8.蓋をした感情
「桃花さん、お風呂ありがとうございました……って、桜也! おかえりなさい」
「……ただいま、優愛」
お風呂で温まってから出てくれば、リビングには桜也が疲れたような顔で椅子に座っていた。わたしに向かって笑顔を見せるが、その笑顔もぎこちない。あの後、何かあったのだろうか。
聞きたい。でもわたしは番長の桜也を知らない。だから真正面からは聞けない。
しかし迂回して聞くには、どういう切り出し方をすればいいのかも思いつかない。
そのせいで良くないタイプの沈黙が私たちを包んだ。
「……髪」
「え?」
「濡れてるから乾かしてあげる。こっちに来て」
わたしを向かい入れるように、両腕を広げる桜也。
それは抱きしめる前の体制では?
なんて聞く勇気はなくて。口から出たのは確かめる言葉だった。
「ドライヤーかけてくれるの?」
「うん」
「じゃあ、持ってくるね」
「僕が持ってくるよ」
「わたしがやってもらうんだもん。このくらいやらせてほしいな」
「分かった。逃げないでね」
「なんで逃げるの」
冗談を言えるくらいには雰囲気も軽くなった。それが嬉しくて、軽い足取りでドライヤーが仕舞ってある棚へ向かい、ドライヤーを持って桜也の方に戻った。
わたしが近づけば、桜也は安心したかのように表情を和らげる。なにがそんなに不安だったのか。やはりミステリアスな部分は生きているようだった。
ドライヤーを渡して、桜也の前に座る。距離が近いのはいつもの事なので、少しづつ慣れてきていた。
そう、距離については慣れつつあったのだ。
でも、それ以外はそうではないことを、わたしはすっかり失念していた。
カチリとスイッチを入れる音の後、温風が機械から送り出される音がした。
そして、桜也の長く、細い指がわたしの髪に触れる。髪を乾かすために髪の間に指が差し込まれ、滑る。
思えば髪を異性に触れられることなんて、転生してから一切なかった。いや、そもそも一度目の生でも、父親くらいなものだ。恋人はおろか男友達すらいない。そんな人間にドキドキ体験! があるはずもない。美容院も通っていた所は女性ばかりだった。
今更になって、緊張で心拍数が上がる。このドキドキがバレないように祈りながら、髪を乾かす時間が早く終わることを願う。
しかしドライヤーの温風は、わたしの頭の上の方に当たっている。通常、ドライヤーは上から下にかけるらしい。つまり、まだ始まったばかり。終わるまでにわたしの心臓が無事かどうか怪しい。
だって、静かな桜也の心臓の音とは違い、わたしの心臓は太鼓を叩いているかのように、ドンドンと音を立てているのだから。
これ、桜也に聞こえてないよね? ドライヤーの音が大きいし、聞こえてないと信じたかった。
「ねぇ、優愛」
「どっ、どうしたの」
いきなり声をかけられて、驚きで吃ってしまう。変に思われてないか、不安に思いながら桜也の言葉を待つ。
「なんで緊張してるの」
ぐしゃり、と髪が掴まれた。少し引っ張られているようで、頭皮が痛い。
「桜也……?」
「僕が近くにいると不安? 怖い? 朝は安心した顔で挨拶してくれたよね。撫でても嬉しそうに目細めていたよね。なのに何で今は緊張してるの? 僕が君に危害を加えると思った? 君は今日、何か見た?」
緊張しているのがバレていた。いや、そこではない。いま気にするべきは、重要なのは、最後の言葉だ。
『君は今日、何か見た?』
わたしは今、疑われているんだ。彼のアジトの侵入者じゃないかと。
緊張している理由については別だけど、侵入者は間違いなくわたしだ。下手に慌てて言い訳をすれば、自白まがいのことを言ってしまう自信がある。
だからしっかりとした言い訳を考えなくては。
「桜也、わたしは――」
「僕のことは嫌い?」
その言葉を聞いて、察しの悪いわたしはようやく気づいた。
「嫌いじゃないよ」
わたしは、桜也が髪の毛を掴んでいる手に自分の手を重ねた。わたしよりも大きいその手は、震えていた。
