第3話『理性とフェロモンの方程式』
午前の研究室は、ひなたのタイピング音と、インキュベーターの低い唸りだけが鳴っていた。
スクリーンの中央に、昨夜のメモが点滅している。
【仮変数】scent_flag ∈ {blind, mask, pseudo}
【指標】心拍、皮膚伝導、呼気CO₂、視線停留
——香りは、合図になり得るか。
ページを下に送るたび、行間に昨夜の柑橘がひそむ。名刺の角を撫でたときの、あの小さな熱。理性の枠の外側から、こちらを覗く何か。
ノックが二度。
「朝比奈先生、今日の予備実験、設備押さえました」
学生の声に頷き、ひなたはスプレッドシートを開いた。条件、手順、誤差の見込み。
誤差——と打ち込んだ瞬間、脳裏で別の単語がちらつく。
誤差、より、人差。
慌てて削除する。研究者の指は、迷いを消すためにある。
もう一つ、ノック。
控えめな、でも躊躇のないリズム。
「失礼します。ご相談と、ご提案を——」
灯川ユナが顔を出した。白いシャツ、銀のピン、名札。
入室の空気が、半度だけ上がる。インキュベーターの唸りが後ろへ下がり、キーボードの音が前に来る。
「合図の件、先生のプロトコル拝見しました。香り条件、盲検・マスク・擬似の三段。すごく、好きです」
好きがまた沈む。
「ありがとうございます。今日は心拍と皮膚伝導だけ先に——」
「できれば、視線も。停留が、いちばん嘘をつかないときがあるから」
嘘をつかない。ひなたは画面の端を指で叩いた。
「倫理審査の範囲でいきましょう。合図は、薄く。過剰な誘導は除外」
ユナは頷くと、実験室の手順表に視線を滑らせた。
「被験者は、先生と私でローテーション。相互観測。観測者/被観測者の切り替えも、入れます」
観測者/被観測者——ひなたの胸の内側の糸が、かすかに鳴る。
「では、先に私が観測側に入ります。灯川さんは——」
「見られる側、で」
理性は頷いたが、心拍は別のリズムを刻んだ。
⸻
実験室には、白い光がよく回る。
ユナが椅子に座り、手首にセンサー。指先は温かい。
柑橘は持ち込まない。これは“香りそのもの”ではなく、“香りに似た合図”の検証だ。
ブザー、静寂、短い音楽、風。擬似合図を、規定の間隔で配置する。
「はじめます」
ひなたはモニターに目を落とし、時間の列に印を打っていく。
視線停留が、最初は均一に散って、次第に偏る。
ユナの視線が、ときどきこちらに止まる。
正面ではなく、ひなたの手の動き、手首、インクの染み。
停留の点が一つ増えるたび、ひなたの胸でなにかが対応して鳴った。
「灯川さん、合図の自覚は?」
「弱い。けれど、ゼロではない」
言葉の最後が、ほんのわずかに上ずる。
上ずりの周波数は、皮膚伝導の波とよく似ていた。
擬似条件を終え、ブラインドへ。
ルールどおり、ひなたは香りの話をしない。ユナにも、匂いは渡さない。
ただ、部屋の空気の配合を換える。外気寄りから、紙寄りへ。紙から、金属へ。
ひなたはデータに集中するふりをしながら、ユナの呼気の温度だけを測る。
温度は、視線の停留と同期する。同期は、簡単だ——ひなたは、次の行に進むはずだった。
ブラインドの最後、ユナが少し笑う。
笑いのタイミングが、合図の位置とずれる。
ズレは、プロトコルから見れば誤差。
けれど、誤差の線が、紙に描いた名刺の角のように、やわらかく丸かった。
「次は私が被観測側に入ります」
ひなたはセンサーを自分の手首に回し、深く息を吐いた。
画面の左上で、新しい“被観測者ID”が立ち上がる。
IDは数字の羅列。だが、胸の内側で、それは名前のように響く。
朝比奈ひなた、という固有。
「準備、いいですか」
「はい」
ひなたはまぶたを一瞬だけ閉じ、開く。
