初夜に妻の護衛からシリンジを渡された次男の俺が公爵になるまで
星森 永羽
初夜に妻の護衛からシリンジを渡された次男の俺が公爵になるまで
聖堂の天井は高く、光が冷たく降り注いでいた。
まるで神が、俺たちの結婚を祝福する代わりに──冷ややかな審判を下しているようだった。
神官の声が響く。
「キース・バーリラルは、ミランダ・ヴェルリスを妻とし、健やかなる時も、病める時も──愛し、慈しみ、これを支えんことを誓いますか」
白い衣装を纏った俺は息を吸い、そして吐いた。
「誓わん」
空気が裂けた。
ざわめきが波紋のように広がり、参列していた貴族たちが一斉にざわつく。
だが俺は、もう後戻りするつもりなどなかった。
「貴族に生まれた以上、政略結婚はやむなし。しかし、心までは渡さない。俺には──マレーヌという、愛する人がいる」
その瞬間、参列席のマレーヌ・コルヴァ男爵令嬢が立ち上がった。小柄な体を、白いドレスで包んでいる。
俺と目が合うと嬉しそうに微笑んだ。
「それはつまり、私を“愛することはない”という宣言ですか」
隣から静かに、だが確実に響く声。
ベール越しで表情は読み取れないが、きっと氷のようだろう。
俺の心臓が、わずかに跳ねた。
「っ、そうだ。その通りだ」
「そうですか」
新婦は泣きも喚きもせず、淡々と続ける。事務作業のように。
「では、ここで確約してください。私も自由にして良い、と。
もちろん後継となる子は、バーリラル公爵家の子を産みます」
「なっ──」
思わず声を詰まらせた。
彼女の言葉は、矢のように鋭く、逃げ場を与えない。
「不平等ではないですか。なぜ、あなた“だけ”愛人を許されるのです?
不満なら、ヴェルリス家への婿入りにしましょう。どうせ、あなたは次男ですから」
参列者の間から、くぐもった笑いが起こる。
兄のアーサーがにやりと笑い、わざとらしく手を打った。
「そりゃあいい!」
「アーサー!」
父ルイス・バーリラル公爵が低く叱責し、すぐにミランダへと視線を向けた。
「ミランダ嬢。あなたの自由は、私が保証しよう。その代わり──くれぐれも、バーリラル家の子を産むように」
「承りました」
ミランダは静かに一礼し、レースの裾を揺らして壇上を降りた。
純白のドレスが陽光を受けて、まるで氷の刃のように光った。
その後──
当然、誓いのキスも指輪の交換も、祝福の拍手もなかった。
残ったのは、凍りついた沈黙と、俺自身の決断の重さだけだった。
初夜。
蝋燭の灯りが、寝室の壁にゆらゆらと揺れていた。
白いカーテンの向こうには、まだ祝宴のざわめきがかすかに残っている。
俺は深く息を吐き、ベッドの縁に腰を下ろした。
夫婦になったとはいえ、心の整理はまったくついていない。
ミランダの顔も見ないまま、無理やりここまで来たようなものだ。
そのとき──ドアが、音もなく開いた。
「ぉあっ、なんだ、お前?!」
入ってきたのは、体格のいいの男だった。整った茶髪に無表情。制服からして新婦が連れてきたヴェルリス伯爵家の護衛だ。
「お嬢様からの伝言で『そちらのシリンジに精子を入れてください』と」
「……は?」
「終わりましたら、私が運びます」
男は当然のように机の上の器具を指した。そこには、見慣れた注射器のようなガラス管が並んでいる。
まるで医療室のような光景だった。
「ですから、そちらに用意してあるシリンジに精子を入れてください。そうしましたら、それを私がお嬢様のところまで運び、お嬢様は体内に受け入れますので」
「えっ……」
あまりに冷静な説明に、頭が追いつかない。
「子種を子宮に注入しないと、赤子はできないのです」
「知ってる! そのくらいは!」
「ああ、そうですか。それは良かった。では早速お願いします」
10分後、俺は思わず立ち上がった。
「……おい」
「はい」
「勃たない」
「私に、そちらの趣味はありません」
「俺にもない! 新婦は、どうした?」
「お疲れでしょうから、休憩なさってますよ」
「……」
沈黙。蝋燭の炎だけが、天井に震える影を描く。
「ドローヌさんを呼んできます」
「誰だ、それは」
「嫌ですね。あなたの最愛の人でしょう」
「マレーヌだ」
「マドリッドさんね」
「わざとか」
エドガーと名乗ったその男は、微動だにせず軽く頭を下げた。
──この結婚、やはりまともじゃない。
俺は、心の底からそう確信した。
閉まった扉を、俺はしばらく見つめていた。
さっきまでエドガーが立っていた場所には、もう誰もいない。
静寂。蝋燭の火がまたひとつ、ぱちりと音を立ててはじけた。
……本当に、何なんだ。
あの女は俺を夫とすら思っていない。
俺をただの“種馬”として見ているのか。
そのときだった。
──隣の部屋から、女の悲鳴。
息が止まった。
反射的にドアノブを掴む。
だが、鍵が──かかっている。
「くそっ! 開けろ!」
叫んでも返事はない。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
俺は廊下へ飛び出し、隣室の扉を回り込んで開けた。
中は薄暗く、蝋燭の光が不規則に揺れていた。
その光の中で──見た。
ベッドの上に、兄・アーサーがのしかかっている。
シーツの下でミランダが身を縮め、喉の奥で押し殺すような息を漏らしていた。
「何してんだ、兄さん!」
反射的にアーサーの肩を掴み、力ずくで引き剥がす。
アーサーは不機嫌そうに眉をひそめた。
「なんだキースか。お前も手伝え、子作りだ」
「はあ!?」
頭が真っ白になる。
シーツの中で、ミランダの肩が震えていた。
暗がりのせいで表情は見えないが、その怯えた様子は明らかだった。
「バカな……兄さんには、リヴィア嬢がいるだろ」
「お前にもマレーヌがいるだろう」
「いや、そ、れは──」
「お前が意気地なしだから、俺がさっさと子供を作ってやるって言ってんだ」
アーサーは冷ややかに笑った。
「父上は“バーリラル家の子”とおっしゃった。つまり、お前じゃなくていいんだ。俺でも、父上でも」
息が止まる。
ぞっとするほど冷たい言葉だった。
兄が冗談で言っていないことは、目を見ればわかる。
そのとき、低い声が出入口から響いた。
「困りますね、勝手なことされちゃ」
エドガーだった。
相変わらず感情の起伏のない声で、淡々と告げる。
「今夜のことは、公爵と伯爵に報告させてもらいます。──今すぐ、ご退室を」
アーサーが舌打ちし、乱暴に上着を引き寄せる。
そして、俺を睨みつけた。
「……面倒くさい弟だな」
そう吐き捨てて、部屋を出ていった。
静寂が戻る。
俺はベッドに近づき、怯えるミランダに手を伸ばした。
「もう大丈夫だ。兄さんは行った」
だが、彼女はその手を振り払った。
まるで、俺まで敵だと言わんばかりに。
翌朝。
俺はミランダの前に立っていた。
彼女に宛がわれた部屋に籠る紅茶の香りが、やけに冷たく感じる。
昨日のこと──兄の暴挙。あの場にいた全員の沈黙。どれを思い返しても胸の奥がざらついた。
「申し訳なかった」
できるだけ真摯に、頭を下げた。
だが、ミランダは一瞥しただけで言った。
「あなたが謝って、どうするのです」
声音は静かだったが、刃のように鋭い。
「しかし、身内のしたことだから──」
「私は“身内”じゃない、と」
冷え切った赤紫の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「そういう意味では……」
言い訳を探す前に、彼女は淡々と続けた。
「傭兵を雇います」
「へ?」
「あなたは、父が軍隊を差し向けるとでも思ってるのでしょう。だから頭を下げた。
違います。父は“バーリラル公爵家の血”であれば誰でもいいのです。」
言葉のひとつひとつが、冷たい硝子のようだった。
「私の生む子が将来バーリラル公爵を継ぐ約束ですから。だからこそ、義兄──アーサーは、私に自分の子を孕ませて、自身の立場をより強くしたかった」
「それは……兄は、俺たちに子が産まれたら公爵位が俺に行くかもしれないと焦っているから」
「そうでしょうね。これまでは長男の自分が爵位を継ぐと疑わなかったのに、私の父がバーリラル領の鉱山を買収したせいで、状況が変わった」
すべてを見透かしたような口調だった。
まるで、俺もその“駒”のひとつにすぎないと言われているようで、背筋が冷えた。
「だからと言って、あのような蛮行が許されるわけではない」
ようやく言葉を返すと、ミランダは目を伏せて小さく息を吐いた。
「私からしてみれば、父への腹いせに結婚式で新婦に恥をかかせるのも蛮行だと思いますが」
「……っ」
「無理やり結婚させられた被害者は、あなた1人だけだとでも思っているのですか。
バカバカしい。これ以上の問答は無駄です。忙しいのでお引き取りを」
言葉は完璧に整っていたが、そこには一切の温度がなかった。
「あ、その……待ってくれ。傭兵に伝は? 良ければ、俺の近衛を──」
「ご心配なく」
「……何もさせてもらえないのか」
「はい。信用できないので」
「……そうか」
それ以上、言葉は出なかった。
冷たい扉が静かに閉まる音だけが、耳の奥に残った。
その日の午後。
中庭のベンチで、マレーヌが俺の肩に手を置いた。
「ねえ、落ち込まないで。あんな氷の人、放っておけばいいのよ」
優しい声。柑橘の香水の匂い。
慰められるうちに、少しだけ心が軽くなった気がして──気づけば、剣を持って外に出ていた。
「……よし、素振りでもするか」
単純だ、と自分でも思う。
けれど、体を動かしていないとやり切れなかった。
遠くで、マレーヌが微笑んでいる。
剣を振るうたび、不安が払拭されていった。
新聞の活字というのは、どうしてあんなにも人を殴る音がするのだろう。
朝食の席。俺は銀のフォークを持ったまま固まっていた。
「社交界の新星ミランダ夫人、禁忌の色で貴族社会を魅了──三夜連続の話題を独占」
そう大きく見出しが踊っている。
禁忌の色とは、ミランダの髪と目のことだ。
その珍しい赤紫のライラックは、聖職者の血の色と呼ばれている。
最初は、誤報だと思った。
だが、読み進めるうちに胃の奥が冷たくなる。
仮面舞踏会に、詩の朗読会、美術展。
どれも“バーリラル公爵家の新婦”として彼女が主役。
その傍らには、エミール・ダラン侯爵、ガイス・ゼラニカ伯爵、ユシーズ・アリアス子爵令息──俺の知る限り、帝都でもとびきり女好きの連中だ。
記事の中には、こんな一文まであった。
*「夫は結婚式で彼女に心を与えぬと宣言した。ならば夫人は、愛される自由を求めたのだろう」*
くそっ……!
