番外編:与旅相遇― 旅と出会う、杯のぬくもり

番外一:浅煎りマンデリン――詩織の物語

「店長、出かけるんですか?」

この日、三人が開店準備をしていると、店長が二階から降りてきた。

真尋は、いつものだらっとした空気とは違う、どこかきりっとした店長の顔つきを見た。

「うん。閉店まで戻らないよ。」店長はそう答えてから、千紗に向かって言う。「何かあったら連絡して。」

「いてもいなくても変わんないでしょ。」凜は黒板にメニューを書きながら顔を上げた。

「模型のためじゃなきゃ……」店長は拳を握り、眉を寄せる。

「わかった。気をつけて。」千紗はそっと店長を抱きしめた。

店長が出ていくと、真尋が訊く。「で、どこ行くの?」

「結婚式。」千紗の声色はいつもより落ち着いていた。店長がなぜ正装しているのか、彼女は知っているようだった。

「ほんとに行くの?」川人はハンドルを握りながら、助手席の詩織に訊いた。

今日の新郎新婦は、二人の共通の友人。そして――新郎は、詩織の元恋人だ。

「ん……」詩織は窓の外を見つめ、そっと息を吐く。

「もう、逃げるのは十分だと思う。」そう言って、前を見た。

川人はそれ以上なにも言わなかった。詩織の心が揺れないよう、ただ静かに運転を続けた。どうか、式の空気を壊すようなことが起きませんように――心の中でそれだけ願いながら。

