結衣と風の猫

森の ゆう

第1章 白猫しろと午後の光 ―パート1―

春の午後の光は、まるで眠たげな猫のまぶたみたいにやわらかかった。

 放課後の公園には誰もいない。風が花びらを巻き上げて、ベンチの上にひとひら落ちる。結衣はそこに腰かけ、開いたままの本を見つめていた。ページは風に揺れるけれど、目はそこに留まらない。

 今日はなぜか、読む気じゃなかった。

 ため息をひとつ。ふと足元に影が落ちた。白い毛並みの猫が一匹、こちらをじっと見ている。分

 毛は陽に透けて、輪郭がやわらかく揺れているように見えた。

「こんにちは」

 思わず声をかける。すると猫は、まばたきを一度して、口を開いた。

『今日は泣いてないんだな』

 ……え? 耳がおかしくなったのかと思った。

 けれど確かに聞こえた。言葉として。

「しゃ、しゃべった?」

『しゃべる? まあ、おまえが聞こえるんだろう』

 猫はのんびりと尾を振り、ベンチの足元に座りこんだ。

 その態度はまるで「当然だ」とでも言いたげだった。

「聞こえるの、私だけ?」

『さあな。人間の耳なんて気まぐれだ』

 しばらく沈黙が落ちた。風が枝を揺らし、遠くで子どもの笑い声がした。

 猫は前足をそろえて、空を見上げる。

『泣くのは悪いことじゃない。猫だって、雨の日は鳴きたくなる』

 その一言が、結衣の胸の奥をやさしく撫でた。

 今日は泣いていない。

 だけど、昨日までは違った。

 何もかもが重たく感じて、誰にも話せなくて、公園のベンチでただ俯いていた。

 それを、この猫は知っている。

「あなた、名前は?」

『しろ』

「そのまんま」

『他にいるか? 白い猫なんて』

 思わず笑ってしまう。笑ったのなんて、いつぶりだろう。


第一章 白猫しろと午後の光 パート2


 しろは前足をなめ、毛づくろいをしていた。陽だまりの中で白い毛がきらめく。その姿を見ていると、胸の奥のざらつきが少しずつ溶けていくようだった。

「しろって、いつからここにいるの?」

『おまえがこのベンチに座るずっと前だ。人間がいなくても、風と鳥がいれば退屈しない』

「へえ……じゃあ、公園の主みたいだね」

『主なんて大げさだ。けどまあ、誰かが見てなきゃ落ち葉も積もるからな』

 冗談みたいに言うしろの声が、妙に落ち着いて聞こえた。

 結衣は本を閉じ、しろと同じように膝の上で手を重ねた。

「……私も、ここにいるの好きだよ」

『なぜだ?』

「静かだから。誰も、何も、私に話しかけてこない」

 言ってから、自分でも少し苦く笑った。

 静かでいることを望んでいたのに、実際に静かになると、心の中は余計にうるさくなる。

 そんなことを猫に打ち明けている自分が、なんだかおかしかった。

『人間は面倒だな。誰も話しかけてほしくないくせに、ひとりは嫌なんだろ?』

「……そうかも」

『猫はいいぞ。ひとりでも群れでも、生きたいように生きる』

 しろは立ち上がり、ベンチの影に潜りこんだ。

 風が吹き抜けて、桜の花びらが結衣の肩に落ちる。

 彼女は小さく息を吸って、その花びらをそっと指でつまんだ。

「ねえ、また明日も来る?」

『どうだろうな。気分次第だ』

「ふふ、猫らしい」

『ただし、おまえがまた泣くなら来る。涙の匂いはすぐわかるからな』

 その言葉に、心が少し震えた。

 涙の匂い。そんなもの、ほんとうにあるのかもしれない。

 夕方の光が傾いて、街のざわめきが遠くに戻っていく。

 時計を見ると、もうすぐ五時を過ぎていた。そろそろ帰らないと母が心配する。

「じゃあ、また明日」

『ああ。明日も風が吹けば、ここにいるかもしれん』

 白いしっぽがベンチの下からすっと出て、また隠れた。

 結衣は立ち上がり、カバンを肩にかけた。

 家路へ向かう途中、振り返ると、ベンチの上に花びらが一枚。

 その下に、しろの足跡が二つだけ残っていた。


第一章 白猫しろと午後の光 パート3


 翌日の昼休み、教室の窓から差し込む光はまぶしかった。

 周囲では友達同士の笑い声が飛び交っている。スマホを見せ合う女子たちの輪の中に、結衣の姿はない。

 机に弁当を広げ、ゆっくりとおにぎりをかじる。

 味はいつも通り。でも、口の中に残るのは、なぜか昨日の公園の風の味だった。

 ちらりと窓の外を見る。遠くに桜並木が揺れている。

 あの向こうに、公園がある。

 そこに、あの猫がいるかもしれない。

 “また明日も風が吹けば、ここにいるかもしれん”――しろの声が頭の中でよみがえった。

 昼休みが終わり、午後の授業が始まる。

 黒板の文字を追いながらも、頭のどこかで白い毛並みが揺れている。

 放課後になるころには、もうノートの文字は意味を持たなくなっていた。

 チャイムが鳴った瞬間、結衣はカバンをつかんで教室を出た。

 誰かに声をかけられることもなく、昇降口を抜ける。

 靴を履き替え、外へ出ると、空は少しだけ曇っていた。

 公園までの道は、住宅街を抜ける細い坂道。

 車の音と、風に揺れる洗濯物の匂い。

 歩くたびに、昨日のしろの言葉が少しずつ心の奥に染みていく。

 公園に着くと、ベンチの上に一匹の猫が座っていた。

 昨日のしろ……ではない。

 小柄な三毛猫で、目の色は金と緑のあいだのような不思議な色をしている。

「こんにちは」

『あんた、しろのお友達?』

 今度は驚かなかった。

「そう。あなたは?」

『ミケ。ここの情報通。人間のことも、猫のことも、だいたい知ってるわ』

「へえ、情報通?」

『そうよ。昨日、泣いてた子が笑って帰ったって、みんな話題になってる』

 ミケは胸を張るように尻尾を立てた。

 その姿に思わず笑みがこぼれる。

『しろ、あんたのこと気に入ったみたいよ』

「……ほんと?」

『あの子、めったに人間なんて相手にしないのにね』

 風が吹いて、桜の花びらが二人のあいだに舞い落ちる。

 それはまるで、昨日と今日をつなぐ合図のように見えた。


第一章 白猫しろと午後の光 パート4


 ミケと話していると、ベンチの向こうからゆっくりと足音がした。

 いや、足音というよりも、柔らかな風が草を踏むような気配だった。

 振り向くと、そこに――しろがいた。

 昨日と同じ穏やかな目で、まるで結衣を確かめるように見ている。

『また来たのか』

「うん。……しろ、昨日、来るって言ったじゃん」

『言ってない。風が吹けば、って言っただけだ』

「風、吹いたよ」

『なるほど、そういう理屈か』

 しろはあきれたように尻尾を振り、ミケの隣に座った。

 その仕草が妙に人間くさくて、結衣は思わず笑ってしまう。

『ミケ、しゃべりすぎてないか? こいつ、まだ慣れてないだろう』

『大丈夫よ。あんたより聞き上手みたい』

『ふん……猫は口より耳を使うもんだ』

「二人とも仲いいんだね」

『仲良くない』『仲いいわよ』

 同時に返ってきて、結衣は吹き出した。

 少しして、風が止んだ。

 静けさが公園を包み、遠くでカラスの声が響く。

 そのとき、しろがぽつりと言った。

『おまえ、どうして猫の声がわかるんだ?』

「……わかんない。小さいころから、聞こえる気がするだけ」

『聞こえる“気がする”、か。なるほど、人間の耳より、心のほうが素直なんだな』

「心の……耳?」

『そう。人間が聞き逃す声を拾えるやつ。珍しいけど、悪くない』

「変な能力って思わないの?」

『猫の世界じゃ、風を読めるやつと同じだ。ちょっと賢いだけだよ』

「ふふ、なんか嬉しい」

 しろは目を細めて、ベンチの下に身を沈めた。

『ま、賢くても、泣くときゃ泣けよ。涙は詰まると錆びる』

「……うん」

 どこかで鈴の音がした気がして、結衣は空を見上げた。

 薄い雲の隙間から、柔らかな光がこぼれている。

 帰り道、結衣は少しだけ足取りが軽かった。

 ポケットの中でスマホが震える。

 母からのメッセージ――「今日は帰り遅い、ご飯チンしてね」。

 短い文なのに、不思議とあたたかく感じた。

 家の角を曲がると、風が頬を撫でた。