新聞を握りしめた瞬間、廊下から母の声が飛んだ。
「まあ、なんてこと! 嫁が“愛人募集”などと……!」
母は蒼白で、手に扇を持ったまま俺を睨んでいる。
父はさらに厳しかった。
「これはバーリラルの恥だ。お前があの女を抑えられぬから、家が笑いものになっている!」
胸の奥が焼けるように熱くなった。
「俺だって、あんな真似を許した覚えはない!」
「ではなぜ結婚式で“愛さぬ”などと言った! お前が火をつけたのだ、キース!」
返す言葉が見つからなかった。
確かに、あの一言が全ての始まりだったのかもしれない。
外に出れば、通りの連中が俺を見て笑う。
「哀れな夫」「寝取られ貴族」「男より噂が似合う妻」──そんな言葉が背中に突き刺さる。
道端の新聞売りが叫んでいた。
「ミランダ夫人、禁忌の仮面を脱ぐ瞬間!」
──馬鹿げている。
けれど、どんなに否定しても新聞の中の彼女は生き生きと笑っている。
水晶の天井の下で、詩に囲まれ、男たちに囲まれ。
その笑顔を想像しただけで、心臓の奥がざらりと痛んだ。
俺は拳を握った。
誰が悪い? ミランダか、俺か。
どちらにせよ──帝都は、俺を笑っている。
それだけは、確かだった。
夜会の照明は水銀のように冷たく、会場は絵画の額縁の中の世界みたいに整っていた。
俺はマレーヌの腕を掴んだまま、そぞろ歩く群衆の波に押されていた。
あの日以来、胸のあたりにはいつも小さな石が入っているような気分だ。新聞の見出しと屋敷の冷たい視線が、俺を角に追いやっている。
けれど──
会場の奥、光の差す場所に立っていたその女性を見た瞬間、動けなくなった。
天女か。
いや──そんな言葉では、足りない。雷に打たれたように、魂が軋んだ。
時が止まり、空気が震えた。
たれ目がちの瞳は、深海のように揺れていた。白く通った鼻筋は、月光の軌跡。豊満なバストに、括れたウエスト。その曲線は、神々の筆が描いた奇跡。
艶やかな赤紫──ライラックの髪と瞳。社交界に存在しないはずの色。夢にも現れないはずの色。
それが、今、目の前にある。
まるで絵から抜け出たような、完璧な造形。
いや、絵では届かない。
この美は、現実にある。
──そして、俺の心を奪った。
「何をしてるの? 文句言いに来たんじゃないの」
マレーヌの声が耳に届いたが、頭が回らない。
「は?」
「さっさと行きましょう」
俺は、視線を逸らせずに呟いた。
「待て……まさか、あれが……ミランダ?」
マレーヌは呆れたように肩をすくめた。
「この前、結婚した相手の顔すら分からないの?」
結婚式で初めて会った時、彼女はベールをかぶっていた。
その次に、暗闇で怯えていた彼女……顔など見ていない。
翌日謝罪に行った時は、簡素な服にボサボサの髪。
俺も容姿など気にする余裕はなかった。
結婚するまで、ミランダは社交界に出ていなかった。
だから、知らなかった。
まさか──この世に、こんな美しい人間がいるなんて。
2曲目が始まる直前だった。
俺はマレーヌを伴って、会場の中央へ突き進んだ。
「ミランダ!」
彼女が振り返る。
その姿は、まるで絵から抜け出たようだった。
でも、今はそれどころじゃない。
「君は一体何をやっているんだ」
「は?」
「連日新聞を賑わせて、何をしていると聞いてるんだ。結婚して3日も経たないうちに家を開けて帰ってこない新妻など、前代未聞だぞ。どこで暮らしてるんだ」
俺の声が響いた瞬間、会場がざわついた。
でも、ミランダは眉一つ動かさず、静かに言った。
「ねえ、あなた。それよりせっかく会えたのだから、精子くださらない? まだ子供産んでないせいで、この方達と最後までできないの」
空気が凍った。
俺は目を見開いた。
「なっ、なんてことを……! もう限界だ! 家に連れて帰る!」
その時、エミール・ダラン侯爵が1歩前に出た。
「待ちたまえ。彼女の意思を尊重すべきだ」
「俺は夫だ。夫婦のことに首をつっこまないでもらおう」
ガイス・ゼラニカ伯爵が加勢する。
「それを言うなら、我らは恋人だ。書面上の夫でしかない君が、しゃしゃり出るんじゃない」
「そうだ。生活の面倒すら見ないくせに、夫面して」
ユシーズ・アリアス子爵令息も忌々しげに吐き捨てる。
「生活の面倒? そんな、ありえない悪評を」
ミランダが静かに言った。
「嘘ではありません。
帰宅したら、私の部屋を見てみればいい。何もないから」
「は?」
「私はあの家に行って、無一文になったのです。この方たちに助けていただけなければ、どうなっていたことやら」
俺は血の気を失った。
「何を言ってる? 我が家は国内有数の資産があるのに」
ダラン侯爵が冷静に告げる。
「あっても出さなければ、貧しい生活を強いられる。そんな場所に彼女を帰せない」
俺は、戸惑い立ち尽くしていた。
ミランダの瞳は、俺を見ていた。
でも、そこにあったのは──信頼ではなく軽蔑だった。
屋敷に戻ったのは、夜会からそう遠くない時間だった。胸の中で、怒りと羞恥が火花を散らしていた。
ミランダのあの言葉が嘘であることを証明したくて、俺はほとんど駆け足で廊下を進んだ。
だが、扉を開けた瞬間、息が止まる。
部屋は、ほとんど空だった。
壁際にかろうじて残っているのは小さな鏡台と、使い古しの靴が一足。それ以外は、カーテンの隙間を抜ける風だけ。
「……なんだ、これ。どうなってる」
俺は足元を見回し、次の瞬間には声を荒げていた。
「おい、妻の品位保持費の使用履歴はどうなってる」
執事のトマスが現れ、書類を抱えて頭を下げた。
黄土の髪に緑の目。幼馴染みで1つ上、21歳の伯爵令息だ。
「そもそも予算を組んでおりません」
「なに? なぜだ」
「大奥様が『実家に出してもらえばいい』と」
背中に冷たい汗が伝う。
「そんな馬鹿な……じゃあ持参金は?」
「持参金は、将来お2人の子が爵位を継ぐ対価として、すでに回収済みです」
「……なら、ここにあった彼女の荷物は?」
「お売りになりました。1度袖を通したドレスで表は歩けないでしょう。公爵家のご令息の奥方としては不相応ですので」
俺はトマスの襟を掴みそうになって、途中で手を止めた。
「なぜ俺に報告しない?!」
「お2人は結婚式を含めて、まだ2度しかお話になっていなかったのでは?
主の関心がない"客人を、どうするか指示もいただいてない"ので」
トマスは真っ直ぐに俺を見た。思わず目を逸らす。
拳を握り、足早に母の部屋へ向かう。
「バーリラル公爵家が、妻を無一文で追い出したなどと新聞に書かれたら、どうするつもりだ!」
セレン公爵夫人は、紅茶を傾けながら眉ひとつ動かさない。
「それならもう、圧力をかけたわ。新聞社にも編集長にも」
「そこに使う資金を、最初からミランダに渡していれば済んだ話だろう!」
「あなた、私があの娘を歓迎しているとでも思っているの?」
母の声は氷のように冷たかった。
「あの娘の父、ヴェルリス伯爵は皇室に多額の献金をして、私たちが反発できないように根回ししたの。そうでなければ、成金伯爵の庶子など」
脇で父・ルイス公爵がゆっくりと煙草に火をつけた。
「力に力で対抗して何が悪い。キース、これは“戦争”なんだ。単なる結婚じゃない」
「ミランダは駒にされているだけだ」
「その駒を見せしめにしなければ、他の家も我々を侮る。政治とはそういうものだ」
俺は何も言えなかった。
拳の中に爪が食い込む。血の味がするような沈黙の中で、母の扇がかすかに音を立てた。
気づけば、自分の部屋に戻っていた。マレーヌが心配そうに扉を開ける。
「キース……少しは休まないと」
「……しばらく1人にしてくれ」
彼女の足音が遠ざかると、俺はベッドの端に腰を下ろし、頭を抱えた。
手のひらの中で鼓動が痛い。息をするたび、胸の奥が灼ける。
「……こんな家、帰りたくなくて当然だな」
口に出した途端、どこかが崩れ落ちる音がした。
ミランダの「無一文」という言葉が、ただの誇張ではなかったことを、ようやく理解した。
ついに来たか──俺の手にはミランダの父ヴェルリス伯爵からの召集令状が握られていた。
新妻が家を出て半年が経過したが、打つ手がないまま途方に暮れていた。
隣でトマスが静かに言う。
「ええ、当然でしょうね」
その言葉に、俺は小さくため息をついた。
ヴェルリス伯爵邸に着くと、すでにミランダは到着していた。
赤いドレスが風に揺れる。
「……久しぶりだ」
言葉をかけても、彼女は何も返さなかった。
ただ、冷たい瞳が一瞬だけ俺を通り過ぎる。
「何の要件かはわかっているな?」
ヴェルリス伯爵の声は、まるで判決のようだった。
そのまま俺たちは、使用人と護衛を20名だけ伴い、山奥の小屋へと連れて行かれた。
簡素な小屋の中は静かだった。
木の床は軋み、壁には古びたランタンがひとつだけ吊るされている。
暖炉はあるが火は入っておらず、冷気がじわじわと染み込んでくる。
窓の外には雪が少し残っていて、風が木々を揺らしていた。
外には自由に出られず、逃げ場もない。
俺は壁にもたれながら、ぼそりと呟いた。
「義父上は強引過ぎないか。我が家の反発を招くぞ」
ミランダは窓の外を見ながら、淡々と答える。
「そんなこと気にする性格ではないわ」
「はぁ……」
「それより、さっさと子供を作って市街地に戻りましょう。恋人達が心配してるわ」
俺は彼女の横顔を見つめる。
「君は……そうか、父上に振り回されるのに馴れているのか」
ミランダは振り返り、さらりと言った。
「さあ、トラウザーズを脱いで。あら? シリンジは? 待って、やっぱり脱がないで!」
俺が何も言わずにいるとタタタと走っていき、また戻ってくる。
「……良かった、シリンジはエドガーが手配してくれるって」
彼女は楽しそうに部屋の隅へ向かい、紙と鉛筆を取り出す。
「暇ね、外にも出られないし。そうだ、絵を描きましょう。聞いたわ、あなたシリンジの前では不能なんですってね。私、モデルをやった時にヌードデッサンの仕方教わったのよ。マドリッドの裸婦を描いてあげる」
俺は言葉を失ったまま、彼女がカシャカシャと鉛筆を走らせる音を聞いていた。
1時間後、彼女は満足げに紙を掲げる。
「できた!」
俺はそれを受け取って、目を細めた。
「……これがマレーヌ? 君には、こう見えるのか」
「いつも、こういう顔してるわ」
紙の中のマレーヌは、意地悪そうに笑う黒棒のような裸婦だった。
「まさか……」
ミランダは肩をすくめて笑う。
「あなたって戦に行く以外、何もできないのね。戦地以外では棒振り人形よ。さっさと素振りしてきたら?」
──井戸の脇で、俺は言われた通り素振りをしていた。
上半身は裸、初春の風が肌を撫でるたびに、冷たさが骨に染みる。
ミランダはその様子を、石の上に腰掛けて眺めていた。
「退屈じゃないか。俺を見て楽しいか?」
彼女は首を傾げ、鉛筆を取り出す。
「そうね、スケッチしましょう。あなたの半裸は、きっと売れる。なんせ帝国で1~2を争う美男だもの」
俺は剣を止め、少しだけ視線を落とした。
「……予算のこと、済まなかった」
「それで?」
「俺の私財から、君の予算を賄う」
ミランダは紙に線を引きながら、さらりと言った。
「普段はよくても、大舞踏会のドレスや大規模茶会主宰の費用までは無理でしょう。あなたの直轄地は元は子爵領のはず」
言葉が詰まる。
彼女は笑うでもなく、ただ静かに続けた。
「平気よ。私にもパトロンがいるし」
「いつまでそんな生活を続けるんだ?」
「いつまでって、死ぬまででしょう」
俺は剣を握り直し、低く言った。
「やはり君もまだ子供だな。男というのは、枯れた花を抱えて歩かない生き物だ」
ミランダは鉛筆を止め、俺を見た。
「ならば、あなたもいつかマドリッドを捨てるのね」
「俺とマレーヌはそうじゃない!」
「たった今、“枯れた花を~”と言ったじゃない」
「俺たちは真実の愛で結ばれているから違うんだ」
「ふうん?」
「子供にはわかるまい」
そうは言っても2歳違いだが。
「何故、そんな自信があるの?」
「俺は彼女を見た目で選んだのではないからだ」
「ん?」
「彼女の素朴さ、清らかさを愛している」
「んん?」
「彼女は純朴で穢れがない」
ミランダは、さっき描いたマレーヌの意地悪そうな顔のスケッチを見つめた。
棒のような体、歪んだ笑み。
「んー?」
と、首を捻る。
俺は剣を振るうのをやめた。
──夜。小屋の中は静まり返っていた。
俺はベッドの端に座り、深く息を吐いた。
その横で、ミランダがまたも首を傾げる。
「ねえ、出た?」
「うるさい」
「どうして、そんなに時間がかかるの」
「黙ってくれないか、集中できない」
「あなた、本当は元から不能なんじゃないの」
「そんなわけあるか!」
彼女はため息をつき、ふと立ち上がった。
「はあ、仕方ない……」
「え」
心臓が跳ねる。
期待に胸が膨らむ。
もしかして今夜、その肌に触れられるのだろうか。
美しさに衝撃を受けた夜会の日から、密かに願ってきたことが、ついに──
しかし彼女が呼んだ名前は、俺の予想を裏切った。
「エドガー」
「おい、俺は男は嫌だ」
「しっ、静かに」
扉が開き、エドガーが現れる。
「お呼びですか」
「お願い」
「……わかりました」
次の瞬間、2人がベッドに雪崩れ込む。
俺は慌てて身を起こす。
「おい、何を──」
ミランダは冷静に言った。
「心配しないで。種を受け入れやすくするのに、体をほぐすだけだわ」
狭い小屋に、妙な空気が漂う。
気づけば、俺の体は勝手に反応していた。
翌朝。
朝食の席で、ミランダが俺の顔を覗き込む。
「どうしたの、寝不足? クマが酷いわ」
「……」
「君の実家では、デリカシーの概念を教わらないのか。夫の前で間男と戯れるなどと」
ミランダは爆笑した。
「な、なんだ」
彼女はスプーンを持ったまま、言葉を連ねる。
「私は順番を守った。あなたは守らなかった。私は貞節を守って嫁いだ。あなたは私との結婚が決まった後も、愛人を家に置いた。そしてさらには、結婚式でそのことを公言した」
ミランダは、コテンと右に頭を傾けた。
「あなたがもし婚約が決まった時点で愛人関係を清算し、結婚式で『これからは妻を大切にする』と言っていたら──あなたの兄アーサーは初夜に来たかしら? あなたの両親は頑なな態度をとったかしら? バーリラル公爵家の使用人は『所詮は歓迎されない嫁』という態度で私に仕えたかしら? 愛人は我が物顔で邸内を闊歩し、勝ち誇った顔で私を見たかしら?」
コテン──反対側に頭を倒す。
「順番を守らない人が嫌い。正確には、他人を省みずとも良いという高慢な人が嫌い」
さらに、また頭を逆に傾ける。
「あなたは私が庶子だからモラルがないと思ってるの? あの父相手に、平民の母がどう対応できたというの?」
俺は言葉を失った。
「どっちが子供なのかしらね」
彼女はスープをすくい、静かに口に運んだ。
その仕草は、まるで裁きの鐘のように静かで、重かった。
──小屋の裏手、井戸のそばで俺は今日も素振りをしていた。
他にすることがない。
風が肌を撫で、剣の重みが腕に響く。
その向こうで、ミランダがスケッチ帳を広げていた。
「ねえ、今の、そう、そのままじっとして。いいわ、素敵よ」
「キツいんだが……」
おかしな体勢で停められた。
「剣士ってマゾでしょう? 嬉しいでしょう?」
「その偏った知識は、どこで身につけた」
「茶会かしら」
「……今度から同行する」
「ここから出られたらね」
彼女はさらさらと鉛筆を走らせる。
俺は、なんとも言えない気分になっていた。
夜。風呂上がりのミランダが、タオルを巻いたまま扉に向かう。
俺は慌てて声をかけた。
エドガーは阻止せねば!
