第12話 旅立ちの前に

朝の光は、やけに優しかった。

カーテンの隙間から差し込む陽射しが、部屋の床に細い線を描いている。昨日の雨で濡れた街の匂いが、窓の隙間からふわりと入り込んできた。遠くで小鳥の声がして、どこか現実感が薄い朝だった。

部屋の中は静かで、時計の針の音だけがやけに大きく響いていた。白い壁、散らかった荷物、昨日までの生活の名残がそこにある。けれど、今日からは違う。ここを出て、旅に出る。

私はベッドの端に腰を下ろし、深く息を吐いた。胸の奥で、何かがずっと鳴っている。鼓動なのか、焦燥なのか、もう自分でもわからない。

――今日、旅に出る。

その言葉を頭の中で繰り返すたび、心臓が跳ねる。怖い。でも、止まれない。

昨日の夜のことが、まだ胸に刺さっていた。

『すぐ終わらせる』

どうして、あんなこと言ったんだろう。あれは本心じゃなかった。ただ、彼に迷惑をかけたくなくて、そう言っただけなのに。

でも、あの瞬間、カナトさんの顔が固まったのを見てしまった。あの沈黙が、私の胸を締め付けている。

「はる、起きてる?」

ドアの向こうから、カナトさんの声がした。

その声は、昨日と同じ柔らかさを持っていたけれど、私には少し遠く感じた。

「はい」

声がかすれていないか、少し不安だった。

玄関に出ると、カナトさんがリュックを背負って立っていた。

「行こか」

その笑顔は、昨日と同じ。でも、どこか遠くに感じた。

靴を履こうとしたとき、カナトさんがふっと真顔になった。

「なぁ、昨日のことやけど」

心臓が跳ねた。

「僕、はると旅したいんよ」

その言葉に、思わず顔を上げる。

「だから、ゆっくり、じっくり、確実に、楽しくやっていこう」

カナトさんは、指を一本ずつ折りながら丁寧に言った。

「急いで終わらせるとか、そんなの僕は嫌や」

声は柔らかいのに、目は真剣だった。

「……でも、迷惑じゃないですか?」

やっと出た言葉は、情けないくらい小さかった。

喉を通らずお腹から縛られて出た声だった。

「迷惑なわけないやろ」

カナトさんは笑った。

「僕、こういうの好きやねん。計画立てて、準備して、ちょっと失敗して、笑って、また進む。そういう旅がええ」

その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。

――終わらせたくない。

本当は、ずっと一緒にいたい。

「……わかりました」

そう言うと、カナトさんが軽く頭を撫でた。指先が髪に触れる感覚が、妙に優しくて、胸が痛くなる。

「よし、じゃあまずは駅やな。きゅうりは持った?」

「えっ、まだ言うんですかそれ!」

思わず笑ってしまった。

その笑い声が、朝の空気に溶けていった。

家を出ると、冷たい風が頬を撫でた。昨日の雨で濡れた舗道が、朝日を反射してきらきら光っている。二人で並んで歩く道は、やけに静かだった。

「まず、どこ行きたい?」

カナトさんが聞く。

「えっと……海、見たいです」

「ええな。海鮮丼食べよか」

「食べ物の話ですか!」

思わず笑ってしまった。

「旅ってそういうもんやろ。美味しいもん食べて、景色見て、写真撮って」

「写真……」

その言葉に、胸が少し痛んだ。

――写真に残しても……

その不安を、飲み込んだ。

駅に着くと、ホームに朝の光が差し込んでいた。電車が滑り込む音が、心臓の鼓動と重なる。座席に並んで座ると、窓の外の景色が流れ始めた。

「そういえば」

カナトさんが声を落とした。

「昔、僕が働いてた植物研究所があるんよ。そこに寄ってもええかな」

研究所――その言葉に、胸が冷たくなる。

少なからず幼少期からの嫌な思い出が蘇る。

「……どうしてですか?」

「サンカヨウのこと、もっと詳しく調べたい。より確実に長く生きてもらうために。君の体を守るためや」

その言葉に、少しだけ心が揺れた。守るため。そう言ってくれる人がいることが、どれほど救いか。

でも、同時に不安が膨らむ。研究所。私が生まれた場所。私を閉じ込めた場所。

「……わかりました」

そう答えた声は、かすれていた。

窓の外で、光が揺れていた。

旅は始まったばかりなのに、胸の奥では、何かが終わりに向かっている気がした。

そしてなぜかふと、懐かしい柳街さんの顔が浮かんだ。

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サンカヨウと、溶けない氷華を。 新田にいた @ni-da_ni-ta

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