アンラベル・パーク ―あざやかな夜に

匂宮いずも

あざやかな夜に 

朝露が根に染み込んできた。私は目を覚ます。

昨晩の雨は強かった。雨音が茎に叩き続けて、葉が垂れたまま戻らない。


近くにいる植物が、「おはよう」と言ってきた。

暗くて小さな花を向けて、私は「おはようございます」とつぶやいた。



雨は上がったようだ。

地面には水が溜まり、しっかりと根を張った植物たちが鏡のように映る。


空を見上げる。青い空に映える、鮮やかな花たち。

いつもの風景……野原だけど、きれいで見とれてしまう。



私は、空を埋めるきれいな植物に覆い隠された、暗い色の花。

正直、いてもいなくても変わらないと思っている。


――きれいな花だなぁ。私の花は虫も寄り付かないほど暗いのに――

そんなことを考えていると、「苦手な時間」になる。



私の周りは、たくさんの植物に囲まれている。普段から賑やかなのだけど……

その何百という植物たちが、いっせいに朝日を浴びて地中から水を吸い込んだ。


「くぅ…」


音が新芽や根に響いて、体の中を音が暴れまわる。

私は呻きながら葉や根が固まる感覚に耐えた。


気持ち悪い。逃げたい。

でも逃げられない。


風が吹くと植物たちは心地よさそうに葉をこすれ合わせる。

彼らは気持ちいいのだろうが、だが、このこすれる音があまりにもうるさい。


だいたいこれを周りの草に言うと不思議がられる。

それどころか、この音の中でも平気そうにお日さまの光を浴びてくつろいでいる。


私がおかしいのか?






苦手な時間が終わるころ、どこからともなく「音色」が聞こえてきた。

この音は私だけに聞こえるようで、ほかの植物は見向きもしない。


これを待っていた。

美味しく水を根から吸い、音色と水が身体を巡る心地よさに浸る。


葉がこすれる音が、遠くの山から聞こえるように遠ざかっていき、

私は「音色」に包まれる。




この音色、というのは、実は私もよく分かっていない。けれど聞いていると葉や根の緊張がゆるみ、葉がお日さまに向くから、まあ良いものなのだろう。


この音色、友達の「月下美人」が出している。

彼女は、いつもつぼみをつけている。今にも咲きそうなのだが、

咲いているところを見たことがない。いつ咲くのだろう?


その彼女――月下美人は、雨音や風の音、鳥がさえずる音を

組み合わせるのが好きなのだという。それらを「音色」と呼ぶらしい。

どうやっているのか、私にだけ聞こえる音を送っている。


音色を聞いていると、近くの植物が話しかけてきた。

「知ってる?ヤドリ群を判別できる方法があるんだって。

茎が長いとそうみたいだよ」


野原の奥を眺めた。他の草木に巻き付いて水や栄養をもらっている植物たち。

『他の植物に宿って群れてる』からヤドリ群。実に安直な名だ。


薄暗いところにいて、性格も花も全体的に暗い。

――花の色が暗い私が言えた話ではないけれど。




「そうなんですね、私は茎が短いので違うかもしれませんね」

適当に返す。あの植物はとにかく噂好きなのだ。信用ならない。


そうこうしているうちに、ヤドリ群の「ルーティン」が聞こえてきた。


"早く枯れたい"

"活きづらい"

"他の植物になりたい"

"逃げたい"