 桜の花びらが一枚、舞い落ちる。

 それを見上げながら、結衣は小さくつぶやいた。

「……また、明日も行こう」

 その声は、風に乗ってどこまでも広がっていった。


第二章 黒猫クロの言葉 パート1


 数日ぶりに、空が曇っていた。

 桜の花びらはすっかり散り、地面に淡いピンク色の絨毯をつくっている。

 放課後の公園は、人影もなく、風が少し冷たかった。

 結衣はいつものようにベンチに腰かけた。

 けれど、しろの姿が見当たらない。

 ミケもいない。

 ただ、遠くのフェンスの上に、黒い影がひとつ。

「……あれ?」

 細長い尻尾が、ゆらりと揺れる。

 黒猫だ。

 真っ黒な毛並みは光を吸いこむようで、目だけが琥珀色に光っている。

 結衣が一歩近づくと、その猫は低い声で言った。

『近づくな。知らないやつの匂いがする』

 その言葉に、思わず立ち止まった。

「え、あなたも……しゃべるの?」

『しゃべる? おまえが勝手に聞いてるだけだろ』

 その声音は、どこか刺々しい。

 しろのような穏やかさとはまるで違う。

「えっと、私、結衣。しろとミケに会ったことがあって――」

『ああ、あの説教くさい白と、うるさい三毛の仲間か』

「仲間……っていうほどでもないけど」

『ふん。どっちでもいいさ。人間がまた来たのかと思って見てただけだ』

 黒猫はフェンスから軽やかに飛び降りた。

 着地した音はまるで風が地面に触れたみたいに静かだった。

 近くで見ると、しなやかな体つきで、目の奥にどこか寂しげな光がある。

「あなた、名前は?」

『クロ。それ以外の呼び方はしないでくれ』

「わかった、クロ。……あの、しろは?」

『知らん。あいつは気まぐれだ。風の匂いが変われば、すぐ別の場所に行く』

「そっか……」

 結衣は少しうつむいた。

 するとクロが、ため息をつくように言った。

『人間って、すぐ顔に出るな。泣きたいなら勝手に泣け。俺は見てない』

「泣かないよ」

『強がるのも人間のクセだ』

 その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。

 でも同時に、どこか懐かしい感じがした。

 まるで、心の奥を見透かされているようで。


第二章 黒猫クロの言葉 パート2


 クロは公園のベンチの足元に座り、前足を組んで空を見上げていた。

 曇り空の切れ間から、ほんの一瞬だけ陽が差す。

 その光を浴びた黒い毛並みは、まるで濡れた夜のように艶やかだった。

『おまえ、毎日ここに来るのか?』

「うん。放課後はだいたいここ。なんか、落ち着くから」

『他に行くとこないのか?』

「うーん……家か、学校か、コンビニくらい」

『ふん、人間のくせに狭い生き方だな』

「そんなこと言われても」

『猫は自由だ。誰にも頼らず、誰にも縛られない。……おまえも少し見習え』

 クロの言葉は冷たく聞こえるけど、どこか優しさが滲んでいた。

 彼が言葉にする“自由”という響きが、結衣には少し羨ましかった。

「クロは、どこから来たの?」

『さあな。気づいたら、ここにいた』

「ここが好きなの?」

『嫌いじゃない。人間が少ないからな。静かだし、風が通る』

 しろと同じようなことを言う。

 けれど、クロの声にはどこか“逃げ場所”のような響きがあった。

 その空気を感じ取ったのか、自分でもわからないまま、結衣は口を開いた。

「……誰かを、探してる?」

 クロはしっぽの動きを止めた。

 一瞬、風まで止まったように思えた。

『……そんなふうに見えるか?』

「うん。なんとなく」

『ふん。猫のくせに、よく見てやがるな』

「私、人間だけど」

『人間で、猫の声が聞こえるやつなんて、猫より猫だろ』

 その一言に、結衣は思わず笑ってしまった。

 クロはそっぽを向いたまま、しっぽの先で地面を叩く。

『笑うな。俺は冗談を言ったつもりはない』

「ごめん。でも、なんか嬉しかったから」

『人間は変だな。悲しいときに泣くくせに、笑うときも泣きそうな顔をする』

「……それ、たぶん同じことなんだよ」

『理解不能だな』

 クロはそう言って、ベンチの上に飛び乗った。

 その黒い背中が、薄い陽射しに溶けていく。


第二章 黒猫クロの言葉 パート3


 ベンチの上で、クロは丸くなった。

 片目だけ開けて、じっと結衣を見ている。

 その視線には、警戒と、ほんのわずかな興味が混じっていた。

「ねえ、クロ」

『なんだ』

「前に人間と一緒にいたこと、あるでしょ?」

 クロのしっぽが、ぴくりと止まった。

『……なんでそう思う』

「なんとなく。ごはんの話とか、人の話が、少し詳しいから」

『……ああ、あれか。あいつがよくしゃべってたからな』

「あいつ?」

『名前は忘れた。小さな男の子だった。いつも俺の首に鈴をつけたがった。うるさくてしょうがなかった』

 言葉の端に、かすかな苦笑が混じる。

 けれど次の瞬間、クロの瞳がすこし曇った。

『ある日、いなくなった。人間ってやつは、いきなりいなくなるんだな』

「……置いていかれたの?」

『さあ。俺は追いかけなかった。あいつが戻ると思わなかったから』

 その声は、風よりも低く、淡々としていた。

 だけど、その淡々さの奥に、冷たい痛みが確かにあった。

 結衣は何も言えなかった。

 その感覚が、どこか自分に似ていたからだ。

「……私も、似てるかも」

『は?』

「父さん、昔にいなくなった。理由もわからないまま。

 探さなかったの、怖かったからかもしれない」

 クロは小さく耳を動かした。

 風が二人の間を通り抜け、桜の花びらを一枚、ふわりと運ぶ。

『……おまえ、少しだけマシな人間かもしれん』

「それ、ほめてる?」

『さあな』

 結衣は笑って、クロもわずかに目を細めた。

 その瞬間、たしかに何かが通じた気がした。

 言葉じゃなく、風のような“感覚”で。

 空を見上げると、曇り空のすき間から、少しだけ光が差していた。

 クロの黒い毛がその光を受けて、まるで夜明け前の闇のようにやさしく見えた。


第二章 黒猫クロの言葉 パート4


 気がつくと、もう夕暮れだった。

 西の空が淡い橙に染まり、街の屋根の輪郭がやわらかく浮かんでいる。

 クロはベンチの上で伸びをして、欠伸をひとつ。

『そろそろ帰れ。人間の時間は短いんだろ』

「うん。でも、もう少しだけ」

『だめだ。暗くなるとカラスがうるさい。おまえみたいなの、すぐ狙われる』

「心配してくれてる?」

『してない。面倒が嫌いなだけだ』

 結衣は笑って、空を見上げた。

 曇りの切れ間から見える小さな星がひとつ、かすかに瞬いている。

 その光を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。

「クロって、やさしいね」

『その言葉、聞こえなかったことにする』

「そう?」

『ああ。優しいって言葉は、信用できない。人間は、すぐそれを壊す』

 クロの声が、少しだけ震えていた。

 それ以上、結衣は何も言わなかった。

 風の音だけが、二人の間を流れる。

 しばらくして、クロがふと立ち上がった。

『……あいつが言ってたな。泣くなら、風の中で泣けって』

「……あいつって、しろ?」

『ああ。あいつは昔からそうだ。口うるさいくせに、肝心なことは風任せだ』

 クロは少しだけ笑ったように見えた。

 それが、ほんの一瞬の優しさだと結衣は感じた。

「風の中で泣く……か。なんか、いいね」

『おまえにはまだ早い。泣くより、生きるほうを覚えろ』

「それもしろの受け売り?」

『……うるさいな。さっさと帰れ』

 その言葉には、いつもの棘が少なかった。

 結衣は立ち上げ、カバンを肩にかける。

 ベンチの上の黒猫に、もう一度目を向けた。

「また来てもいい?」

『好きにしろ。……ただし、俺の前で泣くな』

「わかった」

 クロは背を向けて、ゆっくりと歩き出した。

