第17話 最後の夜、街が泣いた

 ステーション停止の一括信号が流れた瞬間、白ノ原は呼吸を忘れた。音のない刹那のあと、街全体の電源が入れ子状に落ち、看板の明滅がばらばらに消え、最後に体育館の非常灯だけが緑の目玉みたいに残る。次いでそれも消えた。真っ黒の静けさのなかで、人は暗闇の形を想像し、想像した形に怯える。恐怖は移動する。人から人へ、路地から広場へ、天井から床へ。冷気はそこに居続ける。


 ミアは胸ポケットのマイクを指で探り当て、短く息を整えてスイッチを入れた。指先は冷えていたが、震えなかった。体育館の天井に張り巡らされた簡易スピーカーが低い音を返し、彼女の声は冬の皮膚の上を丁寧にすべった。


「“待つ”ボタンを押してください。泣きたい人は“許可”を。泣けない人は、手を握って」


 暗闇の館内に、わずかな動きのざわめき。壇上のスクリーンは停電前に切り替えておいた非常用の小型プロジェクタに引き継がれ、簡易マップが薄い灰で浮く。交差点、病院裏、屋台通り、駅前広場。各地点の“返す回路”の流量が線の太さで表示され、遅延の閾値は淡い点滅で示される。線は最初、頼りなく細い。細い線は切れやすいが、引き直しやすい。


 アルヴィンは体育館の裏手、風の面を整える場所に立ち、両掌で見えない布を張るみたいに空気の層を重ねた。核から上がってくる冷たさを、糸にする。細く、長く、ちぎれない糸に。空気の拍はゆっくりで、街の拍は速い。速さの違いを、遅延でつなぐのが彼の仕事だ。彼の呼吸は安定していた。喉の底で鳴る、布を撫でるような音が、暗い廊下の角でほどける。


 その直後、簡易マップの複数地点で異常値が立ち上がった。青い線が突然、黒ずむ。路上の空気が規則的に薄くなり、スパイク状の“逆相”が走る。黒いフードの集団が、意図的に呼吸を止めていた。冷やしの儀式。息を合わせて吸わず、吸わないことで体温の輪郭を薄くし、周囲に落とし穴のような冷えの窪みをつくる。彼らの動機は単純じゃない。救われた経験と、救われなかった怒りと、誤解された正義と、誰かに笑われた恥の記憶が、混ざり合って固まったものだ。混ざって固まったものは、刃ではなく石になる。石は投げやすい。


「避難角を広げる」


 ミアは膝の上のノート端末に指を走らせ、各ユニットに“避難角”の設定を送った。安堵の道筋を遠回りさせる。まっすぐに慰めない。押し返さない。迂回して、隣の路地に薄く逃がし、そこから細く戻す。プログラムの小さな矢印が、地図の辺に沿って角度を変える。変えた角度は数度。その数度で、刃が針に変わる。


 通りの角で、ひとりの青年が膝をついた。マップの一点がふっと明るくなる。現場の映像はない。ただ、ユニットの近接センサが拾った姿勢の変化と、遅延の波形の滑らかさが、そこに“人”がいることを示す。青年は顔を上げ、黒いフードを外した。誰のものでもない泣き顔は、暗がりでも輪郭を持つ。「怖かった。ずっと。泣いたら凍ると思ってた」泣きながら笑う声は、風に乗って体育館の壁に薄く触れる。彼の傍らに、顧問室の女性が立っていた。マフラーの端を握る手が、わずかに震える。彼女はユニットの“待つ”を一度押し、それ以上は何も言わなかった。言葉がないことは、ときに最高の設計だ。彼女の押した一拍が、青年の泣きを守る薄い膜になる。涙が空気の刃にならず、ただ落ちる。


 同じことが、街のいくつかの地点で起きた。人が泣き、人が待ち、そして戻る。戻るの合図は、強くなくていい。弱い合図ほど、体は従う。戻るボタンに触れる指は、雪より柔らかい。柔らかい指が押すと、ユニットのログに短い丘ができる。丘はすぐ平らになり、平らになったあとにだけ、温かい風が寄る。寄った風は慰めではない。終わったというサインだ。


 体育館の裏手。自販機の灯りだけが面のように落ち、アルヴィンの頬骨を細く照らす。そこへ足音。神崎が出てきた。彼は今夜、配信をしない。カメラを置いている。暗がりで見ると、人は少しだけ人間になる。彼はモニタを見守っていた指をほどき、ポケットに入れ直す。「止めたのか」とアルヴィンに問う。


「止めた。君のステーションを」


 神崎は頷いた。彼の頷きは、短い。「正しさのために、君に譲った。だが、もし破綻したら、私は戻す」


「約束は守る」


 アルヴィンは視線を落として言う。靴先の雪が薄く砕ける。砕けた音は、誰の名前も呼ばない。「僕は冷やす。君は温める。どちらも街の機能だ」


 神崎は短く笑った。笑いの音は、空気に沈む。「君は昔より人間らしい。……だからこそ危ういのかもしれないが」言い終えて、彼は振り返らないで去った。去る背中は、正しさの重さでまっすぐだった。まっすぐは、冬に強い。