私には、彼らのその暗さがよく分からなかった。

ただ、彼らはただ自分の不遇を呪って、ひそひそと話している。

それが自分たちを守るかのように。


実は私も、彼らに似たものを感じていた。


「大雨になったらこのまま根腐れしないかな」とか考えたり、

「日照りが続いて枯れたら楽かもな」、と思う。


それなのに昨晩のような大雨には、

「どうか茎がちぎれませんように」と願ってしまうのだ。


ヤドリ群の暗さの原因は分からないが、

でも、もしかしたら。私も彼らと同じなのかもしれない。

誰にも理解されない、望んでいないのに苦しい境遇に置かれる。そんな感覚。



ふと、葉から感じていた太陽の温かみが薄れた。

また曇ってきたのかもしれない。周りの植物たちからもため息が聞こえた。


最近、天気が不安定だ。また暗くなってきたら雨が降るかもしれない。

やれやれ。


近くの植物の雑談が聞こえてきた。


ここ最近、ヤドリ群が増えているらしい。

なので、「簡単な見分け方」も噂話として出てくる。


大きい声で聞こえてきた。


「ヤドリ群って茎が長いとヤドリ群らしいよ」


今朝も聞いた話だ。私は暗い花だけど茎は短いから違――




「それだけじゃなくてね、鮮やかな花をつけない植物もそうみたいだよ」

「ここにも暗い花をつける植物がいるけど、ヤドリ群なのかもね」


風が一瞬吹き止んだ。


――今なんて言った?


『鮮やかな花をつけない植物もヤドリ群』?




なぜ?

いや、例によって言っているのは信用ならないあの草だ。噂を信じるべきではない。

そもそも、「他の植物に宿って群れてる」からあの名前なのだ。私は違う。

それなのに、何かが引っかかった。


もし『暗い花をつける植物もヤドリ群』だとしたら――


存在感のない、いてもいなくても変わらない私も、そうなのだろうか?

茎が脈打つように感じた。


私の活きづらさには、「名前があった」のだろうか?

モヤモヤが晴れたような気がした。花にお日さまの温かさを感じる。


「そうか、私はヤドリ群かもしれない」

「私の活きづらさはヤドリ群という名前だったんだ」


少しだけ、安心した。



その瞬間――


遠くに雷の震えを感じた。

薄暗い方向から、ひそひそと何かが聞こえた。


「活きたくて活きてるわけじゃない」


「苦しい、枯れたい」


「ヤドリ群なんて、呼ばれたくなかった」



――ヤドリ群だったとして、仲間ができたとして、目立たない理由になるとしても。


活きづらさはなにも変わらないのだ。名前が貼られ、区別しやすくなるだけだ。

そして私は、その名前を貼られた植物たちの声を何度も聞いた。



あの、野原全てを呪うような声を。



区別されたところで私の活きづらさは変わらない。

枯れたいと願い、気に入らない色の花であることを嘆き、

こんなことになったのは野原に住む植物のせいだと呪う――


名前を見つけた安心感から、一転、茎を縛られるような思いが

葉の先から根っこまで走った。


「名前がついたところで、活きづらさは変わらないじゃないか」



まとわりつく湿気がうっとうしい。



「私は、いったいなんだ」



雨が近づいて湿度を帯びた土の匂いが、私に語りかけてくる。

「お前はヤドリ群だろ?」と。



その時、一吹きの風とともに『音色』を感じた。

様々な音を組み合わせて、送られる「音」。

月下美人だ。




「何か良くない香りだけど、なにかあったのかい?」

月下美人が聞いてきた。


「いえ、何でもないんです、」

だから大丈夫です。そう言いかけたところで。


我慢できずに色んな感情が溢れて、滝のように喋った。


私のコンプレックス、ヤドリ群、噂話。

そこから抱いた希望と絶望。




降り出してきた雨の中、私は暗い花から水をこぼしながらつぶやいた。


「もっと鮮やかな花になりたかった。大きな花になりたかった」

「活きづらさに名前がついても、活きづらいままだった」

「もう嫌だ、すべての音が嫌いだ」


「枯れたい」



話しかけるというより、独り言のように。あるいは諦めの言葉のように。



彼女は、黙って聞いていた。



いつもの柔らかな空気をまとったまま、音色を響かせて。

音色に言葉を乗せて、返してきた。


「そうだったんだね、すごく分かる。活きづらさに名前がついても、それで活きづらさが無くなるわけじゃないからね。僕もそんな時があった」


月下美人は続けた。



「僕はね、一年に一晩しか咲けない花なんだ」



――一年に一晩しか咲かせない花?



そういえば、確かに月下美人が咲いた姿を見たことがない。

ずっとつぼみで咲く気配もなかった。


一晩しか咲かない花……?