 夕陽の中で、その黒い影が少しずつ長く伸びていく。

 風が吹いた。

 どこからか、しろの声がかすかに聞こえた気がした。

 ——“風は、いつか届く”。

 結衣は小さく笑って、ベンチに残った花びらをそっと払った。

 その仕草は、昨日よりも少しだけ、大人びていた。


第三章 ミケのひとりごと パート1


 こんにちは。あたし、ミケ。

 見てのとおり、三毛猫。性格は明るくて、ちょっとおしゃべり。いや、かなりかも。

 でも、退屈な町の毎日を面白くしてるのは、たぶんあたしのせいだと思うのよね。

 この公園には、いろんな猫がいる。

 木の上が好きなトラ、パン屋の裏で寝てるチャトラ、そして……しろとクロ。

 あの二匹は昔から有名。しろは“先生”、クロは“問題児”。

 あたしはその中間で、みんなの話を聞く役。いわば“町の情報通”。

 昨日もパン屋の裏で、スズメたちが騒いでた。

 「最近、人間の女の子が猫と話してるんだって!」って。

 最初は笑っちゃったけど、実際に見てみたらほんとだった。

 ベンチに座る黒髪の少女。泣きそうな顔して、それでも猫に“こんにちは”って言った。

 あたし、思わず見惚れちゃったのよ。だって、人間のくせにちゃんと“目”で話してたから。

 あの子――結衣って言うらしい。

 昨日はしろと、今日はクロと。ずいぶん珍しい順番ね。

 あの黒いの、人間に話しかけるなんて滅多にない。

 きっと気になってるのよ。いや、あいつのことだから“気にしてないふり”かも。

 猫の世界にも“プライド”ってあるの。

 クロは特にそれが高い。

 でもね、あいつ、昔は飼われ猫だった。

 飼い主の子どもがいなくなってから、ずっと一人で夜の道を歩いてる。

 そんなクロが、人間とまた話してるなんて、ちょっと奇跡みたい。

 しろ? あの子は昔から達観してる。

 風の匂いで天気を当てるし、星の位置で夜明けを知る。

 猫のくせに“哲学者”気取り。あたしは“説教くさい”って呼んでるけど。

 それにしても、最近の風は変だ。

 柔らかくて、でもどこか寂しい。

 町のどこを歩いても、あの子の匂いが混じってる。

 人間のくせに、ちゃんと“風に残る心”を持ってるんだ。

 だからきっと、猫たちが気になるんだろうね。

 さて、今日はどんな話が聞けるかしら。

 あたし、そろそろパン屋に行かなくちゃ。

 魚屋のネコたちの噂も仕入れなきゃだし、しろにも報告があるの。

 なにって? あの子、結衣が“風を読める人間”だってこと。

 しろなら、たぶんもう気づいてるけどね。


第三章 ミケのひとりごと パート2


 あたしはパン屋の前を歩く。

 朝になるといい匂いがして、昼には子どもたちが笑ってる。

 だけど今は夕方。焼き立ての香りのかわりに、パンくずをついばむスズメたちの声。

 その横を通ると、パン屋のおばさんが言うの。

 「ミケちゃん、今日も来たのね」って。

 ふふ、猫にも名前を覚えてくれるなんて、ちょっと嬉しい。

 この町の人間たちは、みんな猫にやさしい。

 魚屋も八百屋も、ちょっとした切れ端を分けてくれる。

 あたしら猫がこの町でのんびりできるのは、人間たちのおかげでもある。

 でも、あの子――結衣は、ちょっと違う。

 あの子は“やさしい”んじゃなくて、“ちゃんと見てる”。

 人間って、目の前にあるものを見てるようで見てない生き物なのにね。

 坂道をのぼると、公園が見えてきた。

 春の名残の花びらが、風に少しだけ舞っている。

 ベンチには、しろが座っていた。

 いつものように静かで、目を閉じて風を感じてる。

 まるで詩人みたい。あたしはちょっとだけあくびをした。

『よう、しろ。昼寝中?』

『風を聞いてた。おまえこそ、パン屋で盗み食いか?』

『ちょっとよ。バレてないもん』

『バレてるさ。人間は気づいていて見逃してるんだ』

『やだ、それなら優しすぎて逆に照れるじゃない』

 あたしたちは並んでベンチの下に座った。

 風が少し冷たい。けど、嫌な感じじゃない。

『なあ、しろ』

『なんだ』

『最近、風の匂いが変わったと思わない?』

『ああ。春の終わりの風だ。けど、それだけじゃない』

『でしょ? なんか、“ひとの匂い”が混じってる』

『あの娘のことだな』

 しろはゆっくりと目を開け、空を見上げた。

 オレンジ色の雲の隙間から、薄い光が差しこんでいる。

『あの娘は、風に言葉を乗せる。猫にはそれが聞こえる』

『ふうん……つまり、“風を読む人間”ってこと?』

『そう呼んでもいい。けど、あの娘自身はまだ気づいていない』

『気づいたら、どうなるの?』

『たぶん……町の風が、もう少し優しくなる』

 しろの言葉は、相変わらず詩みたい。

 でも、あたしはそれが嫌いじゃない。

 風が変わる――それがどんな意味なのか、まだわからないけど、

 あの子がここに来てから、この公園の空気が少し明るくなったのはたしかだ。


第三章 ミケのひとりごと パート3


 夜の町は、昼間とはまるで違う顔をしている。

 街灯が少ないこのあたりでは、月の光がいちばんの明かりだ。

 アスファルトの上を歩くと、足音がしない。猫の足って、ほんと便利。

 でも、夜の空気は少し冷たくて、鼻の奥がきゅっとする。

 あたしは魚屋の前を通り、路地を抜けて、公園へ向かう。

 ベンチの上には誰もいない。

 代わりに、ブランコの影の中に黒い輪郭があった。

『……よぉ、クロ』

『なんだ、ミケか。夜に一人で出歩くなんて、物好きだな』

『お互いさま。ここで何してんの?』

『風を聞いてた』

『あら、しろみたいなこと言うじゃない』

 クロはしっぽを軽く振った。

 風が止まり、月が雲の向こうへ隠れる。

 夜の空気が少し重くなる。

『あの娘のこと、どう思う?』

 あたしがそう聞くと、クロは少し黙った。

『人間は嫌いだ。でも、あいつは……少し違う』

『違うって?』

『ちゃんと、見てくる。猫を見て、風を見て、自分を見てる。そういう目は久しぶりだ』

 その言い方が妙に真剣で、あたしは目を細めた。

『ふうん、珍しいね。クロがそんなふうに言うなんて』

『うるさい。たまたまだ』

『ふふ、たまたまが続くと、それを“運命”って言うのよ』

『猫にそんな言葉はない』

『でも、風にはあるんじゃない?』

 クロは空を見上げた。

 雲が切れて、月が戻る。

 淡い光が、クロの黒い背中に落ちる。

 その姿は、まるで夜そのものが形を持ったみたいだった。

『……あいつ、しろに似てるな』

『え? どこが?』

『風を信じるところ。馬鹿みたいに素直なとこ』

『それって、褒めてる?』

『知らん』

 クロは立ち上がり、ブランコを押すようにしっぽを揺らした。

 風が動き、鈴の音が遠くで鳴った。

 たぶん、どこかでしろが歩いてる。

 夜風が、少しやさしくなった気がした。

 あたしはその匂いを胸いっぱいに吸いこんで、小さくつぶやいた。

「やっぱり、町の風、変わってきてるわね」


第三章 ミケのひとりごと パート4


 朝の町は、猫たちにとって一日のはじまり。

 人間たちはまだ眠そうな顔をしてるけど、あたしたちはもうパトロールの時間よ。

 パン屋の裏をのぞいて、魚屋の前を通って、最後は公園。

 どんなに眠くても、ここだけは外せない。

 風が、やっぱり違う。

 やわらかくて、甘い匂いが混じってる。

 昨日の夜、クロと話したときのあの風と同じ。

 たぶん、あの娘――結衣が歩いてきてる。

 案の定、ベンチの向こうから足音がした。

 制服のスカートを揺らしながら、結衣がゆっくりとやってくる。

 顔は少し眠そう。でも、口元には小さな笑みがあった。

『おはよう、結衣』

「あ、ミケ。……もう来てたの?」

『当然。パン屋の新作チェックしてきた帰りよ』

「それ、チェックじゃなくて盗み食いじゃない?」

『細かいこと言わないの。猫の世界では“味見”って言うの』

 結衣がくすっと笑った。その笑い声が、公園に広がる。