 体育館の中で、ミアはスクリーンの線を見ていた。線は時折、過密になって飽和しかける。そのたびに“遅延”が働き、負荷が近隣へ薄く広がる。線は道路の幅ではなく、呼吸の幅に従って太さを変える。プログラムの中に、街の生活が見えた。泣く、笑う、怒る、黙る。どれも温度を持つ。温度は気圧のように移動し、移動した先に風が生まれる。風は、アルヴィンが面にする。


「サラ、屋台通りの二番ユニット、遅延を二目盛り伸ばして。『待つ』の反応、子どもに先に触ってもらって」


「了解。穴も一つ増やす」


 サラの声は明るい。明るさは力になる。グレスは工具箱を肩に担いで体育館と路上を行き来し、配電盤の蓋に古い鍵を差し込み、油と冷気の匂いを混ぜてまとっている。匂いは冬の地図だ。カイルは無線の音量を下げ、顧問室側との連絡の間で路上の警備員に短い言葉を渡していく。「角は滑る。帯に沿って。押さない人も尊重」。押さないという選択は、設計に含まれている。含まれているから、尊重される。


 深夜、核の出力が下がり始めた。十年前から溜まり続けた冷たさは、今夜のうちに全部は返せない。けれど、流れ始めた。流れ始めたものは、止まりにくい。止めるには、正しさが必要だ。動かすには、優しさが要る。二つを同じ机に並べると、机は沈む。沈んだぶんだけ、脚に重心が移る。脚は折れない。


 体育館の端で、顧問室の女性がベンチに座っていた。マフラーを握る指が、少し白い。血の巡りが遅い指は、冬に弱い。弱いところは、温度を持つ。ミアは隣に座り、何も言わない。言葉は、ときに合図を妨げる。合図は少ないほうがいい。しばらくして、女性が小さく言う。


「泣くのは、怖い」


 ミアは頷いた。頷きは、回答だ。「怖いときは、待つボタンを押してもらう」


 女性は頷かず、ユニットの“待つ”に触れた。震える指が、小さく押す。スクリーン上の一点がふわりと光る。同時に、遠く離れた別の一点が光る。“待つ”を押し返す誰かがいる。どこの誰かは分からない。都市は広い。広いのに、繋がっている。繋がっているものは、温度を分け合う。押した指の震えは、彼女だけのものではなくなる。


 アルヴィンの肩が少し落ち、息が深くなる。彼の中の冬が、わずかに溶ける音がした気がした。音は錯覚かもしれない。でも、錯覚でも、温度は動く。動いた温度は記録され、遅延の長さが一目盛りだけ変わる。変わった一目盛りで救われる夜が、必ずある。


 黒いフードの集団の一部は、儀式を続けた。続けることしかできない夜が、人にはある。彼らは彼らの正義のなかで呼吸を止め、冷たさを広げようとする。ユニットは押し返さない。受けて、溜めて、遠回りで返す。返す先は、特定できない誰か。特定できない誰かが、今夜、ほんの少しだけ生きやすくなる。そういう整流を、街は覚え始めた。


 午前二時半、屋台通りの端で、配達員の青年が自転車に背中を預けて、うつむき、肩を震わせた。通りがかりの子どもが立ち止まり、息を揃えずに「待つ」を押す。揃えないことが、うまくいくときがある。青年は顔を覆ったまま、肩の震えを止めない。止めないうちに、通りの反対側の老夫婦が“戻る”に触れる。触れた合図は強くない。強くないから、押し付けにならない。合図は風に変わり、青年の背中を撫で、撫でられた背中は、少しだけまっすぐになる。


 午前三時、雪は細かく、音を持たず、積もる。積もる前に踏まれ、踏まれても跡を残す。跡は朝の地図になる。跡の上を、救急車が通らない夜は珍しい。今夜は、珍しい夜だ。珍しいのに、静かだ。静けさは、設計の副産物ではない。目的そのものだ。目的を目的として扱える夜は、長く続かない。それでも、今夜は続いている。


 午前三時半、核の出力に短い揺らぎ。アルヴィンが“面”の張りを一段階変える。張りを強くしすぎると、返す糸が跳ね返る。弱くしすぎると、街へ落ちてしまう。彼の顔は集中していて、顎の線が少し硬い。硬い顔は、冬に似合う。彼は冷やす人だ。けれど今夜は、人を凍らせないために冷やしている。矛盾は、強さになる。


「ミア、駅前の帯、穴の並びを南北に一つずらして。渦ができかけてる」


「ずらした。『許可』は長め、『戻る』を弱める」


「ありがとう」


 ありがとう、という言葉は、設計上、不要に見える。でも、冬には効く。効き目は数値化できない。できないものは、強い。顧問室の女性はその言葉を飲み込み、ただマフラーの端を握り直した。顎の角度が少し変わった。変わった角度は、彼女の内部の設計がわずかに書き換わったしるしだ。