「待て」
「何よ?」
「ふ、夫婦のことは夫婦で乗り越えよう」
「は?」
「つまり……だから……」
「まさか、私に触れようって言うんじゃないでしょうね。それだけは絶対イヤよ」
「え」
「穢らわしい」
「なっ」
彼女はため息をつき、ベッドに向かう。
「君の愛人だって既婚者じゃないか」
「順番守ってるじゃない。貴族の恋愛は結婚してからよ」
「う……た、たまたま出会う順序が違っただけだろう」
「人間には理性があるわ。無いのは獣よ。順番を守るのが人間」
言葉が喉に詰まる。
彼女は毛布を引き寄せ、背を向けた。
翌朝。
俺は、また素振りをしていた。
ミランダは椅子に座り、スケッチ帳を開いている。
「いいわキース、その調子よ! その調子で、夜も子種を出してちょうだい!」
俺は思わずズッコケた。
「集中力が途切れるだろ」
「この程度で途切れるんなら、戦場で死ぬでしょうね」
「はあ、これだから女は」
「むっ」
「なんだ、気に障ったか」
「別に。エドガーの絵でも描こうっと」
「……」
剣の重みより、言葉の重みの方がずっと効いてくる。
小屋の寒さよりも、ミランダの冷静さの方がよっぽど刺さる。
──夜。
小屋の窓から外を見つめるミランダの横顔は、月の光に照らされていた。
あまりの美しさに月の妖精かと思った。
どうか神よ、俺から彼女を奪わないで。
俺にそんなこと願う資格がないのは、わかっているが……。
「外に出たいわ」
「君は、なかなか短気だ」
「あなたと2人でいると息が詰まるのよ」
俺は少しだけ肩をすくめて言った。
「……ならば、息抜きにしたいことをリストにしよう」
「ここから出られたら?」
「ああ」
「その時は私、身重でしょう」
「出産して回復してからでいい」
沈黙。
出産は命懸けだ。無事に産まれても、母子ともに安全とは限らない。
「大丈夫さ。母上だって、あんなに小柄なのに俺達を産んだんだ。それに侍医も優秀だ」
「それは……この国に10しかない公爵家ですもの」
「だから安心だろう?」
「うーん」
ミランダは窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「花を摘みたい。お菓子を作りたい。ピクニックに行きたい。散歩したい。野草園に行きたい。あなたは?」
俺は即答した。
「マレーヌと観劇に行きたい。マレーヌとレストランで食事したい。マレーヌとブティック巡り。マレーヌとペアアクセサリーを作りたい。マレーヌとの肖像画を描かせる」
「……」
「……」
「私達、合わないわね」
「……計算か?」
「はい? どういう意味?」
「男を手玉に取るのに純朴を装っているのか。花を摘みたい、などと」
愛人を侍らせて豪遊する女だ。社交クラブを貸し切ってパーティーしたい、が本音だろう。
「は? 今ここに“男”がいないのに?」
「……」
今夜も、子作りはできなかった。
──昼。
ミランダがスケッチ帳を広げながら言う。
「今日は顔のパーツを描くから止まってて」
「寒いんだが」
「春だものね」
「顔を描くなら脱ぐ必要ないのでは」
何故か下着以外、剥がされてしまった。
セミヌードかと思ったら、顔しか描かないという。
「見せたいのかと思って。あなたって、ほら、見た目しか取り柄がないから」
「一言余計だろう」
カタカタと風が小屋を揺らす。
俺は今日も黙って立ち尽くしていた。
──夜。
小屋の空気が妙に重く感じた。
俺の体が熱くて、息が荒い。何かがおかしい。
そして、確信した。
「ミランダ、マズイ、逃げろ」
「何処に? 何で?」
「……俺を縛れ、早く」
「本当にマゾね!」
「そうじゃない、媚薬を盛られた」
彼女が慌てて紐を探すのを見て、俺はベルトを外して差し出した。
「ベルトでいい」
ミランダは無言で受け取り、俺の手首を縛った。
その手際の良さに、少しだけ複雑な気分になる。
「……何を描いてる」
「今夜のあなたの顔って最高の素材よ」
「……合理的すぎないか」
「することないんだもの」
「今なら精液がとれるぞ」
彼女は筆を止めず、ちらりと俺を見た。
「それが目的だろう?」
「描き終わったら」
「……辛いんだが」
俺の声が震える。
ミランダはスケッチ帳を見つめたまま、楽しそうに言った。
「その顔すっごくいい。ゾクゾクする。……あら? 泣いてるの?」
「ぐすっ」
「歳上なのに泣くなんて」
「ぐ……」
情けない。自分でもわかってる。
でも、体が勝手に熱を持って、心が追いつかない。
「はあ……わかったわかった」
彼女が俺のトラウザーズを寛げて中身を出した瞬間、俺は耐えきれずに反応してしまった。
「きゃっ、ちょっと、シリンジに入れる前に出さないでよ」
「ぐすっうう……」
涙が止まらない。
ミランダが、そっとハンカチで俺の頬を拭ってくれる。
「よしよし、いいこね」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
ただ、縛られたまま、静かに目を閉じた。
この夜が、少しでも早く終わることを願いながら。
──朝。
小屋の窓から差し込む光が、妙に優しく感じた。
俺はテーブルに座ったまま、怠くてぼんやりしていた。
「さすがに朝食には媚薬を盛らないわ。子供ができる前に死んだら困るでしょう」
「食欲がない」
ミランダは少しだけ考えて、ふと笑った。
「でも……そう、あなたは何が好き? 甘いものなら食べられる? トーストにジャムを塗っては、どうかしら」
そう言って、彼女は使用人を呼びに行った。
戻ってきた手には、砂糖とドライフルーツ。
「信じられないわ。ジャムがなかったの。でも任せて」
彼女はバターに砂糖を練り込み、細かく刻んだドライフルーツを混ぜて、俺のパンに丁寧に塗った。
「どう?」
俺は一口かじって、思わず声が漏れた。
「うん……うまい」
「良かった」
その笑顔は、いつもより少しだけ柔らかかった。
──夕飯。
テーブルには料理が並んでいるのに、俺たちは黙ったままだった。
「……」
「……」
「食べないと体がもたないわ」
「食べる方が体に悪い」
「わたし1人だけ食べにくい」
俺はため息をついて、椅子に深く腰を下ろした。
「はあ……仕方ない。今夜もベルトで縛ってくれ。ただし早くシリンジに入れること」
「わかったわ」
彼女は静かに頷き、決意を新たにしたようだった。
──夜。
ミランダの声が震えていた。
「キース、キース、どうしよう」
俺はすぐに身を起こす。
「何だ? 早く縛ってくれ」
「それはこっちのセリフ」
「は?」
「私も盛られた」
……嘘だろ。
思わず言葉を失った。
「私を縛って。襲ってしまいそう」
彼女の目が潤んでいる。
普段の冷静さはどこにもなく、まるで熱に浮かされたようだった。
「……」
「キース?」
気づけば、俺は彼女をベッドに押し倒していた。
理性が軋む。けれど、彼女の手が俺の背を掴んだ瞬間──
ドンッ!
外から、何かが激しくぶつかる音。
続いて、叫び声。小屋がぐらりと揺れた。
「っ!」
我に返った俺は、すぐに体を起こし、木剣を掴んで扉へと駆け寄った。
何が起きた?