 その音に気づいたのか、草むらからしろが顔を出し、

 ブランコの影からクロも現れた。

『……朝っぱらからうるさい』

『クロ、朝ごはんは?』

『カラスの子分からパンくずもらった』

『あんた、意外と社交的なのね』

『誤解するな。取引だ』

 クロがそっぽを向く。しろはそんな二匹を見て、静かに尻尾を揺らした。

『いい風だな』

『ね、やっぱり変わったでしょ?』

『そうだ。町が少し軽くなった。風が笑ってる』

『風が笑う? なにそれ』

『人間で言うと……“ありがとう”みたいなもんだ』

 あたしはしろの言葉を聞いて、なんだか胸がくすぐったくなった。

 しろはほんと、詩人すぎる。

 でも、結衣が笑うと、たしかに風がふわっとあたたかくなるのよね。

 日が高くなって、人間たちが公園に入ってくる。

 子どもたちの声、ボールの音、カラスの鳴き声。

 あたしたち猫はそれを見ながら、ベンチの下に身を寄せ合う。

『なあ、ミケ』

『なに?』

『あの娘、これからどうなると思う?』

『さあね。でも、風が変わったのなら、きっと悪くない方向よ』

『根拠は?』

『猫のカン。これがいちばん当たるの』

 クロは鼻で笑い、しろは目を細めた。

 その静かな朝の空気の中で、あたしはそっと思った。

 ——この町の風は、今日もやさしい。

 そして、あの娘の笑い声を、ちゃんと覚えている。


第四章 雨の日の約束 パート1


 放課後、空は朝からの曇りを我慢できなくなったみたいに、静かに降り出した。

 傘に当たる雨の音が、ぽつぽつとリズムを刻む。

 結衣は小さなビニール傘をさして、公園へ向かっていた。

 「今日は行かなくてもいいかな」と思ったけど、足は自然に動いていた。

 公園には誰もいない。

 ベンチも、遊具も、全部少しずつ濡れている。

 風が吹くと、雨粒が頬に跳ねた。冷たいけど、気持ちよかった。

 ベンチの下から、小さな白い影が動いた。

『遅いな』

「……しろ?」

 白猫が顔を出した。毛は少し濡れているけれど、いつも通り落ち着いていた。

『よく来たな。雨の日は人間がいないから、静かでいい』

「風邪ひかないの?」

『猫は濡れても大丈夫だ。乾けばふわふわに戻る』

 結衣は笑って、傘を少し傾け、しろの頭の上に影を作った。

「ほら。少しは濡れにくいでしょ」

『余計なお世話だが、悪くない』

 雨の音が、ふたりの間をやさしく埋めていた。

 しろはベンチの端に座り、尻尾で水をはじく。

『今日は泣かないのか』

「うん。なんか、泣く気分じゃない」

『そうか。それでいい』

 結衣は空を見上げた。

 傘越しに見える雨の線が、少しきれいだった。

「ねえ、しろ。雨って嫌い?」

『嫌いじゃない。みんなをゆっくりにするからな』

「たしかに……みんな、急がなくなるね」

『だから、おまえもゆっくりしていい』

 しろの声は静かで、どこか優しかった。

 それを聞いていると、胸の中にあったもやもやが少しずつ薄れていく。

「ねえ、また明日も来る?」

『来てもいいし、来なくてもいい。だが、来ると決めたなら、雨でも来い』

「雨でも?」

『ああ。雨の日のほうが、話はよく届く』

 結衣は小さく笑ってうなずいた。

「わかった。雨の日でも、来る」

『約束だ』

 その言葉のあと、しろはゆっくり立ち上がり、ベンチの下へ戻っていった。

 残った足跡が、水たまりににじんで消えていく。

 結衣は傘を握り直し、もう一度ベンチを見た。

 なんでもない会話なのに、胸の奥が少し温かかった。


第四章 雨の日の約束 パート2


 翌朝、空はうそのように晴れていた。

 水たまりに映る青空がまぶしい。傘を持たない通学路は、少しだけ足取りが軽かった。

 昨日の雨がうそのようで、でも、靴の裏にはまだ小さなぬかるみの感触が残っている。

 学校では、いつもと同じ時間が流れていた。

 黒板のチョークの音、教室のざわめき、窓の外を飛ぶツバメ。

 でも、結衣の心は昨日とは違っていた。

 雨の日の約束が、頭のどこかで小さく光っている。

 放課後、公園へ行く途中の道には、まだ濡れた木の匂いが残っていた。

 通り過ぎる風がやわらかくて、頬をなでるたびに昨日の言葉を思い出す。

 ——「雨でも来い」「約束だ」

 しろの声が、耳の奥に残っている気がした。

 公園に着くと、ベンチの上にしろが座っていた。

 昨日よりも毛がふわふわしていて、陽の光を受けて白く光っている。

『晴れたな』

「うん。きれいな青だね」

『おまえ、濡れてないか確認に来たのかと思った』

「ふふ、そんなとこかも」

 しろは体を伸ばしてあくびをした。

 その姿を見ていると、昨日の冷たい空気がうそのようだった。

『人間は不思議だな。雨の日に泣くのに、晴れると笑う』

「そりゃそうだよ。晴れたらうれしいもん」

『猫はどっちも悪くないと思ってる。どっちの音も好きだ』

「雨の音?」

『そう。静かで、優しい。昨日のおまえの声も、雨と似ていた』

 その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。

 昨日の自分は、たしかに泣きそうだった。

 でも、しろがそばにいたから、泣かずに済んだのだと思う。

「ねえ、しろ」

『なんだ』

「昨日の約束、ちゃんと守ったよ」

『ああ、風が知ってる』

「ほんとに?」

『猫は嘘をつかない。……たまにはつくけど』

「それ、どっち?」

『今日はついてない』

 しろは少し笑うように目を細めた。

 その仕草があまりに自然で、結衣は思わず笑ってしまった。

 帰り道、夕方の風が少し冷たくなる。

 遠くでヒグラシが鳴きはじめて、街がゆっくりと夜に向かっている。

 結衣は振り返って、もう一度公園を見た。

 ベンチの上に座る白い影が、夕陽に溶けていく。

 傘のない帰り道。

 昨日よりも胸が軽いのは、きっと「誰かが待ってくれる場所」ができたからだ。


第五章 夏空と魚屋の猫 パート1


 梅雨が明けた。

 空はどこまでも青く、蝉の声が一日じゅう止まらない。

 学校帰りのアスファルトは、まるでフライパンみたいに熱い。

 結衣は鞄を片手に持ちかえて、「暑い……」と小さくつぶやいた。

 公園までの道の途中にある魚屋の前で、氷の音がした。

 店先の発泡スチロールには、銀色の魚が並んでいる。

 そしてその横で――猫が三匹、堂々と昼寝をしていた。

 その真ん中にいるのが、ミケだった。

 お腹を上にして、完全にくつろいでいる。

「……暑くないの?」

『暑い。でも魚の風が気持ちいいの』

「魚の風?」

『ほら、あの氷の冷たいにおい。最高でしょ』

 結衣は笑った。魚屋のおじさんが気づいて、声をかける。

「お、結衣ちゃん。学校帰りか。こいつら、もう店の一部みたいだよ」

「ほんとに。ミケ、邪魔してない?」

『してないわよ。ちゃんとお客さんに愛想ふってるもの』

 まるで誇らしげだ。おじさんが苦笑いしながら頭をかく。

「愛想はいいけど、ツナ缶の試食はやめてほしいなぁ」

 結衣は思わず吹き出した。

「ミケ、食べたの?」

『味見よ味見。確認って大事でしょ?』

「どっかで聞いたな、それ」

 そう言うと、ミケは尻尾を立てて「ふふん」と得意げな顔をした。

 そのとき、後ろから静かな声がした。

『おまえたち、元気だな』

 振り向くと、しろが立っていた。

 いつもより少し毛が短くなっていて、夏仕様らしい。

『暑さに負けるなよ。猫は日陰を選ぶ頭を持ってる』

『でも魚の前は別!』

『おまえは食い気が勝ってるだけだ』

『失礼ねぇ、これは夏の修行よ!』

 結衣は笑いながら、氷の箱に手を当てた。

 ひんやりとした感触が、腕に気持ちよかった。

「夏って、こういうのも悪くないね」

『悪くない。人間も猫も、暑いときほど笑ったほうがいい』

「なんで?」

『笑うと風が通るからだ』

 しろがそう言って、ミケがしっぽで魚の箱をたたく。

 氷がカランと鳴った。

