第4話『同居実験、開始』

 翌朝。

 研究計画書の「被験環境欄」に、ひなたは一行だけ新しく書き足した。

 【条件C:共同生活による観測】


 ——環境を一定にするための、純粋な実験。

 そう記した指先が、ほんの少し震えていた。


 午後、メールの受信音。

 件名:【倫理審査通過】

 条件文の末尾には、無機質な承認印。

 あっさりと、日常の境界が一枚破れた。


 灯川ユナが、研究室に顔を出したのはその少し後だった。

「先生、例の“共同観測”……もう通ったんですね」

「ええ、意外と早く」

「実験棟の宿泊室、押さえておきます」

「……それ、うちでも構いませんよ。設備が整っているので」

 言いながら、自分の声の温度を測る。

 平熱より、少し高い。

 ユナの眉がわずかに動いた。

「ご自宅、ですか」

「データの安定性を優先します」

「了解しました。……観測、ですね」

 観測という言葉の端に、ユナが小さく笑みを落とした。



 翌週。

 ひなたの部屋は、白と灰の比率が高い。

 大学近くのマンションは、無機的で整然としていた。

冷蔵庫の中にはミネラルウォーターと試薬だけ。

 ユナはキャリーを置くと、すぐにリビングの換気を確かめた。

「空気、乾いてますね」

「湿度、四十五。データ取るにはちょうどいい」

「生活するには、少し味気ない」

 ユナは笑って、持参した柑橘のディフューザーを棚に置いた。

 それだけで、部屋の温度が一度上がった気がした。


「香り、入れますね。……刺激になったら言ってください」

「大丈夫です」

 柑橘がゆるく広がる。

 論文と装置に囲まれた空間に、“生活”の匂いが混じった。

 ひなたは、理性がかすかに後退する音を聞いた気がした。


 荷解きの途中、ユナが透明の収納箱を差し出す。

「これ、センサーの替えです。予備、多めに」

「助かります」

 箱の蓋がかすかに鳴り、ひなたの胸のリズムもわずかに変わる。

 生活の物音が、研究のクリック音に混じり始めた。


 本や計測器の隙間に、ユナの私物が少しずつ居場所を持つ。

 カップの色、ブランケットの折り目、歯ブラシの向き。

 些細な配置が、部屋の配列を静かに変えていく。



 共同生活一日目の夜。

 ルールは簡潔に決めた。


 1. 起床・就寝時間の記録。

 2. 食事・会話中の心拍・呼吸測定。

 3. 香り条件は週ごとにローテーション。


 ユナがタブレットを開きながら言う。

「この項目、“自発的接触”って、どこまで含みます?」

「実験的に、日常の範囲で。握手程度」

「了解。……じゃあ、食器の受け渡しも対象ですね」

 ユナはグラスを手に取り、ひなたに渡した。

 指先が、一瞬だけ触れる。

 センサーの光が赤く点滅した。

 ——心拍上昇、誤差範囲をわずかに超過。

 ひなたは記録ボタンを押す。

「……これもデータです」

「もちろん」

 ユナは微笑み、ペンを走らせる。

 その筆跡が、わずかに震えていた。


 シャワーの湯気が廊下に薄く流れ、ガラスに小さな水玉が並ぶ。

 ひなたは鏡越しに自分の頬を見て、体温の単位を心の中でつぶやく。

 平熱、平常、平衡。どれも今夜だけは少し違う。


 ソファの端に並んでドキュメンタリーを二十分だけ観た。

 字幕のタイミングに合わせて、二人の瞬きがたまに揃う。

 揃うたび、心拍の波形が呼応して揺れた。



 二日目の朝。

 ひなたはコーヒーを淹れながら、自分の呼吸を数えていた。

 理性の仮面を整えるには、湯気が役に立つ。

 背後でユナが新聞をめくる音。

 紙の音が、妙に柔らかい。

「先生、砂糖は?」

「ブラックで」

「ですよね」

 笑いながら、ユナがスプーンを回す。

 ステンレスの音が、まるで実験器具のように正確だった。


 午前、データログ。

 心拍は穏やか。皮膚電位は安定。

 ——なのに、記録外の何かが上がり続けていた。


 昼、二人で買い物に出た。

