怒りのおばさん
ナカメグミ
怒りのおばさん
おばさんは今、世界の片隅で怒っています。ひとりで密かに怒っています。人混みに疲れて入ったチェーン店のカフェ。低価格なコーヒーがとても美味しい。オープンスペースなので、聴覚にいろいろな話し声が聞こえてきます(文庫本を読むか、競馬の研究をしているので特に聞き耳をたてているわけではありません)。
推定年齢70−80代と思われる女性3人の会話。
「✕✕さん、ガンが見つかったんだって」「あれー、この間まで元気だったのに」
「かわいそうに」。
20代前半と思われる女性2人。「AとB、この間、別れたんだって」
「えー、この間、一緒に旅行いったってインスタあげてたのに。かわいそー」。
おばさんはこの「かわいそう」という言葉に、怒りを感じるのです。勝手に自分を優位な立場に置き、一方的に憐れみをかける。知ってます。普段の会話で、そこまで言葉を敏感に使う人はいない。その必要もない。会話の潤滑油としての「かわいそう」が、そこかしこにたくさんある。でも言葉を嫌う自由もあるので、勝手に腹を立てている。非常にコスパが悪い。コーヒーを飲んで気分を変えます。
おばさんが「かわいそう」という言葉に憎しみを覚えるようになったのは、6−9歳の4年間。おそらく一生分の「かわいそう」を人からかけられて、大変不愉快だったから。6歳の時、父がナイフで体を刺した上、新車ごと岸壁から飛び込むという大立ち回りを演じました(後日、尊敬する社会派推理小説家が原作の映画を見て、「同じじゃん!」と大変感動したことを覚えています)。
当日、大人は1階で葬儀の準備に忙しく、2階に収容されました。小型テレビに、見慣れた父のシルバーの車が、海からクレーンで引き上げられる映像と、父の名前の音声が流れました。「かわいそう」大会の始まりです。
和室に父の棺桶が運ばれ、私も1階に降りました。「かわいそうに」と私に抱きついて泣き出す、親交のあまりない親戚女性。棺桶のガラス部分を開けて「✕✕ちゃん、どうしたー」と、生前の父のあだ名を口にしながら泣き出す同僚男性(ちなみに葬儀で大泣きする人ほど、手のひらを返すのが早いということを、このあと学習しました)。
でもこの日。父や私が「かわいそう」というよりも、棺桶を勝手にのぞきこみ、勝手に涙ぐむまわりの方が、私はよっぽど不愉快だった。父は母親がロシア人、父親が日本人で、顔の彫りが深くて長身でした。あれだけおしゃれが好きだった父が、幽霊のような(幽霊の方すいません)三角の白い布を頭につけられ。耳と鼻の両穴、口に見えるように綿を詰められ、白い着物を着せられている。その姿を勝手に見られる。人によっては、ガラス部分を開けて顔を触る。人権侵害です(ごく一部の例を除いて、死者に人権はありません)。
葬儀一連の「かわいそう」の嵐の中で、印象に残っているのは「新車なのにもったいない」(前述とは別の同僚男性)。実はこれが一番、手垢のついた「かわいそう」よりも正直な一言で、記憶に残っているのかもしれません。
まもなく小学生になりました。「かわいそう」プラス「さびしいでしょ」大会が、学校で始まりました。「おまえんち、父さんいないんだろ?。かわいそー」(同級生男子)。だからどうした。「お父さん、いなくてさびしいだろうけど、頑張ってね」(PTA役員の母親)。ありがとう。いわれなくても頑張るよ。なに頑張るかわかんないけど。
このときの大切な教訓。同じ人間が同じ人間を前にしても、状況によって態度は変わります。前述のPTA役員の母親には、同じクラスに息子がいました。息子は野球部で、私はバレーボール部。「バレーボール、頑張ってるね」。運動をする同級生としてか、校内外でよく声をかけられました。ある時から無視されるようになりました。
こんがらがっていた頭の回路がようやくつながり始めたおばさんは、小学校高学年くらいから、いわゆる「学校の勉強」ができるようになりました。塾に通う息子より良い点数を取る私が、愉快ではなかったのだと思うのです。当時は悲しかったけれど、今のおばさんは母親の立場も経験したので、PTA役員の方の気持ちもわかります。
殺意を覚えるほど嫌だったのは、遠方に住む母方の祖母からの電話でした。時間を構わず突然、黒電話が鳴り、一方的に感情をぶつける。
「また1人で留守番してるの?かわいそうに」。母親、働かないと金ないんだから、しょうがないだろ。「さびしいっしょ」。さびしくないし。つか学校から帰ってきたら疲れて1人の方がありがたいし。セキセイインコと遊ぶし。テレビ見放題だし。
「ちゃんと食べてるの?」。メシなんか、あるもの適当に食ってるし。あんた、来て作ってくれるわけじゃないし。「かわいそうに。風邪、ひくんじゃないよ」。たいてい、ここで涙ぐむ気配。こちらは、せまるドラマの再放送の時間の方が大事だし(当時、我が家にビデオデッキはなく、一発勝負)。
かくして、憐れみの感情を思いついたときに一方的にぶつけて満足する老婆1名と、穏やかだった心を突然かき乱されて怒る小学生女児1名が残るのです。
冒頭の2つの会話の場合。
ガンは今では治療法も増えてるし、手遅れだとしても死への準備がしやすい。突然の事故や災害よりは見通しが立ちやすいです。「かわいそう」はどの部分をさすのかが、明確ではありません。AとBは、どちらか、もしくは両者が調子を合わせて仲が良いふりをしていた可能性もある。別れたことは2人にとって「かわいそう」とは限らないのです。
こんなふうにつまらないことを考えて、思い出して、カフェで時間をつぶし、キーホードを叩くしか生きる術(すべ)がない。そういうおばさんのことを、絶対的に上から見て憐れんでもよい状態、真に「かわいそう」というのです。
あ、自己憐憫はいけません。葡萄でも買って帰ります。
(了)
怒りのおばさん ナカメグミ @megu1113
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