 空の青がまぶしく、結衣は手で日差しをさえぎった。

 そこには、昨日よりちょっと賑やかな夏の風景があった。


第五章 夏空と魚屋の猫 パート2


 魚屋の前で笑っていたそのとき、

 「にゃっ……にゃー!」という高い鳴き声が、奥のほうから聞こえた。

 結衣とミケが顔を見合わせる。

『あれ? いまの声、子猫じゃない?』

『たぶんな。裏の箱のほうからだ』

 しろが言うと同時に、三匹が駆け出した。結衣も慌ててついていく。

 魚屋の裏は細い通路になっていて、ダンボールや氷の箱が積まれていた。

 そのすき間の奥から、かすかな声が聞こえる。

 ミケが鼻をひくつかせる。

『ここね。中に入りこんでる』

「出られなくなってるの?」

『たぶん。ちょっと狭いな……しろ、あんた行ける?』

『俺は太いから無理だ。クロのほうが向いてるが……いないな』

『あーもう、しょうがない。あたし行く!』

 ミケは尻尾をピンと立てて、箱と箱の間に身体を滑りこませた。

 狭いすき間から、しばらくガサガサと音がして――やがて、小さな声。

『いたいた! 大丈夫、こっちにおいで!』

「ミケ、がんばって!」

 結衣が声をかけると、中から「みゃあ」という小さな返事。

 数秒後、ミケが顔を出した。

 口の端には、小さな灰色の子猫がしがみついている。

『よいしょ……はい、出た!』

「よかった……!」

 子猫はまだ目がうるうるしていて、足も少し震えていた。

 結衣はハンカチで軽く拭いて、自分の膝の上にのせた。

「怖かったね。もう大丈夫だよ」

 小さな体が、ぴくぴくと震えながらも、やがて落ち着いていく。

 その様子を、しろが静かに見つめていた。

『この子、どこから来たんだろうな』

『たぶん、港のほうじゃない? 最近、子猫がいなくなったって話聞いたし』

『港か……暑い日は危ないな。探してるやつがいるかもしれん』

「じゃあ、届けに行こう」

『おまえが?』

「うん。私が行く」

 結衣は子猫を抱きかかえ、立ち上がった。

 手の中の体温が、やわらかくて軽い。

 ミケが横で尻尾を揺らす。

『いいじゃない。夏の冒険って感じ!』

『冒険というより、迷子救出だな』

『細かいことはいいの。結衣、行こう!』

 魚屋のおじさんに一声かけて、四人(?)は歩き出した。

 夏の陽ざしがまぶしくて、空気の中に熱の線が見える。

 それでも、結衣の心は少しだけ涼しかった。

 小さな命を腕に抱いているせいかもしれない。

『なあ、結衣』

「なに?」

『猫を抱くときは、力を抜け。強くつかむと逃げる』

「うん、わかってる」

『そうか。……じゃあ、そのままでいい』

 しろが前を歩き、ミケが後ろで歌うように鳴く。

 風が通り抜けるたびに、魚と海の匂いが混ざり合う。

 夏の午後。

 それは、結衣と猫たちの、小さな冒険のはじまりだった。


第五章 夏空と魚屋の猫 パート3


 港までの道は、思ったよりも遠かった。

 潮風が生ぬるくて、髪が少し湿る。

 結衣の腕の中で、子猫は静かに寝息を立てている。

 ほんのわずかに動く胸の上下が、なんだかいとおしかった。

『重くないか?』

「ううん、全然。むしろあったかい」

『そうか。あったかいものは、大事にしろよ。すぐ冷めるからな』

「……うん」

 しろの言葉はいつも短いのに、ちゃんと届く。

 言われた瞬間に胸の奥に残って、しばらく消えない。

 道の途中、ミケが立ち止まった。

『あっ、あそこ! 港の前の店の人、子猫探してたって言ってた!』

 指差す先に、小さな魚屋の支店があった。

 入り口の前で、若い女性がしゃがんで段ボールをのぞいている。

「すみませーん!」

 結衣が声をかけると、女性が顔を上げた。

「えっ、その子……!」

 女性は慌てて駆け寄ってきた。

 そして、結衣の腕の中の子猫を見るなり、目を潤ませた。

「この子、うちの子なんです……昨日からずっと探してて!」

「やっぱり、そうなんですね」

 女性が両手で受け取ると、子猫が目を覚まし、小さく鳴いた。

 その声を聞いた瞬間、結衣は胸が少しきゅっとなった。

 離れるのが少し寂しい。けれど、ちゃんと帰る場所があるのは嬉しかった。

『よかったな』

「うん……なんか、ほっとしたけど、ちょっとさみしい」

『それでいい。どっちかだけじゃ、心が片方に傾く』

「難しいこと言うね」

『簡単だ。好きなものを渡すのは、勇気がいるってことだ』

 結衣はしろを見て、少し笑った。

「……しろって、意外といいこと言うよね」

『意外って言うな。猫だって考える』

「ふふ、ごめん」

 女性が何度もお礼を言って、子猫を胸に抱きしめた。

 その後ろで、結衣は手を振った。

 海風が髪を揺らし、潮の匂いが頬に残る。

 ミケが隣でぽつりと言った。

『結衣、すごいじゃない。人間のくせに、ちゃんとやることやるじゃない』

「なによ、その言い方」

『ほめてるのよ。たぶん』

『ミケは正直に言えないだけだ』

『うるさいわね!』

 三匹と一人の笑い声が、港の空気に溶けていった。

 潮風が心地よくて、世界が少し広く感じた。

 結衣は小さく息を吐き、空を見上げた。

「ねえ、しろ」

『なんだ』

「また、誰かを助けたいな」

『その気持ちがあれば、風が教える』

「風?」

『猫が道を見つけるのと同じさ』

 その言葉のあと、港に吹く風が少し強くなった。

 夏の匂いを運びながら、遠くへと流れていく。

 結衣の髪が揺れ、心の中にも小さな風が通り抜けた。


第六章 夜風と灯り パート1


 その夜、窓の外から風鈴の音がした。

 ひとり部屋で宿題をしていた結衣は、ペンを止めた。

 風がカーテンをふわりと持ち上げ、夜の匂いが流れこんでくる。

 海と土と、少しだけ花の混ざった匂い。夏の夜の匂いだった。

 昼間の港の光景が、頭の中に浮かぶ。

 小さな子猫を抱いた女性の笑顔。

 あの小さな命がちゃんと帰れたことが、まだ夢みたいに感じる。

 結衣はノートを閉じ、そっと立ち上がった。

「……ちょっとだけ、外に出よう」

 靴を履いて、玄関を静かに開ける。

 家の前の道は、昼間の熱がようやく抜けて、少しひんやりしていた。

 街灯の下を通ると、自分の影が長くのびる。

 その影の先に、小さな白いものが動いた。

『遅いぞ。宿題は終わったのか?』

「しろ!」

 電柱の影から、白い毛並みがゆっくり歩み出る。

 いつもと同じ落ち着いた顔。でも、どこか嬉しそうにも見えた。

「こんな時間に出てきて大丈夫なの?」

『夜は猫の時間だ。人間のほうが珍しい』

「……うん。ちょっと、風にあたりたくなって」

『ふむ。いい風だ。夏の夜は、昼より静かで正直だ』

「たしかに。音が全部、やわらかく聞こえる」

 二人で並んで歩いた。

 街灯の下を過ぎるたびに、地面に映る影が重なったり離れたりする。

 遠くの家の窓には、テレビの光がちらちらしていた。

 世界が少しだけゆっくり動いているように見える。

「ねえ、しろ」

『なんだ』

「猫ってさ、夜こわくないの?」

『怖いときもある。けど、夜は隠れる場所が多い。だから平気だ』

「人間は……隠れる場所、少ないかも」

『なら、探せばいい。灯りの下でも、風の中でも』

「うん……探してみる」

 しろが足を止めた。

 前方の街灯の下、虫が光に集まって舞っている。

 その光景を眺めながら、しろが言った。

『おまえは、昼より夜のほうが顔がやわらかいな』

「え?」

『昼は考えてばかりいる。夜は考えない顔をする』

「……考えないほうがいいのかな」

『考えてもいい。けど、風が止まるほどは考えるな』

 その言葉に、結衣はふっと笑った。

 夏の夜風が頬をすべり、どこか優しい気持ちが流れこんでくる。

 しろは少し前を歩きながら、尻尾をゆっくり振った。


第六章 夜風と灯り パート2


 ゆるやかな坂を下りると、小さな公園が見えてきた。

 昼間は子どもたちでにぎわっている場所も、今は街灯の光に照らされてしんとしている。

