第8話 解放の時 Let it be ...

健太はPCXに乗り、心置きなく「聖域」から「普通の日常」へ戻る道を選んだ。


茶臼山高原から下る山道。PCXの風防を通して見える景色は、昨日までとまるで違って見えた。


昨日はただの灰色の舗装路と、無機質な緑の木々だった。 


だが今は、路肩の草花の色は鮮やかで、空はどこまでも青く晴れ渡っている。

世界は何も変わっていないのに、自分の中のフィルターが、悔しさとコンプレックスの灰色から、ありのままの光沢を取り戻したようだった。


「Let it be...」


頭の中で、ポール・マッカートニーのメロディが静かに響いた。特別なことをする必要はない。


ただ、あるがままを受け入れるだけでいい。


麓の街に降りた健太は、PCXをコンビニの駐車場に入れた。


家を空けたお詫びと、真衣への**「ありがとう」、子どもたちへの「ごめんね」**の気持ちを込めた手土産を買うためだ。


自動ドアから店内に入り、右手前、お菓子のコーナーへ向かう。


健太が選んだのは、真衣が子ども時代からずっと好きだと言っていた**「チョコあーんぱん」**。その箱をカゴに入れた。


次に子どもたちへのグミを選ぶ。


4歳の理愛夢(りあむ)には、甘くてジューシーなぶどう味の果汁グミ。一番分かりやすく、口いっぱいに広がる甘さが、彼にはよく似合う。


**6歳の依真(えま)**には、アンパンマングミ。


依真はもう小学校に入り、周りの友達に合わせて「アンパンマンはもう卒業」などと背伸びしたことを言う。


しかも、彼女の応援している、所謂推しキャラは、主人公ではなく、敵役のばいきんまんだ。


それでも、このグミがもたらす安心感と喜びを、彼女がまだ求めていることを健太は知っていた。


周りに同調しようとする娘の頑張りと、ばいきんまんを愛する本音の愛らしさ、その両方をそっと肯定してやりたかった。


レジを済ませ、自宅へとPCXを滑り込ませた。


低く静かなスクーターのエンジン音が、玄関前の駐車スペースに止まる。

ワルキューレの轟音とは違う、近隣に迷惑をかけることのない、普遍的な安堵を与える音だ。


PCXのリアキャリアの荷物を下ろそうとすると、家の中からバタバタと小さな足音が聞こえ、玄関ドアが開く。


「パパ!おかえりー!」


理愛夢と依真が駆け寄ってきて、健太に抱きついた。


4歳の理愛夢の無邪気で柔らかい体温。


6歳の依真の、少しお姉さんぶろうとする背伸びした抱擁の強さ。


健太は、二つの小さな命を強く抱きしめる。


「ただいま、二人とも。ただいま、真衣。」


「おかえり、健くん。ゆっくりできた?」真衣は穏やかな表情で立っていた。


その顔つきが、健太の疲れの取れた様子と、どこか穏やかに変わった目を見透かしているように感じられた。


健太は、子どもたちに買ったばかりのグミを手渡した。


「パパからのお土産だ。理愛夢はぶどう、依真はアンパンマンだぞ。」


依真は一瞬、「えー、アンパンマンー?」と口を尖らせたが、すぐにパッケージを隠すように握りしめ、健太に笑顔を向けた。


「ありがとう、パパ!」その一瞬の迷いと、その後の弾けるような笑顔が、健太の心を温めた。


健太の心が満たされる。


**この「ただいま」と「おかえり」の交換こそが、ワルキューレが与えてくれた「特別な達成感」を凌駕する、「普遍的な安堵」**だった。


リビングへ入り、子どもたちが夢中でお菓子を食べる横で、真衣に**「チョコあーんぱん」**を手渡した。


「ありがとう、健くん。そういえば、今回はなんだかすごくスッキリしてるね?気のせいかな。」


真衣の核心を突く言葉に、健太は小さく頷いた。


「うん。まあ色々と、気づきがあったんだよ。」


健太は、リビングのテーブルに向かい、静かに腰を下ろした。


そして、キーホルダーからカラビナを取り出した。そこには、自宅の鍵、PCXの鍵、そして——他の鍵に紛れるように、ワルキューレツアラーのメインキーが取り付けられていた。