私は「本当ですか?」と聞いた。



彼女は、「本当だよ」と困ったように笑った。



「その花はとてもきれいなんだよ。誇れるほどに」


強くなる雨の中、彼女は続けた。




「でも、この花は一晩でしおれてしまう。だから僕は、その鮮やかな瞬間に咲く」


なんだかそれが諦めているようで、でも輝いているような不思議な感覚があった。

でも。その考えは。




「……鮮やかな瞬間に咲くってなんですか?」



私は冷たく、語気を強めて言った。


「私は、暗くて目立たない花です。花は目立ってこそ花ではありませんか?」

「一晩だけしか咲けない花も、それが自分だというのなら笑えますね」


「誰にも見られない花なんかに、なんの価値もない」





一晩だけ咲く植物は、静かに答えた。


「そうだね、その通りだ。誰にも見られないね」


間を置いて、彼女は続けた。


「でも目に見えるものだけが花とは限らない。僕は、見えない野原で

『音を咲かせている』んだ」




「音を咲かせる」――聞いたこともないフレーズに、私は戸惑った。


「音を咲かせる……とは、何ですか?」



月下美人は身体を揺らして言った。


「音を咲かせる、というのは、一瞬でも境界を越えて、色んなものに音色を届けること」



私は疑問を抱いた。

「境界……というのがよく分かりませんが、つまりなにが言いたいんです?」



――境界を越えても、活きづらいものは活きづらい。



「私も、ヤドリ群も、多分ほかの植物も同じです。私たちは活きづらくて、それを抱えて活きている」



――「他の植物に宿ってはいけない、鮮やかな花でいなければいけない」という価値観も、もしかしたら同じ活きづらさの根っこなのかもしれない――



私の問いに、彼女は答える。


「今、この野原ではあなたの言う通り『私たちは活きづらい』という考えの中で動いていて、だから名前を細かくして、自分を守ろうとしているんだ」


そう。私がヤドリ群になるかも、と思って安心感を覚えたのは、そこだった。

受け入れられないことに対する不安。 それを、名前で守ろうとしたのだ。



「でも、名前で縛ったところで活きづらさは変わらない」


彼女は続けた。


「みんな、活きづらさをもとにして、活きづらさを無くすために名前を作り、さらに自分を縛り付けている。それを僕は『境界』と呼んでいる」




「音を咲かすって、僕とあなたの壁を溶かすことなんだ。音はすぐ消えてしまう。でも、あなたがここにいることで――わずかな時間でも――あなたと僕は、同じ空間にいる」

「それが、境界を溶かす――音を咲かせるってこと」


そう話しながら、月下美人は野原を見渡した。

『壁』がない、広い空間。



なるほど……それで音色を私に送ってくれていたのか。


確かにあの音色を聞いている間、確かに野原のざわめきや葉のこすれる音から解放されていた。活きづらさに向き合う辛さもなく、活きることを頑張らずに済んでいた。




いつの間にか雨は止んでいた。


「ま、こういうこと。少し気持ちは楽になった?」



私は雨上がりの湿気と風を感じながら答える。

「少しは…ですけど。けど、そんな話ならもう少し早く言ってくれても…」


月下美人は言う。


「いや、僕は音色を出してるだけで楽しいから、これで良かったんだ。

けど、あまりに辛そうな香りを出していたから、つい」


つい、か……私、そんな思いつめていたのか。


「ああ、そうだ。こんな話をした上で言うのは何だけどさ」

少し間を置いて、月下美人は言った。



「前からしたかったんだ」


水滴を滴らせながら、楽しそうに。


「一晩だけ、境界を越えて、この野原で音色のお祭りをしない?」

「自分の花も思い切り咲かせよう、とびっきりに」






この話はすぐに、野原全体に広まった。



どうやら私たちの話をこっそり聞いていた植物がいたらしい。


「音色」という聞き慣れない言葉と、「境界を越える」という言葉は、ヤドリ群や、美しい花を咲かせ、プライドがある植物たちに雷のような衝撃を与えた。


多くの好奇心旺盛な植物は賛同したが、ヤドリ群を中心とした植物たちは、