 ベンチの上には、雨上がりに乾ききらなかった水の跡。

 結衣としろは並んで座った。

「夜の公園って、ちょっと不思議だね」

『昼より広く感じるだろう』

「うん。静かすぎて、少し怖いけど……なんか、落ち着く」

『人間も慣れれば平気だ。夜は悪い場所じゃない』

 風が通り抜けて、木の葉がカサカサと鳴った。

 結衣は手をベンチにつき、家の方向を見やった。

 遠くに、自分の家の窓の灯りがぽつんと見える。

「……うちの灯り、ちゃんと見えるんだ」

『帰る場所があるやつの灯りは、風に流れにくい』

「流れにくい?」

『長く同じところにある灯りは、風も覚えるんだ。目印になる』

 結衣はその言葉を聞いて、少し笑った。

「しろは帰る場所、あるの?」

『あるときもある。ないときもある』

「どういう意味?」

『気分だ。猫は風を見て動く。風が止まれば、そこが家になる』

「それって、かっこいいけど、ちょっと寂しいね」

『寂しさは悪くない。寂しいから、あたたかさがわかる』

 しろの声はいつもより少し小さかった。

 その横顔を見ていると、ほんの少し、胸がきゅっとした。

「……しろは、ひとりでいるのが平気なんだね」

『平気だ。けど、おまえと話すのは嫌いじゃない』

「それ、うれしい」

『おまえは少しうるさいけどな』

「ひどい」

 二人で小さく笑った。

 夜風が木の枝を揺らして、遠くで虫が鳴く。

 世界が、やさしく息をしているように感じた。

 少しして、しろが立ち上がった。

『そろそろ帰れ。灯りが待ってる』

「うん。でも、もうちょっとここにいたいな」

『じゃあ、ひとつ約束しよう』

「約束?」

『帰る前に空を見上げろ。灯りより高いところにも、おまえを見てる光がある』

「……星?」

『そうだ。風が止んでも、星は覚えてる』

 結衣は空を見上げた。

 小さな星が、ちらちらと光っていた。

「……ほんとだ。見てるみたい」

『そういうもんだ』

 しろが歩き出す。

 その背中を見送りながら、結衣は空に向かって小さくつぶやいた。

「おやすみ、しろ」

 夜風が頬をなでて、髪がふわりと揺れた。

 灯りのある道を帰りながら、結衣は少しだけ心が軽くなっているのを感じた。


第七章 風鈴と花火 パート1


 八月の夕暮れ。

 町の空は、茜色から紫にゆっくり変わっていく。

 商店街の通りには、風鈴が並び、チリンチリンと優しい音を響かせていた。

 その音を聞きながら、結衣はアイスを食べ歩いていた。

 制服の袖は少し短くなり、日焼けのあとが腕に残っている。

 風が通るたびに、氷の冷たさが心まで届くようだった。

「しろ、夏ってさ、楽しいけど、なんか寂しくなるね」

『暑いだけじゃないのか?』

「ううん。終わる気配がしてるから」

『終わることを考えるから、楽しい時間が短くなるんだ』

「うん……でも、終わるから覚えてるのかも」

 しろは何も言わず、屋根の上から結衣を見下ろした。

 風鈴の音が少し強く鳴る。風が吹いた。

 通りの先で、小さな花火大会が開かれるというアナウンスが流れた。

 結衣は足を止めて、空を見上げた。

「ねえ、しろ。花火、見に行こうよ」

『猫は人混みが苦手だ』

「大丈夫、少し離れた公園から見よう」

『……まあ、風の向きも悪くないしな』

 二人(?)は商店街を抜け、坂道を上った。

 坂の上の公園は、人も少なく、風が通って気持ちよかった。

 空の端で、最初の花火が上がった。

 赤、青、金色――夜空に咲いて、すぐに散る。

『人間は、どうして音が鳴る花を作るんだ?』

「音が鳴らないと、心が動かないからかな」

『心は静かでも動く。風みたいにな』

「そういうの、しろっぽいね」

『褒めてるのか?』

「もちろん」

 しろは尻尾で草を揺らしながら、夜空を見上げた。

 花火の光が白い毛を照らして、一瞬だけ金色に見えた。

 しばらく二人で黙って花火を見ていた。

 光が散るたびに、胸の中がじんわり温かくなったり、少しだけ寂しくなったりする。

 花火が終わったあとも、空にはまだ光の余韻が残っていた。

「ねえ、しろ。夏が終わっても……ここにいる?」

『風が吹けば、いる』

「またその言い方」

『約束の言葉だ。覚えておけ』

 結衣は笑ってうなずいた。

 遠くで、最後の一発が夜空に咲いた。

 それは小さくて、でもやさしい音だった。


第七章 風鈴と花火 パート2


 花火が終わると、町のざわめきが少し静かになった。

 夜空にはうすい煙が残り、どこか焦げたようなにおいが風に混じっている。

 結衣としろは公園の階段に腰を下ろし、冷たいペットボトルを手にした。

「終わっちゃったね」

『終わるときがあるから、始まりもある』

「そういう言い方、しろらしい」

『悪いか?』

「ううん、好きだよ」

 そう言って笑うと、しろが目を細めた。

 そのとき、草むらから聞き慣れた声がした。

『なによ、二人でいい雰囲気じゃない』

「ミケ!」

『あらあら、夏の夜にしろと人間のツーショット。絵になるじゃない』

『うるさいぞ、ミケ』

『照れてる照れてる! ほら、耳がピクピクしてる!』

『……うるさい』

 しろが顔をそむける。ミケはくすくす笑いながら、結衣の足元にすり寄ってきた。

『花火、すごかったね。あたし、魚屋の屋根から見てたんだけど、煙でむせちゃったわ』

『屋根で見物か。らしいな』

『だって、特等席よ。クロも一緒だったの』

「クロも?」

『ああ。あいつ、途中でいなくなったけど……ほら、来た』

 振り返ると、坂の下の暗がりから黒い影がゆっくり近づいてきた。

 クロはいつものように無言で、結衣たちのそばに座った。

『おまえら、うるさくて遠くからでも聞こえた』

『いいじゃない、にぎやかで』

『にぎやかすぎると落ち着かん』

『素直じゃないなぁ。花火、ちゃんと見てたでしょ?』

『……少しだけな』

 クロが空を見上げる。もう花火は終わったけれど、夜空にはまだ星が瞬いている。

 それを見ながら、結衣がぽつりとつぶやいた。

「なんか、不思議。今日が終わっちゃうのが、少し惜しい」

『夏の夜は、そう感じるもんだ』と、しろ。

『明日はまた明日の風が吹く』と、クロ。

『それでも、あたしたちは今日を覚えてる』と、ミケ。

 三匹の言葉が、重なったりずれたりしながら、夜の空気に溶けていった。

 風鈴の音が遠くから響いてくる。

 帰り道、結衣はしろの後ろを歩きながら、胸の中に小さな変化を感じていた。

 春にここへ来たころより、笑うことが増えた。

 泣きたいときに泣けるようになった。

 それはきっと、猫たちのおかげだと思った。

 坂の上で振り返ると、ミケとクロが並んで手を振っていた。

 しろが小さく鳴く。

『風がいい。明日もきっと、いい日だ』

「うん。明日も会える?」

『風が吹けば、な』

 いつもの言葉。だけど、今夜は少し違って聞こえた。

 結衣は空を見上げて、小さく笑った。

 風鈴の音が夜に溶けて、やさしい余韻だけが残った。


第八章 秋風と手紙 パート1


 九月。制服は長袖に戻った。

 朝の空気はひんやりして、息を吸うと胸の奥まで涼しくなる。

 通学路の桜並木は、葉の端が少し色づいていた。蝉の声は小さくなり、代わりに風の音がよく聞こえる。

 放課後、結衣は文房具屋で便せんと小さな封筒を買った。

 色は薄いクリーム色。柄は何もない、まっ白に近いもの。

 特別な理由はない。ただ、書いてみたくなった。

 公園に着くと、ベンチは影が長くなっていて、夏より落ち着いた顔をしていた。

 しろはすぐに見つかった。ベンチの下で丸くなって、前足を枕にしている。

『来たか』

「うん。今日は、これ」

 結衣はカバンから便せんを出して、膝の上に広げた。

『絵でも描くのか?』

「手紙。……でも誰宛てってわけじゃない」

『ふむ』

 結衣はボールペンの先で、ゆっくり一行目を書いた。

 ——“今日は涼しい。風が気持ちいい。私、ちゃんと学校へ行った。”