 研究者街の並木道は静かで、風は乾いていた。

 ユナは紙袋を片手に、もう片方でスマホのメモを開く。

「夕食、条件Aで行きましょう。香りは弱め」

「同意。刺激の変数は抑えめに」

 やりとりは実務的で、歩幅は自然にそろった。


 夕方、キッチンに立つ背中を交代する。

 同じ鍋をかき混ぜ、同じ皿に盛る。

 塩の一振りが多いか少ないかで、味がわずかに変化した。



 夜。

 ユナがソファに座り、タブレットに日報をまとめている。

「先生、今日の共有スコア、上がってます」

「そうですね。誤差範囲ですが」

「でも、“誤差”って、どこから誤差なんでしょう」

 ユナが顔を上げた。

 瞳にリビングの光が映っている。

「たとえば——好き、って言葉も、再現できたらデータになりますか」

 ひなたの胸の奥で、数値が跳ねる。

「理論上は、可能です。……でも、再現にはリスクがあります」

「壊れる、から?」

「はい」

「じゃあ、壊してみましょうか」

 ユナの笑みは柔らかいのに、言葉は鋭かった。


 その瞬間、ディフューザーの灯が一瞬だけ強く光った。

 柑橘の香りが濃くなる。

 ひなたの喉が、わずかに鳴った。

 観測者と被観測者。理性と衝動。

 どちらがどちらを測っているのか、もうわからなかった。


 ユナはグラスを持ち上げ、ほんの少しだけ傾ける。

 乾杯ではない、小さな合図。

 名刺の角が触れた夜の記憶が、透明な音で戻ってきた。


 寝る前、二人で明日の手順を声に出して確認した。

 言葉にすると、室温が半度だけ落ち着く。

 眠りにつく直前、遠くの車の音が同期を崩し、すぐ戻した。



 三日目。

 午後の窓に薄い雲がかかり、光は柔らかく拡散していた。

 ひなたは心拍センサーのログを眺め、波形の隙間に短い注釈を挟む。

 【shared point:就寝前会話】

 会話の内容は平凡だった。夕食の塩加減、明日の買い出し、洗濯のタイミング。

 それなのに数値は、なだらかに上がった。


「先生、夕方の散歩、入れませんか」

「散歩?」

「合図を『香り』から『歩幅』に代えてみたい」

 ひなたは頷き、スニーカーの紐を結ぶ。

 同じ歩幅で歩くと、呼吸の周期が近づく。

 角の丸い名刺みたいに、段差の少ない歩み。


 帰宅してログを見ると、二人の呼吸は二ブロック分だけ重なっていた。

 偶然か、必然か。どちらでもよかった。

 重なった事実が、今はただの形を持っている。


 机に並んだコップの水位が、ほとんど同じになっている。

 誰も指示していないのに、同じ量を注いでいたことに気づく。

 こういう一致は、理性の予定に書けない。



 翌朝。

 記録ファイルのグラフは、夜の中でなだらかに上昇していた。

 ユナがカップを手に、ぼんやりと画面を見つめている。

「データ、綺麗ですね」

「ええ。異常値なし」

「でも、“揺らぎ”が、ある」

 ユナが指先で波形をなぞる。

 曲線の端に、小さな山がある。

 名刺の角みたいに、やさしく丸い。


「先生、次の条件……“感情誘発下”ですよね」

「はい。条件D」

「じゃあ、理性、少しだけ休ませてあげましょう」

 ひなたは返事をしなかった。

 コーヒーの香りと柑橘の匂いが重なって、部屋が少し霞んで見えた。



 その夜、ひなたはノートに書いた。


 > 【仮説】:共有状態は、共同生活によって増幅される。

 > 【補足】:ただし、測定者の心拍数に依存する。


 理性のはずのデータが、どこかで恋文に変わりかけていた。

 

 ——そして明日、私たちはそれを、条件として呼ぶ。

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限界なき番(リミットレス・ペア) ――女の子たちは、愛で宇宙を再起動する。 ReiN._Lily @nikoniko487

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