天使療養中

しろいなみ

天使療養中

  私の家は祖父の代から心療内科を経営しているが、人の心は複雑怪奇とよく言われるように、心の病ほど治療の難しい疾患は他に無いのではないかと思うのだ。

 腕や足、臓器なんかがダメージを受けた場合には、骨を接ぐなり腫瘍を取り除くなどすれば治る見込みはかなりある。しかしながら、これが心──即ち精神の場合はそうはいかない。

 たとえば「不安で眠れない」という症状の患者が十人いたとして、十人の患者たち全員の不安を和らげられる抗うつ薬などありはしないし、全員をぐっすりと眠らせられる絶対的な睡眠薬もない。カウンセリングを受けて症状が改善する患者もいれば、無理に話そうとすることで却って悪化する者もいる。

 医者は一人一人の診察──とりわけ初診にはかなりの時間をかけて、その患者の言葉をゆっくりと慎重に引き出し、処方する薬や今後の治療の方針を決めてゆく。

 そしてそれは、患者が同じことである。



 うちの心療内科は片田舎のいささか辺鄙な場所にある。近くにコンビニや個人経営の商店、バス停などはあるものの、他には田んぼと畑くらいしかない。建物のすぐ裏手には杉の木が鬱蒼と生い茂る森があり、一番早い交通手段を使っても都市部から訪れるには三十分はかかる。

 長閑な田舎町といえば聞こえはいいが、おかげで医院の経営はここ何年かは傾きっぱなしだ。それでもなんとか営業を続けられているのは、話し相手を求めてやって来る近所の年寄りたちや、入院患者たちのおかげである。

 ──ああ、それと忘れてはならないのは、心になにかしらの違和を感じて時折うちを訪れる、人ではないものたちのおかげとも言えるだろう。どうしてかはわからないが、我が家の人間にはこの世のものではない存在と意思を疎通させる力が生まれながらに宿っているらしい。まあ、こういった者たちの診療は半分は暇潰しでやっているボランティアのようなものなのだが。



 診療時間をとっくに過ぎた夜の診察室で一人仕事をしていると、リーリーと鳴く騒々しい虫の声にまぎれて、コツコツと遠慮がちにドアをノックする音が聞こえたような気がした。診察室のドアではなく、外来の患者が出入りする玄関口のドアだ。

 キーボードを打つ手を止め、パソコンの画面から顔を上げて耳をすましてみたが、やはり聞こえるのは虫の鳴き声だけだ。

 気のせいかと思って再び画面に視線を向けると、またもやドアをノックする音が、今度は先ほどよりもはっきりと聞こえた。そのノック音は遠慮がちではあるものの、療所の中に居る私に気付いてもらおうとする強い意思が込められているように感じた。

 私は回転椅子から腰を上げた。非常灯のみによって照らされた薄暗い待合室を通り、既に施錠してある出入口の鍵を開ける。

 外の看板に診療時間は十九時までだと記載してあるはずだが、もしかしたら急ぎの処置が必要な患者かもしれない。しかし、長年この病院で院長として勤めているが、これまでに一度もそのようなことはなかった。

 奇妙に思いながらも扉を開けると、そこには中学生くらいの線の細い少女が立っていた。少女は気だるげな長い睫毛をゆっくりと持ち上げるようにして、漆黒の瞳で私を見上げた。たったそれだけのことで、心臓を素手で掴まれでもしたかのように全身の時の流れが止まってしまい、漆黒の海で溺れないよう懸命に藻掻く自分の姿を私はその瞳の中に見た。

 この子は、人間じゃない。

 それほど大したものではない、私の直感がそう告げていた。

 少女は人形のように端正な顔立ちをしているが、その顔には他者を一切寄せ付けないほどの憂鬱と哀しみを湛えている。なにか言わなければならないと頭では理解していたが、その少女が放つ独特の空気に当てられて、私は随分と長い間言葉を発することができなかった。また、少女の方から言葉を発することもなかった。