 午前四時、体育館の隅で、カイルが机に突っ伏して眠りかけていた。無線は音を絞ってある。彼の手の甲には、古い擦り傷が一本。行政の机ではつかない種類の傷だ。今夜の彼は、机の人間ではなく、街の人間だ。街の人間は、冬に強い。グレスは大きなあくびをして、肩を回す。肩が鳴る音が、体育館の梁に薄く跳ね返る。サラは紙コップにスープを注ぎ、湯気の細い柱を作る。柱は折れやすい。折れやすいものを何度も作るのが、仕事だ。


 午前四時半、スクリーンの線はなお細く光り、街路の雪の青は、薄い桃に押し返されはじめる。色の押し合いは、温度の押し合いと同じだ。青が負けるとき、必ず音がする。聞こえない音が、鼓膜の内側で鳴る。鳴った音は、涙とよく似ている。涙のほうが、早い。


 顧問室の女性は目を閉じ、息を整えて座っている。瞼の上に細い血管が一本見えた。露出した血管は、冬に弱い。弱いところに、設計を足すのが仕事だ。ミアはアルヴィンの肩に頭を預けた。預ける、という動作は、冬に効く。二人の呼吸はゆっくり合っていく。合った呼吸に、体育館の空気が薄く従う。空気が人に従う瞬間は、街が泣いている瞬間に似ている。


 四時四十五分、屋台通りの角で、また一人、黒いフードが外れた。顔は若い。頬に凍りの跡。その人は泣きながら笑っていて、笑いの形は美しくない。美しくない笑いは、冬に強い。彼の隣で、誰かが“待つ”を押し、別の誰かが“戻る”を押すのをやめる。やめることが、設計に含まれている。含まれているから、尊重される。ユニットのログに小さな谷ができ、谷の底で風が休む。休んだ風は、面に戻る。アルヴィンの手が少し軽くなる。


 五時、最初の鳥の声が聞こえた。鳥は設計を知らない。知らないものの鳴き声は、設計より早い。スクリーンの線はまだ細い。太くする必要はない。細いままでも、街は息ができる。細いままの息を保つために、今夜は長かった。長い夜は、記録に残る。記録は、次の冬の設計に使われる。


 ミアは目を閉じ、耳だけを開いた。体育館の床板の乾いたきしみ、遠くの除雪車の鈍い回転、屋台の鍋の金属音、誰かの押した“許可”の短い電子音、そして、泣き声。泣き声がある街は、凍り切らない。泣き声を守るための“待つ”があり、“戻る”がある。押さない選択もある。選択がある街は、強い。


 グレスはあくびをもう一度し、サラは紙コップの数を数える。カイルは一瞬だけ起き、無線に「問題なし」と短く言い、また目を閉じる。顧問室の女性は目を開け、ミアを見ないまま言った。


「ありがとう」


 ミアは首を振る。礼は要らない。礼は、正しさの言葉だ。今夜に必要なのは、合図だ。合図は少ないほうがいい。ミアは代わりに、女性の手の甲に視線を落とす。指の震えは止まっていた。止まっているのに、温かくはない。温かくないけれど、持ち歩ける冷たさだ。持てる冷たさは、武器になる。刃ではなく、針として。


 スクリーンの端に、核の出力値が小さく安定の表示を出した。“返す回路”の流量は低いまま、細く続く。アルヴィンが肩の力を抜くと、彼の中の冬が、さらに一片だけ小さくなる。小さくなる音は、誰にも聞こえない。聞こえなくても、街は覚える。覚えたことは、次の冬の前で迷いを減らす。


 外の雪は薄桃に染まり、屋根の縁が一本ごとに輪郭を取り戻す。輪郭は冬の終了を告げる。終了は、始まりの合図だ。街が泣いた夜は、終わりに近づいている。終わりに近づいた夜は、静かで、重い。重いものを、皆で少しずつ持ち、持ったぶんだけ、温度が上がる。


 ミアは胸ポケットのマイクを外した。手のひらの中の冷たい金属が、体温でゆっくり曇る。曇った鏡は、正しさを映さない。映さない鏡の前で、人は自分の顔を想像する。想像した顔は、たぶん、冬に強い。彼女は小さく笑い、声にはしなかった。「戻る」を押す合図は、もう要らない。街じゅうで、誰かがそっと押すだろうから。押さない人も、押せない人も、今夜は同じだけの空気を持っている。持っている空気の重さが、明け方の白のなかで、やっと温度に変わっていく。


 街が泣いた夜は、終わる。終わることは、次に泣ける場所が残ったという意味だ。残った場所は、地図に印がない。印がない場所へ、人は歩いていく。歩く足が、雪の上に音もなく跡を置く。跡は、朝の設計になる。設計は、人の呼吸に合わせて薄く書かれる。薄い線は、長く残る。長く残る線の上で、人は立ち止まり、たまに目を閉じ、誰かの手を握る。握られた手は、凍らない。凍らない手で、また“待つ”を押す。押した拍が街じゅうに広がり、広がった拍が、今夜を終わらせる。終わった夜の縁で、鳥の声が、もう一度、少しだけ高くなった。

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