第18話 春の遅延(終章)
春分を過ぎた朝は、白く乾いた冬の息を一度だけ吐き終えてから、ゆっくりと吸い直すみたいに始まった。白ノ原の最高気温は平年値に戻り、最低気温はわずかに高い。統計表にすれば誤差の範囲、という言葉で片付けられる程度の微差。けれど、路地に残った雪の角が丸く、朝のバス停に立つ人の会話が一往復分だけ長い。駅前のベンチに座る人の時間が、誰に見られることもなく伸びていた。
研究所の掲示板には、正式決定の通達が並んだ。EmoHeatは公共運用の正式認可を受け、データの解像度はあえて粗く保つこと、常時「許可」「待つ」「戻る」がユーザー側にあること、出力上限を低く設定すること、緊急時の優先ルールを市民会議で定めること——。事務の言葉は乾いているのに、読み終えた指先には不思議な湿りが残る。書面の向こう側で、人の呼吸が決まっていく音がするからだ。
顧問室のステーションは再設計に入った。神崎が提出した新しい提案書には、以前にはなかった語がいくつか増えていた。「冷却と加温の二重回路」「感情帯の空白時間帯の設定」「非同時性の許容範囲」。彼の正しさは、真っ直ぐな線のまま、紙の端でわずかに折り目をつけ始めている。折り目は弱さではなく、取り回しのための余白だ。余白がなければ、正しさは角で人を切る。
顧問室の女性は辞任しなかった。代わりに、週に一度、市民向けの「泣けない人の部屋」を開くことにした。何も指導しない部屋。椅子と毛布と、入口の小さな装置だけ。入る人は自分で「許可」を押し、出るときに「戻る」を押す。誰かに操作されない動作の順番を、身体がもう一度学び直すための部屋。彼女自身がそこで泣く日が来るかは分からない。分からなくても、鍵は確かに彼女の手に戻った。鍵は暖かくはない。けれど、持ち歩ける冷たさに変わっていた。
カイルは監察官を続けながら、行政文書の端に小さな条文を足していく。「審査の冷却期間」「異議申し立て窓口における滞在時間の保証」「窓口温度の基準」。条文の言葉尻は堅いのに、ペンの走りは以前より柔らかい。彼は夜、書類の端がささくれないように指で撫でる癖を覚えた。指先の皮が、少し厚くなった。
グレスは工房車を工場の脇に固定し、月に一度だけ「温度相談」を無料開放した。鉄の匂いと湯気の匂いが混じる午後、彼は不器用な手つきで羊毛のひざ掛けを渡し、「手がかじかむとネジが落ちる」とぼそりと言う。サラは屋台で新しい甘い飲み物を出すことにした。名前は「光の雪」。子どもは笑い、老人は昔話をする。昔話は長い。長い話の合間に、湯気の柱が折れては立つ。
ミアとアルヴィンは、研究所の屋上に小さな温室を作った。箱庭みたいなガラスの室内に、薄い対流が流れ、夜には星が揺らがない程度の暖かさが残る。朝、水滴が内側のガラスを伝って落ちる。昼、葉が静かにひらく。夕方、温室の壁に書いた数式の白い線が、日没とともに薄くなる。ふたりはそこで論文を書き、夜はときどき、何も話さず座る。沈黙が冷たくない日が増えた。沈黙の温度は、誰かと測るときにだけ上がる。
春のある昼、ミアは大学の新入生に向けて短いレクチャーをした。教室には新しい匂いがする。紙、布、石鹸。窓の外の桜は、今年は控えめに咲いた。ミアはホワイトボードに「遅延」と書き、太いマーカーのキャップを机に置いた。
「感情と気温の話は、まだ都市伝説と笑われるかもしれません。でも、街は確かに温度を持っています。正しさは大事。だけど、正しさはときどき、人を凍らせます。だから私たちは『遅延』を設計します。待つ技術です。待つことは、何もしないことではありません。速度の違うものがぶつかって壊れないように、間を置くことです」
最後列のドアのそばで、アルヴィンが立っていた。彼は手を振らない。振らない代わりに、目を細くして頷いた。新入生のひとりが手を挙げる。「失敗したらどうしますか」。ミアは答える前に一呼吸置き、言った。