到着しても、二人はすぐ式場へは入らない。向かったのは新郎の控室だった。

「川人です。」ドアをノックすると、中から声が返る。

「そのまま入っていいよ。」

川人は、表情を整えた詩織を一瞥し、ドアを押し開けた。詩織が先に入る。続いて川人。

「早めに来てくれて助かった!」洗面所のほうから新郎の声。

「たまたま手が空いたから。準備は?」川人が返す。

詩織は両手を組み、唇を固く結ぶ。さっきまでの静けさは、新郎の声を聞いた瞬間に消え、代わりに強い緊張が胸を満たした。

扉の「カラリ」という音。

「昨日あんまり寝られなくてさ。川人、おま――」

出てきた新郎の視線が、詩織とぶつかった。

詩織は、込み上げる記憶を押しとどめるように口角を上げ、穏やかさを装って彼を見た。

「……来たんだね?」新郎は意外そうに、長く詩織を見つめる。

「久しぶり。」詩織は笑みを保つ。

「この数年……どうしてた?」彼が問う。

川人は詩織の後ろに立ち、二人のやりとりを黙って見守った。

詩織は伏し目になり、ほんのりと光る涙を隠す。「追い返されると思ってた。」

「怒るべきなんだろうけど……君の顔見たら、正直、嬉しかった。」

その言葉に、詩織の表情が一瞬だけ揺れ、すぐにまた静けさを取り戻す。

「……許して、くれるの?」早鐘を打つ心臓を宥めるように、それでも一番大事なことを訊いた。

「もう、事情は分かってる。ただ、何年も逃げられた埋め合わせとして――」

彼は両腕を広げる。「最後に、もう一度だけ抱きしめてもいい?」

詩織は小さく笑って、歩み寄り、静かに抱擁を交わした。

のちに二人は披露宴会場の席に並んで座り、壇上の新郎新婦を見上げながら、会場中の拍手に合わせて手を叩いた。

「わたしも――彼の隣でウェディングドレスを着る自分を、何度も想像したことがある。」詩織がぽつりと言う。

「俺の過去のセリフは真似しないほうがいい。」川人は口元だけで笑い、テーブルの紙ナプキンを詩織の前へ滑らせた。

「ご発声、お願いします。」

川人はうつむく詩織の肩を、そっと叩く。

「ご結婚……おめでとうございます。」詩織は杯を掲げ、赤い目のまま、壇上の二人を見つめた。

――そして彼も、笑いながら、涙をこぼしていた。


番外二:ミディアムロースト・ケニアAA――紗矢の物語

冬の夜。

閉めきった窓からでも冷気が肌を刺すほどの寒さだった。

それでも紗矢は、ベランダに座って月を見上げていた。

明るく澄んだ月。見つめているうちに、時間の感覚がなくなる。

――どうせ風邪ひくだけだし。

そんなふうに呟いて、小さく笑う。

彼女の家は裕福だった。

両親は共働きで、父は建築士、母は弁護士。

お金に困ることなんて一度もなかった。

でも、その代わりに「温もり」というものをあまり知らずに育った。

だから、彼女の言葉にはいつも小さなトゲがあった。

誰かに心を見透かされるのが怖かったのだ。

中学・高校と、友達と呼べる人はほとんどいなかった。

彼女に近づく人は、見た目や成績、あるいは課題のため。

本当の彼女に興味を持つ人なんていなかった。

だから――ずっと思っていた。

自分は「いい友達」なんて、きっとできないんだろう、と。

そのとき、スマホが震えた。

画面に表示された名前を見て、思わず口角が上がる。

《男の娘!》

《なによチビ。》

《休んでるとこ邪魔して悪いけどさ!》

《重要な用じゃなかったら殺すよ。》

《ないよ!》

短いやり取りのあと、電話がかかってきた。

発信者:隼人。

「話して。」紗矢が言うと、受話口の向こうから――

「ハッピーバースデー トゥーユー〜〜♪」

三人の声。

音程もテンポもバラバラの、どうしようもなく下手な歌。

「下手くそすぎ。練習ぐらいしなさいよ。」

そう言いながらも、胸の奥がじんわり温かくなる。

「だって昨日もバイトだったんだよ、疲れてんの!」真尋の声。

「疲れてても音痴は治らないけどね。」

「うるさいなー!」

「男の娘〜〜!」

今度は綾音の声。「誕生日おめでと!」

「え、あんたも一緒にいるの?」

「うん!スイーツの残りもらえたから!」

紗矢は空を見上げた。

まるで、月の向こうで綾音が笑ってケーキを掲げているような気がした。

「食べすぎて太るなよ。一真くんに嫌われるよ?」

「ならないしー!」綾音の声が遠ざかる。

「ねぇ、まだ寝てないでしょ?」真尋の声が割り込む。

「何?」

「下見て!」隼人の声。

ベランダの柵に手をかけ、下を覗く。

アパートの最上階。見えるのは三つの小さな影が、こちらに向かって大きく手を振っている。

「ちょっと!冬だよ!バカなの!?」

「じゃあお前が半袖で出るなよー!」隼人が笑う。

「カラオケ行こー!」真尋が叫ぶ。

紗矢は思わず鼻をすすった。「あんた、明日バイトじゃなかった?」

「休む!」真尋。

「俺も練習休み!」隼人。

「私は暇!」綾音。

三人の声が重なって、うるさいのに、不思議と優しい。

「『両親いるから無理』って言い訳、もう通じないよ。今日いないの知ってるから。」

真尋が先に言う。

紗矢はしばらく黙り込んだ。

返事を探していると、綾音が言った。

「うち泊まっていいよー!」

「お前は来なくていい!」真尋の小声。

「わかってるよ!」隼人の返し。

紗矢は鼻をかみ、笑いながら言った。「……待ってて。」

電話を切る。

冷たい風が頬を撫でた。

――友達なんて、いらない。