「それをやったことで活きづらさは消えない」「花のない植物に言われたくない」


「俺たちの活き方をないがしろにしている」

などと、月下美人を責めた。



私はなんとも言いがたい感情を抱いていた。月下美人からの折角の誘いを、

自分のことしか考えずに非難するほかの植物たちへの苛立ちだ。




月下美人はこう返した。


「そうですね。おっしゃる通り、活きづらさはなくならないと思います。」

「僕は一夜で花が散る植物です。本当はもっと長く咲かせたい。でも、叶わない」


「活きているのが嫌になる」

間を置いて、彼女は続けた。


「皆さんも活きづらさに差はあるけど、きっと同じ感覚でしょう」

「皆さんも僕も活き苦しくて、もがいている」

「だから、せめて一夜だけ――この活きづらい世界で一緒に咲き誇ってみませんか」






そして雨が上がり、曇り空が茜色に変わっていく頃。


野原には、静かに佇む、月下美人を含めたいくつかの植物と、

普段は薄暗いところから呪いを放っているヤドリ群の植物や、

ざわめく植物たちがいた。




お祭りが始まる前。

夕方から夜に向かう、湿り気を帯びたひんやりとした空気の中、


月下美人が語り始めた。


「僕からのお誘い、お受けいただいてありがとうございます」


葉のこすれ合う音が、青い香りが、野原に充満した。


「それでは――ひと晩だけ、音色のお祭りをしましょう」


ざわつく空気の中、風に交じって、音色が――

聞いたことがない音が、野原を満たした。


ささやくように。しかし存在感があって、まるで一つの植物のように。

それは風でもなく、雨でもなく、雷でもない。

ただ「音だった」。


周りの植物たちのざわめきが止んできた。

葉のこすれる音が、消えてきた。


少しずつ、身体を揺らす植物が出てくる。

地面から芽が出てきた。

「音」が新しい命を作っていく。


ゆっくりと、色んな植物の花が開いていく。

鮮やかな花、小さな花、大きい花。

それらの花が、自分の意思で揺れ、あるいは、風に吹かれて揺らめいた。


立ち尽くす草もいれば、音色をひたすら聞いている草もいる。




月下美人のつぼみが開いて、大きく、純白の花が開いていく。


甘い花の香りが野原に満ちていく。


満月の下、甘い香りが出す大きく白い花。

あらゆる植物も関係なく咲き乱れ、ただただ静かな野原を音が泳ぐ。


しかし、その音色のなかに葉のこすれる音やざわめきが残っていて、

気持ち悪く感じた。


そのとき、薄暗いところから恨みのこもった声が聞こえた。



「苦しみはそんなものでは変わらないのに」



その言葉が、私を現実へ引き戻す。


「…っ!」


だが月下美人は振り返らない。



活きづらさを抱えて「生きる」恨みは、

音色では包み込めない――そのことも前提にしているように。

それすらも音色で包み込むように、


それらすべてが、野原に染み込んでいった。



私の嫌でたまらなかった、暗くて小さい花も満月に照らされて透き通っていく。

その花もたくさんの花に埋もれ、一つとなっていく。


私たちは。

ただの『花』になった。



ああ。こんなにも美しい。




朝露が根に染み込んできた。私は目を覚ます。

まだ周りは静まり返っていて、眠っているようだ。


ふと、月下美人を見る。


美しかった花は散っていて、それでも夜明け前の風を気持ちよさそうに浴びている。



私は、彼女に「あざやかな夜だった」と言った。


彼女は、私に「楽しい夜だった」と言った。




まばゆい光が、地平線から出てきた。

またいつもと変わらない、日常が始まる。


世界も自分もなにも変わらなくて、やっぱり活きづらい。


ヤドリ群はまた薄暗いところにいて、野原には

深く根を張った、色鮮やかな花が咲き乱れるのだろう。


「また次の季節も、音を咲かせよう」

私はそうつぶやいた。


ずっと気に病んでいた花に蝶が止まり、朝露に濡れて光って、美しく見えた。

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