健太は、そのキーを真衣の前に示し、カラビナのロックを外した。

カチリ、カチャリ。小さな金属音が、リビングの静寂に響く。


ワルキューレのメインキーが、他のキーたちから取り外された。


その瞬間、健太の胸を長年締め付けていた**「特別な自分」という見えない鎖**が、音もなく砕け散った。


その横に、真衣と撮った独身時代のツーリングの写真立てを置いた。


真衣は、キーを静かに見つめた後、顔を上げて言った。


「本当にもういいの?」


健太は、小さく頷き、テーブルの上でキーを掴んだ。


「オレさ、ずっと未練を断ち切れなくてさ。このキーを隠し持ってることで、オレの『特別』を守ってるつもりだった。だけど...」


健太が言いかけた瞬間、真衣は遮るように、しかし優しく微笑んで言った。


「うん、知ってた。大丈夫だよ、それも健くんらしいよ。」


真衣は、すべてを知っていた。


長年の**「優しい毒」(特別なロマンを捨てられない夫への、許容という名の間接的な重圧)の正体が、この瞬間に「すべてを包み込む愛の光」(夫のどんな弱さも受け入れる寛容さ)**だったのだと、健太にはようやく理解出来たのだ。


「健くんのは方から、教えてくれて良かったよ。ありがとう。」


健太は、溢れるものを必死にこらえ、真衣の目の前で、メインキーを写真立ての横にそっと置いた。


それは、長年の**「セルフ義賊」の終わりと、「弱い自分もあるがまま」**の自己肯定の儀式そのものだった、まさに終結だ。


そう思ったら、無性にまた火を見たくなった。


庭に出て、スポーツスター2にホワイトガソリンを注ぐ。


ポンピング、点火、安定した炎。その炎は、キャンプ場で貞時と並べた炎と全く同じで、健太の心に揺るぎない安堵を与えた。やがて湯が静かに沸きはじめる。


湯が沸き、コーヒーとココアを淹れる。


まず、真衣にはコーヒーを。


次に、甘えん坊の4歳の理愛夢には、蜂蜜をたっぷり入れた甘いココアを。そして、少し背伸びしたい6歳の依真には、甘さを控えめにしたココアを淹れる。


健太は、カップを並べ終え、リビングへ向けて庭から「真衣、できたよ!」と呼びかけた。


その声を聞くや否や、真衣が玄関から外へ出てきた。


「すぐ持っていくよ」と健太が言いかけるよりも早く、真衣は動いた。


「健くん。外で飲みたいんでしょ?」


真衣は、健太が淹れたての飲み物を庭で楽しもうとしていることを察し、庭の隅にある物置から、家族のアウトドアチェアを運び出した。


小さな理愛夢と依真の折り畳みチェア、そして自分と健太のハイバックチェアだ。


理愛夢と依真も、自分のお菓子を持って庭へ出てくる。


健太は笑った。特別な聖域だったはずの庭のストーブ周りが、あっという間に家族の団欒の場へと変わる。


健太は、自分のカップに注いだコーヒーを一口飲む。口の中に広がったのは、過去に飲んだどんなコーヒーとも異なる、不思議なほど穏やかな味に感じられた。


(オレの舌がおかしいのか?)健太は一瞬、そう思った。以前のあの苦味を知っている舌が、この優しい味わいを拒否しているかのようだ。


いや、違う。


それは、胃を締め付ける異常な苦味だった「罰の味」とは対極の、**「満たされた安らぎの味」**だった。長年張り詰めていた心が、じんわりと温かい布で包み込まれるような安堵感。その安堵が、わずかに甘みすら感じさせる錯覚を呼んだ。


長年張り詰めていた心が、じんわりと温かい布で包み込まれるような安堵感。

その安堵が、わずかに甘みすら感じさせる錯覚を呼んだ。


真衣はコーヒーの湯気と、健太を見て言った。


「またやってるね。でも今日はみんな一緒だから、すぐに片付けられるようにね。コーヒーは、ありがたく頂くけど(笑)」


真衣が、呆れたように、それでも少し嬉しそうに笑った。


ストーブの炎を見つめながら、健太は小さくうなずく。


健太の心の中で、メロディが静かに流れ始めた。


「Let it be, let it be...」。


その言葉は、「特別な俺」でも「普通の俺」でもない、「鈴木健太」という、あるがままの自分を、今、肯定してくれた。


――これが、ボクの普通の幸せ。


今日もポンピング。そして、これがボクのコールマン。


健太の心の中で、あのメロディが静かに、そして深く響いた。


When I find myself in times of trouble

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom, let it be


(終)


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ボクのコールマンー普通の火が教えてくれたことー 山口灯睦(やまぐちとうむ) @yoshi-0213-1023-1106-0326

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