山本くんはただの後輩だと思ってた【番外編】

髪川うなじ

あら。あらら。


 昼休み。

 いつもなら山本と社食で食べるが、今日は午後の会議の準備で忙しいらしくフラれてしまった。

 コンビニの袋を片手に歩く。一人になると急に社食の喧騒が面倒に感じて、足は自然と中庭に向かっていた。

 ベンチにはすでに先客がいた。見慣れた横顔。松岡先輩だ。髪をヘアクリップで緩くまとめていて、少しだけラフに見える。

 スマホを見つめていた彼女はこちらの足音に気づいて顔を上げた。

「サボりっすか?」

「昼休みに決まってんでしょ」

 紙コップのコーヒーを片手にして、ちょっと眩しそうに目を細める。橘先輩が、松岡先輩はブラックコーヒーが飲めなくていつもカフェオレだと言っていたから、きっと今日もカフェオレなんだろう。

 松岡先輩とは、陶芸教室の後から社内で見かけるとお互いに軽口を叩くくらいの仲にはなった。なんとなく波長というかノリが似ていて、あの日の車内では話が途切れなかった。沈黙しても気まずくならないタイプの人。

「星野くんこそ珍しいじゃん」

「山本と橘先輩が午後イチで会議なんすよ。置いてかれたんで、見事にソロランチっす」

「あー、ふうちゃん昨日の夜も資料作りで遅かったみたいね。山本も付き合ってたみたいだし」

「マジっすか。あの二人の集中力、常人じゃないっすよね」

「ね。あれで倒れないのが不思議」

 そう言って、松岡先輩はカフェオレを一口。少し風に目を細めて、カップを傾けた。その仕草がなんか妙に静かで、見てるこっちの呼吸までゆっくりになる。

「ここ、座っていいっすか?」

「どーぞ。ベンチ代は請求しないであげる」

「やさし〜」

 ははっと笑いながら隣に腰を下ろした。

「星野くん、山本と仲いいよね」

「まあ同期ですから。あいつ真面目だし、俺みたいなの放っとけないんすよ」

「自分で言う?」

「客観的事実です」

 くだらないやり取り。でも、ちゃんと笑ってくれる人とこうして話すのは心地良かった。

「山本、良い奴だよね。見てて安心する」

「……そうっすね」

 言葉を返しながら、胸の奥がくすぐったくなる。素直に祝福してるのに、どこか遠くに感じるのはなんでだろう。

 カップの中のカフェオレが、風でわずかに揺れた。松岡先輩はその表面をじっと見つめて、小さく息を吐いた。俺はその横顔を見ながら、なんとなく言葉を投げかけた。

「松岡先輩は、そこんとこどうなんすか?」

「そこんとこ?」

 コンビニの袋からおにぎりを取り出して包装を剥がす。一口かじると、海苔のパリッといういい音がした。

「なんつーか、恋愛?とか。山本と橘先輩見てると、なんか聞きたくなるじゃないすか」

「うわ、何急に。詮索好き?」

「昼休みの雑談っすよ」

「雑談ねぇ」

 松岡先輩は笑いながら、紙コップをもう一度口に運んだ。その笑い方が少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。

「どうって言われてもねぇ。最近ぜーんぜん」

「意外っすね。モテそうなのに」

「出た、お世辞」

「マジっすよ?社内で密かに人気ありますから」

「“密かに”の時点で信じられない」

 松岡先輩は紙コップをベンチの端にそっと置くと伸びをした。口元だけはちゃんと笑っていた。だけどそのあと、姿勢を戻した松岡先輩は少し間を置いてから視線を下に落とした。

「…まぁ、前の彼氏に浮気されて、それっきりって感じかな」

 言葉のトーンがさっきより小さくなった。風が通り抜ける音のほうが大きく感じる。思わずおにぎりを食べる手が止まってしまった。

「マジっすか、それ」

「なんかね、私は“一人でも大丈夫そう”なんだって」

「……それ、どういう意味なんすかね」

「さぁ。そう見えたんじゃないの?」

「見えただけっしょ。大丈夫そうに見えても、本当に大丈夫な人なんて、そういないっす」

 その言葉に、松岡先輩は目を丸くしてこっちを見る。そして、ケタケタと声を立てて笑い出した。

「意外だなぁ星野くん」

「何がっすか」

 思わず真面目な声が出てしまったことと、なぜか先輩が大笑いしていることに、なんだか恥ずかしくなってちょっとだけ口を尖らせる。松岡先輩はひとしきり笑った後、「ごめんごめん、バカにしたわけじゃないの」と言いながら顔を手で扇いだ。