外では、獣の咆哮が空気を裂いていた。
地を揺らすような足音。枝が折れる音。叫び声。
俺は、扉から素早く外へ出た。
──巨大熊だ。しかも、4頭。
護衛と使用人たちは、テントの中で油断していた。
次々に襲われ、悲鳴が夜の森に響き渡る。
俺は振り返り怒鳴った。
「ミランダ、寝室に籠って鍵をかけろ!」
声が喉を裂くように出た。
扉の向こうで、彼女が何かを動かす音がした。
俺は近くに落ちている鉄剣を抜き、闇の中へ飛び込んだ。
最初、時間がスローモーションになった。
熊の毛皮は荒く、息は湿った土の匂いと血の匂いを混ぜる。大きな爪は丸太を割るように地面を掻き、牙は木の枝を齧るように音を立てる。
1頭がこちらに向かって跳びかかる──俺は踏み込み、剣を横から振るった。刃が毛を切り、太い筋と脂肪を断つ音がした。熊は呻き、膝をついて倒れた。血しぶきが火の明かりに赤く染まる。
だが、他の熊がすぐさま反応した。2頭目が焚き火のそばに群がり、3頭目が護衛らを襲う。
テントの入り口で乱暴に引き裂かれ、叫びは生暖かい夜気に飲まれていく。俺は振り返り、短い指示を飛ばした。
「エドガー! 火を大きく! 侍女たちを奥へ!」
しかし間に合わず、3頭目がエドガーに噛みついた。男の上半身がぐにゃりと折れ、金属が鋭く悲鳴をあげる。エドガーの叫びが胸を凍らせた。
俺は振り返らずに走り、斜めから刃を突き立てた。刃先が獣の脇腹を抉り、エドガーの押さえていた熊は離れた。男は呻きながら倒れ込む。血が目に染みる。
4頭目がこちらへ向かって轟音のように突進してきた。大きさが違う。目が悪魔じみて光る。
奴は馬車の車輪を踏みつぶす勢いで突き込んできた。
俺は構えを低くし、体重を乗せて突きを入れる──だが、その爪が俺の肩を擦り、鋭い痛みが走る。刃が弾かれ、よろめく。肉が裂ける感触が腕を伝った。赤黒い熱さが広がる。
このままでは押し切られる。思考は辰の風のように速く動いた。焚き火の横に転がっていたテントの支柱──長くて堅い棒が目に入る。急いでそれを掴み、獣の下顎をめがけて振り下ろした。骨が音を立てて砕け、熊が後退する。咆哮が耳を刺す。
戦いは一瞬の連続だ。
俺は刃を替え、棒を盾にし、罠のように動く。熊の動きを誘導し、狭い通路へ追い詰める。
2頭を仕留め、3頭目を焚き火の炎へ追い込むと、その毛が弾けて黒煙を上げた。
4頭目は最後まで抵抗し、巨大な体で突進してきたが、俺と数人の兵で側面から串刺しにする。深い声で胴が沈む。獣は地面に崩れ落ち、重く湿った地面に沈んでいった。
──そして……。
森が沈黙を取り戻した頃、俺は扉を叩いた。
──ドンドンドンドン
中から怯えた声が返ってくる。
「大丈夫か、俺だ」
「キース!」
扉が開き、ミランダが飛び出してくる。
俺は彼女の肩を掴み、目を見た。
「怪我は?」
彼女は首を振る。
その仕草に、ようやく少しだけ胸が落ち着いた。
「そうか。外にある武器と薬、食糧を運び込んだら、明日はここを出る」
「え?」
彼女の瞳が揺れる。
俺は視線を逸らし、低く告げた。
「……熊は去ったが、血の臭いで別の獣が来る。かといって、この暗闇を移動するのも危険だ。だから」
ミランダが息を呑む。
「血の……まさか、エドガーは?」
俺は答えなかった。
ただ、俯いたまま、拳を握った。
「そんな……」
彼女の声が震える。
俺は扉の向こうを見つめながら言った。
「とにかく君はここにいて。いいな」
その夜、俺は眠らなかった。
蝋燭の火が揺れるたび、森の奥から何かが来るような気がして、剣を手放せなかった。
そして、朝。
ミランダを抱えて外に出る。
彼女の目元には布を巻いた。
「何も見えないわ」
「気絶されると、出発が遅れる」
彼女は黙ったまま、俺の腕の中で身を縮めた。
俺は彼女の体温を感じながら、血の海を跨いで森の奥へと歩き出した。
風が木々の間をすり抜け、焚き火の炎がぱちりと音を立てる。
俺は地面に地図を広げ、薪の明かりを頼りにルートを確認していた。
足の太い、荷運び用の頑丈なやつが、近くで草をはんでいる。
護衛も荷車も失った今、頼れるのはこの1頭の馬と、俺たち2人だけだ。
「このペースで進めば、1週間で下山できる」
地図から顔を上げて、ミランダに告げる。
「そんなにかかるの?」
「来る時は山道用の馬車と馬で来ただろう」
「そうね……確かに」
彼女の視線が、草を食む馬に向かう。
俺もそちらを見やりながら、言葉を継いだ。
「荷物を背負って、大人2人を乗せて下山は無理だ」
「ええ、わかるわ」
その横顔に、少しだけ疲れが見えた。
俺はそっと手を伸ばし、彼女の頬を指先でくすぐる。
「こうやって一晩火を絶やさずいれば、獣は来ない。キャンプに来たと思えばいい。
困難を意に介さないのが君だろう?」
ミランダは一瞬、驚いてから複雑そうに表情を歪めた。
「わかってない人ね」
「え?」
「いいえ、何でもない。おやすみなさい」
彼女は毛布を引き寄せ、焚き火の向こう側に身を横たえた。
俺はしばらくその背中を見つめていた。
──明け方。
薪の前で、剣を膝に置いたまま、俺は火を見つめていた。
眠気はあるが、目を閉じる気にはなれない。
そのとき、足音が近づいてきた。
「少し寝た方がいいわ──クシュンッ」
ミランダは毛布を抱えたまま、俺の隣に腰を下ろす。
俺は黙って肩を貸し、彼女を包み込むように毛布を引いた。
「眠らなくていいの?」
「仮眠はした」
「1週間、それではもたないわ」
「2~3日は平気だ」
「……そう」
しばらく、火の音だけが響いた。
やがて、俺はぽつりと呟いた。
「君の夢、ひとつ叶ったな。散歩」
ミランダがこちらを見上げる。
「まさか、この移動を“散歩”と言ってるの?」
俺は思わず笑った。
「あなたにも冗談を言う能力があったのね」
彼女の声が、少しだけ柔らかくなった気がした。
焚き火の光が、彼女の横顔を照らしていた。
その瞳の奥に、ようやく少しだけ、夜の冷たさとは違うものが灯っていた。
朝の森は、まだ霧が残っていた。
身支度を終えて戻ると、ミランダが湯気の立つ皿を渡してきた。
「これを君が作ったのか?」
俺は驚いて、皿を受け取る。
貴族夫人が料理するなんて、天変地異の前触れだろうか。
「ちゃんとした調理器具がないから、それが最低限よ」
彼女は肩をすくめながら言った。
だが、口に運んだ瞬間、思わず言葉が漏れる。
「いや……そうじゃなく……うまい」
ミランダは小さく笑った。
「フフフ」
その笑みは、残り火よりも温かかった。
──それから3日。
俺たちは深い森を抜け、ようやく開けた道に出た。
「ここまでくれば、もう道なりだ。獣にも遇いにくいだろう」
ミランダの肩がふうっと落ちる。
緊張が解けたのだろう。
次の瞬間、彼女の足元がふらついた。
「なんだ、危なっかしい。まだ最低でも3日は歩かないと」
俺は彼女の腕を支えながら言った。
「そうね。でもまず、あなたを寝かせないとね。今日は寝る日にしましょう」
──昼、テントの中。
ミランダが毛布を広げながら言った。
「さあ、寝るのよ」
「そう言われても。身支度をさせてくれ」
「あなたって変に紳士ね」
「いつも紳士だが。わっ」
彼女が俺の肩を押し、膝の上に俺の頭を乗せた。
柔らかい感触に、思わず体の力が抜ける。
「ネムクナールネムクナール」
「なんだその呪文は」
「いいから黙って。ネムクナールネムクナール」
彼女の声が、風のように耳元で揺れる。
俺は目を閉じた。
「……zzzzz」
そのまま、静かな眠りに落ちていった。
膝の上の温もりが、夢の中まで続いていた。
夜の空気は澄んでいて、星が静かに瞬いていた。
テントの布を押し開けて外に出ると、焚き火のそばにミランダがいた。
薪がくべられ、炎が穏やかに揺れている。
「君が薪を?」
俺が問いかけると、彼女は振り返って微笑んだ。
「あなたが寝る前に、枝を集めてくれたんじゃない」
「……そうか」
言われてみれば、確かにそうだった。
俺はそのまま焚き火の前に腰を下ろす。
ミランダが包みを差し出す。
「夕飯できてる」
受け取って、ひと口食べる。
素朴な味。けれど、どこか懐かしい。
「君のつくるものは、何でも優しい味がするな」
「香辛料がないだけよ。戻ったら激辛料理で泣かせてあげるわ」
俺は思わず笑った。
「それは楽しみだ」
炎の向こうで、彼女の横顔が揺れていた。
その笑みは、どこか安心をくれる。
──翌日、昼。
森の中を歩いていると、ミランダが突然声を上げた。
「わー見て! カタクリがこんなに」
彼女はしゃがみ込み、花を摘み始める。
俺も近づいて、その様子を見守った。
「戻って乾燥させて、トロミ粉にしましょう」
「この花を食べるのか?」
「そうよ。枯れるまでは眺めて、枯れたら食べるの。あ、ツクシ! 灰汁を抜いて炒めましょう」
俺は眉をひそめる。
「あれを食べるって?」
「あなた、戦地で補給線を絶たれたらどうするの?」
「鳥かウサギを狩る」
ミランダは立ち上がり、手にしたツクシを見つめながら言った。
「私たち、合わないわね」
俺は何も言えず、ただ彼女の背中を見つめていた。
その言葉が、妙に胸に残った。
少し傷付いたのかもしれない。
森の空気が、突然ざわめいた。
鳥が一斉に飛び立ち、枝が不自然に揺れる。
俺は剣に手をかけ、ミランダの前に立った。
──山賊だ。
木々の間から、粗末な鎧と汚れた顔が次々に現れる。
数は多い。俺ひとりで捌ける数ではない。
「下がってろ!」
叫びながら剣を抜く。
1人、2人、3人──斬っても斬っても、次が来る。
ミランダの背後に回り込もうとする影が見えた。
「ミランダ!」
だが、俺の声より早く、別の声が森に響いた。
「彼女に触れるな、下郎ども!」
馬の蹄が地を打ち、銀の鎧が陽光を弾く。
私兵騎士団だ。先頭に立つのは──ユシーズ・アリアス子爵令息。
彼は馬上から剣を振るい、ミランダを掴んでいた山賊を一撃で斬り伏せた。
その動きは、まるで舞踏のように滑らかだった。
騎士団が一斉に突撃する。
山賊たちは混乱し、叫びながら逃げ出す。
「撤退だ! 貴族の騎士だ!」
俺は息を切らしながら、剣を下ろした。
肩で呼吸を繰り返し、血の匂いを感じながら、ミランダの方へ目を向ける。
ユシーズが馬から降り、彼女に手を差し伸べていた。
「ご無事で何より。君が急にいなくなるから、心配で探した」
ミランダは少しだけ微笑んだ。
その笑みは、俺に向けられたことのない種類のものだった。
「助かりました。まさか、来てくれるとは」
俺はその様子を見て、拳を握った。
剣よりも重い感情が、胸の奥で静かに疼いていた。
夜営地の空気は、妙に華やいでいた。
焚き火の周りでは騎士たちが笑い、酒を回し、英雄ユシーズを讃えている。
その中心で、彼は余裕の笑みを浮かべながら杯を掲げていた。
俺は少し離れた場所で、剣の手入れをしていた。
刃に映る炎が揺れている。
だが、どうにも落ち着かない。
胸の奥に、針のような違和感が刺さっていた。
ミランダはユシーズのテントに招かれていた。
あいつの振る舞いは、どこか芝居がかっている。
俺の中で、警鐘が鳴り続けていた。
──そのとき。
「……何かがおかしい」
ミランダがテントの布を、そっと押し開け外に出てきた。
彼女の視線が鋭く動く。
そして、俺の背後に忍び寄る影を見つけた。
「キース、危ないっ!」
叫び声と同時に、石が飛ぶ。
騎士の手元が弾かれ、俺は反射的に振り返って剣を抜いた。
男は逃げようとするが、俺の剣が肩を斬りつける。
呻き声とともに地面に倒れた。
焚き火の周囲がざわつく。
私兵が騒ぎ始める前に、俺はミランダの手を掴んだ。
「馬だ、急げ!」
彼女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
俺たちは騎士の馬を奪い、森の奥へと駆け出した。
──逆流するように、闇の中へ。
この夜が、すべての始まりになる予感がしていた。
森の奥は、まるで世界から切り離されたように静かだった。
風も止み、木々のざわめきすら聞こえない。
俺たちは馬を降り、しばらく無言のまま息を整えていた。
俺が支える松明の下で、ミランダが地図を広げる。
その指先が、紙の上をなぞるように動いた。
「ここ、ツクシのあった場所ね……」
俺は木々の間を見つめながら言った。
「山賊は北東へ逃げて行った。なら、そちらにアジトがあるな」
そのとき、腕に走る痛みに気づいた。
見ると、切り傷ができていた。
ミランダがすぐに近づいてくる。
「ちょっと、見せて」
「大丈夫だ、かすり傷だ」
「いいから座って」
俺は言われるままに腰を下ろす。
ミランダは森の中へ入り、ヨモギとドクダミを手に戻ってきた。
葉を揉み、傷口に当てて布で巻く。
その手際は、驚くほど慣れていた。
その仕草を見ているうちに、ふと胸の奥がざわついた。
何かが、記憶の底で揺れた。