 次に、もう一行。

 ——“しろに会えた。ミケは魚屋。クロはどこかを歩いているはず。”

 読ませるつもりはない。でも、声に出したら壊れてしまいそうな気持ちは、文字にすると落ち着いた。

『それは誰に渡す?』

「わからない。たぶん、風に」

『なら、長く書くな。風は短いほうが覚えやすい』

「わかった。短くね」

 結衣は便せんを半分に折り、封筒に入れた。

 宛名の代わりに、小さく“ベンチへ”と書いて、ひものついた洗濯ばさみでベンチの端に留めた。

 強い風が吹いても飛ばないくらい、でも、誰かが手に取ればすぐ外れるくらい。

『妙なことをするな』

「誰かが見たら、ちょっと笑うかなって」

『笑えばいい』

 しろは欠伸をして、前足を伸ばした。

『もう一通、書け』

「どうして?」

『明日の自分宛てだ。今日のことは、今日の言葉で残すといい』

 結衣はうなずき、もう一枚に短く書いた。

 ——“明日の私へ。今日は泣かなかった。風は冷たくて気持ちよかった。”

 それも封筒に入れて、カバンにしまう。明日の自分に渡すつもりで。

 そのとき、草むらが揺れて、ミケが顔を出した。

『あら、文通? 相手は風さん? おしゃれじゃない』

「見ないでよ」

『見てない見てない。……半分見たけど』

「半分って何」

『半分は見てないって意味よ』

 後ろからクロの声がした。

『どっちでもいい。飛ばすなよ。ゴミになる』

「大丈夫。ちゃんと留めてあるから」

『ならいい』

 夕方の光が少しずつ弱くなっていく。

 公園の時計が五時を指した。

 結衣は立ち上がり、ベンチの端の封筒をもう一度確かめた。

 風が来て、白い紙の角がかすかに揺れる。落ち着く光景だった。

「じゃあ、また明日」

『明日も書け』としろ。

『内容チェックしてあげるわよ』とミケ。

『誤字は許さん』とクロ。

「先生が多いなぁ」

 笑い声が、秋の空に薄くのびた。

 家に帰ると、玄関に小さな段ボール箱が置かれていた。

 中には、古い手紙やアルバム。母が押し入れを片づけたらしい。

「結衣、捨てる前に見て。昔のだよ」

「うん、あとで見る」

 夕食のあと、自分の部屋で箱を開けた。

 幼稚園の頃の写真、入学式のリボン、折り紙のメダル。

 その下に、茶色の封筒が一通。表には丁寧な字で“結衣へ”と書いてある。

 差出人は書かれていない。でも、字を見ればわかった。母だ。

 胸が少し高くなる。

 封を切るか迷って、いったん机に置く。

 ——明日、ベンチで読もう。

 そう決めると、息がすっと楽になった。

 窓を少し開けると、秋の風がカーテンを押した。

 今日書いた「明日の私宛ての手紙」を、机の上に置く。

 明日、公園へ持っていくために。

 部屋の電気を消す前に、もう一度だけ机の封筒を見た。

「……おやすみ」

 言葉は小さかったけれど、はっきりしていた。


第八章 秋風と手紙 パート2


 翌日の放課後。

 空はすっきり晴れていたけれど、風はもう夏とは違う。

 冷たさの中に、少しだけ甘いにおいが混じっていた。

 結衣はカバンの中の“明日の自分宛ての手紙”を確かめながら、公園へ向かった。

 ベンチに近づくと、思わず足が止まる。

 昨日、留めておいた封筒が——なくなっていた。

「……あれ?」

 風に飛ばされたのかと思い、辺りを見回す。

 けれど、足元の草にも、ベンチの下にも何もない。

 その代わりに、ベンチの上にひとつ、小さな紙切れが置かれていた。

 白いメモ用紙に、青いペンで短く書かれている。

 ――“手紙、読みました。風も笑ってました。”

 その一行を見た瞬間、胸の奥があたたかくなった。

「……誰だろ」

『人間かもしれんし、風かもしれん』

 いつの間にか、しろが足元にいた。

「風が書けるの?」

『書けるさ。風が動けば、人も動く』

「それ、ずるい理屈だね」

『猫は理屈を使わん。風を信じるだけだ』

 結衣は笑って、カバンから昨日の“明日の私宛て”の手紙を取り出した。

 封を切って読む。

 ——“今日は泣かなかった。風は冷たくて気持ちよかった。”

 昨日の自分の文字が、少し照れくさくて、でも愛しかった。

「……今日も書こうかな」

『そうしろ。風が続くうちは、書けるだけ書け』

 結衣は便せんを取り出し、ゆっくり書きはじめた。

 ——“今日は手紙がなくなっていた。でも、代わりに返事があった。”

 ——“風も笑ってたって書いてあった。たぶん、ほんとだと思う。”

 書き終えてベンチに留めると、横からミケがひょっこり顔を出した。

『また手紙? 人気者ねぇ』

「ちがうよ。ただの風通信」

『風通信! なんかいいわね、それ』

『字が汚いと読めんぞ』と、クロも現れた。

『あんたが言う? この前、魚屋のメニュー読めなかったくせに』

『あれは字が小さすぎた』

『言い訳が細かい!』

 いつもの調子に戻った猫たちのやり取りに、結衣は笑った。

 ベンチの上の封筒が風に揺れて、ひらひらと紙の角が光を反射する。

 その様子を見ていると、胸の奥のざわざわが少しずつほどけていった。

 夕暮れ。

 結衣は昨日見つけた茶色の封筒をカバンから取り出した。

 母の字で書かれた“結衣へ”。

 しろが静かに見つめている。

『読むか?』

「うん……今なら読める気がする」

 封を切ると、柔らかい紙の匂いがした。

 手紙は短かった。

 ——“結衣、あなたが笑ってるときがいちばん風がきれいです。”

 ——“たまに泣いてもいい。でも、ちゃんと顔を上げてください。”

