鈴の音が止む夜に
yuyu
短編
第1章 灰色の朝
雨が降っていた。
細かい粒が街灯の光を吸い、夜の空気を灰色に滲ませている。
会社帰りの晴(はる)は、傘の先から落ちる雫を見つめながら歩いていた。
心は重くもなく、軽くもない。
毎日のように積み上がるタスクと、慣れすぎた孤独。
どちらも、ただそこにある風景の一部になっていた。
信号が赤に変わる。
立ち止まった足元に、小さな影がいた。
それは偶然のようで、必然のようでもあった。
傘の隙間からこぼれた街灯の光に照らされ、
濡れたアスファルトの上に、まるで一枚の影が落ちている。
動かない。
でも、確かに“見ている”気がした。
誰かが心の奥をそっと覗くような、静かなまなざし。
信号が青に変わる。
群れのように人が動き出す。
晴が一歩を出そうとしたとき、影は音もなく消えた。
胸の奥で、何かが小さく鳴った気がした。
風鈴のような、遠い記憶の鈴の音のような。
晴は傘を傾け、近くのコンビニに入る。
パンをひとつと、缶コーヒー。
レジの電子音が、雨音に溶けて消えた。
いつもの夜。
だけど、窓の外の信号の青が、なぜか深く見えた。
⸻
第2章 タクシーの夜
終電を逃した夜。
駅前で一台のタクシーを拾った。
「どちらまで?」
運転席の男が穏やかに問う。
胸元の名札には〈吾郎〉とあった。
晴は住所を告げ、ため息をひとつ。
車内には、微かにコーヒーの香りが漂っていた。
窓の外の信号が赤く滲む。
吾郎はその光を見ながら、ぽつりと言った。
「信号って、人間みたいですよね」
晴は少し驚く。
彼は微笑み、前を見たまま続けた。
「止まるときもあれば、進むときもある。
でもね、黄色のときが一番大事なんです。
止まるか、進むかを決めるのは、ほんの一瞬だから。」
その言葉は、心の奥に静かに落ちた。
小さな鈴の音のように。
「……確かに、そうかもしれません。」
そう答えると、吾郎はやわらかく笑った。
車が目的地に着く。
料金を受け取る手の動きまで、どこか丁寧だった。
ドアが閉まる瞬間、彼は言った。
「焦らなくても、青になる時は来ますよ。」
その声が雨音に紛れて消えた。
⸻
第3章 パンと温もり
翌朝。
いつもより少し早く目が覚めた。
外は曇り。
でも、胸の奥だけが少し軽い。
出勤途中、駅前の角に小さな花屋ができていた。
白いテントに、手書きの看板。
店先では、雨に濡れた花びらがやわらかく光っている。
足が止まる。
あの夜の猫の影を見てから、こうして立ち止まることが増えた気がした。
店の奥から、若い女性が顔を出した。
「おはようございます」
静かで明るい声だった。
晴は小さな白い花を指さす。
「これ、ください」
「スズランです。香り、好きな人多いですよ」
花を包む彼女の手つきが丁寧で、どこか懐かしく感じた。
「鈴の音みたいですね」
晴がつぶやくと、彼女は小さく笑った。
「そうですね。小さくても、ちゃんと響く音です。」
花を受け取る。
その瞬間、ほんのかすかに鈴の音が聞こえた気がした。
⸻
第4章 鈴の音が止む夜に
夜。
帰り道の交差点。
雨は上がり、街は濡れたまま光を映している。
あの影が、いた。
路地の向こうで、こちらを見ている。
次の瞬間、もういなかった。
晴は胸の奥で、何かが静かにほどけるのを感じた。
長い間止まっていた“黄色の時間”が終わるような感覚だった。
ポケットの中のスズランに触れる。
香りが夜の冷たさと混ざり合う。
――焦らなくても、青になる時は来ますよ。
吾郎の声が、記憶の中でやさしく響いた。
信号が青に変わる。
誰もいない交差点を、晴はゆっくりと歩き出した。
その背後で、遠くから鈴の音がひとつ鳴り、
やがて静かに止んだ。
⸻
終章 夜明けの街
朝の光がビルの窓を照らしている。
晴はいつもの通勤路を歩きながら、ふと空を見上げた。
雲の切れ間の青が、新しい色に見えた。
ポケットの中のスズランが、かすかに香る。
その音なき“鈴の音”を感じながら、
晴は静かに微笑んだ。
⸻
完
鈴の音が止む夜に yuyu @yuyu222324
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