「優しいんだなぁと思って、星野くん」

 そう言ってふっと笑った顔に、なぜか心臓が忙しくなる。思わず目を逸してしまった。

「……一般論っす」

「はいはい。でも、ありがと」

 ちらりと見れば、穏やかに笑う顔。その顔がなんか、さっきよりも近くに見えた。

 社内アナウンスから、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。

「よし、じゃあ午後もがんばれよ、若者」

「…年齢そんな変わんないっすよ」

 松岡先輩はカフェオレを飲み干してから立ち上がり、「じゃあね」と軽く手を振った。その背中を見送りながら、俺はなぜか、妙な息苦しさを覚えていた。


 - - -


 日曜日の午後。

 駅前の通りは程よく賑わっていた。買い物を済ませて歩いてると、向こう側の横断歩道に見覚えのある人が立っていた。

 松岡先輩だった。

 髪をゆるくまとめて、白いカーディガンを羽織っている。陶芸教室の時にも私服姿は見ていたけど、こうして街中で見かけるとまた印象が違った。肩の力が抜けていて、会社にいる時よりもずっと自然な顔をしている。

 信号が青に変わる。無意識に歩幅が速くなって、気づけば声をかけていた。

「松岡先輩?」

 振り向いた彼女の目が、少し驚いたように見開かれた。

「え、星野くん?びっくりした。こんなとこで会う?」

「偶然っすね。休日っぽい格好してるの、なんか新鮮っす」

「いきなり失礼だな君は」

「いい意味っすよ?ちゃんと人間らしいというか」

「普段は何だと思ってるの」

 軽く笑いながら言い返す声に、街のざわめきが少し遠のいたように感じた。

「先輩は?買い物ですか?」

「ううん、友達とランチしてて解散したとこ。星野くんは?一人なの?」

「はい。洗剤とコーヒー豆買って、これから帰るだけです」

「地味」

「現実的って言ってください」

 笑い合う。それだけのことなのに、どこか胸の奥が温かくなる。

 周りの人の流れに押されて、二人で同じ方向に歩き出した。沈黙が少しの間だけ続く。だけどそれは気まずいものじゃなくて、むしろちょうどいい距離に思えた。

 ふと風が吹いて、松生先輩の髪を揺らした。陽の光が当たって細い毛先が透けて見える。その瞬間だけ、なんとなく目が離せなかった。

「この辺、カフェ多いっすよね」

「そうね、どこも混んでるけど」

「まぁ、休日ですし。……もう少し歩きます?」

「いいよ。せっかくだし」

 歩く度に彼女のカーディガンの裾が揺れて、昼下がりの陽射しの中で、街全体が少し緩んで見えた。

 少し歩くだけのつもりだったのに、会話が途切れず、気づけば駅からだいぶ離れていた。

「休みの日ってあっという間っすよね」

「ね。気づいたら夕方」

「俺、“何もしてない休日選手権”なら結構いい線いきます」

「なんか想像つく」

 そう言って笑う声は穏やかだった。

 ビルの隙間を抜けて風が吹く。少し髪が乱れて、彼女は片手でそれを軽く押さえた。

「でもさ」

 松岡先輩が少し間を置いて言う。

「そうやってのんびり過ごしてる人、ちょっと羨ましい」

「え?」

「私、つい何かしてないと落ち着かなくて、、気づいたら予定詰めてる」

「真面目っすね」

「いや、怖いだけ。止まると色んなこと考えちゃうから。あ、これ後輩に話すようなことじゃないか」

 彼女はははっと笑って見せたけど、俺は何も言えなかった。ふとした静けさの中で、彼女の声の奥に疲れのようなものが滲んで見えた。

「ふうちゃんとか見てると、ほんと羨ましくなるよ」

 唐突に、でも自然に出てきたその名前と言葉に、俺は少し驚いたと同時に首を傾げた。

「どんなに自分が落ち込んでても、ちゃんと人に優しくできる。ああいう人になれたらいいのにって、たまに思う」

 それは普段の彼女からは想像しづらい弱音だった。

「松岡先輩は松岡先輩っすよ。比べる必要ないじゃないすか」

「そう言えるの、若さの特権」

「いや、マジでそう思ってますけど」

 咄嗟に言葉にしてしまったけど、自分でも少し照れくさくなった。

「…松岡先輩も、そう見えますけどね」

「私?ないない。私は強がってるだけだから」

 笑った瞬間、視線が一度だけ交わった。いつもの笑顔なのに、どこか守り方を知ってる人の顔に見えた。

「そろそろ戻ろっか」

 気づけば、駅前の喧騒が遠くに見えるくらい歩いていた。ビルの隙間から差す陽射しが傾いて、街の色が少しだけ金色に変わり始めていた。歩道の隅に並んだ植木の影が二人の足元にかかる。

「そうっすね、結構歩きましたね」

「うん。でも、悪くなかったよ」

 そう言って笑う顔が、どこか子どもみたいに見えた。

 通りかかった店から、焼き菓子の甘い匂いが流れてくる。それに気づいた彼女が「いい匂い」と呟いた声が、妙に耳に残った。

「今日は会えてよかった」

「俺もっす。…なんか、会社以外で会うの、変な感じっすね」

「前にも会ってるだろー?」

「いや、そうなんすけど…」

 彼女はまた声を立てて笑い、「ま、こういうのもたまにはいいでしょ?」と言った。

「じゃあ、また会社で」

 軽く手を振って歩き出す背中を見送って、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。人の流れが過ぎても、どうしてか目を離す気になれなかった。


 家に帰ると、テーブルの上に置いた買い物袋がやけに静かに見えた。中身は、買ったばかりの洗剤とコーヒー豆。いつもと変わらないはずなのに、どこか別の時間の匂いが混じっている気がした。