「なあ、君……前に、どこかで会ったことないか?」
ミランダは手を止め、俺を見上げる。
「妻をナンパするって、どういう神経?」
「そ、そんなんじゃないっ」
俺は慌てて否定した。
その瞳の奥に、何かを知っているような光があった。
俺は、ただその視線を受け流すしかなかった。
森の奥、湿った空気の中で俺は剣を磨いていた。
刃に映る木漏れ日が、妙に静かで不気味だった。
山賊のアジトはすぐ近く。だが、数が多すぎる。
「奇襲するにしても、数が多すぎる」
俺がぼそりと呟くと、ミランダは地面にしゃがみ込み、花と葉をじっと見つめていた。
「この花、見覚えあるわ。カタクリの近くに生える“眠り草”」
「眠り草?」
「煎じて煙にすると、吸った者は数分で昏倒するの。しかも、味は甘いから警戒されにくい」
俺は彼女の横顔を見つめた。
その瞳は、まるで戦場の策士のように冷静だった。
──作戦開始。
ミランダが山菜と花を集め、即席の“眠り煙玉”を調合する。
俺は襲撃現場から拾ってきた矢にそれをくくりつけ、アジトの焚き火へ向けて放った。
矢が火に突き刺さり、煙が立ち昇る。
甘い香りが森に広がり、山賊たちが騒ぎ出す。
「なんだこの匂い?」
次々に倒れていく姿を見て、俺は思わず声を漏らした。
「効いてる……!」
残った数人が逃げようとする。
その瞬間、ミランダがツクシの灰汁を煮詰めた“目つぶし汁”を容器ごと投げつけた。
山賊が悲鳴を上げ、俺はその隙に突撃。
残党を一気に制圧した。
──静寂が戻る。
俺は息を整えながら、ミランダの様子を確かめる。
「ねえキース、これからどうする?」
「どうって、食料と武器を調達して山を降りるさ」
「そうよね」
彼女の声が、少しだけ間を置いて続いた。
「……なんだ?」
「途中でユシーズが待ち構えてたら? 山賊を傭兵として雇ったら、どうかしら?」
「何だって? ダメに決まってるだろう。寝首かかれるのがオチだ」
俺は驚き、即座に否定した。
「うーん……賊って契り交わすよね」
「は?」
「頭領が私たちに従うって言えば、従うんじゃない?」
俺は言葉を失った。
彼女の発想は、時々俺の常識を軽々と飛び越えていく。
だが、その目は冗談ではなかった。
俺は剣の柄を握り直しながら、彼女の提案の意味を考えていた。
3日間、縛ったまま地面に転がしていた山賊たちは、すっかり力を失い、ぐったりとしていた。
誰も声を出さず、誰も目を合わせない。
ただ、飢えと疲労だけが、彼らの体を蝕んでいた。
ミランダは、彼らの目の前でわざと食事を始めた。
香ばしい匂いが風に乗って漂う。
飢えていない俺ですら、腹が鳴りそうだった。
「ねえ、聞きたいのだけど。このままだと飢え死にするわよね? 死ぬのと生きるの、どっちがいい?」
彼女の声は、湧水よりも冷たかった。
誰も答えない。
だが、しばらくして、ひとりの山賊がかすれた声で言った。
「……生きたい」
ミランダは器を置き、静かに立ち上がる。
その動きに、俺は何か嫌な予感を覚えた。
「ならば、あなた。縄を解いてあげるから、頭領の首を折りなさい。そうすれば食事と寝床を与えます」
「……それは」
男は戸惑いながらも、ミランダに近づく。
彼女は無言で縄を切った。
自由になった男は、震える手で頭領に近寄り、意を決して首に手をかける。
──その瞬間。
矢が飛んだ。
男の肩に突き刺さり、悲鳴が森に響く。
「何をっ!」
俺が思わず声を上げると、ミランダは弓を下ろしながら静かに言った。
「いけないわね。その人は、自分が助かるためなら親でも殺すのよ。そんな人は傍に置けない」
彼女の瞳は、氷よりも冷たかった。
俺は何も言えず、ただ頷いた。
「キース、出発の準備をしましょう」
俺たちは荷物をまとめ、馬を整えた。
ミランダは残った山賊の分も食事を作り、ひとりの男にナイフを持たせた。
そして、下山を開始する。
馬の背で並びながら、俺は問いかけた。
「君、山賊を傭兵として雇うんじゃなかったか?」
ミランダは前を向いたまま、静かに答えた。
「あなた、わかってないわ」
その言葉の意味を、俺はまだ知らなかった。
けれど、彼女の背中が語るものは、俺の想像よりずっと深かった。
森の道を進んでいたときだった。
嫌な予感が、背筋を這い上がるように走った。
そして案の定、開けた場所に差しかかった瞬間、銀の鎧が陽を弾いた。
ユシーズ・アリアス子爵令息と、その部下たちが待ち構えていた。
「ひどいじゃないか、恋人よ。私より、その男は良くなったか?」
馬上からのその声に、俺は剣に手をかけた。
だが、ミランダは1歩も引かず、冷たく言い放った。
「三文役者だわ。キース、斬ってしまいなさい」
「え、俺任せ? 何かプランあるんじゃないのか」
「ほら、向かってきた。さっさと行くのよ」
俺は剣を抜き、突撃してくる騎士たちを迎え撃った。
善戦はした。だが、数が違いすぎる。
押し返しても、次が来る。
「ミランダ、逃げるぞ!」
振り返った瞬間、彼女の姿がなかった。
「ミランダ!」
ユシーズも驚いたように辺りを見回す。
「え? ミランダ?」
そのとき、森の影から現れた山賊たちが、ミランダを捉えていた。
彼女は落ち着き払ったまま、俺たちを見下ろしていた。
「全員、武器を降ろせ」
山賊の声に俺は、すぐに剣を地面に落とした。
だが、ユシーズは動かない。
それを見たミランダは、コテンと頭を傾ける。
「あなたの私への愛は、その程度だったの」
「死んだら、愛することもできないではないか!」
「方便ね。ねえ、山賊さんたち。彼は誰と組んでると思う?」
ミランダの声が、森に響く。
山賊の頭領が、にやりと笑った。
「あんたがいなくなった後、ゴン──あんたが矢でいったヤツが吐いた。アーサー・バーリラルの指示で、あんたの動向をユシーズ・アリアスに知らせるように、ってな」
「兄さんが……?!」
俺の声が震えた。
「嘘だ! 山賊の言うことなど宛になるものか!」
ユシーズが声を荒げる。
「そうかしら? アーサーは、キースが邪魔だもの。この機に乗じて、亡き者にしようとするのも無理はないわ」
言葉が喉に詰まる。
確かに、兄は賊狩りで名を上げていた。
その過程で、裏の繋がりがあっても不思議じゃない。
「戦闘狂兄弟だものね」
「俺は必要な戦にしか行かない。兄は戦いが好きなんだ。父も」
一応、訂正を試みる。
「そう。なら、このくだらない諍いも早く終わらせるべきだわ」
俺は剣を拾い直し、ユシーズに向き直った。
その瞬間、山賊たちが俺の背後に立った。
刃が抜かれ、空気が張り詰める。
「……お前たち、なぜ俺に加勢を?」
ユシーズが馬上から叫ぶ。
その声は、怒りよりも焦りに満ちていた。
「何故だ! お前たち、アーサー・バーリラルが怖くないのか?!」
彼は剣を抜いて突進してきた。
だが、動きは乱れていた。
俺は一歩踏み込み、剣を横に払う。
ユシーズの刃が空を切り、俺の剣が彼の腕を裂いた。
山賊の頭領が、にやりと笑う。
「怖いさ」
「だったら──!」
と、血の流れる腕を押さえる。
「ミランダ・バーリラルの方が怖い」
その瞬間、ユシーズの顔が引きつる。
彼は馬から転げ落ち、地面に膝をつく。
その背後から、山賊たちが一斉に踏み込む。
刃が彼の周囲に突きつけられ、逃げ場はない。
「待て、待て! 俺はただ言われた通りに──!」
「黙れ」
縦に一閃、剣をふるった。
「ぎゃああああああ!」
ユシーズの叫び声が木々を揺らし、鳥達が一斉に飛び立った。
森の奥、山賊のアジト近く。
陽が傾き始めた頃、ミランダが薬草を束ねる。
「こんなに大量に薬草を摘んでどうする?」
俺は彼女の手元を見ながら問う。
「市井に降りたら、どうやって生計を立てるの?」
「そんなの、家に帰るに決まってるだろう」
ミランダは手を止め、俺を見つめた。
「アーサーが、あなたの命と私の子宮を狙ってるのに?」
言葉が刺さる。
俺は視線を逸らしながら言った。
「父さんたちに話せば──」
「それで?」
沈黙。
答えが見つからないまま、風が薬草の束を揺らした。
そのとき、森の奥から足音が近づいてきた。
馴染みない声が、皮肉混じりに響く。
「姉さん、派手にやってるね」
振り返ると、ミランダの弟ユリウス・ヴェルリス伯爵令息が、私兵団を引き連れ立っていた。
幼さを残す甘く整った顔立ちはミランダに似ているが、青い髪と目は血の繋がりを遠く見せている。
「……ユリウス」
「伝書鳥からの返事が来なくなったもんでね。心配して見に来たら、山賊ゴッコか」
「本当に心配なら、来るのが遅いんじゃない?」
「なんせ、山道だからさ」
ミランダは黙ったまま、薬草を束ね続ける。
ユリウスは肩をすくめて言った。
「父さんも心配してるよ。帰ろう」
──その夜、ヴェルリス伯爵邸。
屋敷の門をくぐると、ルイス・ヴェルリス伯爵が腕を広げて迎えた。
ユリウスと同じ青い髪と目を持っている。
「ようこそ、婿殿。これからは、この家を我が家と思って過ごしてくれ」
俺は一礼しながら尋ねた。
「バーリラル公爵家は、何と?」
「それは君から伝えた方がいい。私からだと拗れるからな」
居間に入るなり伯爵は、便箋を差し出す。
俺はペンを取り、無事であることと、しばらく妻の実家に滞在する旨を書いた。
書き終えた俺に、伯爵は静かに言った。
「君がこの家にいる間は、私が君を守ると誓おう」
その言葉の裏には、すべてを察している気配があった。
ユシーズ・アリアス子爵令息の死体。
下山せず山賊と同居し、薬草を集めていた日々。
すでに報告を受けているのだ。
何があったか、彼はすでに理解している。
俺は便箋を折り、封を閉じた。
夜の静けさが、屋敷の壁に染み込むように広がっていた。
ノックの音が響いたとき、俺はまだ書類に目を通していた。
扉が開き、ミランダがネグリジェ姿で入ってくる。
その姿に、思わず眉をひそめた。
「誤解を招くぞ」
彼女は扉を閉め、静かに言った。
「恐らく明日か明後日から、また媚薬を盛られる。その前に、今後のことを話しておこうと思って」
俺は椅子から立ち上がり、彼女を見つめる。
「……君はどうするつもりだ」
「離婚はできない」
「離婚……」
その言葉に少なからずショックを受ける。
いや、彼女の唇から放たれたのが辛かったんだろう。
「少なくとも今は」
言葉の間に、重たい沈黙が挟まる。
「子供を生んだら、自由になりたいか?」
「そんな単純じゃない。あなたと離婚できたら、それは違う相手と再婚させられるってこと」
「そう……だな。俺もきっと同じだ」
ミランダは視線を逸らし、窓の方を見た。
「あなたは、バーリラル公爵家に帰りたいの?」
「そりゃ、逃げ続けるわけにはいかない。仕事だってある」
「またアーサーと一緒に暮らすの?」
「君は心配しなくていい。他に家を用意する。アーサーが入れないように、きちんと」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……頼りにならない」
そのまま、扉を開けて出ていった。
俺は何も言えず、ただその背中を見送った。
──翌日。
しゃしゃしゃ、と鉛筆の音が部屋に響く。
ミランダが俺の半裸をデッサンしている。
俺は剣の手入れをしながら、彼女に声をかけた。
「本当に絵を描くのが好きだな」
「違うわ。紙をいくらでも使えるのが楽しいのよ」
彼女は手を止めず、淡々と描き続ける。
「……」
「あなたたち兄弟って、顔と剣の腕と家柄は本当にいいわね。他は最悪なのに」
俺は眉をひそめる。
「どうしてかしら。高位貴族に生まれると、心が凍ってしまうのかしら。それとも、戦場に出るたびに、心が壊れていくのかしら。
……いいえ、父を見ている限り生まれつきね」
言葉が鋭く、冷たい。
俺はしばらく黙っていたが、やがて問いかけた。
「君は……市井にいた方が幸せだったか?」
ミランダは筆を止めず、静かに答えた。
「何と比べて? 幸せっていうのは、衣食住の心配がない人たちが考える娯楽だわ」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
彼女の背中が、妙に遠く感じた。
まるで、俺の世界とは別の場所に立っているようだった。
ノックの音が響いた。
扉の向こうから、メイドの声が静かに届く。
「そろそろ、お支度を」
妻が自室に戻って1時間、俺は立ち上がり隣室へ向かった。
扉を叩くまでもなく、ミランダが現れる。
その瞬間、息が止まった。
着飾った彼女は、まるで別人のようだった。
髪は丁寧に結い上げられ、ドレスは光を受けて柔らかく揺れている。
あまりの眩しさに言葉が出なかった。
「嫌な人」
「え?」
「こういう時は、お世辞でも『キレイだ』と褒めるのが紳士のはずよ」
彼女はさっさと廊下を歩き出す。
俺は慌てて後を追った。
「あ、え、あ、すまない」
美し過ぎると人は、美しいと言えなくなるらしい。
──晩餐。