「失敗は熱になります。触れると痛いけど、捨てなければ次の冬の燃料になります。燃やしすぎないように、少しずつ使う技術も、これから一緒に作ります」
講義を終えて校門へ向かうと、神崎が待っていた。彼は黒い手袋を外し、差し出す。「共同研究の件、承諾する。君の『遅延』は有用だ。私の『正しさ』と干渉させよう」。ミアは握手し、笑う。「ありがとう」。神崎は眉をわずかに動かし、「ただし、私は君の詩的比喩が嫌いだ」と付け加え、踵を返した。アルヴィンが横で笑う。「それも正しい」。三人の距離は近くない。けれど、氷点をわずかに割る程度には温かい。温度の単位で言えば、一度にも満たない上昇。春はそういう数字で始まる。
午後、ミアは「泣けない人の部屋」を覗いた。顧問室の女性は受付に座り、書類の類いを一切置かずに、ただ顔を上げた人に目を合わせて頷くだけだ。入る人は自分で「許可」を押し、出る人は自分で「戻る」を押す。部屋の中では、誰の泣き声も、誰の沈黙も、計測されない。計測されないものは、長持ちする。女性がミアに気づき、薄く微笑んだ。その笑いが、春の光よりも薄く柔らかかったので、ミアは何も言わなかった。何も言わないことを、贈り物にできるようになったのは、この冬のおかげだ。
夕方、工房車の荷台に腰をかける。金属はまだ冷たい。けれど、我慢できない冷たさではない。アルヴィンがマグを二つ差し出す。湯気は白く、指の間を逃げる。湯気は捕まえにくいけれど、逃げ方が美しい。ミアはマグを受け取り、熱で掌の線が浮かぶのを見た。
「春は、遅れてくるんだね」
「遅延だから」
ふたりで笑う。笑いは記録されない。記録されない笑いが、夜の温室に薄くたまる。ベランダの端を鳥の群れが渡り、翼の弧が緩い。屋台通りからは、子どもの歌が聞こえる。歌はすぐ忘れられる種類の旋律で、だからこそ、何度でも街に流れる。
夜が来る前に、ミアはポケットの中の手紙を撫でた。十年前のインクは、もう冷たくなかった。「泣く場所がない。配管は泣いてくれる。私は配管に触れて、泣く」。紙の繊維が指にたよりなく絡み、ほつれかけた記憶をもう一度結び直す。あの夜、核は完全には消えていない。街はこれからも泣き、怒り、黙り、笑うだろう。冷やす人がいて、温める人がいて、待つ人がいる。その順番が入れ替わる日もある。街はそれを受け止めるだけの回路を、少しずつ手に入れた。
研究所の屋上に戻ると、温室のガラスに春の気流が薄く触れていた。空は透き通りすぎず、濁りすぎず、ちょうどいい曇りをまとっている。アルヴィンは温室の脇に設置した小さな風向計に手をかざし、風の折れ目を直す。「今夜はこのくらいでいい」。彼は自分に言い聞かせるように呟く。完璧は冷たい。ほどほどでやめることを覚えるのに、冬が必要だった。
「ねえ」
ミアが温室の縁に寄りかかりながら言う。「あのとき、体育館の裏で神崎さんに会った?」
「会った。人間らしかった」
「どんなふうに?」
「口数が少なくて、約束に重さがあった。重い約束は、冬に強い」
「それ、詩的比喩だよ」
アルヴィンは小さく笑い、肩をすくめる。「伝染したのかも」。ミアは目を細くし、ガラス越しに街を見た。歩道の帯はもう光っていない。けれど、そこを歩く人の足取りは、冬の終わりに似合うリズムを持っている。急がないことが、急ぐことよりも難しいのを、人は冬に学ぶ。
温室の隅に置いた小さな鉢から、新芽が一枚出ていた。小指の先ほどの薄い緑。触れれば折れる。折れるものを折らずに残すための技術は、数式ではない。けれど、数式がそのために役立つ夜が、今はある。EmoHeatのログは解像度を落とされ、誰の顔も、誰の名前も映さない。それでも、街角で「待つ」が押された瞬間の丘は、薄く残る。薄く残った丘が、次の冬に向けての目印になる。