声だってそうだ。わたしを責めるような言葉が並んでいたけど、不安に泣きたくなる子供みたいに揺れていた。
わたしが気にするべきだったのは、今日の行動がバレる危険性じゃない。不安に襲われる彼を、どうやったら安心させられるかどうかだ。
「嫌いになんてなるわけない。わたしは何があっても桜也を嫌ったりしない」
「……それじゃあ、どうして緊張してるの? 僕が首を絞めたり、ドライヤーで頭を殴ったり……君を襲うんじゃないかって、心配なんじゃないの?」
「そんなこと、桜也はしないでしょ」
「するかもしれないよ」
ドライヤーの音が止まる。わたしの首をドライヤーを持っていた方の手で掴む。力は入っていない。でも、いつでも彼はわたしの首を締められる。
「しないよ」
「どうして言い切れるの?」
貴方は、やると決めたら誰にも何も言わずにやる。わたしを殺す気なら、確認するような行動を取らない。ずっと見てきたから知っている。
そうは言えないので「内緒」と答えた。
「何それ」
「わたしは分かるの。――桜也のことが大好きだから」
他意はなく、嘘もない。素直な気持ちだった。
わたしは桜也が好き。もちろん、主人公である洋太も、颯介も好き。セブキーの全てが好きだった。
だからそれ以上はない。あってはならない。許されない。
わたしは口元まで出かけた、気づいてはいけない感情を飲み込んで笑う。無邪気な、子供らしい笑顔で。
「さっき緊張してたのは、その……桜也が近くて……恥ずかしくて……」
「いつもと同じくらいな気がするけど」
「髪とか! 触られるのは、初めてだったから……」
わたしの暴露に、桜也は「かわいいね、優愛」と少し嬉しそうに呟く。あまりの恥ずかしさに。顔から火炎放射器並の火が吹き出しそうだ。
「優愛は……僕がどんな人間でも受け入れてくれる?」
まだ不安なのだろう。桜也はそう問いかけてくる。答えは決まりきっていた。
「もちろん!」
「例えば、凶悪な殺人鬼でたくさんの人を殺したりしてても?」
「うん」
「お金が欲しくて、人を騙してたりしてても?」
「うん」
「優愛を死ぬ寸前に追いやってたとしても?」
思わず振り向けば、彼は真剣な瞳でわたしを見ていた。試す瞳だ。どこまでも、自分の中の不安が消え去るまで、わたしに確認する。
ならわたしも応えなくては。嘘など無いと。迷わずに、真っ直ぐに。伝えなくては。
「桜也になら、ここで殺されてもいいよ。もちろん、桜也はそんな事しないって分かってるけど。……それでも、桜也なら許せるよ」
わたしは許す、許さないを語れる立場にない。だけど、今だけは、桜也を安心させるために、その立場に立つ。
「優愛」
「なぁに?」
「君は……優しすぎる。いつか、君の良心に付け込む悪人に、君は心を食い尽くされるよ」
「えー、そんな人いないよ」
「いるよ、ここにいる」
わたしの首から手を離した桜也。両方の手を使って、くるりとわたしを回転させる。
桜也と目が合った、と思ったら、彼はすぐにわたしの首元に顔を埋めた。
「さ、桜也……!!」
「ねぇ、優愛」
「あの、い……息が……」
喋ると息が直接首元にかかって恥ずかしい。桜也がすぐ近くにいると、嫌でも分からさせられる。
というか、匂い! お風呂に入ったばかりで大丈夫だと思うけど、それでも気になってしまう。全身くまなく、いい匂いのボディーソープで洗った……よね? まずい。急に不安になってきた。
桜也を離して、自分で匂い嗅いでもいいかな? 首元の匂いって嗅げるかな? いや、それよりも髪まだ濡れてるよね? 極力水気はタオルに吸水させたはずだけど、冷たいよね? 水が桜也にかかったらどうしよう。
混乱しすぎて思考がどんどん変な方向に行ってる! 落ち着くんだ、わたし。
「優愛は優しい」
「さ、さくや……!」
「そして綺麗だ。あの日からずっと変わらずに。……ううん、違うな。もっと綺麗になってる。誰よりも、何よりも」
何だ! この羞恥プレイは!