そう思っていた自分に、今夜、温かい招待が届いた。

そして紗矢は、初めて「いい友達」という言葉の意味を、心の底から理解した。


番外三:ラテ・微糖――隼人の物語

キャンパスの小さな湖のそばには、花壇とベンチ、それに小さな東屋がある。

まるで公園みたいなその場所は、いつの間にか学内カップルたちの「ゼロ円デートスポット」になっていた。

その日、隼人は先輩と一緒にそこへ来ていた。

「ねえ、あの三人とは仲いいの?」

日よけのあるベンチに並んで座る先輩がそう尋ねる。

「まあ、悪くないですよ!」隼人は少し考えてからうなずいた。

「……先輩、もしかして焼いてます?」

「ち、違う違う。」先輩は慌てて首を振る。

「だって、あの三人っていつも一緒にいるでしょ?」

「俺は男だし、練習もあるからそんなに遊んでられないんですよ。」

隼人は湖のほうを見やる。手をつないで歩くカップルたちの姿が見えた。

「じゃあ、あの子たちのことどう思ってるの?」

「別に。ただ、話しやすいってだけです。」隼人は答える。

「最初は、先輩があの子たちを苦手にしてるんじゃないかって思ってたけど。」

「ううん、最初はね。同級生からちょっと噂を聞いてたの。あなたのことも含めて。」

そう言って、先輩は真剣な表情になる。

「……隼人、もしかして男の子が好きなの?」

隼人は綾音にあの夜無理やりカミングアウトさせられた(?)事件を思い出し、苦笑した。

「違いますよ……でも、そう思ってる人は多いみたいで。」

「へぇ……。じゃあ、あの子たちとはよく話すの?」

「しますよ。大事なことならすぐ電話かけてくるし。練習中に電話してたのも、だいたいあいつらです。」

「……リンッ」

ちょうどそのとき、ポケットの中でスマホが鳴った。

「ほら、まただ。」隼人は画面を先輩に見せて苦笑する。

「ちょっとすみません、出てもいいですか?」

「もしもし?」片手で腰に手を当てながら話す。

「は!?」「自分で決められないのかよ!」

先輩はきょとんとした顔で隼人を見つめた。

「いや、今は練習じゃなくて……先輩と……ちょ、何の話だよ!」

隼人は少し顔を赤くしながら、湖のほうに体を向ける。

「えっ?」不意に先輩を見て、「あー……なるほど。」

彼はスマホを耳から離し、先輩のほうへ歩み寄る。

「今、先輩の隣にいますけど? どうしたんすか?」

「先輩に話したいことがあるんだって。いいですか?」

「え、あ、うん……いいよ。」先輩は少し戸惑いながら答える。

「じゃ、スピーカーにしますね。」

隼人が画面をタップして先輩の前にスマホを差し出す。

その瞬間、三人の声が同時に響いた。

『せ・ん・ぱ・い、こんにちはーー!』

先輩は思わず笑い、返事をしようとしたが――

『隼人をよろしくお願いします!』

その一言を残して、通話は切れた。

一瞬の沈黙。

お互いに顔を見合わせ、どちらからも笑みがこぼれる。

「えっと……すみません、あいつらほんとに……」

「ふふっ。」先輩は手を振って笑う。

「でも、仲良しなのはよくわかったわ。」

そう言って立ち上がると、「お腹すいたでしょ?」

隼人はうなずく。

「じゃあ――ご飯、行こっか。」

二人は並んで、食堂のほうへ歩き出した。

「ちょっと! あの木偶の坊、あそこまで行っても手もつながないとか!」

少し離れた場所で、三人が身を潜めながら叫ぶ。

「背は伸びないくせに度胸も伸びないのね!」紗矢がぷんすか怒る。

「ねぇ、まだ尾行すんの?」綾音が後ろから顔を出す。

「お腹すいたんでしょ?」真尋が小声で言う。

「待って、あの二人が店に入ったらすぐ撤退!」紗矢が綾音の腕を引っ張る。

「ついでに勉強しなさい、一真も木偶タイプなんだから!」

「彼は……あそこまでじゃないと思うけど……」綾音がつぶやく。

そのとき、学食の入口近くで、先輩と隼人が少しだけ距離を詰めた。

三人の目が一斉に輝く。

「からかわれてる気もするけど……みんな、あなたのこと気にしてるのね。」

先輩は両手を背中に組んで、ゆっくり歩く。

「先輩。」隼人がふと彼女を見た。

その表情は、決意と照れが入り混じっている。

「どうしたの?」

二人の視線がぶつかる。

「男なら今だろ、行けっ!」

真尋が服の袖を噛みながら小声で叫ぶ。

「行くな! 見つめ合ってるならキスしろ!!」

紗矢が思いきり真尋を押した。

勢い余って真尋が倒れ、巻き添えで紗矢も転ぶ。

「なにすんのよ!」

「だって押しただけじゃん!」

二人がもたもたしている間に、綾音が固まったまま前を見ていた。

「……っ!」

「どうした?」紗矢が訊く。

綾音の目は大きく開かれたまま。まるで今、目の前で交通事故でも見たみたいに。

「キ……キスした……」綾音の声が震える。

「どんな感じ!?どんな!?」真尋が目を輝かせて綾音の肩を掴む。

「く、口……くち……」綾音はまだ混乱している。

「よっしゃ、もう一回見に行く!」

真尋は即座に立ち上がり、綾音の手をつかんで駆け出した。

「ちょっと待って!バレるって!」紗矢の叫びが追いかける。

風の音と、コーヒーの香りが混ざる午後。

少し遅い初恋の味は、ラテのようにやさしく、でも少しだけ苦かった。


番外四:キャラメルマキアート、千紗の物語

中学生のころ、姉は体操の選手だった。

大会に出るたびに入賞して、賞金をもらっていた。

そのころの千紗はまだ小さくて、ただ「お姉ちゃんはすごい人だ」と思っていた。