 ふと、今日の会話を思い出す。

「ふうちゃんみたいになれたらいいのに」

 あの時の声のトーン。笑っていたけれど、どこか本音のように聞こえた。

 飲みかけのコーヒーが冷めていた。香りだけがまだ残っていて、その残り香のように、松岡先輩の笑顔がずっと頭の中に残っていた。


 - - -


 退勤のチャイムが鳴って、パソコンを閉じる。窓の外に目をやると、灰色の雲が低く垂れ込めていた。昼までは晴れていたのに、いつの間にか雨が降り出している。

 コートの襟を立てながらエントランスに向かうと、自動ドアの向こうに松岡先輩がいた。傘立ての前で腕を組んだまま動かずにいる。俺は思わず声をかけた。

「松岡先輩、お疲れ様っす」

 彼女がこちらを向いた。髪の先が少しだけ湿っていて、頬にかかる光が柔らかかった。

「あ、星野くん、お疲れ」

「何してるんすか?」

「傘なくなっちゃって」

「え?」

「多分間違えて持っていかれたか、盗られたか」

 言いながら松岡先輩は苦笑した。

「マジっすか」

「仕方ないね。走って帰るしかないか」

 その言葉が俺の中で引っ掛かった。外は本降りに近い雨。風も出てきて、傘無しで帰るのは無茶だ。

「いや無理無理無理!それは無理ありますって!」

「大丈夫、私バスケ部だったし」

「関係ないっすよ!」

「でも駅までそんな遠くないし」

「遠いとか近いとかの問題じゃないっす!」

 意識するより早く、腕が動いていた。俺は松岡先輩の腕を掴んで自分の隣に立たせると傘を広げた。

「入ってください」

「えっ」

「俺も駅まで行くんで大丈夫っす」

「でも」

「でもじゃないです」

 思ったより声が強かった。一瞬、松岡先輩が目を丸くする。その顔を見た瞬間、自分でも驚いた。どうしてこんなに焦ってるんだろう。

「ほら、行くっすよ」

 アスファルトにぶつかる雨粒の音が一定のリズムで耳に残る。

 松岡先輩は少し戸惑ったように笑いながら、それでも「ありがと」と小さく言って、二人で歩き出した。

 思っていたより距離が近い。傘が小さいせいだ。彼女の肩が時々自分の腕に触れる。その度に心臓が変なリズムを打った。

「ごめんね星野くん。私のせいで濡れちゃうでしょ」

「大丈夫っす。俺、左側強いんで」

「何それ」

「自称耐水仕様です」

「ははっ…変な奴」

 笑いながら言う声が、傘の中にこもって響いた。

 少し歩くと、前方の横断歩道に信号の赤が滲んで見える。雨が光をぼかして、世界が柔らかくなる。

「……こうして歩くの、変な感じっすね」

「なにが?」

「会社以外で、松岡先輩と並ぶの」

「確かに。会社だと大体私が先輩モードだからね」

「それっす。それが消えると、ちょっと緊張します」

「緊張してるの?」

「若干。天気のせいっす」

「天気のせいね」

 松岡先輩が少し笑う。その横顔を見た瞬間、冗談だったはずの“緊張”が、ほんの少しだけ本当になった。


 駅の屋根が見えたところで、雨脚が少し弱くなった。それでも空はまだ重たく、遠くで雷の気配がくぐもっていた。