料理が並び、銀器が光を反射している。
義父ルイス・ヴェルリス伯爵が杯を傾けながら、俺に声をかけた。
「旅の疲れはとれたか」
「ええ、お陰様で」
「それはそれは。では早速、今晩から子作りに励んでくれたまえ」
「ぶはっ」
思わず水を吹きそうになった。
隣で義弟ユリウスが、涼しい顔で言葉を継ぐ。
「父さん、義兄さんが元気でも、姉さんが疲れていては意味ないよ。産むのは、姉さんなんだから」
彼はミランダに目を向ける。
「今日は久しぶりに着飾って苦しいだろう? 姉さんが売り払ったドレスや宝石は、全部僕が買い戻して部屋に置いておいたからね」
ミランダは黙ってスープを口に運ぶ。
ユリウスはさらに続ける。
「そのドレス、覚えてる。カサブランカ家の茶会のために作ったんだ。似合ってるよ。言ってくれれば、ペアで合わせたのに」
俺は何も言えず、ただ沈黙した。
嫌味を言われてることくらいわかってる。
悔しいが、今の俺にはどうにもならない。
食卓の空気は、妙に華やかで、妙に冷たかった。
廊下の空気は、夜の静けさに包まれていた。
俺はミランダの整った後ろ姿を見つめながら、声をかけた。
「一緒に風呂に入らないか」
彼女は振り返り、眉をひそめる。
「突然何言うの、変態」
「違う! 媚薬が効いてきたら、乱暴にしてしまうかもしれないから。なるべく理性が残ってるうちに、君の体をほぐしておきたいんだ」
ミランダはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「私を気遣ってるの?」
「当たり前だろ」
「……別に痛くても構わない」
「君が良くても、俺が良くないんだよ」
そう言って、俺は彼女を抱き上げた。
「きゃっ」
──湯船。
湯気が立ちこめる中、俺は後ろからミランダを抱え込むようにして、彼女の髪をすいていた。
そのライラック色の髪は、湯に濡れてもなお柔らかく、指先に絡むたびに心が落ち着いた。
「おかしいわ」
「ん?」
「あなた、薬効いてきた?」
「……」
ミランダが、俺の下半身に手を伸ばす。
「おい」
「どうして、あなただけ薬を盛られたのかしら」
「これは生理現象!」
──寝室、ベッドの上。
ミランダが枕に頬を寄せながら言った。
「おかしいわ」
「ん」
「薬の効果を感じない」
「今日は盛られなかったんだ」
彼女がまた、俺の下半身に手を伸ばす。
「おい」
どうして、こうも羞恥心がないのか。
「どうしてあなただけ、こうなるのかしら」
「放っておいてくれ! 寝るぞ!」
「そうね、せっかく平和なうちに寝ておきましょう」
彼女はそう言いながら、布団に潜り込む。
俺は背を向けたまま、目を閉じた。
内心では──かなり、がっかりしていた。
絶世の美女が横にいて、眠れるんだろうか。
翌夜、再びベッドの上。
ミランダの声が、静かに闇を裂いた。
「おかしいわ」
俺は目を閉じたまま、返事をする。
「ん」
「どうして媚薬を盛ってこないの」
その言葉に、俺は目を開けた。
天井を見つめながら、答える。
「俺より君の方が、義父上のことを知ってるだろう」
ミランダは枕に頬を押しつけたまま、ぽつりと呟いた。
「まさか。私がここで暮らしたのは、5年ちょっとだし。その間はスパルタ教育受けてて、あの人と口をきいたのは数えるほどよ」
俺は拳をぎゅっと握った。
この屋敷の空気は、どこか歪んでいる。
誰もが何かを隠していて、誰もが何かを仕掛けている。
その中で、ミランダだけが、真っ直ぐに生きようとしていた。
そっと腕を伸ばして抱き締める──と、意外にも抵抗してこなかった。
彼女の華奢な肩を抱き、膨らんだ胸を感じながら目を閉じる。
……眠れるのか。
──更に翌夜。
風呂場の湯気に包まれながら、俺はいつの間にか眠ってしまっていた。
気づけば、ベッドに運ばれていたらしい。
使用人の手際は見事だ。
隣にはミランダが眠っている。
その寝息に、少しだけ安心を覚えた。
だが──気配が変わった。
足下から、何かが這ってくるような音。
鼻息が荒く、音は不自然に近い。
俺は目を開けようとしたが、体が重い。
まさか、睡眠薬か……?
そのとき、ミランダの声が鋭く響いた。
「アーサーのスペア! ここで起きないと一生スペアのままだぞ、役立たず!」
その言葉が、胸に突き刺さる。
俺は歯を食いしばり、体を起こした。
「俺は役立たずじゃない!」
視界が開けた瞬間、そこにいたのは──義弟ユリウスだった。
「……バカな」
俺は彼を睨みつけた。
「何してる」
ミランダが冷静に言った。
「後で説明するから、とりあえず殴って」
俺は迷わず拳を振るった。
バキッ。
「ぐあっ」
その音が、夜の静寂を切り裂いた。
昼の食卓には、静かな緊張が漂っていた。
頬を腫らしたユリウスが、膨れっ面でパンを咀嚼している。
その姿を見て、俺は昨夜の騒動を思い出しながら、スープに手を伸ばした。
ヴェルリス伯爵が、ゆっくりと杯を置いた。
「昨晩、何やら我が邸に賊が入ったらしいな。私の落ち度だ。望みがあるなら1つ叶えよう」
その言葉に、俺はミランダへ視線を送った。
「君が願え」
ミランダは、少しだけ眉を動かした。
「"賊"を倒したのは、あなたでしょう」
「俺の願いは、君の願いだ」
彼女は一瞬だけ黙り、そして静かに言った。
「そう。なら、余ってる爵位を1つ彼に譲って」
一同が息を呑んだ。
ユリウスはパンを落とし、ルイス伯爵は目を見開いた。
「出産祝いに必ずプレゼントしよう。おい、契約書を作れ。至急だ」
使用人が慌てて席を立ち、書類の準備に走る。
俺はミランダの横顔を見つめながら、胸の奥に何かが灯るのを感じた。
俺には、この先ずっと彼女が必要だ。彼女は最高の妻だ。
夜、夫婦の寝室。
「子供、作りましょう。爵位がもらえるわ」
ミランダの声は、まるで契約書の一文のように冷静だった。
俺はその言葉に反応し、すぐにベッドの上に彼女を押し倒す。
「何してるのよ。シリンジに決まってるでしょ」
「今さら? 一緒に風呂まで入ったのに」
「あれは媚薬が盛られてる前提でしょ。今は違うじゃない」
俺は少し黙ってから、問いかける。
「……嫌なのか?」
「あなたにはマレーシアがいるでしょ」
「あ」
「忘れてたの?」
「……」
「何が“真実の愛”なの。呆れた」
俺はため息をつきながら、布団を整える。
「はあ……触らないから、服脱いでくれ」
「え、あ、そうね。シリンジ相手だと、あなた不能なんだったわ」
「いや、逆に聞くけど。シリンジ相手に発情する男って、どう思う?」
「そうね……変態すぎるわ」
「はあ……」
沈黙が落ちる。
けれど、ミランダがぽつりと言った。
「爪先だけ触ってもいいわ。可哀想だもの」
俺は彼女の足元に手を伸ばし、そっと指先でくすぐった。
「ちょ、くすぐったい、いや、だめ」
ミランダが笑いながら身をよじる。
その笑い声は、久しぶりに聞く柔らかい音だった。
俺たちはそのまま、くすぐり合いながら布団に沈み、気づけば眠っていた。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
俺は先に目を覚まし、隣で眠るミランダを見つめる。
彼女の赤紫の髪は枕に広がり、呼吸は穏やかだった。
昨夜のくすぐりの余韻が、まだ指先に残っている。
俺はそっと彼女の髪を撫で、額にキスを落とした。
それは、言葉にできない感情の代わりだった。
昼の光が差し込む食堂。
銀器が静かに並び、料理の香りが漂っている。
俺はナプキンを膝に置きながら、意を決して口を開いた。
「義父上、そろそろ私たちもバーリラル家に戻らないと。仕事もありますし」
ヴェルリス伯爵は、ワインを軽く揺らしながら答えた。
「ならば単身で戻ればよい。身重かもしれない娘に馬車の旅は過酷だ」
その言葉に、俺は喉を詰まらせた。
「それは……」
ユリウスが、パンをちぎりながら言う。
「無理しない方がいいよ」
そのとき、扉が開いた。
マレーヌが、軽やかな足取りで入ってくる。
「迎えに来たわ、キース! 仕事が溜まって大変よ。お父様もお母様も、早く戻るようにって」
食卓の空気が、一瞬で凍りついた。
俺は立ち上がり、彼女を見つめる。
「マレーヌ……わざわざ、ここまで押し掛けてくるなんて……。
医師を呼んでください。ミランダが妊娠しているか、どうか。もし妊娠していなければ、連れて帰る」
ルイス伯爵が、眉をひそめる。
「していれば?」
「1度戻って仕事を片付けてから、また来ます」
伯爵はしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「ふん、いいだろう。侍医を呼べ」
マレーヌは信じられない、というように俺を見つめた。
その視線は、次第に鋭くミランダへ向けられる。
ミランダはサッと扇子で口元を覆った。
ユリウスが、皮肉な笑みを浮かべる。
「躾のなってない野良猫だな。君、確か没落男爵家の……」
「コルヴァよ」
ミランダが、扇子の奥から冷静に答える。
「ああ、そう。あそこのね。
ふーん、それが本妻の実家である伯爵邸で、公爵令息夫人にとる態度か。愛人の分際で。そりゃあ没落するな」
俺は驚いてマレーヌを見た。
彼女は顔を強張らせ、慌てて言った。
「ち、違うわ、誤解よ」
ミランダは立ち上がり、静かに言った。
「医師が来たら、私の部屋へ」
そして、何も言わずに食堂を後にした。
その背中は、誰よりも気高く見えた。
客室にマレーヌの金切り声が響き、メイド達は頭を下げて出ていった。
「何で?! どうして?!」
俺は苛立ちを飲み込み、静かに答えた。
「夫婦で寝るのが当たり前だろ」
「1ヶ月半も会ってなかったのに」
「妻の実家で、愛人と同衾にするわけにはいかない」
その言葉に、彼女の顔が歪む。
「愛人……? 私が? 向こうがお飾りで、私が実質的な妻でしょう?」
「それは……」
「結婚式でハッキリそう言ったじゃない!」
彼女の声が高まり、空気が張り詰める。
俺は扉の方へ目を向けて、声をかけた。
「誰か」
メイドがすぐに現れる。
「彼女に安定剤を。旅の疲れで興奮している」
「ちょっと!」
マレーヌが叫ぶが、俺はもう聞いていなかった。
廊下へ出て扉を閉め、眉間を揉む。
一息ついて、夫婦の寝室へ向かう。
「ミランダ?」
部屋に入った瞬間、異変に気づいた。
ベッドの上で、ミランダが荒い呼吸を繰り返している。
「どうした?」
額に手を置くと、熱い。
尋常じゃない。
「熱?! だ、誰か──」
「待って、違う……盛られた、媚薬」
「このタイミングで?!」
彼女の声は震えていた。
ネグリジェの胸元が乱れ、彼女は苦しげに身をよじる。
「暑い……」
俺の喉は勝手に上下し、視線は汗ばむ柔肌に縫い付けられた。
ミランダが腕を伸ばしてくる。
「助けて、キース」
俺は迷わずベッドへ上がり、彼女の体を抱き締めた。
そして潤んだ目尻から涙を拭い、チェリー色の唇に噛みついた。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
俺は目を覚まし、隣にいるミランダの存在を確かめる。
彼女の髪が枕に広がり、呼吸は穏やかだった。
そっと額に手を置く。熱はない。
脈も安定している。
安心した俺は、彼女の唇にキスを落とした。
彼女が目覚めるのを待って、風呂場へ向かう。
湯気の中で、彼女の体を丁寧に洗いながら声をかける。
「痛いところはないか?」
ミランダは目を細めて、少しだけ不機嫌そうに答えた。
「あちこち痛いに決まってるでしょ。加減しなさいよ」
俺は思わず照れてしまう。
昨夜の記憶が、熱を帯びて蘇る。
止まらなかったのだ。
夜会で一目惚れしてから、ずっと手に入れたかった妻。
ようやく抱けたという実感が、胸を満たしていた。
赤紫の髪を乾かし終えたあと、俺はそのまま彼女を後ろから抱きしめる。
そして肩越しに囁いた。
「今日もキレイだ」
その声は、我ながらうっとりしていた。浮かれきっていた。
だが──ミランダの反応は予想外だった。
「どうしたの急に? マレーヌのところに行っていいわよ」
俺は言葉を失う。
「私は着替えたらブランチ食べて、帰りの支度するから。エミールとガイスにも手紙書かないと」
彼女はすっと俺の腕をほどき、着替えのために部屋を出ていった。
残された俺は、ただ呆然と立ち尽くす。
昨夜の熱と、今朝の冷たさ。
その落差に、心が追いつかなかった。
こんなにマレーヌの声はキンキンしてうるさかったか。
こんなに捲し立てるように喋っていたか。
こんなに目がつり上がっていたか。
こんなに魅力のない体つきだったか。
「なあ、マレーヌ。ツクシを食べたことあるか」
俺の問いに、彼女はすぐに噛みついた。
「私の実家が貧乏だからって馬鹿にしてるの?!」
俺は馬の歩みに合わせて揺れる窓の外に目を向けながら、心の中で呟いた。
──俺はこれの、何が好きだったんだ?
