峠にて恩を返す・参
宇都宮の町に入るころ、雨は糸のようになり、かわりに風が出た。
足もとは石畳が増え、土の粘りが減る。町人の早起きが戸を開け、店の前に水を打つ音がぱしゃぱしゃと続き、
姉弟の足は棒のようだった。丈之助は二人の肩を抱え、貸元の家の前で立ち止まった。
表に出た縄暖簾は、夜目にも分かるほど新しい藁で編まれている。「三国屋」と墨で太く記されている。
丈之助は姿勢を正し、道中合羽を脱ぎ、三度笠を脇に置いた。
軒先の仁義ゆえに、許しなくしては中には入れない。軒先の敷居の手前で膝をつき、額を石に付けた。
「ご免くだすって……。三国屋の親分さんは、おいでなさるか」
番頭らしい、袴の男が現れた。目つきは鋭いが、声は荒くない。
「どなたかな」
「渡世の外れ者にござんす。名は……名乗るほどの者でもねぇが、昔、親分さんに借りがありやす」
丈之助は顔を上げずに言った。
番頭は一瞬、何かを思い当たったらしい。
「丈之助、か」
「……へい」
番頭は奥へ消え、すぐに戻ってきた。
「通せ」
土間を踏み、帳場の手前で止まる。帳場の向こうに、五十ばかりの男が胡坐をかいていた。目尻の皺は深いが、眼光は刺すように冷ややかだ。三国屋の親分〝三蔵〟、隣には、黒紋付の女房が控えている。肩の位置が、強情そうに真っ直ぐだ。
丈之助は再び土に額を付けた。
「親分さん。お願いがありやす。こいつら、下里の……強訴で親を亡くした姉弟でさぁ。村にゃ、もう居場所がない。わっしが命拾いしたとき、世話になった家の孫で……。筋違いは重々承知だが、どうか、拾ってやってくだせぇ」
言葉は、土の冷たさに吸い込まれるようにひどく小さかった。それでも、座敷の空気に沈んで、形を持った。
三蔵は、しばらく黙っていた。
やがて、女房の方を見ずに言った。
「お芳」
女房は膝を進め、姉弟の手を取った。
「お前さん、名前は」
姉は、震える声で名乗った。父の名を継いだ一字が入っている名だった。弟も、しがみつくように名を言った。
お芳は子らの掌の皸を指先で撫で、鼻をすすり、三蔵へ顔を上げた。
三蔵は、丈之助を見た。
「上への筋は、わしが通す。下への筋は、お前が通した。……あとは、わしの家の筋だ」
丈之助は、額を深く土に押しつけた。
「かたじけねぇ」
女房がおもむろに襖を開け、侍女に言いつけた。
「湯を沸かして、粥だ。塩を利かせすぎるな」
姉弟は、女房に手を引かれて座敷に上がっていく。弟が、一度だけ丈之助の方へ振り返った。丈之助はうなずいた。大丈夫だ、と言える顔ではない。だが、うなずくことくらいはできる。
三蔵は、丈之助に湯呑を出した。
渋茶の匂いが広がる。
「飲め。体が冷え切ってる」
茶は、舌に乗った途端、甘く感じられた。
丈之助は湯呑を置き、膝を立てて立ち上がった。
「傷は?」
丈之助は初めて自分の腕を見た。袖の下で血が乾いて、布に張り付き、動かすと裂け目が開く。峠の泥が、皮膚に乾いた地図を描いている。
三蔵が鼻を鳴らした。
「医者を呼べ」
「いえ。流れの身は、長居はできねぇ」
三蔵は口の端をわずかに上げ、しかし笑わなかった。
「貸し借りは、これで禊ぎか」
「貸しは返しやした。借りは……まだ残ってるかもしれねぇ」
「そうか」
それ以上、二人は言葉を足さなかった。渡世の話は、言葉を少なくして正しい。
土間へ降りると、雨は上がっていた。
空の色は薄く、雲は低く、町の屋根の端にだけ弱い陽が差した。
丈之助は道中合羽を肩にかけ、折れた三度笠を脇に抱え、暖簾の影で一度だけ振り返った。座敷の奥、障子の向こうで、女房の低い声と子の小さな笑いが交じった。
門口を出る。
通りには、朝の仕度に忙しい女たちが行き交い、行商が荷を背負って掛け声を飛ばしていた。町は、生きることに忙しい。忙しさは、慈悲に似ている。
宇都宮城の黒い瓦が遠くに光っていた。
丈之助は、腰の脇差を指で叩いて鞘の具合を確かめた。
雨上がりの空気は、刃に優しい。油を差せば、今日一日は大丈夫だろう。
下野の峠は振り返らない。
振り返らなければ、背中に乗った重さは、ただ重さのままになる。名も付かず、形にもならない。
それでいい。渡世は、そういう作りだ。
「……さて。どこへ行こうか」
丈之助は独り言のように呟き、町の流れに足を入れた。
朝の風が、濡れた道と、彼の足跡と、黙って混ざっていった。
異世界三度笠無頼・短編外伝『峠にて恩を返す』 美風慶伍@異世界三度笠無頼 @sasatsuki_fuhun
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