日が傾き、屋上のコンクリートに伸びた影が、温室の壁でほどける。グレスからメッセージが届いた。「明日、工場のボイラー点検。お前らのユニット、付けっぱなしにするなよ」。乱暴な文面の最後に、絵文字の雪だるまが一つ。サラからは「光の雪、ホット派が増えてる。名前に『春』って入れようかな?」。カイルからは簡潔な連絡。「審査の冷却期間、施行」。顧問室の女性からは、返信はない。かわりに、部屋の入口の写真が送られてきた。椅子が八脚、毛布が八枚。入口の装置の「許可」のランプが、昼の光で見えにくい。見えにくいランプは、春に似合う。
夜、温室の明かりを落としてからも、ふたりはしばらく屋上に残った。下の通りを救急車が通らないのを確認する癖が、まだ抜けない。見届けることは、設計に入らない。入らないけれど、続ける。ミアは深く息を吸い、吐いた。吐いた息は白くならなかった。ならない息は、胸の中でゆっくりと温度を持った。
「うつむかない」
ミアは、冬の最初の日に自分で決めた言葉を、もう一度だけ繰り返した。声に出さず、口の中で形だけ作る。形にすると、体が思い出す。アルヴィンは彼女の肩に自分の肩を合わせ、視線を空に残した。星は少ない。少ない星は、よく見える。見える数に満足できる夜は、春に似合う。
帰り際、階段室のドアを閉める手前で、ミアはふと振り返った。温室のガラスに、街の灯りが薄く映る。映った灯りは、どれも小さい。小さい灯りは、消えやすい。消えやすい灯りが、街全体に広がっていることが、この冬の答えだ。正しさの冬を越えるために、優しさの回路は、今日もゆっくり流れている。流れる速度は、春の歩みと同じだ。遅く、確かに。
廊下は少し冷たく、階段の鉄は手のひらの熱を正直に奪った。奪われたぶんだけ、次の一段を踏む足に力が入る。暗がりの隅で、ミアはポケットの手紙をもう一度、指先で確かめた。紙の角はすべすべしている。冬の最中に触れたときは、刃のように尖っていたのに。春の遅延は、傷の角を丸くする。丸くなった角で、ようやく人は別の誰かに触れられる。
外に出ると、風が一度だけ頬を撫でた。撫でるより、布をかけ直す、という表現のほうが近い。白ノ原の風は、もう刃ではなく、布だった。少し冷たく、ちゃんと柔らかい。ミアは歩き出し、アルヴィンは半歩後ろを歩く。ふたりの靴音は揃わない。揃わないまま、同じ方向へ進む。揃わない足取りを、街が覚えつつある。覚えたものは、次の冬に効く。
屋台通りから子どもの歌が流れ、遠くで鳥が巣の場所を探す声がした。ベンチでは誰かが本を閉じる音。坂の上では誰かが「待つ」を押す小さな電子音。そして、どこからともなく、聞き覚えのある笑い声。誰のものかはもう、どうでもよかった。街の温度は今日も一定ではない。けれど、うつむかないと決めた朝から積み重ねた小さな熱は、確かにここにある。春は遅れてやって来る。その遅れを受け止めるための回路が、もう白ノ原には敷かれている。
ミアは空を見上げ、目を細めた。雲の切れ間から、青が細くのぞいた。青は鋭くない。鋭くない青が、今日の空の正しさだった。彼女はマグの底に残った味を舌で確かめ、笑った。笑いは、風よりも早く消える。消えたあとに残るのは、温度だけだ。温度は嘘をつかない。嘘をつかない温度が、この街の春を少しだけ先まで運んでいく。
春の遅延は、終わりではない。始まりのために置かれた、短い間だ。間があるから、人は歩ける。歩けるから、泣ける。泣けるから、戻れる。戻れるから、また歩ける。白ノ原の風は、今日も布。ほどければ、結び直せばいい。結び目の数は、去年より少しだけ増えた。——それで充分だった。
<完>
婚約破棄された翌日、氷の王子が弟子にしてくださいと言ってきた 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_
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