星が大地に引かれる時
花山 華残
星が大地に引かれる時
黒と白の世界を揺蕩う。黒が音となり、白が景色と変わる。ここではない何処かに変わる瞬間。僕という存在が揺らぎ、世界に溶ける。その微睡みから、目が覚めるように、現へと戻る。
本を静かに閉じ、タイトルを見る。自然と口元が緩んだ。
桜が地に引かれ、雨が続く頃。僕の高校に転校生が来た。名を、
短く切られた髪。顔立ちは日の光のように暖かで、所作の一つ一つが、人の目を引く。彼女が口を開こうとすれば、空間を静寂が満たす。雑音が、消えた。
そんな彼女は、時期外れの転校だというのに、いつの間にか僕のクラスの人気者であった。その彼女が、教室に入る。それだけで──空間が、重く沈む。誰かの息を呑む音が響き、引かれるように皆が彼女を見つめた。声を掛ける。
日野さんが、だ。
挨拶をする。それだけだった。なのに人々を傾かせる。彼女の存在に引かれるように。
瞬く間に彼女は人々に囲まれ、空間に言の葉が咲き乱れる。彼女の言葉一つ一つが、人々の中に沈み、芽が出るのだ。
そんな中、彼女の視線が僕に向けられる。本の表紙をなぞり、思いを馳せていた僕にも、分かる。その視線に込められた力を。引かれるように視線を返す。
彼女が、顔をこちらに向けていた。──彼女を取り巻く、人々と共に。無数の視線が、僕に刺さる。視線の一つ一つが、僕の瞳を覗き込む。
胸の前に手を出し、小さく振る。彼女は満足そうに頷き、視線を僕から外して周りと話をし始めた。
圧から解かれ、本を手に取る。文字は、何も語りかけなかった。
僕のクラスに転校生が来るらしい。黒が奏でる音と鮮やかに像を映す白。紙をなぞる指先は、本が持つ力を伝えてくる。そんな僕にすらも聞こえる話。僕は聞き流しながら指先を紙に滑らせた。
予鈴が鳴り、先生が入ってきた。何時もの日常が始まる。──そう思っていた。転校生が教室の扉にいるらしい。先生が扉に向かって声を放つと、閉じられた扉が開いた。瞬間、空気が外に引きずられていく。冷えていく体と、荒くなる息。話し声は響くことなく沈んでゆき、誰もが息を潜めていた。
先生はただ、眩しそうな目で扉の先を見つめている。それは、入ってきた。
女の子だった。短く切られた髪。その横顔は日の光のように暖かで、ただ、真っすぐ歩く。それだけで人の目を引きつける。彼女は教卓の前に立ち、後ろの黒板に名前を書く。誰も騒ぐ事はない。息を呑み、彼女を見つめていた。嵐が去るのを地に伏せ、祈るように。彼女がこちらに振り向く。──空間から音が消えた。耳鳴りがする。痛いほどの静寂。そして、口を開いた。
「この度転校してきました、日野晶子です。みんな、よろしくね」
ただの挨拶。それに彼女の、日野さんの所作が加わり、その声が空間を強く震わせた。空間を伝わる音が人を震わせ、一つの波となる。
顕現。それは、人を引きつける光。僕の前に現れたのは、そこにあるだけで人々を傾け、染め上げる陽光。日野晶子だった。
その日の夕方。降り注ぐ水の粒。空は薄暗く、雲が覆っていた。朝には晴れていた空は、昼には陰り、今、雨が大地を濡らす。本を閉じたとき音が強く響いた。見渡せば、教室には僕しかいなかった。一度表紙をなぞり、かばんへしまう。帰り支度を済ませようとした時、教室の扉が開いた。そこには、僕の友人が立っていた。
肩まで伸ばした髪を三つ編みにまとめ、縁の細い眼鏡をかけている。顔立ちは夜を包む月のように冷ややかで、口元には紅が淡く光る。月乃さんは教室に入り、自分の机に向かう途中、僕に気づいたように止まり、声を掛けてきた。
「ん...?まだ残ってたんだ」
彼女は僕の手にある本を見て、表情を緩めた。
月乃さんに薦められ、読んでいたものだったからだろう。彼女は僕の席の前に来て、感想を聞いてきた。僕が感想を伝えると、ゆっくりと頷き、彼女も感想を話してくれた。