 人の流れが増えてきて、足元の水溜りを避けながら進む。傘の内側の空気はぬるくて、息をする度に湿った匂いが喉に残った。

「ここまでで大丈夫。ありがとね」

 屋根の下に入り、傘を畳む。

「いえ。松岡先輩、この後は?」

「電車」

「そっからまた歩くんすか?」

「うん、少しね」

 俺は畳んだ傘を松岡先輩に差し出した。

「じゃあ、このまま持ってってください」

「え?」

「どうせまた明日、会社で会いますし」

「でも、星野くんが」

「俺はここからバスなんで大丈夫っす」

 彼女は一瞬だけ迷ってから、ふっと笑った。

「助かる。実は、結構焦ってたんだ」

「走って帰るとか言ってたくせに」

「うん。あれ、虚勢」

 その言葉にふいに胸が熱くなった。こないだから、松岡先輩の“本音”に触れる度、心臓が忙しなく動く。

「やっぱ、星野くん優しいね」

「…そう見えるだけっす」

「見えたらそれで充分」

 そう言って彼女は、受け取った俺の傘を軽く持ち上げた。雨の雫が、光を受けて細い筋になって落ちていく。

「じゃあ、また明日」

「うっす。気をつけて」

 改札の向こうに彼女が消えていく。その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、俺はなぜか動けなかった。


 - - -


 翌朝。少し寝不足のまま出社した。

 空は晴れているのに、足元のアスファルトにはまだ昨日の雨の名残があった。ビルのガラスが朝日に反射して眩しい。

 人の流れに合わせて自動ドアをくぐろうとした時、エントランスの柱の影から声がした。

「星野くん!」

 驚いてそちらを見やると、松岡先輩が小走りで近づいてきた。

「ま、松岡先輩?」

「おはよう、ちょうどよかった」

「おはようございます……え、もしかして、待ってたんすか?」

「うん。傘、返そうと思って」

 そう言って松岡先輩は手に持っていた紺色の傘を差し出した。

「別に急がなくてよかったのに」

「ダメ。借りパクとか言われたら困るし」

「言わないっすよ」

 二人して笑い合った後、彼女は傘を両手で持ち直した。

「昨日は、ほんとにありがと。あの後、家着いた時ちょっと泣きそうだった」

「え?」

「私、ああいう時“平気なふり”ばっかしてきたから、誰かに助けてもらうのって、久しぶりで」

 一瞬、時間が止まった気がした。声も空気も、何もかもが。

「だから──ありがと」

 そう言って、彼女は笑った。

 それだけの言葉なのに、胸の奥がぐらりと揺れた。息をする度に鼓動が速くなる。耳の奥で何かが鳴っていた。

「……どういたしまして」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 傘を受け取ると、松岡先輩は「じゃあね」と手を振って、オフィスの中に消えていった。残された空気が、やけに温かかった。


 ──あら。

 ──あらら。


 傘を握る手が震える。

 心臓が馬鹿みたいに騒がしい理由に気づくのは、もう少しだけ先の話。

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