「……すまないが、今日はもう診察時間終わってるんだけど……それとも、なにか別の用件で来たのかな?」

 少女は表情を一切変えず、ただゆっくりと首を横に振った。まるでその動作さえもが心底億劫だとでも言うかのように。

 私は改めて少女を見た。年は十四歳くらいだろうか。小柄で、強い風が吹けばあっという間にどこかへ飛んで行ってしまいそうなほどに華奢である。肩よりも少し長い位置で切り揃えられた黒髪は真っ直ぐで清潔感はあるのだが、少女の表情が底知れぬ憂鬱に沈んでいるためか、彼女の髪も生気を失っているように見える。

「……今日はもう、診てもらえませんか……」

 風に吹かれて消えてしまいそうなほど小さな声で少女は言った。その声はか細く、泣いているようにさえ聞こえた。そんなに悲痛な声で「診てもらえませんか」などと言われたら、医者として断るのは忍びない。

 本来であれば、医院から目と鼻の先にある自宅へ帰って一刻も早く熱いシャワーを浴びたいところではあったが、私は少女の頼みを聞き入れることにした。

「わかりました。特別に診ましょう」

 私はそう言って、ひどく陰鬱な表情の少女を明かりの灯った診察室に招き入れた。





 診察室の椅子に腰掛けるよう少女に促し、私たちはカウンター越しに向かい合った。電灯の白い明かりの下では色白の少女の肌は透き通り、光の粒子を纏っているようにさえ見える。

 私は疲れているのか。「今日はどうしましたか?」と問いかけても少女が言葉を発さないので、私は静かに彼女の仕草や表情を観察した。

 彼女の艶やかな頬や腕は、化粧パウダーやラメなどによって輝いて見えるのだろうか。

 ……いや、とてもそんな風には見えない。

 不思議なことに、目の前の少女からは人間らしさが微塵も感じられなかった。彼女から発せられる光は決して人工物の装飾じみた輝きではなく、水面に降り注ぐ陽光のような、あくまで自然的に齎された美しさだ。


「……人が……」

 鈴の音のような小さな声で我に返った。どうやら私は、少女の微細な表情の変化に気を取られるうちに、我をも忘れて彼女に魅入ってしまっていたらしい。このようなことが、心療内科医にあっていいはずがない。

 ……いや、言い訳をするつもりはないが、実際は「魅入っていた」というよりも、人ならざる神聖な力に引きつけられていたとでも言うべきか。

 少女は長い時間をかけて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。

「わたし……人が、怖くなってしまったんです。話せば長くなるのですが……」

 そう言うと、少女は私の時間を気遣うかのように遠慮がちな視線をこちらに投げ掛けた。時刻は既に夜の九時を回っているが、この(恐らく人ならざる)不思議な少女を診察室に招き入れておいて、「それじゃあもう遅いから今日はお引き取り下さい」なんて言えるほど、私は医者として落ちぶれてはいない。田舎のオンボロクリニックとはいえ、私はこれでも医者の中ではベテランの域に入る。

「大丈夫ですよ。時間のことなら気になさらなくても。ご自分のペースで、どうぞ話せるところから話してみてください」

 私がそう言って微笑みかけると、通夜のように陰鬱だった少女の顔に、ほんの少し安どの色が見えた気がした。しかし、それはすぐに憂鬱という名の厄介な雲に掻き消されてしまった。


「あの……こんなことを言って、信じていただけないかとは思うのですが……もしくは、頭のおかしい患者だと思われるかもしれないのですが……実は、わたしは天使なんです。人々の弱った心を癒す使命を与えられて、天界からやって来ました」

 他の医者なら少女の言葉通り、彼女を「頭のおかしい患者」だと見做すのかもしれない。しかし、私は彼女が天使だということを疑いはしなかったし、寧ろそれを聞いて「ああ、なるほどな」と納得がいった。

 少女は自分の言ったことを信じてもらいたいからか、私の目を真っ直ぐに見つめ続けている。

「……ほう。天使、ですか……それはまあ、遠路遥々よくぞ人間界までお越しくださいました」

 私が冗談っぽく微笑みかけると、少女は目を細め、ほんの少し表情を和らげた。きっと彼女──いや、一旦は「天使さん」と呼んでおこうか。少なくとも、天使に個人を表す名前があるのかどうかを知るまでは。

「この医院はわたし達の間でも何かと評判なのですよ。この辺りは自然が多くて空気が綺麗だし、なによりここの先生は優しくて、患者の話に真摯に耳を傾けてくれると」

 なんと。それは初めて聞く話だ。この医院や私自身のことが自分の知らないところで評判になっているとは。しかし、それならばもう少し儲かっていてもいいのでは……?と思わなくもないが。

「いやいや、ありがとうございます。『わたし達』というのは、天使のお仲間たちのことですか?」

「いえ、まあ、それもそうなんですけど、人間界で暮らす人ではない者たち──といったところでしょうか」

 その言葉を聞いて、私がこれまでに診た患者たちの姿が思い浮かんだ。私がこれまでに診た、人間社会と極めて近い所でひっそりと暮らす特別な生き物たち。

 彼らは人と人以外の生き物を繋ぐ存在として神々に作られたのではないかと私は考えている。そのため菩薩のように慎み深さと慈愛に満ちた特別な空気を纏っているが、それ故に人間社会と自然界のどちらにも馴染みづらく、本人も気付かぬうちに孤独に苛まれ、心の病に陥りやすい。

 恐らくだが、天使さんもそうなのではないかと思うのだ。


「それで、わたしが夜分にこの医院を訪れた理由なのですが……実はわたしは、つい一週間ほど前まで歩くこともままならぬ状態だったのです。最も酷い時には、歩くどころか横になったまま、指先を動かすことさえ難しいと感じるほどでした。当然、そのような状態で天使の力を使って人々を癒すことなどできるはずがありません」

「それは……怪我をしたとか体調が悪かったとか、そういう身体的な問題が理由ではないわけですな?」

「ええ……そうなんです。自分でもどうしてそんなことになってしまったのかわからないのですが、ある日を境に起き上がることがひどく億劫だと感じるようになったのです。それまではそんなことは一切なかったというのに。使命を果たして認められるまでは天界へ帰ることもできないし……天使であるわたしがこんなことを言っては罰が当たるかもしれませんが、わたしはその時『消えてしまいたい』と心の底から願っていました。そしてそれは……その黒い願いは、今でもこの胸の何処かで身を潜めているのです。」

 ふうむ。天使さんが一つ一つの言葉を絞り出すようにして語ってくれた症状は、現代社会を生きる多くの人間たち──それも、真面目で努力家な性格の人ほど陥りやすい「穴」と言えるだろう。それまではただひたすらに頑張って、目の前の道を順調に進み続けていたはずが、ある時突然その穴に落っこちてしまい、自分の力では穴から這い出るどころか、身動き一つ取れなくなってしまう。

 穴に落ちたと気付いた段階ですぐに声を上げ、周囲に助けを求められる人の回復は早い。しかし、落っこちたことに気付きさえせず、本来進むべき「道」の幻影を見ているかのように暗闇の中で必死に手足をばたつかせたり、助けを求める気力さえ持ち合わせない人は、あっという間に真っ暗な穴の底へと沈み込んでいってしまう。

「少し……頑張り過ぎてしまったのかもしれませんね」

 私がそう言うと、天使さんははっとした表情を浮かべてこちらを見た。そして、自嘲するかのような笑みを口元に滲ませた。

「たしかに……それはあったかもしれません。わたしはできるだけ多くの人々の力になりたいと心から思っていました。今もそう思っています。思ってはいるのですが、いくらわたしが長い間天界から人々の暮らしぶりを眺めてきたとはいえ、実際に地上に降りて、人々と同じ目線に立って心を通わせることは簡単なことではありません。お恥ずかしい話ですが、わたしはいつしか人が恐ろしくなってしまっていたのです……ほんとうに、自分でもどうしたらいいかわからなくて……」