僕と彼女の関係は、本によって結ばれていた。僕は話しながら帰り支度を済ませ、別れの挨拶をする。彼女は挨拶を返し、自分の机に向かっていった。
靴に履き替え、昇降口から出ようとした時──目を引かれた。
日野さんが、いた。空へ目を向けたまま、そこに立っていた。
薄暗い昇降口の中、横顔に視線を吸い込まれる。
瞳が、きらきらと輝いていた。夜空に瞬く、星々のように。煌々と光る、太陽のように。身体の輪郭が融け、液体となり流れていくような感覚。その向かう先は──ふと、身体に力が戻る。日野さんは、僕を見ていた。その瞳にはまだ、光がある。彼女が口を開いた。
「君も、傘を持ってないの?」
日野さんは僕の手元に視線を落としていた。僕は緩やかに首を振り、一つだけ残っていた傘を傘立てから引き抜く。黒く、大きい傘だ。人ひとりならすっぽり覆える。骨組みは丈夫で、張られた布は厚い。僕は日野さんに傘を差し出した。
きらきらとした瞳が、手に持つ傘に向けられる。震える体を抑え、僕は口角を僅かに上げながら言った。
「貸してあげるよ。僕には折りたたみがあるから」
日野さんに歩み寄り、押し付けるように傘を差し出す。僕の顔を見つめる日野さんの目。瞳は、輝きが消え、何時もの瞳の色に戻っていた。
差し出した傘に触れられる手。手に握られた事を見て、僕は傘から手を離す。そのまま外に歩いた。かばんから折りたたみ傘を取り出し、広げる。彼女の制止の言葉に止まることなく歩き始めた。背中に刺さる視線に、背を向けるように。
翌朝。教室に入り、僕は自分の机で本を手に取っていた。タイトルを眺め、表紙をなぞる。つるつるとした手触りの中にある、細やかな凹凸が手を楽しませる。その時、空間が沈んだ。葉の擦れるようなざわめきが消え、どこかへ落ちていくような感覚。視線が教室の入り口に引かれた。
日野さんだ。彼女が挨拶をし、再び賑やかになる教室。彼女は僕を見て、顔を綻ばせ、小さく手を振る。同じく返すと、日野さんは僕の席へ来た。日野さんが口を開く。
「昨日はありがとう。おかげで、濡れずに帰ることが出来たよ」
僕はその言葉に短く返し、下駄箱の傘立てに僕の傘を挿してあることを聞いた。頷き、本へと視線を向けて、開く。日野さんは、動かない。
にこにことしながら僕の事をじっと、見ている。瞳の奥に、何か光るものが見えた。星の瞬きのように淡く、光る。ふと、気づく。教室は静かだった。話し声はおろか、椅子を引く音も、鉛筆を走らせる音すらも聴こえない。無数の視線が、僕と彼女に向けられていた。身体が冷え、震えた。手がこわばる。
手に持った本の感触は、かき消された。
昼休み。僕は月乃さんと昼食を取っていた。僕は包装されたサンドイッチを、彼女は弁当だった。拳二つ分開け、隣に座る。食後には、本の話をする。最近読んだ本、追っている作者の新刊、次、読むとすれば何を読むか。色々と話す。僕も彼女も、言葉少なげにぽつぽつと、あるいは何も言わない。趣味の合う人がいて、感想を共有したり、異なる解釈を聞く。その一つ一つが、僕の日常を彩っていた。
今日は、違った。
「日野さんと仲、いいの?」
ぽつりと、彼女が言う。その顔はいつもと違い影が差していた。光が通る空間が曲がり、表情を隠している。声色は変わらず、しかし、震えている。僕は、困惑しながらも言った。
「日野さんとは、昨日初めて話したよ」
「......そう」その声は、空間に融けた。
彼女の方に視線を向ける。その時には影が消え、いつも通りの顔をしていた。その姿に何故か、背筋が寒くなる。その後の沈黙は、僕を強く、締め付けた。
夕方。帰り支度をする僕に声が掛かった。日野さんからだ。
「少し、付き合ってくれないかな?」
その言葉に、世界が止まる。僕はその言葉を聞き、少し考え、僕は頷いた。二人並び歩く。肩が触れ合うほど、近い。引き寄せられたように。下校する生徒達とすれ違いながら思った。他の生徒達は視線を日野さんに向ける。なぜか空間は広く空き、遠巻きに視線を向けられている。日野さんは変わらず、いつも通りに見えた。並んで歩き、日野さんの誘いで喫茶店についた。