やがて叔父夫婦に子どもが生まれて、姉は千紗を連れて家を出た。

毎日学校が終わると、姉は家に戻ってご飯を作ってからまた出かけていった。

千紗が眠りについたころ、ようやく姉が帰ってくる。

そんな日々がずっと続いていた。

あの日は、大雨だった。

千紗は傘を持って、練習している姉を迎えに行こうとしていた。

滝のような雨の中、千紗は急ぎ足で商店街を抜けた。

そのとき、学校の外れで姉の姿を見つけた。

姉はリュックを頭の上にかざして歩いていた。

「千紗! そこで待ってて!」

姉が声を張り上げた。

でも千紗には雨の音でよく聞こえなかった。

しかも姉の手ぶりが「こっちに来て」と言っているように見えた。

だから千紗は、姉の方へ走っていった。

千紗が近づいてくるのを見て、姉は思わず走り出した。

その瞬間――。

耳を裂くようなブレーキ音。

姉は反射的に前へ飛び出したが、車のスピードは速すぎた。

脚にぶつかり、上半身はドアに叩きつけられた。

「お姉ちゃんっ!」

倒れた姉に駆け寄る千紗。

赤い血が雨水に混じって広がっていく。

まるで地面に翼が咲いたみたいに。

救急車の中で、千紗は姉の手を握りしめて泣き叫んだ。

病院に着いたとき、手術室の前で叔父が力なく泣き続ける千紗を抱きしめていた。

事故の原因はスピードの出しすぎとブレーキの故障。

もし姉があのとき前に飛び出していなければ――。

「それで、そのあとどうなったの?」

あたしは聞いた。

皿の上の料理は手をつけられず、冷めていた。

「体操はもうできなくなった。でも……命は助かった。」

千紗はデザートケースに体をもたせかける。

「そのあと川人さんが勉強を教えてくれて、なんとか卒業できたの。」

千紗は視線を上げて言った。

「もしあの千万円がなかったら、今もずっと苦しかったと思う。」

「あの人、きっと千紗のこと誇りに思ってるよ。」

あたしはドリンクコーナーの壁を見上げた。

そこには千紗の名前が書かれた賞状がいくつも貼られている。

「どうだろうね。でも、あのとき行かなければ……事故もなかったのかも。」

千紗は小さく笑った。

「ありがとうね。飾ってくれて。」

私たちがいつも座っている席の壁に、木の板を取り付けた。

その上に店長のトロフィーや賞状を並べた。

ずっと空いていた場所が、ようやく埋まった。

「なにこれぇぇぇ!」

倉庫から出てきた店長が叫ぶ。

「どうしたんですか?」

あたしが振り返ると、店長は眉をひそめて言った。

「こんな恥ずかしいの、出さないでよ!」

「店長じゃないんだから、文句言わないの。」

千紗が笑いながら返す。

「それに、壁の他の飾りもたいがいダサいし。」

「さすが姉妹だね……」

ふたりの口げんかを無視して、凜とあたしは壁を見上げた。

トロフィーの中に一枚だけ貼られた写真がある。

「まさか“愛憎劇”じゃないよね?」

あたしは凜の肩を小突いた。

体操服姿の店長が、赤ん坊の千紗を抱いて笑っている写真。

その赤ん坊の胸の上に、小さなトロフィーが乗っていた。

「真尋! 止めて! あの二人、カップ投げそう!」

凜があたしの腕を掴んだ。

「早見姉妹! もうやめなさいってば!」


番外五:ダークモカ、凜の物語

「一日に二十四時間しかないなんて、足りるわけないじゃん。」

昔、誰かがそう言っていた。

でも凜はその言葉を聞くたび、鼻で笑っていた。

だって彼女は本当に、使い道のないことまで全部覚えるタイプだったから。

「でも、そんなにいろんなこと覚えて、意味あるの?」

あたしがそう聞くと、凜は紙ナプキンを折りながら言った。

「ないよ。」

「でもさ、何もしてない方が退屈じゃない?」

少し考えてから、あたしは首を振った。

「それ、ただの暇人じゃん。」

「術業有専攻〜ってやつ。」

「は?」

そこに千紗が紙箱を抱えて現れた。

「真尋ちゃん、凜の昔の話、聞きたい?」

「うん……ちょっと興味ある。」

凜は店がオープンしたころからいる、まさに古株だ。

当然、彼女にもいろんな物語がある。

まず話しておきたいのは、彼女が毎日その日の気分でメイクを変えるってこと。

凜はもともと顔立ちが可愛い。

高校のころからモテていて、告白されることも多かった。

でも性格と行動がちょっと変わってたから、どの恋も長続きしなかった。

「どのくらい続いたの?」

「二ヶ月以内。」

千紗が肩をすくめる。

「性格のことは真尋ちゃんもわかるでしょ。」

「アイス食べて頭痛くなっても、手が動かなくなるまで食べ続けるとか?」

あたしは言った。

「あと、変な男に絡まれたとき、持ってた小麦粉を骨灰みたいに撒いたとか。」

「……はいはい、もういい。」

千紗が苦笑する。

そのあと、凜はなぜか女の子とも付き合うようになった。

同性愛者もいれば、凜に惹かれて“そっち側”になった子もいた。

「え、本当に?」

あたしが目を丸くすると、凜はチラッとこちらを見て、淡々と答えた。

「だって、暇だったし。」

その後、彼女はコスプレにハマって、メイクを覚えた。

そして練習のために、毎日違う顔を作るようになった。

「そのころのあだ名、万華鏡だったな。」

凜は折った紙ナプキンを箱に詰めながら言う。

店が軌道に乗って新人が増えたころ、

あたしは一度「ちょっと落ち着いた方がいいよ」と注意したことがある。

でも一週間も経たないうちに、いつもの凜に戻っていた。

耐えきれなくなった人たちは「ちょっと怖い」とか「魂が見えるみたいで無理」と言い出した。

「うん……わかる気がする。」

あたしも苦笑した。

でも、そんな凜を受け入れた男の人が現れた。

大学三年生で、彼女と付き合い始めた。

……が、別れた理由は「胸が小さいから」だった。

「わかる……」

あたしは凜の背中を軽く叩いた。

「クソ男……」

凜はあたしの肩にもたれた。

「でもね、凜がちょっと変なのは、頭が良すぎるからだよ。」

千紗は箱の中のナプキンを見つめながら言った。

「え、天才なの?」

あたしは凜を引き起こして顔を覗き込む。

「へへっ。」

彼女は照れくさそうに笑う。

――なるほど。

たしかに彼女の一言一言には、鋭さがある。

「一度、辞めようと思ったことあるけどね。」

凜が言った。

「なんで?」

「給料が良かったから。」

……やっぱり。

あたしは千紗に向かって「ほんと?」と聞くと、

千紗はうなずいて、手で「5」を作った。

「時給五千?」

首を横に振る。

「五万?」

また振る。

「五十万。」

「はぁ!? なんで凜だけ五十万!?」

あたしは倉庫の方に向かって叫んだ。

「だって、模型買ってくれるから〜。」

奥から店長の声。

……ずるい。

あたしは呆れて千紗を見ると、彼女はただニコニコ手を振った。

そのあと、千紗は一冊のノートを取り出した。

表紙には「凜の花園」と書かれたシール。

中にはぎっしりと、客の好み、よく頼むメニュー、座る席の傾向……

全部、凜が細かくメモしていた。

ページをめくると、スタッフのことまで書いてあった。

一番最初に書かれている人を見ようと、最後のページを開いたとき――。

「彼女、家のことで喧嘩して、家出したの。

うちの姉が拾ってきたのよ。」

千紗がぽつりと話し始めた。

「どうして喧嘩したの?」

「お父さんは“もっといい会社に行ける”って言って、

お母さんは“幸せに生きてほしい”って言った。

凜はずっと、その狭間にいた。」

千紗は小さくため息をつく。

「詳しくは話してくれなかったけど、たぶん辛かったと思う。」

ふと見ると、凜は鼻歌を歌いながら紙を折っていた。

「店長がね、『五十万あげるからうちで働け』って言ったの。

それからだよ、あの子が笑うようになったの。」

「……そうなんだ。」

あたしはうなずく。

「もし凜がいなかったら、ここ、きっと退屈だね。」

そう言いながらページをめくると、あたしの名前も書いてあった。

……これは、彼女の小さな秘密にしておこう。

そう思って、ノートを閉じた。

「ふん〜ふん〜ら〜」

凜が鼻歌を歌いながら洗い場に向かう。

あたしと千紗は顔を見合わせて、同時に笑った。


番外六:ハニーイルガチェフェ、綾音の物語

その夜、綾音は眠れなかった。

窓の外の街をぼんやり見つめながら、昼間紗矢に言われた言葉を思い返していた。

「一真がね……“綾音の気持ちを諦めさせてほしい”って言ってたの。」

紗矢はそう言いながら、綾音の手を握った。

スマホには、あとで真尋が送ってくれたメッセージが残っている。

「ねえ、あたし……諦めた方がいいのかな。」

綾音は前を見つめたまま、ぼそりとつぶやく。

「わたしは、綾音が泣くのを見たくない。」

紗矢は静かに言った。

少し間をおいて、彼女は続けた。

「恋ってさ、つらいよね。好きな人に気づかれても、何も返ってこないときとか。」

「でも……あたし、好きなのは一真くんだけ。」

綾音の声が震えた。

涙がまた頬を伝う。

「どうしたら……諦められるの?」

唇まで震えていた。

その言葉は、心の奥から絞り出すようだった。

紗矢はティッシュを取り出して、優しく涙を拭った。

「じゃあさ、もし十年待たなきゃいけないとしたら、それでも待つ?」

「……数字を当てっこしよう。」

綾音が突然そう言った。

「当たったら?」

「当たったら友達のまま。外れたら――絶交。」

「えっ……本気?」

「本気。」

あまりにも真剣な声に、紗矢は言葉を失った。

何か言わなきゃと思っても、声が出なかった。

しばらく沈黙が続いたあと、綾音がぽつりとつぶやく。

「――一真くんも、こんな気持ちなんだろうね。」

その瞬間、紗矢はようやく息を吐いた。

そして、この“質問”がどれほどの重さを持っていたか、やっとわかった。

「スマホ、貸して。」

紗矢が手を差し出す。

「かけるの?」

「うん、一緒に聞こ。」

綾音は一真のアイコンをタップして、スピーカー通話にした。

けれど、何度かけても繋がらなかった。

「……そっか。」

綾音は小さく息を吐き、笑って言った。

「もう、どうすればいいかわかった気がする。」

そのあと、二人は真尋のいるカフェに向かった。

「……諦める?」

窓に息を吹きかけ、綾音は曇ったガラスに傘の絵を描いた。

左に「一真」、右に「綾音」。

霧が消えても、彼女の指はそこから離れなかった。

「“数字、当ててみる?”って、あのとき言ったの覚えてる?」

綾音は静かに思い出していた。

そのときの彼女は、両手を握りしめて一真を見ていた。

顔には少し不安と決意が混ざっていた。

「一回だけだ。……それとも、もっといいタイミングまで待つ?」

一真は穏やかな声で言った。

「準備ができたら……そのときに、いい?」

「うん。――じゃあ、またね。」

あの日、一真は日本を離れた。

誰にも言わずに。

綾音が知ったのは、彼の妹との会話の中だった。