 天使さんの白い頬を、宝石のように透き通った涙が濡らした。

 私は不思議な能力を受け継ぐ家に生まれ、また自分自身もその不思議な能力を持ち、長年医師として、人のみならず「人ではないものたち」の診察も診察してきた。そうすると、「彼ら」の涙を目にすることが時々ある。

 医師になったばかりの頃は、彼らの心が発する悲痛な叫びに耳を傾けているつもりでいて、実際にその目から流れ落ちる涙を目の当たりにした時、正直言って私はぎょっとしてしまった。そして、このようなことを思った。

 ──人間以外も、涙を流すものなのか。

 当然、口に出しはしないけれど、未熟な新米医師であった私がそのように思っていたことは、その時診察した患者にも伝わっていたのではないかと思う。随分と失礼なことをしてしまった。

 言い訳をするつもりはないが、ただ一つ、はっきりと言えることがある。

 私はなにもその患者の涙が物珍しくて驚いたのではなく、その涙を目にしたとき、それまでに一度も感じたことのない痛みを自分自身の心に感じたので、その苦痛に思わず顔を歪めてしまったのだ。

「一度天界へ帰って休養することはできそうにないですか?」

 天使さんは首を振った。

「使命を果たすまでは帰れない決まりですから……」

「そうですか……本来なら、少しでも気分が楽になるお薬を処方したいところではありますが、生憎とこの医院で処方できる薬は人間用に調合されたものですから、あなたにお出しするわけにはいきません。お薬以外の方法──たとえば規則正しい生活ですね。夜はしっかりと眠り、起きたら朝日を浴びて、バランスの取れた食事を取って……そういったことを意識して行うだけでも、改善する可能性はあります。むしろお薬よりもそちらの方が大切かもしれません」

 天使が睡眠や食事を必要とするのかどうかはわからない。けれど私は「人ではないものたち」を診察する時、まず最初に規則正しい生活を心掛けるようにと伝えている。本音を言うと天使を診たことなどこれまでに一度もないし、天使を診たことがある医者も恐らくいないだろうと思われるから、適切な診療方法がわからないのだ。

 だから私は彼らを「人か」「人でないか」として診るのではなく、症状から最良だと思われる治療法を探り出し、あくまでも人の患者と同じように診察する。

 そのようにすることで、治療の過程そのものが、彼らと人とを繋ぐ架け橋のような存在になってほしいと願うのだ。

 天使さんは小さな声で「はい……」と言ったが、その表情は半信半疑といった様子だ。無理もない。天使からしちゃ人間にとっての「規則正しい生活」など、何の意味も持たないのかもしれないのだから。

 不安げな様子の天使さんが少しでも心を憩められるよう、私は彼女に微笑みかけた。けれどもしかしたら、天使さんは目の前にいる医師の私でさえも、内心では恐ろしい悪鬼のようだと思っているのかもしれない。それは天使さんにしかわからない。わかろうと根気強く言葉をかけることしか、私にはできない。

「とりあえず今日はもう遅いから、病室の空いているベッドで休むといいですよ。看護師に用意してもらいますから。もし帰ることに不安があるなら、しばらくの間入院してもらっても構いません。寧ろそうしてもらった方が私としても安心なくらいです」

「で、でも……お恥ずかしい話ですが、入院費用がすぐにはお支払いできないのですが……」

「それなら、入院費用の代わりにこの医院の患者さんたちを、あなたの力で少しでも元気にしてあげてください。天使にはそういった力があるのでしょう?もちろん、まずはご自身の身体を治すことが最優先事項ですけどね」

 私は天使さんを二階の病室に案内すべく、回転椅子から立ち上がった。診察室の、年季が入った白いドアに手をかけようとした時、背中に「先生」と呼ぶ澄んだ声を聴いた。

「ありがとうございます」

 涙を流して感謝の言葉を贈られると、私はまだまだ、このくたびれた白衣を仕舞うことはできそうにないと思うのだ。

 




 

 



 

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