マレーヌ・コルヴァは没落した男爵家の令嬢で、生計を立てるため舞台女優をしていた。
容姿が優れなくても貴族が舞台に立てば、それだけで話題になる。
初めて見た時、彼女は花売りの少女の役を演じていた。
黒い髪と目、小さな細い体──見た目同様、素朴な声。素朴な役柄。
過去の記憶、もう会えない彼女と重なって──俺は、マレーヌを応援することにした。
ファンから恋人になるのは、あっという間だった。
馬車が停まる。
トマスが扉を開けながら言った。
「この先は道が悪いということで、本日はこちらでお休みいただきます」
目の前には、ホテルとは言えない。貸し宿のような、簡素な佇まい。
隣の馬車から、護衛のエスコートでミランダが降りてくる。
彼女は建物を見上げて、微笑んだ。
「あら、風情があるわね。私、高い建物は肩が凝るから丁度良いわ」
マレーヌをエスコートして馬車から降ろすと、彼女はすぐに不満をぶつけてきた。
「ここに泊まるの? 冗談でしょ? あなた、バーリラル公爵家を侮辱する気?」
トマスが丁寧に頭を下げる。
「申し訳ありません。この地域だと、これ以上の宿場はないのです」
「もう少し進めばいいじゃない!」
「ですから、今は道が悪いのです。1番いい部屋を押さえましたので、それでご納得を」
「私、こんなしみったれたところイヤよ。何とかしてキース! シルビアンホテルのスイートみたいな部屋じゃなきゃイヤ!」
俺は彼女の手を振り払った。
そして、迷いなくミランダの方へ足早に歩いていく。
「え、ちょっと、は? キース、待って!」
マレーヌの呼び止めを無視し、ミランダが振り返る前に、俺はその体を抱き上げた。
「きゃっ」
「昨日の今日だ。体が辛いだろ」
その言葉にミランダは、交わったことを思い出し、顔を真っ赤に染める。
俺はそのまま彼女を、1番いい部屋へ運んでいった。
背後で、マレーヌが愕然としたまま立ち尽くしていたのは気配でわかったが、振り返ることはなかった。
ランプの灯りが、壁に淡く揺れていた。
ミランダは暗い窓辺で髪を整えながら、ふと振り返る。
「いつまでこの部屋にいるつもり? もう私の実家じゃないのよ」
俺はベッドに腰掛けながら、肩をすくめた。
「どこだって、夫婦は一緒にいるものだろ」
「はあ?」
その一言に、彼女の眉がぴくりと動いた。
「まだ痛い?」
「平気」
ミランダがそう言った瞬間、俺は彼女の上にのしかかった。
シーツに皺の波ができる。
「な、何なの」
「俺たち、もう夫婦だろ」
「これからの子作りはシリンジよ」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
そして、静かに告げた。
「……そうじゃないかと思った。仕事が片付いたら、君の実家に戻ろう」
「ええっ?!」
ヴェルリス伯爵邸にいれば、義父が媚薬を盛ってくれる。
体を重ねる機会が増えれば、ミランダだって絆されるはずだ。
──たぶん。
朝の空気は澄んでいた。
ミランダが乗り込んだ馬車に、俺も当然のように続いた。
「どうして、こっちの馬車に乗るの?」
「少しでも君を見つめていたいからだ」
ミランダは一瞬だけ沈黙し、そして冷たく言った。
「気持ち悪い」
「……」
それでも、俺は諦めなかった。
ネバーギブアップ──俺。
この距離が、いつか心の距離になると信じて。
重厚な門が開き、懐かしい石畳が視界に広がる。
その先に立っていたのは、母──セレンだった。
「息子を返してくれて、ありがとう」
「母さん!」
嫁へ嫌味を放った姑に詰め寄ろうとした俺を、ミランダがそっと袖を引いて止めた。
その手の温度に、我に返る。
アーサーが笑顔で近づいてくる。
「熊に襲われたんだって? 無事で何より」
その言葉に、俺の拳が自然と握られる。
「よくもいけしゃあしゃあ、と──」
ミランダが、すかさず俺の腕を押さえた。
彼女は1歩前に出て、落ち着いた声で言う。
「ただいま帰りました。ご心配おかけして、申し訳ありません。
早速ですが長旅でしたので、休ませていただいても、よろしいでしょうか」
父バーリラル公爵が短く頷く。
「構わない」
ミランダの部屋のドアを閉めると、俺はすぐに切り出した。
「晩餐会をすると言ってる」
「冗談でしょ」
「本気だ」
ミランダは眉をひそめ、吐き捨てるように言った。
「嫁いだ日でさえ歓迎されなかったのに、今さら食卓を囲みたくなんてない」
「それはそうだな。断ってくる」
「え……」
俺の即答に、彼女の声が少しだけ揺れた。
俺はそのまま部屋を出ていった。
ランプの灯りが揺れる。
夫婦の寝室で俺は、寝支度の済んだミランダの前に跪いた。
「ミランダ」
「なに?」
「今まで、いろいろと悪かった」
「え……」
「心を入れ替えるから、見ていてくれないか」
彼女は驚いたように目を見開いたまま、何も言わなかった。
俺はそっと彼女の手を取り、その甲に額をつける。
「お願いだ」
しばらくの沈黙のあと、ミランダがぽつりと呟いた。
「……気が向いたら」
「ああ! ありがとう」
その言葉だけで、胸が少しだけ軽くなった。
まだ遠いけれど、確かに何かが動き始めた。
「どうしてよ! 何で私が!」
屋敷に響く甲高い声。
ミランダが窓辺から下の様子をうかがう。
近寄って一緒に覗くと、朝陽の眩しい玄関前でマレーヌが暴れていた。
そして、使用人たちが彼女を馬車へと引きずっていく。
「男爵家に帰すことにした」
俺の声に、ミランダが驚いて振り向く。
「通うの」
「まさか。小切手を持たせた。もう関係ない」
「適齢期の貴族令嬢を囲ってたのに、手切れ金だけで済むかしら」
「嫁ぎ先の準備もしている」
「ふうん」
ミランダが再び窓の外に目を戻す。
その視線先で、アーサーがマレーヌを呼び止めていた。
「助けて、アーサー様!」
「もちろん。君の面倒は俺がみるよ」
「なっ……」
アーサーがこちらを振り向き、ニヤリと笑う。
「あいつ……」
俺は窓辺から離れようとする。
「待って、どこ行くの」
「話をつけてくる」
「着くわけないでしょ。挑発してるのよ」
「……そうだな。くそ」
ランプの灯りが揺れる中、俺はミランダに向き直る。
「社交シーズンの始まりを告げる舞踏会が城である」
「知ってるわ」
「今からドレスを作ったのでは、間に合わない」
「出席するの?」
「これから俺たちが夫婦として再出発すると示すのに、この時を逃して他にない。今回は既製品を手直しするしかない」
「義母様が頷かないでしょう」
「なんとか既製品に見えないように、掛け合ってみる」
「……わかったわ」
用件が一段落し思わず、ため息が漏れてしまった。
ミランダが、少しだけ眉をひそめる。
「あまりイライラしないで」
「父さんに直訴したが、一蹴された。マレーヌのことだ。屋敷の中で兄の威光を背に、好き勝手している」
「そうね。既婚者である次男のあなたに家の中で愛人を囲うことを許してたのに、独身の長男の自由を許さないわけがないわね」
「……父と同じこと言わないでくれ」
ミランダは、静かに言った。
「ねえ、ため息をつく権利は私にあるのであって、あなたにはないわ。“身から出たサビ”というのよ。
その調子じゃ、やっぱりアーサーのことも言うだけ無駄だったでしょ?」
「……その通りだ」
俺は彼女の言葉を噛みしめながら、黙ってランプの火を見つめた。
再出発の道は、まだ遠い。
けれど、彼女が隣にいる限り──俺は、諦めない。
朝の光が差し込む中、ミランダと俺は並んで眠っていた。
その静けさを破ったのは、慌ただしく飛び込んできたメイドの声だった。
「大変です、ドレスが!」
俺たちは、すぐに衣装室へ向かった。
そこには、見るも無惨な光景が広がっていた。
ドレスが、裂かれ、踏みにじられ、ボロボロになっていた。
「誰だ」
俺は低く問いかける。
ミランダは冷静に答えた。
「誰って、わかりきってるじゃない」
「行ってくる」
「待って。証拠がないのにだめよ。集めてちょうだい。
私はドレスを調達しに行くから今夜、会場で会いましょう」
「大丈夫なのか」
「ええ」
妻の背中は、いつも通りまっすぐだった。
会場に足を踏み入れた瞬間、ざわめきが広がった。
俺は周囲の視線に戸惑いながら、隣のミランダを見た。
「どういうことだ」
「仕方ないじゃないの」
ミランダは、エミール・ダラン侯爵とペアに見えるドレスを纏っていた。
その色合い、装飾、すべてが完璧に揃っている。
両親は頭を抱え、兄は楽しそうに笑っていた。
兄の隣には、婚約者のリヴィア・エルノア公爵令嬢が控えている。
王族がファーストダンスを踊り、次に高位貴族が輪に加わる。
俺はミランダの手を取り、踊り始めた。
どよめきが起こる。
国を代表する美男美女──そう囁かれているのが聞こえた。
俺は少しだけ得意になった。
ファーストダンスが終わると、アーサーがミランダに、マレーヌが俺にダンスを申し込んできた。
会場が再びざわめく。
「悪いが、まだ終わってない。今日は夫婦として初めて出席したんだ。気を回してもらえないか」
セカンドダンスを始めようとした、その時エミール・ダラン侯爵が現れた。
「そういったことは、自分で妻のドレスを用意できるようになってから言うべきでは。慰謝料だけでも大変なようだ」
彼の視線が、マレーヌに向けられる。
俺は奥歯を噛み締める。
──山奥に監禁されていたからドレスが間に合わなかったのだ。
しかし、そもそも最初から準備しておけばよかった話でもある。
俺の無関心が招いた結果だ。
そして、経済的にドレスを新調するのが難しいのも図星だった。
「さあ、ミランダ」
ダラン侯爵が手を差し出す。
ミランダは迷いなく、その手を取り踊り始めた。
俺は妻の背中を見つめながら、拳を握った。
この夜は、俺にとって再出発ではなく、痛みの始まりだった。
夜の静けさが、やけに重く感じられた。
ミランダはダラン侯爵の用意した馬車で、彼の用意した家へ帰ってしまった。
俺はベッドの端に腰を下ろし、何も言えずに天井を見つめていた。
そのとき、扉がノックもなく開いた。
マレーヌが入ってくる。
「元に戻っただけじゃない。またやり直しましょう」
俺は首を振った。
「もう君を愛せない」
「どうして?!」
「俺は幻覚を愛してたんだ。花売りの──」
子供の頃、市井に降りたのが嬉しくて護衛を撒いて逃げた。
けれど、すぐに道に迷った。
そのとき、花売りの少女が助けてくれた。
黒髪で、瞳に夕焼けが反射していたのが綺麗だった。
「彼女の面影を君に見た。けれど、君は彼女じゃなかった」
俺はマレーヌの黒い髪を見て言った。
「そんな……」
彼女は、愕然と立ち尽くしていた。
俺は静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。
──もう迷わない。
自身の名で、妻を守る。
志願通りに辺境戦線に配属されたのは、それから1ヶ月後だった。
風が砂混じりの雨を運び、顔に叩きつけてくる。
敵は東方諸国の連合軍。
補給も乏しく、士気は低い。
けれど、剣を振らなければ死ぬ。
迷う暇も、悔いる暇もなかった。
夜の陣地で、焚き火を囲む兵たちは疲れきっていた。
家族を想う声、戦友を悼む沈黙。
その中で俺はひとり、刃を研ぎ続けた。
無意味だと分かっていても、何かを磨いていなければ崩れてしまいそうだった。
──ミランダ。
今どこで、誰といる?