「私さ、人じゃないんだ」
彼女は、先の尖った尻尾を僕の手に絡ませ、言った。
その声に震えはなかった。僕から目線を外し、湯気の立つカップを手に取り、口元へ運ぶ。
視線は波打つ液体を映し、その尻尾は、ゆっくりと、確かめるように僕の手を撫で付けていた。
それに目をやり、彼女に向かって僕は、口を開く。
「─────。」
顔を見つめて言い切る。その声に、彼女からの反応はない。言葉が空間を震わせ、融ける。僕も彼女も何も言わない。彼女の尻尾が、僕の手の甲から、指先へと移り、巻き付く。強く、固く。絡め取るように。彼女は、僕を見つめていた。きらきらと光る、その瞳で。
休日。僕は書店に来ていた。追っている作者の新刊を買うために。目当ての本のついでに、月乃さんから勧められた本を手に取った。表紙を見て、裏表紙を見る。本の背を見てから表紙をなぞる。手の感触とタイトル、帯を見て、想像を膨らませていた。そんな僕に声が掛かった。この本を薦めてくれた月乃さんだ。
「君も来てたんだ。......その本、気になるの?」
頷く僕に彼女は、本を貸してくれるという。ありがたく誘いに乗り、書店を出る、はずだった。──目を引かれた。書店の外にいる日野さんに。私服でそこに立つ日野さんに、なぜか誰も近寄らない。視線すら合わさず歩いていく。その空間だけが曲がり、知覚されないように。曲がった空間から、視線が僕と月乃さんを貫いた。きらきらと光る瞳が、こちらを見ている。口元に穏やかな笑みを浮かべ、手を振ってきた。背筋が凍り、震える体を抑えながらも手を振る。月乃さんは体を抱き締め、しゃがんでいた。ゆっくり、日野さんがこちらに来る。月乃さんに照りつける陽光のような瞳を向けて。
燃え上がるような、沈みゆくような光。ちらちらと瞬き、光彩が移り変わる。その瞳で、僕を見た。日野さんに向かって歩く僕を。凍える体を動かし、前へ。書店の外で、日野さんと挨拶を交わす。いつかのように。彼女は口を開いた。
「デートだった?ごめんね、邪魔しちゃって」
その声に体が震える。体の形が乱されるように、ばらばらになるような錯覚。その手に持っていたのは僕達が入っていた書店の袋。透明の袋の中には日野さんの前で読んでいた本があった。視線を落とした僕を見て、日野さんは言う。
「これ?君が見ていたから気になって買ったんだ。いいタイトルだよね」
──星が大地に引かれる時──
「......ねぇ、少し付き合ってよ」
世界から、音が消えた。体の形すら知覚できない僕に背を向けて、日野さんは歩き出す。僕の視界が、移り変わっていった。建物の間、人混み、田んぼ、森に生える木々。日野さんが僕に振り向いたのは、森の中にぽっかりと空いた空間。地面に大きなへこみがあった。日野さんが口を開く。
「見つからないと思ってた......このまま、一人、終わるまで変わらずにあり続けるんだって。でも、違った」
「君は、遠ざけるわけでも、近づくわけでもなく、そこに留まり続けてくれた......」
「ごめんね......誰にも取られたくないんだ......」
瞳の輝きに、黒が混ざり始めた。夜空にきらきらと輝く、星々のような光が。煌々と光る、太陽のような光が黒く染まっていく。その融けゆく光に、僕の意識が液体となり、吸い込まれていく。先の尖った尻尾が、僕の顔を撫でた。ゆっくりと、壊さぬように。首元に尻尾が巻き付き、日野さんの顔が迫る。黒は光を飲み込み、そこにあった。強く引かれた空間が縮み、唇と唇が引かれ合うように近づく。そっと、触れた。
世界を映すことは......ない。
星が大地に引かれる時 花山 華残 @hanayama-kazann
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます