リアリティのグラス

灰崎凛音

注がれたリアルを飲み干して

 今日は妙に喉が渇く。なんて感じるのは僕が人間であることの証左のひとつ。

 カフェで心理学関連の本を読んで勉強していた僕は、もう幾度目か分からないけど小さなガラスコップを持って立ち上がり、カウンター脇のピッチャーに向かった。僕のようによく水分を要する人種のために大きめのウォーターグラスがあっても良いのではなかろうかと考えながら冷水を注ぐ。特にここ数年、もはや何が異常か不明なほど暑い夏場には、ジョッキサイズのものを用意しても悪くないだろう。ニーズは絶対にあるし、なんなら少々ジョッキ代を要求してもいい。

 僕が席に戻って着座すると、おそらくは七十代と思しき女性が、小さなカップを二つに水を汲み、小刻みに手を震わせながらトレーに置いて奥の席に歩いて行った。それ見たことか、と内心で僕は勝利を味わう。あの女性だって、大きめのグラスがあればもっと楽に歩けただろう。今すぐ、可及的速やかにこのアイディアを全国全てのカフェやレストランに通達して、然るべき法整備も忘れずに、日本国民が、そして様々な事情で日本に住んでいる日本人でない人々が、無駄に体力筋力を使うことなく適切な量の水分を摂取できるようになるべきだ。



 先ほど僕は夏場に需要が高まると言ったが、実を言うと既にもうひとつ、確実に上昇しつつあるニーズを、僕は知っている。より正確に表現するのであれば、僕が今朝から口を渇かせているのは、高確率でそれが原因だ。

 シンプルなことだよ。薬の副作用さ。特に抗鬱剤のね。

『昔よりはマシになってる』などと宣う連中も多いけど、僕はそんなの知らないし、個人差だってある。それに抗鬱剤じゃないけどアモバンみたいな薬もある。三日も飲めば呼吸時の空気すら胃液より苦く感じられる代物だ。

 とにもかくにもこれからこのストレス社会では口渇こうかつという副作用に苦しむ人々が増加することが想像に難くない。



 僕が如何にしてこの案を社会的に現実化しようかと思考回路を稼働させ始めた瞬間、先刻の老女がティーカップなどを載せたトレーを返却しに来た。

「ゆっくりでいいわよ」

 彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべて言う。

 後ろから、杖を突いた男性が緩慢な動作で続いてきた。僕は目を奪われる。

「なあ、出る前にもう一口いいか、これ」

 老人が手にしていた小さなガラスのコップは見事に空だった。

「良いけど、ホントに一口よ?」

 女性は苦笑しながらゆっくりとピッチャーまで戻り、ほんの少しだけ男性の持つコップに水を流し込んだ。くいっとそれを飲み干した老人、彼女の夫と思われる男性は、

「悪いなぁ、いつも。帰るか」

 と言い、杖を持っていない方の手を女性の肩に置いて、老女もさもそれが当然の行為、昔からのしきたりであるかのように受け入れ、遅々とした、しかし一歩ずつ着実に前進する歩みで店から出て行った。



——僕は、



 その後に言葉は続かなかった。

『健常者だからできる芸当だ』?

『あの夫婦も何らかの原因で口渇を発症するかも』?

『伴侶の居ない人間、伴侶を作れない人間はどうすればいい』?


 違う。

 僕は、本当に安っぽい言葉だけど、彼ら二人のやりとり、関係性に美しさを感じ、人間の『愛』という巨大な産物の片鱗を確かに視認したのだ。

 半ば呆然としたまま読み途中だった本に視線を落とした。

『共依存』

 という単語が目に飛び込んできた。その意味くらい、僕でも知っている。

——違う、そうじゃない。



 僕が顔を歪めていると、今まで意識していなかったカウンターの方の音声が鼓膜をつつきだした。

「お決まりですか?」

「はい、宇治抹茶ラテのレギュラーと、あとLサイズの空のグラスをいただけますか?」

「空のグラス、ですか……?」

 目線を意思に反して引っ張られたかのように、反射的に僕は顔を上げていた。

「ええ。私、足が悪いんですけど、二階の喫煙席に行きたくて。でもあの階にはお水ないじゃないですか? なのでここで多めにもらって行こうかなって」

 応対していた中年の女性店員は笑顔で二階席まで運ぶと申し出、足の悪い大学生くらいの女性は深く頭を下げて長い黒髪を掻き上げた後、少し不自然というか独特な足取りで階段へと向かった。



 今度こそ、僕は白旗を揚げた。


——僕なんかが考えつくことなんて高が知れている。


 そんな至極真っ当で自明で火を見るより明らかな『現実』が注がれた小さなガラスコップを手に、僕は立ち上がって再びピッチャーへと向かう。


                              (了)

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リアリティのグラス 灰崎凛音 @Rin_Sangrail

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