第2話 殺してはならない

✝️ 怒りの起こり

あるとき、弟子たちは互いに言い争っていた。

「誰がいちばん偉いか。」

イエスはその声を聞き、静かに座られた。


「あなたがたの中でいちばん偉い者は、

みなの仕える者でなければならない。

なぜなら、怒りの根はいつも、

自分を高くしようとする心から芽を出すからだ。」


弟子たちは黙った。

それでも、心の底に小さな火が残っていた。

侮られたときに燃え上がり、

軽んじられたときに形を変える火である。


イエスは言われた。

「怒りは、外から来るのではない。

心の奥で、自分の正しさを神より上に置くとき、

その瞬間に生まれる。」


夜、主はひとり祈られた。

怒りに満ちたこの世のために。

その涙は、まだ罪を知らぬ弟子たちの心を潤していた。



✝️ 殺してはならない

そのころ、人の子の言葉を聞いた者たちは、

剣を収め、槍を置き、互いに手を取り合うはずであった。

しかし時は流れ、人の知恵が増すにつれて、

その手は再び剣を造り、今は目に見えぬ場所で、

遠くの者をも滅ぼすようになった。


イエスは天より地を見下ろし、沈黙された。

かつて山の上で語った言葉が、

風のように散り、誰の心にも届かぬ時代を見たからである。


「あなたがたは聞いた、『殺してはならない』と。

しかしわたしは言う、怒りを抱く者はすでに殺している。」


イエスは今も語られる。

「わたしがあなたに与えた命は、あなたのものではない。

兄弟の命もまた、あなたの手にはない。」


その言葉を心にとどめる者は少ない。

だが、たとえ一人でもその光に気づくなら、

天の憂鬱は、静かに和らぐであろう。



✝️ 赦しの光

ある朝、イエスは湖のほとりに立たれた。

弟子のひとりペテロが、遠くから主を見て泣いていた。

彼は三度、主を知らぬと言ったことを悔いていた。


イエスは火をおこし、魚を焼いて言われた。

「ペテロよ、あなたはわたしを愛するか。」

ペテロはうなずき、

三度の否を、三度の愛で覆った。


そのときイエスは静かに笑われた。

怒りも、裏切りも、すべてが光の中に溶けていた。


「赦す者は、光の中を歩む。

赦される者もまた、光の中にいる。

わたしがこの世に来たのは、

人が互いに赦しあうことを学ぶためである。」


湖面は朝の光を映し、波がきらめいた。

そこにあったのは、剣ではなく、愛の残響だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

イエスの憂鬱 石橋 叩 @silver_hn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る