握る指先に、力がこもる。もう、黙ってはいられなかった。


「じゃあ、何ならいいの? 誰にも読まれない、難しい物語?」

 言ってしまってから、少しだけ後悔した。でも、言葉はもう止まらなかった。


「誰にも届かない物語より、誰かに届く物語の方が、ずっといいかもしれないじゃない」


 彼の顔がこわばるのが、わかった。新人賞を取ってデビューしたものの、それ以来、新しい本は二冊しか出ていない売れない作家。生活費のほとんどは、あたしの収入で成り立っていた。一度だけ、起死回生をはかった彼は純文学から離れてミステリー小説を書き、公募に出したことがあった。結果は、二度の選考を通過しただけ。出版には至らなかった。だから、その物語を読んだのは、数人の選考委員だけだ。


 そう。あたしですら、読んでいない。


 彼は何も言い返さず、唇を固く結んだまま、視線をテレビに戻した。画面の中では、追い詰められた社長秘書が「そんなはずは……」と顔を歪めている。その横顔が、テーブルの向こうにいる彼の姿と、不思議なほど重なって見えた。部屋に気まずい沈黙が落ちる。遠くでサイレンの音が聞こえた。食器の触れ合う音だけが、やけに大きく響いた。


 重い空気を破ったのは、あたしの独り言だった。


「……どうして今日は、コマーシャルが入らないのかしら」


 壁の時計は、午後七時四十分を過ぎている。いつもなら、この時間までに二度か三度はCMが入っているはずだ。でも今日は一度も流れていない。そんなことって、ありえるだろうか。


 あたしがそう思った直後、画面が切り替わった。しかし、それはいつもの製薬会社や食品メーカーのCMではなかった。中国のIT企業が先端技術をアピールする宣伝だ。AI が未来を切り拓くというメッセージをスタイリッシュな映像と共に伝えている。


 CMが明けて、再びドラマの場面に戻る。画面の中では、物語がクライマックスを迎えていた。涙を流しながら、秘書が犯行の動機を語り始める。


「私が社長を殺したのは……!」


 その時だった。部屋の隅で黙々と証拠品の整理をしていた、名もなき鑑識官の男が、おもむろに立ち上がった。これまでも数カット、背景のように映り込んでいただけの、セリフもほとんどない人物だ。


 彼が何故か意味ありげにクローズアップされる。


 彼は持っていたジュラルミンケースを開けると、中からチェーンソーを取り出した。刑事も秘書も、唖然とした表情で固まっている。けたたましいエンジン音が、取調室に、そしてあたしたちがいるリビングに鳴り響いた。


「ウオオオオ!」


 鑑識官は、そのまま奇声を発しながら、泣き崩れていた秘書に襲いかかった!


 「血の裁きを喰らえ!」


 秘書はホラー映画の如く絶叫し、ありえない量の血飛沫が画面を赤く染める。


 あたしと彼は、言葉を失い、思わず顔を見合わせた。


 なんなの? これ?


 あたしたちは、フォークを握りしめたまま、再び画面に顔を向ける。

 そして今度こそ完全に画面に釘付けになった。


 惨劇はそれで終わりではなかったのだ。


 死んだはずの秘書が、関節を不自然にきしませながらゆっくりと立ち上がる。その目は白く濁り、明らかにこの世の者ではなかった。


 ゾンビだ!

 蘇った秘書ゾンビは、復讐の如くチェンソーを持った鑑識官に襲いかかった!


 そこでシーンは、パニックに陥った街へと転換した。


 人が人に襲いかかり、噛み付いている。これは……ゾンビパンデミックだ!


 頭が真っ白になった。こんな予算と撮影期間、どこから出てくるんだろう? 浮かぶのは、そんなしょうもない疑問だけ。


 そこに夜空を切り裂き、UFOの編隊が現れた。

 UFOは地上のゾンビに向かって緑色の怪光線を放ち始める!


 しかしその映像は、ところどころ破綻しかけている。精巧に見えるけど、どこか不自然なイメージ。ああ、これってまるで、AI動画みたい。


 あまりの不条理な展開に、あたしたちは言い争っていたことさえ完全に忘れていた。


 彼が、はっとしたようにスマートフォンを手に取り、慣れた手つきで画面を操作し始める。すぐに彼は、その画面をあたしに向けた。SNSには、関係者を名乗る人物による内部告発の書き込みが、爆発的に拡散されていた。


『日本脚本家連盟がAI導入に反対しストライキに突入したため、「お疲れ様刑事」の脚本が途中までしかなかった。クライマックス部分はAIによる自動生成。事前に情報がリークされたことで既存スポンサーは全て降板。代わりに、そのAIを開発したIT企業が新たなスポンサーになり、枠をすべて買い取った』


 画面の中では、ベテラン刑事が、背後に迫るゾンビと空に浮かぶUFOを交互に見やり、乾いた声で叫んでいた。


「お疲れ様ー!俺の役者人生も、これで、お疲れ様ー!」


 その言葉を最後に、唐突にエンドロールが流れ始めた。SNS の投稿が凄まじい勢いで流れていく。ニュース速報が、このドラマの視聴率が過去最高を記録したこと、そして日本俳優連合が局に対し正式に抗議声明を発表したことを伝えていた。異例の対応の早さだった。


 暗く控えぎみな間接照明の中、テレビの瞬く光が、食べかけのディナーとあたしたちの顔をパチパチと照らしている。あたしは気を取り直すとテレビを消す。静寂が戻る。


 あたしはテーブルの向こうにいる彼を見た。彼はまだスマホを眺めていたが、その表情から先ほどの屈辱や苛立ちは消えていた。むしろ、すべてを諦めて解放されたような、不思議な穏やかさを浮かべている。


 もしかしたら、彼はもう筆を折るのかもしれない。そんなことを思った。彼が普通に働いてくれること。それはいつの頃からか、あたしが望んでいたはずのことだった。


 彼が守ろうとしていた表現者としてのこだわり、芸術性。あたしが求めていた予定調和の安心感。そのどちらでもない破壊者がお茶の間に降臨した。一切の意味を放棄した混沌、ノイズの固まり。それが結果として最も多くの人々を熱狂させている。


 この滑稽で馬鹿馬鹿しい現実の前では、あたしたちの間の対立なんて、あまりにも些細なことに思えた。彼が「つまらない」と言った、その言葉の奥にある矜持のようなものが、今なら少しだけわかる気がした。


 あたしは、冷めてしまったサーモンに、そっとフォークを入れた。


「ねえ、あなたのミステリー小説、読ませてくれない?」

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『お疲れ様刑事』は全てを解決する 安曇みなみ @pixbitpoi

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