異世界三度笠無頼・短編外伝『峠にて恩を返す』

美風慶伍@異世界三度笠無頼

峠にて恩を返す・壱

 冬の名残りの雨が、土と藁の匂いを重たく引きずっていた。

 下野国・下里村。谷あいに押し込められたような小村で、まだ麦の芽は小さく、畔の草は黄ばんだまま。早生の梅だけが、白い花をまばらに濡らしている。


 丈之助は、藍の褪せた木綿の単衣の上に道中合羽をはおり、三度笠の縁から滴を落としながら、村はずれの落ちた垣を跨いだ。脚には麻の脚絆、足は編み直したばかりの草鞋。腰の長脇差は、雨に鈍く沈んだ色で、鞘口には布を巻いて水の入りを防いでいる。


 屋根が半分落ちた家が、畑の向こうに見える。あの家だ。

 昔、奥州街道の山越えで追手を撒いたとき、熱と飢えにやられ、藪で倒れた。あの家の男が見つけ、土間に転がし、粥を口に運んでくれた。名を与えるでもない、静かな手。恩というのは、大抵そういう顔をしている。


「恩は返さにゃぁならねぇ」


 それが渡世人と言う生き様だと、関八州の裏街道を歩き始めたときから心得ていた。

 その相手が、博徒でも、侠客でも、堅気の百姓でも、変わることは無い。


 記憶をたぐりながら、敷居をまたぐと、土間の冷たさが道中合羽越しにも上がってくる。囲炉裏は灰になり、藁縄の切れ端が湿っている。壁にかかった簔帽は黴の斑点だらけで、梁からぶら下がる藁束は痩せこけた鳥の腹みたいだ。


 隅の影が動いた。


「誰……」


 煤に染まった頬。痩せた小さな肩。

 姉は麻の小袖を着て、膝を抱えていた。髪は艶を失くし、包んだ足は浮腫んでいる。弟は薄い綿入れを肩から落とし、火の消えた囲炉裏の前で腹を押さえていた。二人とも、目に光がない。飢えた子は、目の奥だけがやけに澄む。


「通りすがりだ。雨宿りをさせて貰いやすぜ」


 丈之助は三度笠をかぶったまま、囲炉裏の灰を掻き、湿った薪の下に細い柴を潜らせ火打に火を移した。湿り気を帯びた空気の中で、小さな火がやっとの思いで生まれる。

 弟が炎に手をかざし、指を擦り合わせる。骨の節ばかりが目立った。


「父ちゃんと母ちゃんは……」


 姉が言いかけて、唇を噛んだ。

 丈之助は再び記憶を手繰った。


――この家は、この村でも一番を争う豪農だったはずだ――


 館は大きく、蔵もいくつも並んでいた。だが、今はこの有様なのは見てのとおりだ。


――何があった?――


 考えられるのは、一家離散したか、それとも――


「ねぇ」


 姉のほうが消え入りそうな声でつぶやく。丈之助が向けた視線に姉は問うてきた。


「〝ごうそ〟ってなに?」


 その言葉に丈之助は腹の底に重いものを感じた。


――強訴――


 藩主や代官に対して、年貢の減免や、圧政への抵抗を集団で訴えることだ。たとえ訴えが認められたとしても、大抵は悲惨なことになる。


「なにがありやした?」

「――おっとうも、おじいも、おいちゃんたちも、みんな連れてかれた。おっかあは具合が悪くなって……」


 涙を流しながら姉は語る。父も祖父も獄門送りになり、母は病でそのまま天に召された。村は潰え、男衆は引き立てられた。豪農の一家は見せしめとなり、村の生き残りは、二人を最初は憐れんで粥を回したが、年が改まれば目を逸らす者が増えた。年が明けて暖かくになれば憐れみは薄くなる。生きるのは、いつだって誰かの視線の外でだ。


「腹は?」

「……一昨日から、水だけ」


 丈之助は黙って腰の袋を解いた。流れ歩く身の上ゆえに、いざというときにかてはわずかばかりだが持ち歩いている。

 干飯と浅漬けにした蕪を皿に落とした。少ねぇが、喉を通る。弟は一気にかき込み、むせた。姉が背を撫でる。

 炎の明かりに、二人の頬骨が薄く浮いた。


 雨脚が強まった。

 屋根板を叩く音の向こうで、犬の吠える声が短く切れた。畑を渡る風は冷たく、藁の匂いに、うっすらと血の甘さが混じる。晩春の雨は、冬と春の間に落ちる。どちらの匂いも手放さない。


「ここには、もう居られねぇ」


 丈之助の声は低い。

 姉弟は黙ったまま火を見ている。「どこにも行けない」と目が言っていた。


「宇都宮に、昔からの貸元がいらぁ。子が居ねぇ夫婦だ。筋を通しゃ、耳は貸す」


 姉の瞳が揺れた。


「でも……村の衆が。代官所が……」

「だから今夜だ」


 丈之助は道中合羽の紐を締め直し、三度笠の縁を確かめた。麻縄で弟の足首を固く巻き、草鞋を履かせる。姉には荒れた家の中から古い脚絆を探し出し脛に巻いてやった。濡れれば重くなる。峠に入れば、足は命になる。


 宵の口。雨は小止みになったようで、屋根から落ちる雫だけが音を刻んだ。

 丈之助は戸口を開け、畑に目を遣った。暗がりの向こう、麦の芽の上に、かすかな灯りが揺れた。松明だ。

 早い。嗅ぎつけが早すぎる。


「来たな」


 丈之助は囲炉裏の火を掌であおいで消し、姉弟の肩を抱えて土間を抜けた。裏の藪を掻き分け、畦道を這う。道中合羽が棘に引っかかり、雨の日の土は音を吸う。

 家の表で声が上がった。


「強訴の残り火を出せ!」――代官所の手付の声。村の組頭の声も混じっている。


 誰かが戸を蹴破り、囲炉裏の灰を踏む音がした。

 丈之助は藪の中で息を詰めた。弟の背に当てた掌に、心臓の早鐘が伝わる。

 雨はまた細かく降り出し、三度笠の縁から珠を連ねて落ちる。

 峠へ上がる小道は、畑の向こうの杉の立ち並ぶところから始まる。闇の色が濃くなるところだ。


「行くぞ」


 丈之助は身を伏せ、畦を渡り、杉木立に身を滑らせた。草鞋を鳴らさぬ歩き方は、渡世の身に染みついている。姉は歯を食いしばり、弟を引き上げた。

 背後で松明の炎が増え、足音が土を蹴る音が近づいてくる。

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