開いた瞬間、ユナの視線がそこにあった。
視線は、注ぐ、ではない。置く、に近い。
置かれた場所が、静かに温まる。
擬似合図。ひなたの視線は手元の印へ落ちるはずだった。
けれど、合図の直後、ユナのまばたきが一拍遅れた。
遅れは誤差。誤差は排除。——その規則を、ひなたの指が忘れる。
心拍の波形が、きれいに一段上がった。
モニターの数字が跳ね、赤い点が二つ、近づく。
同期は、簡単だ。
共有は——むずかしい。
なのに今、共有が一瞬だけ、測れてしまった気がした。
「先生」
ユナが低く呼ぶ。呼び捨てではなく、呼び上げもしない、その高さ。
「休憩、入れましょう。ここから先は、値が壊れます」
壊れる、という言い方に、ひなたは頷いた。
値が壊れるのか、理性が壊れるのか、それは今、区別がつかなかった。
⸻
実験室の外、廊下の窓に午後の日が斜めに入る。
紙の匂いと、金属の匂いの間に、微かな柑橘が混ざる。
持ち込んでいないはずの、柑橘。
ひなたは胸ポケットを指で押さえ、名刺の角を探した。角は、そこにある。やさしく丸い。
「先生」
並んで立つユナが、窓の外を見たまま言う。
「理性、って、便利ですよね」
「ええ。たいていのときは」
「でも、ときどき、邪魔をします」
邪魔、という言葉は、敵意のない温度で置かれた。
「測れることは、嬉しい。だから、怖い」
ユナの声が、ひなたの胸の拍と同期する。
同期は、簡単だ。
共有は——むずかしい。
それでも、いまはむずかしさの輪郭が、少しだけ愛おしい。
「灯川さん」
「はい」
「次は、香りじゃなくて、別の合図でいきましょう」
「別の?」
「たとえば——角」
ひなたは胸ポケットから名刺を取り出し、角の丸みを指で示した。
ユナの目がかすかに笑う。
「いいですね。偶然を装った、共有の合図」
「偶然、という名の再現です」
二人は名刺を軽く合わせ、角と角を一度だけ触れさせた。
接点は短い。音もしない。
だが、その短さは、記録に残った。
停留、心拍、皮膚伝導。どれも小さく上がり、同時に降りた。
合図は、意外なほど、うまく働く。
ユナが名刺をしまい、ひなたを見る。
見られている。見ている。
観測線が、どちらからどちらへ走っているのか、もう判別できない。
判別できない、ということが、今はただの欠陥ではないと、ひなたは初めて思った。
「今日のデータ、夜に一度、二人で見直しませんか」
「ええ。レビュー、しましょう」
レビューと言いながら、ひなたは心のどこかで、別の言葉を探していた。
名をつける前の何か。
数式にする前の呼吸。
⸻
夕方、研究室。
モニターには三本の波形。
擬似、ブラインド、マスク。
どの波にも、角が一つ。ほんの少しだけ丸い山。
名刺の接点のときに立った、その丸み。
「理性って、便利だけど……恋には邪魔ですね」
ユナがぽつりと言う。笑っている。
ひなたは、その言葉を否定しなかった。
否定できる語彙が、今は見当たらない。
「邪魔、というより、余白が足りなくなるのかもしれません」
「じゃあ、余白を足しましょう」
ユナはそう言って、画面の余白に小さな点を打った。
点は、波の外側に置かれた星みたいだった。
そこから新しい線が伸びた——ように見えたのは、ひなたの錯覚かもしれない。
データの保存音が短く鳴る。
理性は、確かに働いた。
でも今夜は、その働きの外側に、小さな余白が一枚、増えている。
ひなたは名刺を胸ポケットへ戻し、深く息を吸った。
柑橘は、もうほとんどしない。
紙の匂いが残る。
紙の軽さに、はじまりの重さが、ほんの少しだけ混ざっていた。
共有は——まだ、続いている。
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