この体制でただひたすらに褒められるの、恥ずかしいを通り越してる。もはや、殺しに来ているだろう。
確かに優愛の顔は可愛い。顔面国宝、とまでは言わなくても、美少女キャラだ。
でもわたしは優愛に転生した一般人。褒められるべきはわたしじゃなくて優愛や、優愛を産んだ両親であるべきだ。
なので今すぐ解放してほしい。本当に息の根が止まる!
「ほ、めるなら……わたしじゃ、ないよ……」
「ううん。優愛だよ。優愛が綺麗なんだ。美しく輝き続けている」
「ち、がう……だって、わたしは……」
優愛じゃない。偽物だ。だって、本物の優愛は――。
「君だよ」
桜也が顔を上げる。わたし達の間は多分、五センチもない。そのぐらいの至近距離で、見つめ合う。
彼の瞳の中のわたしが見える。優愛の顔だ。美少女が、苦しそうに顔を歪めている。
それは、わたしだ。わたしは、苦しいんだ。
「さくや……」
「君は僕の大切な、ただ一人だ。唯一無二、代わりはいない。いていい訳がない」
その言葉は、間違いなくわたしに向けられていた。
桜也が、転生の事実を知るわけない。彼は何も知らずに、わたしに言葉と愛を向ける。
それが当たり前であるように。わたしだけを見てくれている。
「わ、たしは……」
「好きだよ、優愛。僕の世界の唯一の光」
泣きたかった。けれど、理由はわかりたくないから泣けなかった。泣いてしまったら、それを認めたも同然になる。だから堪えた。こらえるしかなかった。
五センチもない距離。短い距離を埋めるために、桜也がゆっくりと近づいてくる。
わたしは、動けなかった。
「優愛……っ」
「ダメに決まっているでしょう」
声と共に桜也の動きが止まる。声の主はわたしの位置からは見えないが、すぐに分かった。
「もう、桜也。優愛さんはまだ幼いのよ。そういうことはダメよ」
「………………母さん」
「そんな顔をしてもダメ」
桃花さんはわたしを持ち上げる。軽々と持っているが、わたしは小学校低学年の平均体重くらいはあるはず。意外と力持ちみたいだ。
「大丈夫? 優愛さん」
「は、はい……」
「無理はしなくていいのよ。嫌なら拒否してもいいの」
傍に居てあげてほしい。彼女の願いは本当にそれだけのようだ。
「その、いやでは……ないので……」
心臓に負荷がかからない程度にはしてほしいが、わたし自身をを見てくれるのは嬉しかった。嫌ではないんだ。心臓にもう少し優しくしてほしいが。
わたしが正直に気持ちを伝えれば、桃花さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「あらあら、そうなの。でも、まだ過度な触れ合いはやめておいた方がいいわ。優愛さんは、まだ幼いんだから」
優しく頭を撫でてくれる桃花さん。
彼女の言葉は正しい。大人、とまではいかないが、桜也はわたしよりも年上だ。前世のわたしが高校生だったので、実際には同い年くらいではあるけど、転生の事実はわたししか知らない。周りから見れば私は子供。
いくら未成年同士とはいえ、恋人のような触れ合いは良くない。
しかし、わたしが嫌じゃないって言ったのは、恋人のような触れ合いについてではない。そこはしっかり否定しておかなくては。
「あの、わたしが――」
「そうだね。僕も優愛に触れたくて、急ぎすぎた」
「だからそこじゃなくて――」
「見ていたのが私で良かったわね。もしもあの人だったら、大変なことになってたわよ」
「話を――」
「あぁ、そうだね。あの人は、許さないだろうね」
わたしを置いて話をしている二人。ポンポンと会話が進むので、訂正の隙がない。
……もういいか。触られるのも嫌ではないから。
そう嫌ではない。でもされていい人間ではない。
わたしは、大切にしてくれている二人に、大切なことを話せていない。そんなずるい人間だ。彼に大切にされる資格はない。
もちろん、言う勇気があるはずもなく、わたしは黙って二人を見つめた。
わたしと二人。その間にどうしようもなく大きい隔たりを感じながら。
次の更新予定
2025年12月13日 10:00 毎週 土曜日 10:00
死んでいるはずの幼女に転生したら主人公のライバルキャラに溺愛されています!? かほのひなこ @kahonohinako
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