気づいたときには、もう空港へ向かっていた。

残された時間はほんのわずか。

もし選べるなら、あんな別れ方なんてしたくなかった。

――そのとき、スマホが鳴った。

「い、いっ真くん!」

画面を見て叫んだ。

「一真から?」紗矢が尋ねる。

『昼間、電話くれたよね。どうしたの?』

電話の向こうで、一真の声。

「……数字を当てたいの。」

迷いはなかった。まるで何度も練習していたかのように。

『綾――』

「一真くん。」

彼の言葉を遮るように、綾音は続けた。

「もう、逃げたくないの。」

電話の向こうは静かだった。

「ルールを壊してでも、あたしはあなたと一緒にいたい。」

『……どうして?』

「だって、好きだから! あなたもそうでしょ? そうじゃなきゃ、もうとっくに振ってるはず!」

綾音は声を震わせながら叫んだ。

「お願い……一度だけ、試させて。」

涙混じりの声に、一真はしばらく黙り込んだ。

その沈黙が苦しくて、綾音は思わず叫んだ。

「何か言ってよ!!」

喉が痛い。

でも、もう待つのは嫌だった。

『……ごめん、綾音。』

胸が締めつけられる。

でも、そのあと。

『来年、君の学校に留学する。』

「え……?」

耳を疑った。

『一年だけ一緒にいよう。留学が終わるまで。』

「な、なにそれ……」

『もし一年後、状況が許すなら、君を家族に紹介する。

本当は、もっと早く言うべきだった。どう思う?』

「……うん……うん……!」

綾音は涙でぼやけた視界の中、何度も頷いた。

『もう遅いから、寝なよ。おやすみ。』

「おやすみ……」

通話が切れたあと、綾音は自分の頬をつねった。

痛い。――でも、まだ信じられなかった。

ベッドに戻る途中で立ち止まり、

次の瞬間、ドアに駆け寄った。

ドアノブを掴みそこね、転びそうになりながらも、

彼女は真尋の部屋の扉を叩いた。

「なに――」

ドアを開けた瞬間、綾音は思いきり抱きついた。

「真尋っ……! 彼が……彼がぁっ……!!」

泣き声で何を言ってるのか全然わからない。

半分寝ぼけた真尋は、彼女を部屋の中に入れてから聞いた。

「一真に電話したの?」

綾音は頷いた。

「る……れ……」

「返事しなくていい、頷くだけで。」

真尋は苦笑しながら背中をさすった。

「数字、当てっこしたの?」

首を横に振る。

「じゃあ、諦めた?」

また横に振る。

涙が止まらない綾音の背中を、真尋はトントンと叩いた。

「フラれた?」

「ち、違う……違うのっ……!」

「じゃあ、オッケーだった?」

「いっ……いち、半分!」

真尋は吹き出した。

「ふふっ、あんた、わたしよりずっと勇気あるじゃん。

――明日、ちゃんと話してね。」

そう言って、綾音をギュッと抱きしめたままベッドに倒れ込んだ。

「もう泣いたら下着脱がすよ?」

「ちょ、ちょっと……!」

真尋は軽く笑って、すすり泣く綾音の頭を撫でた。

彼女には、どうやって言葉を伝えたのか分からない。

でも確かに、綾音は自分の涙を“勇気”に変えたのだ。

「ほんと、あんた……強いよ。」

そして、真尋は微笑んだ。

「……このパジャマ、三千円ね。」

「パァン!」


番外七:深煎りブラック・微糖、川人の物語

「ねえ凜、もし川人さんのコーヒーに砂糖入れたら、どうなると思う?」

あたしはデザートケースにもたれてぼんやりしていた。

「一口飲んで“違う”って顔して、そのまま元の場所に置く。」

凜は即答。

――たしかに。いかにも川人さんがしそうなことだ。

「同じ飲み物をずっと飲み続けて、飽きない人っていると思う?」

「いるよ。」

千紗が焼きたてのプリンを冷蔵段にしまいながら言った。

「わたし、その一人。」

そう言って自分を指さす。

「じゃあ何飲むの?」

「牛乳。」

「正解。」凜が先に答え、千紗はサムズアップ。

「お客さんが何を飲むかは、わたしたちが決めることじゃない。要望どおり作ればいいの。」

「まあ……お店だしね。」

そう言いながらも、あたしの性格上、試さずにはいられない。

というのも、川人さんは受け取って最初に必ず一口飲むから。

そのときをじっと待つ。彼が入ってきた瞬間、急に元気が出た。

「いらっしゃいませー!」

あたしはドリンクカウンターへ駆ける。

「いつものでいい?」

凜は常連にも必ず確認する。

「うん。」

返事を聞くやいなや、あたしはコーヒーを出し口に置いた。

「ありがとう。」

彼が微笑む。あたしも同じ温度で笑い返す。

「ん?」

一口飲んで、カップを見つめる川人さん。

「どうかした?」

凜もその仕草に気づく。

「これ、甘い。」

彼はカップを出し口に戻した。

「あっ!」

あたしは驚いたふりをして、くるりと背を向け、無糖のカップを差し出す。

「ごめん川人さん、さっきのわたしの分だった。取り違えちゃって……」

声も表情も限界まで誠実。――バレてない、はず。

「そう……でも、もう飲んじゃった。」

川人さんがちょっと気まずそうに言う。

「大丈夫! 気にしません!」

あたしは甘い方を回収。

「ありがとう。」

彼はもう一口、今度は無糖を確かめてから席を立った。

「真尋ちゃん、プロだねぇ。」

凜がにやっと笑う。

「え? 何が?」

「間・接・キ・ス。」

唇を尖らせる。

「ふんっ。」

あたしはコーヒーを掲げ、そのままごくり。

――もうキスしたようなもんだし、今さらでしょ?