 それだけの言葉だった。

 でも、目の奥が熱くなって、涙がひと粒だけこぼれた。

 しろがそっと前足で結衣の膝をたたいた。

『風も泣いてる。悪くない涙だ』

「うん……」

 空を見上げると、秋の雲がゆっくり流れていた。

 風が頬をなでるたびに、母の手紙の言葉が胸の中で光った。


第九章 落ち葉の約束 パート1


 十月。朝の空気は冷たく、吐いた息が白くほどけた。放課後の公園は人が少ない。木の下には乾いた落ち葉がたまって、歩くたびに軽い音がした。ベンチはもう夏の色を忘れ、少し固い表情になっている。結衣はマフラーを二重に巻き直して、いつもの場所に向かった。 『来たか』  しろはベンチの下からゆっくり出てきた。白い毛並みは相変わらずきれいだけど、今日は歩き方が少しゆっくりに見えた。 「寒いね。大丈夫?」 『問題ない。少し冷えるだけだ』  そう言いつつ、しろはベンチに飛び乗るのに一拍だけ間を置いた。結衣はすぐ隣に腰を下ろし、手袋の上から膝をこすって温める。 『落ち葉はいいな。踏むと音がする』 「うん。ちゃんとここにいるって感じがする」 『そうだな』  短い会話。静かな夕方。通り抜ける風に、どこか乾いた匂いが混じる。 「しろ、今日は港に行かなかったの?」 『行っていない。風が向いていなかった』 「……具合、悪いとかじゃない?」  しろは答えず、しっぽだけを小さく振った。代わりに、落ち葉の山を前足で少しだけ寄せた。 『約束を決めよう』 「約束?」 『この木の下に落ち葉が三つたまったら、ベンチの端に並べておけ。俺が来る日でも来ない日でも、だ』 「三つ……どうして三つ?」 『数えるのが簡単だからだ』  理由は単純。でも、その言い方が少しだけ遠く感じられて、結衣は小さくうなずいた。 「わかった。三つだね」 『そうだ。おまえが並べたら、いつか俺が崩す』 「いつかって、いつ?」 『風が向いたら』  その言い回しはいつも通りなのに、今日は胸にひっかかった。しろは落ち葉の上で丸くなり、目を細める。耳の先が少し冷えているのか、時々ぴくりと動いた。 「寒かったら、私のマフラーの端、貸すよ」 『いらん。おまえが風邪をひく』 「じゃあ、これ」  結衣はポケットから小さなカイロを出し、手袋ごしに温度を確かめてから、ベンチの木目のくぼみにそっと置いた。 『それは猫用ではない』 「ベンチ用。ここも冷えてるから」  しろは目を細め、短く喉を鳴らした。笑ったのかもしれない。 『明日も来るか』 「うん。来るよ」 『なら、落ち葉を三つだ』 「わかった」  太陽が傾き、影が長くなる。公園の時計が四時半をさす。帰らなくちゃ、と思うのに、立ち上がるのが惜しかった。 「……しろ」 『なんだ』 「ずっと、ここにいる?」  しろは空を見上げ、そのまま少し黙った。 『ここはいい場所だ。風が覚えている』 「うん」 『だから、おまえも覚えておけ。ここに座れば、今日のことを思い出せる』 「思い出すよ。絶対」  返事をすると、しろは小さくうなずいた。立ち上がるとき、後ろ足が落ち葉を少し滑らせた。結衣は思わず手を伸ばす。しろは平気な顔で体勢を戻し、尾をゆっくりと振った。 『帰れ。日が落ちる』 「うん。また明日」  歩き出してすぐ、結衣は振り返った。しろは落ち葉を鼻先で押し、三枚を並べていた。ベンチの足元、きれいに一列。 『これは俺の番だ』  遠くから、そう聞こえた気がした。  家に着くと、ポケットの中の手紙用の便せんが少し湿っていた。玄関で靴を脱ぎながら、結衣は思う。——明日は、三つ。忘れないように。  夜、布団に入ってからも、落ち葉がこすれる音が耳に残った。目を閉じると、ベンチの足元に並ぶ三枚の茶色が浮かぶ。簡単な約束。けれど、きっと大事な合図になる。そんな気がした。


第九章 落ち葉の約束 パート2


 翌日。

 朝から曇り空で、風が少し強かった。木の枝がざわざわと鳴り、落ち葉が次々と舞い降りてくる。

 結衣はポケットの中で手を握りしめながら、公園へ急いだ。

 ベンチの下には、しろの姿がなかった。

 いつもなら、顔だけ出して「遅い」と言うはずなのに、今日は静かだった。

 風の音だけが、まるで声みたいにまわっている。

「……しろ?」

 呼んでも、返事はない。

 結衣はしゃがみこみ、ベンチの足元を見た。昨日しろが並べた三枚の落ち葉は、もうどこにもなかった。

 代わりに、ベンチの右端に、葉の影がひとつ。まるで誰かが落としたように、一枚だけ。

 結衣はそれを拾い、手のひらの上で見つめた。

 少し破れているけど、色はきれいな赤だった。

 昨日の約束を思い出して、そっと三枚の葉を選び、並べる。

 一枚、ふるい葉。

 二枚、まだ柔らかい葉。

 三枚、赤い葉。

 並べ終えると、風がふわりと吹き、葉が少しだけ動いた。

 けれど崩れない。まるで“まだ待って”と言っているようだった。

 そのとき、背後から声がした。

『……おまえ、来たか』

「しろ!」

 振り向くと、木の影からしろがゆっくり歩いてきた。

 毛が少し乱れていて、動きが重そうだった。

「どうしたの? 風邪?」

『ちがう。ただ……風が強くてな。すこし遠くまで行ってた』

「遠くって?」

『川のほう。匂いが変わっていた。季節が動いたんだ』

 しろはそう言って、ベンチのそばに座った。

 息が少し荒いように聞こえる。

 結衣は心配で、思わずマフラーの端を差し出した。

「これ、巻いて」

『猫にマフラーは似合わん』

「似合うよ。白いから」

 しろは少しだけ笑ったように見えた。

 それから、三枚の葉をじっと見つめた。

『……ちゃんと並べたな』

「うん。約束だもん」

『よし。風が崩すまで置いておけ』

「風が?」

『ああ。今日の風は、やさしい』

 結衣はうなずいて、しろの隣に座った。

 風が通るたびに、落ち葉がかすかに鳴る。

 その音は、しろの呼吸と重なるように聞こえた。

『おまえ、風を信じてるか?』

「信じてる。たぶんね」

『ならいい。信じると、風は覚える』

「なにを?」

『名前と、願いと、約束だ』

 結衣はしろの横顔を見た。

 目の奥に映る空は薄い灰色。けれど、その中に小さな光があった。

『明日も来るか?』

「うん。来るよ」

『じゃあ、明日も三つ』

「うん。三つ」

 しろはゆっくり立ち上がり、ベンチの下に戻った。

 その姿が少しだけ小さく見えた。

 結衣は落ち葉を見つめたまま、そっとつぶやいた。

「風が覚えてる……絶対、覚えてて」

 風が答えるように吹いた。三枚の葉が、少しだけ揺れた。


第九章 落ち葉の約束 パート3


 翌朝、空はどんよりと曇っていた。

 風が早く、木々がざわざわと鳴る。まるで誰かが呼んでいるような音だった。

 結衣は傘を持たずに、公園へ向かった。

 ベンチの前で足を止める。

 三枚の落ち葉は――もう、なかった。

 昨日きれいに並べたはずなのに、ベンチの下にも、周りにも、影ひとつ残っていない。

 代わりに、ベンチの中央に小さな白い毛が一筋だけ落ちていた。

 それを見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

「……しろ?」

 呼んでも、風の音だけが返ってくる。

 落ち葉が渦を描いて舞い上がり、空へと流れていく。

 その中に、どこか懐かしい気配があった。

『風が覚えている——』

 しろの声が、耳の奥でふっと響いた気がした。

 思わず空を見上げる。雲の切れ間から、やわらかな光が差し込んでくる。

 結衣はしゃがんで、白い毛を手のひらに包んだ。

 それは軽くて、少し温かかった。

「……風が、連れていったんだね」

 そうつぶやくと、風がまた強く吹き、木の葉がざあっと音を立てた。

 その音が、まるで“うん”と答えたように聞こえた。

 結衣は立ち上がり、ベンチに腰を下ろした。

 いつもの場所。いつもの高さ。けれど、隣は空いている。

 ポケットから便せんを取り出し、膝の上で広げた。

 ——“今日は落ち葉が消えてた。でも、風が吹いた。だから、きっと見てた。”

 ——“ありがとう。ちゃんと約束、覚えてるよ。”

 書き終えると、封筒に入れて、いつものようにベンチの端に留めた。

 風がすぐにそれを揺らす。今にも飛んでいきそうだったけれど、結衣はそのままにした。

『また風通信か?』

 聞き覚えのある声がして、結衣ははっと顔を上げた。

 ミケがベンチの後ろから顔を出した。

『ひとりで書いてたら、泣くわよ?』

「泣いてないよ」

『ふーん。クロも来てる』

『……風が強くて寝られん』と、クロの声。

 二匹は何気なく足元に座り、空を見上げた。

『あいつ、きっとどこかで寝てる。風の上とかで』

「……うん、そう思う」

『猫は帰ってくるもんだ。風と一緒にな』

『まあ、待てばいい。人間も猫も、それしかできん』

 ミケとクロの声が、風の音に混ざってゆっくり消えていった。

 結衣はベンチに残った白い毛をそっと空へ放った。

 風がそれを拾い上げ、遠くへ運んでいく。

 空が明るくなり、雲の切れ間から日が差した。

 光に照らされた落ち葉が金色に見える。

 結衣は微笑んだ。

「またね、しろ。……風が覚えてるから」

 風鈴のような音が、どこからか鳴った。

 その音が消えるまで、結衣はずっと空を見上げていた。

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結衣と風の猫 森の ゆう @yamato5392

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