その名を心の中で呼んだ瞬間、胸に痛みが走った。
罪悪感か、愛情か、自分でも分からない。
ただ、もう1度彼女と向き合わなければならない気がした。
逃げたのは彼女でも、守れなかったのは俺だ。
剣を振るう音が、耳に馴染んできた頃だった。
実家からの報せが届いた。
──ミランダとトマスが駆け落ちした。
「何でだ?!」
思わず声が漏れた。
手にしていた剣の重みが、急に遠く感じる。
帰るべきか。
でも、あの2人が“逃げた”となると、何かワケがあるとしか思えない。
それとも──元々恋仲だったのか?
いや、ほとんど接触していない。
あり得ない。
ならば、トマスは主人の妻を守ったのだ。
俺が不在の間、ミランダに何かが起きた。
そして、彼は命を懸けて彼女を連れ出した。
俺はどうすべきだ?
このまま戦場に残り、騎士としての名を確立するか。
それとも、すべてを投げ打って妻を探しに行くか。
剣を見つめる。
この刃は、誰のために振るうべきなのか。
しかし帰ったところで、俺に何ができる?
ミランダを守る力も、屋敷に影響を与える権威もない。
ただの次男。
ただの未熟な騎士。
考えても、考えても、答えは出ない。
帰れば無力。
残れば集中できない。
動けばトマスからの連絡が、行き違うかもしれない。
ぐるぐる回る思考に、俺はとうとう叫んだ。
剣を地面に突き立て、空を仰ぐ。
「よし、国王になろう!!」
周囲の兵士が振り返る。
でも、俺の脳内はもう決まっていた。
力がないなら、作ればいい。
権威がないなら、奪えばいい。
ミランダを守るためなら、国ごと背負ってやる。
俺は剣を抜き直し、叫んだ。
「この戦場で1番強いやつ、誰だ?! まずはそいつを倒す!」
兵士たちがざわつく。
でも、俺はもう止まらない。
──目指すは玉座。
朝霧が晴れるより早く俺は、前線へ駆けた。
夜明けとともに号砲が鳴り、地鳴りのような軍勢の咆哮が響く。
凍てついた地面を蹴り、馬を飛ばし、敵陣へと突っ込む。
「バーリラル卿が行くぞ!」
「無茶だ、戻れ!」
制止の声を無視し、俺は突き抜けた。
敵の槍が雨のように降る。
矢の風が頬を裂く。
それでも剣を振るう腕は止まらない。
金の髪が朝日に閃き、剣が雷鳴のように響いた。
血と砂が舞い上がり、倒れる敵の上で、馬は一度もよろけなかった。
気づけば、俺の後ろに部隊が続いていた。
誰も命令などしていない。
ただ、俺の背に導かれるように。
「王になる!」
叫んだその声が、陣を越えて響いた。
士気が上がり、怯えていた兵たちが次々に武器を取る。
──天牡の如き働き。
誰も止められず、誰も追いつけない。
俺は止まらなかった。
剣を振るえば敵が退き、名を叫べば兵が集まる。
勝つたびに領地が増え、敵将が膝をついた。
やがて俺は戦場で英雄と呼ばれ騎士爵を得、貴族たちもざわつき始めた。
このままいけばミランダを迎えに行く日も遠くない──そう思っていた。
しかし……。
父バーリラル公爵に、義父ヴェルリス伯爵から宣戦布告が届いた。
理由は、
「アーサー・バーリラル公爵令息がルイス・ヴェルリス伯爵の孫を殺そうとしたため、娘ミランダが行方不明になった」
俺は伝令の持ってきた紙を手に固まる。
「……孫?」
俺は頭を抱えた。
「どうなってるんだ? 誰の子?」
ミランダの弟は、まだ15歳だから恐らく違う。
ではミランダの子か。
父親は?
俺の秘書トマスは忠義の塊。ミランダとは駆け落ちではなく、逃がした可能性が高い。
まだ生きてる妻の愛人2人とは「後継を産んでないせいで、最後までできない」と言っていたから違うはず。
となると──
「……俺の子か?」
1晩しか交配してないが?
俺は頭を抱えた。
戦場で竜巻の如く戦っていたのに、今はただの混乱した男。
でも、確かめなきゃならない。
ミランダが逃げた理由。
子の真実。
そして、俺が“父親”かどうか。
帰還命令を伝える実家からの使者に、向き直った。
「帰る」
「ミランダの腹の子は、エミール・ダラン侯爵の子だ」
辺境から公爵領へ戻った俺を待ち受けていたのは、そんな言葉だった。
天幕の中の父は落ち着いた声で、しかしハッキリと断言した。
「ミランダとトマスが逃げたのは、ダラン侯爵の本妻が血眼で彼女を探してるからだ。
ヴェルリス伯爵は、産まれてくる子の色素が違えば我が家との婚姻契約が無効になるから、戦争で誤魔化そうとしてる」
「……本当に、俺の子じゃないのか?」
違うと思ったが自信はなかった。
舞踏会で迷わずグラン侯爵の手をとったミランダを思い出す。
確かめる術はない。
ミランダにも、トマスにも会えない。
手紙も届かない。
俺はフッと息を吐いた。
事実がわかるまでは、領地を守るしかない。
この家に生まれた以上は、それが義務だ。
ボロボロになったトマスが俺のテントに現れたのは、それから2ヵ月もした後だった。
「何度も手紙を送りましたが、全て通信を遮断されていたのです」
「トマスっ!」
荒れた砂の風が、幕の隙間から吹き込んだ。
彼の服は泥にまみれ、腕には無数の裂傷があった。それでも、瞳だけは濁っていなかった。
「奥様は、バーリラル邸の一室に閉じ込められていました。キース様と入れ違いに戻られ妊娠が発覚した直後、アーサー様が“安静”を理由に外出を禁じたのです」
俺は拳を握りしめた。
骨が軋むほど強く。
トマスは続けた。声は震えていたが、言葉は確かだった。
「食事は侍女を通して管理され、薬も……堕胎薬の可能性がありました。奥様はすべて拒み、契約を持ち出して命を守ろうとしたのです」
「契約……?」
「“キースの子が産まれたら、孤児院に預ける。次は俺の子を産め”と。アーサー様は、そう言いました。その条件で子供の命だけは守ると……」
俺の視界が赤く染まった。
呼吸の仕方すら、わからなくなる。
トマスは目を伏せ、言葉を絞り出した。
「ある夜、窓から忍び込みました。侍女に眠り薬を使い、奥様を連れて脱出しました。馬車で逃げ、今は……安全な場所にいます」
「ミランダは……無事なのか?」
「はい。ですが、心は……」
その続きを聞く前に、俺の手は勝手に剣の柄を握っていた。
力が入りすぎて、革の感触が軋む。
手が震えて止まらない。
「……あいつが、妻を……俺の子を……」
怒りが胸の奥で爆ぜた瞬間、視界が白く染まる。
気がつけば、馬に飛び乗っていた。
誰にも告げず、誰にも止められず。
ただ、兄の名を叫んでいた。
「出てこい、アーサー!!」
天幕が烈風に揺れ、奥から自分と同じ金髪碧眼が現れる。
だがそれは今は、憎悪の炎を反射するだけの色だ。
アーサーは剣を抜きながら、口の端を歪めた。
「来ると思ったよ、キース。遅かったな」
その一言で、理性が焼き切れた。
──一騎討ち。
最初の1撃は、音よりも早かった。
剣と剣がぶつかり、火花が散る。
金属音が鼓膜を突き破り、腕に伝わる衝撃が骨を鳴らす。
互いに1歩も引かない。
兄の刃が俺の頬を掠め、熱い血が飛び散る。
「ミランダには2度と触れさせない!」
「なら、俺を倒してみろ!」
挑発に、脳が焼ける。
怒りが技を凌駕し、憎悪が呼吸を支配した。
足元の泥を蹴り上げ、渾身の突きを放つ。
アーサーは受け流しながら、刃を返す。
その速さは、まるで蛇だ。
俺は身を翻し、刃を弾き上げ、反撃の一閃を放つ。
金属が裂け、肩を貫く感触。
アーサーの鎧の隙間から血が噴き出した。
赤い飛沫が宙を描き、土に吸い込まれていく。
「アーサー! 何度となく俺達を! 絶対に許さない!」
「ふん、面白い! まだだ!」
怒号と共に、兄は反撃に転じる。
渾身の斬撃が横なぎに迫る。
風圧だけで肌が切れた。
それを紙一重で避け、距離を詰める。
互いの息が混ざる距離。
血の匂いと鉄の味が喉にこびりつく。
──そして、最後の一閃。
刃が走り、時間が止まった。
アーサーの目が見開かれる。
瞬間、金の髪が宙を舞った。
地に落ちた音が、やけに静かだった。
剣を握る手から力が抜け、膝が土を打つ。
胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
静寂。
誰も動かない。
俺はその首を拾い上げ、馬にくくりつけた。
そのまま、ヴェルリス伯爵軍の陣へ向かう。
兵たちがざわめき、道を開ける。
俺は馬を降り、首を投げ出して言った。
「バーリラル家は腐っている。俺は、ミランダと子を守るために来た。使え」
伯爵は沈黙し、ゆっくりと目を見開いた。
そして、静かに頷いた。
1年が経ち戦が終わった。
焼けた風が、まだ焦げた土を撫でていく。
俺は、ヴェルリス伯爵の前に立っていた。
劣勢だった伯爵軍を立て直し、敵の大将──つまり自分の父を討った。
戦場の兵たちは皆、俺の剣に従い、俺の叫びに応えた。
血に濡れた旗の下で、勝利の雄叫びが上がる。
「爵位をやる約束だったな」
ヴェルリス伯爵は、煤のついた指で契約書を広げてみせた。
──かつて、伯爵邸の昼餐で交わしたものだ。
その紙には確かに、俺の名が書かれている。
「おめでとう、バーリラル公爵」
その言葉に、胸の奥で何かが崩れた気がした。
ようやく、ここまで来たのだ。
「ありがとうございます。……ミランダは? 会わせて貰えませんか?」
伯爵の目が細くなり、笑みが影を帯びる。
「マレーヌとかいう娘はどうした? もうミランダとは離婚していい。この結婚に利益はなくなった。貴族に旨味のない結婚など無意味だ」
俺は、首を振った。
血と煙にまみれたこの戦の中で、たった1つだけ見失いたくなかったものがある。
「ミランダが良いのです。どうか……永遠の愛を誓います。今度こそ」
伯爵は、ふっと笑った。
「君は7年前も同じこと言って、娘を探していたな」
「え?」
「……いや、何でもない。そこまで言うなら」
彼は従者に紙を持ってこさせ、さらさらと住所を書いた。
インクの匂いが、やけに鮮やかに感じられる。
俺はその紙を両手で受け取った。
震える指先に、ようやく“帰る場所”が触れた気がした。
平民街の道を進むに連れて、記憶が蘇ってくる。
12年前──迷子になった俺を導いてくれた花売りの少女。
あの小さな手、夕暮れの笑顔、風に揺れる黒い髪。
何度もここへ来た。
市井から戻った幼い俺は直ぐさま行動を制限された。
成人して自由になった15の時から、ずっと彼女を探していた。
使用人を動員し、社交界でも行方を尋ねて回った。
だが、誰も知らなかった。
まるで最初から、この世に存在しなかったかのように。
それでも今日、ようやくその理由を知る。
通りの向こうで、赤子を抱いた黒髪の女性が、黄土色の髪の男と並んで歩いていた。
ふとこちらを見た瞳は、夕焼けに染まっている。
ああ、そうか。
君だったのか。
その珍しい赤紫のライラックを、市井では隠していたんだね。
□完□
初夜に妻の護衛からシリンジを渡された次男の俺が公爵になるまで 星森 永羽 @Hoshimoritowa
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