峠にて恩を返す・弐
杉の香りが雨に混ざり、鼻を刺す。
峠道は、最初のうちは人の手が入って広いが、すぐに古道へと細る。片側は苔むした石垣、もう片側は崩れかけの土手。ぬかるみは黒い鏡のように空を映し、踏み込むと泥が脚絆に跳ねる。
遠くで雷のような音が、山を回って来る。那須の方の空だろうか。春の初めの雷は、やかましいくせに近づかない。
丈之助は、片手で弟の手首を握り、もう片方で長脇差の柄に触れていた。鞘を結ぶ紐は解いてある。平打の鍔が、指のひらにひんやりして頼もしい。
三度笠の縁から落ちる水が、いつしか
「寒ぃのは生きてる証だ。ありがたく思っとけ」
丈之助は、半ば冗談めかして言う。
姉は、かすかに笑った。笑えるなら、まだ心は折れてない。
後ろで、藪を乱す音がはっきりした。
「見えたぞ! 杉の方だ!」
村人の声だ。混じって、鉄の鳴る乾いた音。槍の石突が石に打たれたか、刀の鞘が根に当たったか。追手の中に、代官所の連中が確かに居る。
丈之助は振り向いた。
松明の赤が、杉の幹に縞を刻む。雨に煙る光の帯が、こちらを飲み込もうとしている。
「ここで一度、切る」
丈之助は姉弟を土手側に押しやり、苔むした石垣の陰に伏せさせた。
自身は道の真ん中に立った。三度笠を少し上げ、雨の重みを逃がす。道中合羽の紐を解き、肩から滑らせて土に落とす。単衣はすでに肌に貼りついて重い。だが、肩が軽くなっただけ、刃の回りは利く。
最初に飛び込んできたのは、村の若い者だった。薙刀を手にしているが、手が震えて刃先が踊る。
丈之助は、踏み込まず、受けず、柄の付け根を払ってやった。薙刀は道の外へ飛び、若者は尻餅をついた。
次に、代官所の手付が二人。片方は脇差、片方は槍。
丈之助の足が、ぬかるみに沈む。沈む感覚に合わせて、体を落とし、槍の穂先をすり抜ける。穂先が三度笠の縁を裂き、三度笠の骨が折れる音が耳に鋭く響いた。
間合い。
丈之助は長脇差の鯉口を切り、刃を半歩だけ出した。槍の石突が返るより早く、槍の柄を斬り落とす。
もう一人の脇差は、まっすぐに来た。
まっすぐに来る刃は、楽だ。
丈之助の刃が、その刃の腹をなぞり、手首を浅く切った。悲鳴。手付は刀を落とし、泥に膝をついた。
松明が一瞬、風で揺れた。雨が増す。
丈之助は、拾いに戻った若者の背に、踵で土を蹴って泥を浴びせ、姉弟に向き直った。
「走れ。下を向くな。足だけ動かせ」
三人はまた闇の濃い道へ入った。息が白い。姉は手の甲で鼻を拭い、泣くのをやめた。弟の手は冷たいが、握り返す力はある。
杉木立が途切れ、低い竹薮を回る。尾根筋へ上がると、風が変わる。川の音が遠くに聞こえ、霧が足もとまで降りてきて、景色の輪郭を呑み込んだ。
道の脇に、
止まれば、傷になる。動けば、織り目になる。渡世の縫い目は、止まったところから綻ぶ。
峠の肩が近づく。
そこで道が二つに分かれ、片方は山の影へ、片方は宇都宮の方へ落ちていく。
丈之助は迷わず右を選び、松の根に足を取らぬよう、斜面を滑り降りた。
背に、また声が掛かった。
今度は低く、よく通る声。
「待て、丈之助!」
聞き覚えのある声だ。村の組頭、十蔵だ。
丈之助は足を止めず、声だけ返した。
「何の用だ、十蔵」
「その子らは、領主様の手に渡すもの。勝手に連れ出しゃ、村が潰れる!」
「潰れてるだろうが、もう!」
丈之助の声に、怒りではない乾きが混じった。
十蔵は言葉に詰まり、それでも食い下がった。
「助けたい気持ちは、分かる。だが、筋がある。上への筋だ」
「阿呆が! 筋は、下にも通すもんだ!」
丈之助は踵を返し、斜面の細い道へ身を滑らせた。
十蔵が歯ぎしりする気配が背に刺さる。
村の衆の足音が散っていく。追いきれない地の足の混乱。山は、ひいきしない。足の強い者が勝つ。
峠を越え切ると、雨脚が緩んだ。
遠くに灯が、いくつも見える。宇都宮の外れだ。黒い輪郭の城と、そこから伸びる町。河岸の方へ灯が濃い。
丈之助は、三度笠の折れた骨を
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