「真尋ちゃん。」

千紗がすっと現れて、天井のカメラを指差す。

「忘れてた!」

あたしは慌ててストックルームへ。

ドアを開けると、ソファで足を組んだ店長が待っていた。

隣をぽんぽん、と叩く。

「店長……?」

「今の、全部見てたよ。」

モニターには監視カメラの映像。

「その……」

俯くあたしに、店長が口を開いた。

「この店の意味、まだ話してなかったね。」

こくり。

「ここは単なるカフェじゃない。“少しだけ休める静かな隠れ家”なんだ。」

店長は画面を消して続ける。

「バーが酔客の疲れをほどく場所なら、うちは酒を飲まない人にも同じ体験を渡せるバー。

内装や配置がちょっと“バーっぽい”の、気づいてたでしょ。

ドリンクもフードも、お客さんが自分の好みに合わせて心を解かすためのもの。」

胸がちくりと痛む。

叱られてはいないのに、余計に恥ずかしくなった。

「ごめんなさい……」

店長はあたしの手に触れて、やわらかく言った。

「川人は、すぐには変わらないタイプ。

でももし変えたいなら、“自分から変わりたい”って思わせなきゃ。」

言葉が心に沈んで、波紋を広げる。

「本気で好きなら、彼が繊細で、そして頑固だって知っておいたほうがいい。」

「あたし、わかりました。」

「前にも言ったよね。あなたには、わたしにないものがある。」

「――勇気。」

「うん。できるといいね。」

店長はあたしのカップを受け取り、くすっと笑った。

「砂糖、わざとでしょ。」

あたしは唇を噛んで一礼し、部屋を出た。

勇敢な人間じゃない。

でも、この店のみんなが教えてくれた。

“足りないのは、あと一歩の勇気だけ”だって。

「……で、出てくる。ちょっと!」

レジ横の二人に向かって言うと、凜と千紗は目を合わせ、頷いた。

「凜、バイク貸して!」

手が震える。行くべき? 行かないべき?

「どうぞ。」

凜は鍵を放り投げた。

あたしは姿勢を正して扉へ。

跨がって、そのまま川人さんのオフィスへ。

「こんにちは! 川人さんに会いに来ました!」

受付の人が目を丸くする。

「中にいます。」

「ありがとうございます!」

ドアを開ける。

「真尋? 突然だね。」

彼の視線がこちらへ。

入口の棚に、さっきのコーヒーが置きっぱなし――やっぱり“飲むため”じゃない。

「あの、川人さん。」

声は震えない。はっきりと言える。

彼は黙って、続きを待った。

「わたし、あなたと付き合いたいです。」

息が詰まりそう。でも、言えた。

「歳の差、知ってる?」

「知ってます。」

「子どもっぽいのは苦手なんだけど。」

「それも、知ってます。」

まっすぐ、目を逸らさない。

「ずっと考えてたんだろうね。」

彼は視線を落とす。

「ちゃんと考えが決まったら、店に行くよ。」

「今は……だめですか。」

両手を握りしめる。

今じゃないと、次に同じ勇気が出るかわからない。

綾音が泣きながら抱きついてきた夜が脳裏をよぎる。

――どうして、あの子はできたんだろう。

「ぼくも人間だから。考える時間はほしいよ。」

彼は微笑んだ。

「一週間以内。それでいい?」

「あの……お邪魔しました!」

あたしは深く頭を下げ、外へ。

駐輪場でしばらく座り込む。

悲しくはない。解放感でもない。

ただ、そわそわと落ち着かない。

――これが、告白ってやつか。

「そりゃ店長もタバコ吸うわ……」

ぼそりと呟き、店に戻る。

それから彼は、本当に来なかった。

あたしのミスはちょっと増えたけど、凜も千紗も何も言わない。

「七日目……」

時計の針を見つめる。

「返事がないのも、返事だよ。」

凜が背中をとんとん。

「焦らなくていいの。川人さんのセンスがないってことで。」

千紗はフライドポテトをあたしの口元へ。

「……はい。」

洗い場へ向かい、黙ってカップを洗う。

カラン――。

ドアベル。

「いらっしゃいませ。」

力のない声が出た。

「こんにちは。」

奥から凜の声。あたしは慌てて手を拭く。

「アイスのブラック、ラージで。微糖。」

凜の注文復唱。

ため息が漏れる。よりによって、その注文。

――神様、性格悪い。

砂糖を入れて、フタを閉める。

ふと胸が跳ねた。

「……本当に、来た?」

すぐに打ち消す。

現実は小説みたいに都合よく――

「川人さん?」

手からカップが滑りかけた。

「っと。」

凜が先に受け止め、あたしの背を軽く押す。

「コーヒー、できた?」

彼は笑って、あたしの手元を見る。

「は、はい!」

出し口に置く。表情なんて、もうどうでもいい。

「卒業したらにしよう。ゆっくり、知っていけばいい。」

彼は一口飲んで言った。

「たまには、違う味も悪くない。」

そう言って踵を返す。

「真尋ちゃーん、お客さん来てるよー。」

凜の声。

「動かないと、給料カットね。」

千紗の声。

「はーい!」

我に返ってカウンターへ走る。

顔の笑いが止まらない。

だから、あえて入口は見ない。

――だって、あのブラックに、

とうとう砂糖が、溶けたから。


番外八:イエガチェフェ手淹れ浅煎りブラック ――「与旅相遇」の物語

「それで、店を出すって決めたの?」

家を買ったあと、詩織と川人は一階の床に座っていた。

「たぶんね。この家の持ち主も前はカフェをやってたみたいだし。」詩織は周りの内装を見渡す。

前の持ち主は引退で家を売ったが、家具は持っていったものの、ほとんどの備品は残していった。

詩織はうつむき、何かを考えるように言う。「それに……千紗ももう高校生だし、半分働きながら通わせたくない。」

川人は黙って彼女を見る。というより、彼女の決断に口を挟むつもりはなかった。

「気持ちは大丈夫?」彼はそれだけを尋ねた。

詩織は川人を見て、長い沈黙のあとで口を開く。「まさか、あなたに心配される日が来るなんてね。」

「今までは君がやってた役目を、入れ替えただけだよ。」川人は天井を仰ぐ。

「この期間は、俺は力仕事担当ってことで。」壁のカビ取り、まずはそこからだな、と頭の中で段取りを組む。

前の持ち主が残した物は多く、電気の引き直しも要らない。テーブルや椅子、看板を少し買い足せば、店の形はほとんど整いそうだった。

「ねえ、店の名前って何にするの?」

一番厄介な作業が終わったお祝いに、その夜は詩織が川人も店に呼び、手料理をご馳走した。手伝いに来た妹も一緒だ。

「まだいいでしょ。開店までに必要な物、まだあるし。」詩織は周囲を見回す。

「もうほぼ揃ってるじゃん。」千紗の髪を手際よく結びながら言う。

「お姉ちゃんは完璧主義だから。本人の基準だとまだまだ。」川人が茶化す。

「自分の麺でも食べてて。」詩織が川人を指差す。

「でもさ、友だちみんな開店待ってるよ。一番客になりたいって。」千紗はどんぶりの麺をいじりながら笑う。

「だから何よ——」詩織は席に戻って言う。「すぐには開けないって言ったし。」

その時、詩織は窓の外を歩く一人の少女に目を止めた。土砂降りも気にせず、彼女はゆっくりと歩いている。詩織には見覚えのある仕草をいくつもしていた。

薄手のTシャツにジャージ、スニーカー。まるで他人の視線なんて気にしないみたいに。

本来なら放っておいて良かった。けれど詩織には「手を伸ばさなければ後悔する」という直感があった。

そう思った瞬間、詩織は戸を開けて外へ飛び出した。傘を忘れたせいで自分もびしょ濡れだ。

「どうしたの?」詩織は少女に並んで声をかける。

「バク転、できる?」少女は詩織をちらっと見て、唐突に訊いた。

言うが早いか、彼女は手を床につき、後方へと身を翻す。回り終えると、詩織をまっすぐ見た。

少し妙だが、詩織もつい口が動く。「こう、でしょ。」そう言って軽やかに跳び、教科書どおりのバク転を決める。

「で、何の意味?」着地して詩織が問う。

「体操、やってたでしょ。」少女が言う。

「やっても食べていけないからやめた。」少女は同じ調子で淡々と続ける。

「お腹、空いてる?」詩織は家を指差す。「ご飯、食べる?」

少女は詩織と家を交互に見て、「お金、ない。」と答える。

「じゃあ、うちで働きなよ。」詩織はそう言って彼女の手を取り、中へ連れ込んだ。

びしょ濡れの二人を見て、千紗と川人は固まった。けれど、時々理屈より身体が先に動く詩織のことを思えば、不思議でもない。

その日から詩織は少女を住まわせた。千紗は驚いたが、姉が自ら雇った子ならと、多くは問わなかった。

少女も「まだ開店してないから、食費と住む場所が給料代わり」という話を受け入れ、店の準備を手伝い始めた。

やがて開店準備は整い、試運転として親しい人たちに声をかけると、皆が店を飾るプレゼントを持って来てくれた。

千紗と詩織は少女と一緒に、飾りを空いたスペースに一つずつ置いていった。

「で、この店の名前、どうしようか……」詩織はペンを耳に挟み、考え込む。

「お姉ちゃん……もう山ほど案出したよ……」千紗はテーブルの紙束を揃える。

「それもわかるんだけど、もっといいのがある気がして。」詩織は微笑む。

「わたし、凜。橘 凜。」少女がふいに名乗った。

詩織と千紗は目を合わせる。詩織が言う。「じゃあ、凜は何かアイデアある?」

凜は首を振り、お腹をさすって言った。「ちょっと、お腹すいた。」

時計を見た千紗が言う。「あ、ほんとだ。考えるのに夢中で、まだ食べてない。」

「凜、手伝って——」千紗が立ち上がると、凜も続く。

二人の背中を見送りながら、詩織はふと、これまで生きてきた時間——痛かったこと、嬉しかったこと、今も胸が締めつけられること——を思い出した。

「もし……“彼”が見つけられるくらい特別な店名にしたら。」詩織は紙を見つめ、静かに字を書く。

「与縁分相遇。」特別さを出すため、あえて漢字で記した。

そこへ凜が戻り、ペンを取り上げて少し直す。

「与旅相遇。」詩織は読み上げる。

「わ! それいい。ごちゃごちゃした飾りにも合う!」奥で千紗が声を上げる。

凜は詩織を見て言う。「旅って、縁の物語だから。」

詩織は微笑んだ。「やるじゃない、凜。」

翌土曜日、川人は三人の写真係として呼び出された。

「宣伝用?」シャッターを切りながら川人が訊く。

「家族写真でもあるかな。」詩織は左右の腕で二人を抱き寄せる。

「このあと個人のも撮って。川人くん、可愛く撮ってね!」千紗が言う。

「別メイクで撮ってもいい?」凜が手を挙げる。

「お姉ちゃん!」千紗が入口を指さす。「看板、届いた!」

「じゃあ看板抱えて、もう一枚!」

撮影が終わり、写真を確認した川人が言う。「ホームページの一言、どうする?」

姉妹は凜を見る。「任せた。」

凜は少し考えてから、口にした。

——「与旅相遇。すれ違う日常の中で、あなたのためだけの一杯の温度を。」

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与旅相遇(トリップカフェ) ― 甘い時間の物語 Haluli @Haluli0228

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